オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

かわいいの耐えられない軽さ

読んでました、と言えなかった。

バイト先のガールズバーにいたのは、愛読していたティーン誌のモデルだった。

 

田舎の高校生だった頃、毎月読んでいた雑誌に彼女はいた。雑誌名を冠にしたミスコンテストで入賞し、紙面を飾った。わたしは、懸賞ハガキの好きなモデルの欄に彼女の名前を書いて送った。彼女が好きだった。それは、幼さの残る顔だったかもしれないし、長くうねった髪だったかもしれない。なにが好きだったのか覚えていないけれど、誰が好きか問われたら彼女の名前を書いた。

何度も書いた名前をわたしは忘れていた。だから、目の前の同僚の女の子が彼女だと気が付かなかったし、本人から名前を聞くまで分からなかった。お客さんから、ケーキの差し入れがあったとき、彼女はいらないと断った。「食べたいけど、今食べると太るから」と言った姿を見て、美しくいようとする人は、こういう人なのだなと、苺の乗ったケーキを食べながら思った。ちょっとツンツンして話しづらかった。近寄りがたくて、少し怖かったけれど、その性格が、彼女の美しさ保障しているようにも思えていた。

十年経った今、思い付きで彼女の名前を検索してみた。でてきたインスタには、子どもの写真と食べ物の写真。昔よりは年をとっているけれど、変わらずきれいな彼女の写真があった。つまらないなと思った。彼女のSNSは、わたしが飛び出してきた地方都市に住む同級生たちと似すぎていた。

わたしの届かないような美しさをもった彼女は、届かないところにい続けてはいなかった。こんなところにいてはだめだと私が飛び出した街、そこに居続け、生きている女の子たちの未来と一緒だ。きれいな妻、母になって、その日々を綴る。雑誌の仕事も、商品広告の写真も、彼女の今インスタグラムからは消えていた。キラキラした非日常を歩く彼女はいない。

「かわいい」を担保にした刺激的な非日常は、年老いた先で維持する事はできない。非日常を維持する女の子は、可愛いに片足を置きながら、何か別の、非日常を構築する何かを、手にしている。何か「かわいい」以外の特別を得ている。それを手にできないなら――かわいい以外の価値を自分に見いだせないならば、かわいい女の子も、かわいくない女の子も、10年後に歩む未来は一緒だ。インスタに載せる商品の値札の差が、かわいいの差ならば、それはあまりに軽すぎる。かわいいのみで得れる対価は、それほど大きくない。であるならば、ケーキを我慢した、あの努力はなんのためだったのだろうか。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

 

わたしたちは過去の怨念とどうやって付き合っていったらいいのか

 安倍晋三が死んだ。わたしは安倍晋三を人間として好きだった。それは政策を支持するという意味ではなく、人間くささが見え隠れして、妙に引きつけられてしまっていた、という意味だ。政治家としての名門一課に生まれながら、東大、京大といった日本屈指の大学には入学できなかった。留学しているがネイティブの語学力が身についたわけではない。そして、これは本人の努力ではどうしようもないことだが、子供に恵まれず、昔ながらの『よい家庭』を築けなかった。そういった自分の埋められなかった部分を補うかのように、彼は政治を行っていった。外交に力を入れ、国力を高めるように謳い、そして、昔ながらの男尊女卑の家庭像に固着した。彼の政治家としての行動が、自分のコンプレックスの穴埋めのように見えて、どうしても嫌いになれなかった。言い方は悪いが、とても可愛かった。もちろん、だからといって、政治家として安倍晋三を支持する理由にはならない。政治家、安倍晋三と、一個人としての安倍晋三を切り離して、そのうえで、安倍晋三という個人が好きだった。可愛い人だと思った。

 

◆狂気の中に見えた優しさ

 だから、彼が死んだことを知り、随分落ち込んだ。会ったことのない有名人の訃報を聞いても、特に心がざわつくことなどなかった。だけど、今回ばかりは、気が付くと安倍晋三について調べているし、安倍晋三の死の瞬間の映像を何度も見て、真偽の分からないSNSの投稿をやたら熱心に追っている。わたしは安倍晋三が居なくなって悲しい。

そうやって、安倍晋三を調べていると、自ずと彼を殺した犯人の情報も入ってくる。わたしは安倍晋三を殺した犯人を、気の狂った奴だ、残酷な奴だ、と思いたかった。一方的に悪者にして責めたかった。だけど、調べれば、調べるほど、抱く感情は、わたしが安倍晋三に抱いた感情と似ていた。彼自身も、自分の中の埋まらない部分の穴埋めをなんとかして成し遂げたかったように見える。安倍晋三にとってそれは、政治だったけれど、彼にとっては怨念であり、復讐であった。

 安倍晋三を殺した犯人、山上徹也に関する記事を読んで、いたたまれなくなったエピソードがある。山上は、当初、爆弾で安倍晋三を殺そうと思っていた。しかし、それでは関係のない他の人にも危害が加わるので銃にしたと話していたという記事だった。

mainichi.jp

狂気の中の優しさ。殺人犯になるその瞬間まで、他人の命を大切にできる人が、なぜこんな、歴史に残るような罪を犯さなくてはいけなかったのだろう。そんな状況でも捨てられない自身の優しさをどうしてもっと違うところで使えなかったのか。なにを調べても、どちら側からみても、この事件のすべてが悲しくてわたしはここしばらく気持ちが塞いでいる。

 山上が、安倍晋三を殺した理由は、母親が多額の寄付をした宗教団体の関連機関の活動に安倍晋三が協力していたから、という理由だった。安倍晋三が、その機関のイベントにビデオメッセージを送ったことで殺害を計画した。雑誌、週刊文春に、山上の親族にインタビューした記事が掲載されていた。父を早くに亡くし、頼る人を失った山上の母は、宗教にのめり込み、金銭的に困窮する。その影響は幼かった山上にも及ぶ。さらに、実の兄は病により、視力を失い、のちに自死する。兄の死を、山上は酷く悲しんだと記事には載っていた。

bunshun.jp

 

この世で想像できうる不幸を一身に引き受けたような男。映画ジョーカーを見ているような、記事だった。あまりにも、壮絶で、事件を起こすのは、仕方なかったといいそうになる。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

◆怨念によって膨らむ被害者意識

 昨今、不遇な環境に置かれた人たちが恨みを募らせ、犯罪に走る事件は起きている。古いものだと、2009年に起きた秋葉原殺傷事件。最近も、電車内で刃物を振り回したり、建物に放火したり、拡大自殺と言われる犯行がニュースでは取り上げられている。わたしは、そういったニュースを見るたびに、犯人の境遇に悲しい気持ちになりながら、だけど、だったら、自分を苦しめた人、級友なり、同僚なり、上司なり、親なり、責任の一旦のある人を叩きのめせばいい。それならば、相手にだって否があるのだからやられたって仕方ないはずだ、と思っていた。

 わたしも、彼らほどの酷い境遇には置かれてはいないが、パワハラやいじめで苦しんだことはある。新卒でライターとして入社した会社では、上司からよく叱責されていた。指示を聞き、仕事をしていたつもりでも、いつも注意され、最後には仕事ではない、わたし個人の部分やプライベートな部分にまで意見されるようになった。

「あなたは文章を書くのが好きじゃない、やる気がない」

 あるとき、当時の上司にそう言われた。終電近くまで残業し、家でもキャッチコピーを考え、反動で精神科にも通い、それでも、書く仕事にすがっていたいと思っていたわたしは、上司のその言葉にやりきれなくなり、会社を辞めた。すべての原因が彼女ではない。仕事を上手にこなせてはいなかった。だけど、彼女のその言葉が行動を決めた。書くことが嫌いなわけじゃない。だけど、上手くできない。そんなわたしを「書くことが好きじゃない」と決めつけられたことが耐えられなかった。わたしの心のうちを決めつけられたことが許せなかった。

 わたしはライターではなくなったけれど、こうやってブログで文章を書き続け、本も書いて、ネットニュースの記事なんかも書いて……なんとか「書く」という行為を、自分の生活の中に繋ぎとめている。だから、わたしは彼女への怨念に蓋をできている。ライターは辞めたけれど、書くことは辞めてない。だけどもし、こうやってブログを書くという方法をわたしが見つけることができなかったらその怨念はもっと膨大だったと思う。あいつのせいで書けなくなったと思っていたと思う。それが今、離れてみると、狭い視野での意見だというのは分かる。一方的に被害者意識を募らせていると思われるかもしれない。ライターを辞めたのは彼女だけが原因じゃない。だけど、当時の自分は、上手くやる方法が分からなかった。出口が分からないまま、怒られてばかりで、全てがどん詰まりだった。今、時間を置いても、やはり、彼女の伝え方はわたしに合った方法ではなかったと思う。

 

◆ありふれていて凡庸な大義のための死

 罪を犯すほどの大きな躓きはなかったけれど、上手くいかないしんどさの一端は想像することができる。自分の経験と照らし合わせ、考えを巡らせることはできる。どうしようもなくめちゃくちゃにしたい気持ちも想像できる。だけど、だからといって、罪のない関係のない人に刃を向けることは肯定できない。どうしようもなく人生が立ちゆかなくなったとき、自分の人生をめちゃくちゃにした奴を殺せと思っていた。何の罪のない、偶然居合わせた市井の人々に責任の一切はない。しかし、自分を苦しめた相手には、僅かであっても責任はある。そう思っていたけれど、やっぱり駄目だと今回の事件で思った。怨念で身を滅ぼしては駄目だ。それは、やられた相手が可哀想とか、そういうこともあるけど、それ以上に、幸せになる義務がわたしたちにはあるからだ。

 さきほどの山上の話に戻る。山上はあまりに壮絶な人生だったけれど、後に、なんとか仕事に付き、働くことができた。一時的ではあれど、評価もされていたようだ。だからその、低空飛行であっても、なんとか起動に乗せた人生を、わずかであれ、見えてきた平凡な幸福を、維持していかなくてはいけなかったんだと思う。最近読んだ「退屈と暇の倫理学」という本で、退屈な人生を送る人々は、大義のために死ぬ人を恐ろしくも羨ましいと思うと、書かれていた。

 

自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命を捧げることすら惜しまない者たちがうらやましい。

 だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。

 筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。ジュパンチッチの本は二〇〇〇年に出ている。出版が一年遅れていたら、このままの記述では出版が許されなかったかもしれない。そう、二〇〇一年には例の「テロ事件」があったからだ。

 ジュパンチッチは鋭い。だが、私たちは〈暇と退屈の倫理学〉の観点から、もう一つの要素をここに付け加えることができるだろう。大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。

 

大義のための死、そんなものを目指すのは、よくあることで、ありふれたことで、恐ろしく凡庸だ。そんな凡庸なキチガイになってしまっては駄目だ。わたしたちは平凡であっても幸せに生きる義務がある。殺したい奴、復讐したい奴、自分の中の怨念に食い尽くされそうになっても難しいけれど耐えよう。大義のための死という、凡庸で、ありふれていて、手垢のついたような、実につまらない、キチガイになってはいけない。非凡に穏やかで幸せな人間になろう。

 

◆自分の中の怨念にどう対処していくのか

 そこで問題になるのが、自分の中の怨念とどう付き合うかということなのだと思う。疑問を投げながらも、わたしは明確な答えがまだでてない。ただ、これは名言ができないが、わたしがブログを書くように、何か表現すること、創作することが、怨念の解消になるのではないかと、最近思っている。先月になくなったコラムニストの小田嶋隆さんがコラムの描き方について綴った「コラム道」にこんな一説がある。

その昔、とてもおもしろい文章を書いていた書き手が、ある時期を境に、すっかり凡庸な物書きに変じてしまうというケースは、実は、けっして珍しくない。それどころか、トリフィックな書き手のエキセントリックな文章が、一〇年以上そのクォリティーを維持することのほうがむしろレアケースだったりする。また、デビューから三作目ぐらいまで、スリリングな傑作を書き続けていた作家が、あるとき失敗作をものして以来、一〇年ぐらい低迷してしまうといった展開も、これまたよくある話だ。  こういう場合、読書界の人々は「才能が枯渇した」という言い方をすることが多い。  でも、本当のところ、枯渇しているのは、「才能」ではない。「技巧」が錆びたのでもない。「アイディア」が尽きたのでもない。  問題は、書き手が「モチベーション」を喪失したというそこのところにある。  書くことに慣れた書き手は、ある時期から、修業時代のような真剣さで原稿用紙に向かうことができなくなる。なんとなれば、はじめて自分の原稿が活字になったときに感じた天にも昇るような嬉しさは、二回目からは徐々に減っていくものだからだ。  ある時期に執筆のエンジンになっていた「自分を認めない世間への怨念」も、時の経過とともに摩滅していく。

 

 

 「自分を認めない世間への怨念」のはけ口、それは小田嶋さんにとっては、コラムであり、わたしにとってはこうやってブログを書くことだ。それは人によって違うだろう。絵を描くことかもしれないし、音楽を奏でることかもしれない。そういった怨念のはけ口としての表現を見つけて欲しい。そうやって、だまし、だまし人生を維持しながら、最期には、怨念を出し切って、小田嶋さんのいうように、表現がつまらなくなったなんて言われて、描きたいことがないなーとモチベーションが続かず表現をやめたっていい。そうやって、非凡な平凡を続けて欲しい。

 わたしは今さらながらに思っている、安倍晋三にも、山上徹也にも、つまらない最期を迎えて欲しかった、と。年老いた後に床の中で静かに寿命を迎えるような、酷く退屈な最期を迎えてほしかった。わたしも、あなたも、つまらない幸せを迎えられるよう生きていかなくてはいけない。

排除される正しくないセックス

AV新法が成立してしまった。どうなるのかな、と不安に思いながら、日々仕事をしている。

望まないのにAVに出演する人々がいなくなってほしい。その意見にはわたしも同意する。その通りだと思う。思うけれど、「AV新法」の規定する、契約から撮影まで一カ月、撮影から発売まで四カ月期間をあけることで、望まないのにAVに出演する人々を救うと確信できない。わたしはちょっと的外れなように思うけれど、決まってしまったので仕方ない、従うしかない。

 

「AV新法」を変えようと、活動している人たちはいる。行動的だと思うし、意義のあることだとは思うけれど、わたしは、そこまで踏み切ることはできない。それは、わたしの中で、「AV業界は賛否の別れる世界だよね」という思いがあるからだ。今いる場所を守ることは必要かもしれないけれど、原罪のような意識も同時に自分の中にある。これに関しては、先日、ネット記事で見た映画監督、平野勝之さんのコメントがわたしの意見に近いのかなと思っている。平野さんはアダルトビデオも撮影していた。

www.news-postseven.com

 

アブノーマルな映像を数多く撮影しましたが、僕にとってはアクション映画を撮っているような感覚だった。

自分の作品を見たという若者が「見たことのない映像で影響を受けた」と話しかけてくれるのは嬉しかったし青春の通過点を切り取ったような、ある程度の手応えを感じられたことは幸せでした。

でも、そもそもの前提として、やっぱりAVってまともとは言えないものを撮っているんですよ。アウトローであるべき業界が、作品数も女優さんの数も増えて、メジャーになり過ぎてしまった。もちろん出演強要問題はメーカーや事務所が責任を持って対処する必要がありますが、格式ばって法律を決めるような業界じゃないと思うんです。

 

"青春の通過点を切り取ったような、ある程度の手応え" それは確かにわたしも感じていたことで、ライターとして働いていたときに、散々ボロクソに言われていたわたしがやっと手ごたえを感じられる仕事だった。それと同時に、平野さんの言う"まともとは言えない"という側面も理解できる。それは法に触れる行為をしたとかではなく、人に嫌悪される仕事だということだ。著作にも書いたけれど恋人と仕事を理由に別れた。AVの仕事を醜業と捉える人もいるだろう。倫理的に許せない人もいるだろうことは想像できる。

そして、過去に出演強要問題のような事柄が起きたことも事実だ。わたしが直接行ったわけではなかったとしても、被害にあった人がAV業界全体を許せないかもしれないというのは理解できる。少し前にテレビで、ロシア出身の人が、今起きている戦争はプーチンがやっていることだが、ウクライナの人がロシア人全体に嫌悪感を持つのは仕方ないだろう、と話していた。似た感情をわたしも持っている。同じ業界にいた非常識な人間がやってことだとしても、実際の被害者が業界全体を捉えて恨むことを否定してきれない。被害にあった人に「大げさだ」と断罪はできない気がしている。

だけど、戦争の被害者がロシア人は全て死んでしまえと思っても、ロシア人が生活していくほかないように、被害にあった人がAV業界は滅びてしまえと言っても息をさせてほしい。過去の行為を残忍だと思っている。だけど、存在する事は許してほしい。あなたを痛めつけたこの業界は、わたしを救った業界でもある。加害をしてきた場所にいる罪の意識はある。だけど同時に、この業界でやっと救われたという意識もある。

だから、AV業界は素晴らしいと言うことも、この業界はなくなった方がいいからと業界を去ることもできずにいる。どっちつかずと言われたらそうかもしれない。エロをオープンにしようとは、全然思わないけれど、ひっそりと端っこの方で居させてほしいとは思う。

 

◆中絶を前提としたセックスを認めない社会

これといった活動も、発信もしなくても、AV新法のニュースが一応は追いかけていて、ネットニュースだけでなく、Twitterの発信なんかも、見てしまっている。業界に批判的な意見であっても、「そういう意見もあるかもね」と思い、見ていたのだけど、ちょっとギョッとしたものもあった。それは塩村あやか参議院議員が、AVの許可制について言及した投稿だ。

 

 

sakisiru.jp

 

許可をもらったAVだけが撮影できる。撮影してもいいセックス、悪いセックスが国によって判断させるというのだろうか。許可制の議論はこの発言以上に膨らむことはなかったけれど、それでも、国であったり、大きな権力によって、性行為の良し悪しを規定しようという空気が、限定的な話であるとは思えなかった。それは、「中絶禁止」のニュースとリンクしてしまったからだ。

jp.reuters.com

 

少し前から中絶禁止を定める法律がアメリカの一部の州で施行されるとは言われていた。6月27日の日経新聞では国際面で大きく紙面を割きオクラホマ州で施行された「中絶禁止法案」を伝えていた。

紙面の中央、若い白人男性が顔写真入りで、インタビューに答えていた。ディズニーやスターバックスなど中絶禁止に反対している企業はいくつもある。そういった企業の担当者かと目線を向けると、オクラホマ州副知事が、同州での事業リスクを可能な限り低減すると語ったインタビュー記事だった。副知事は42歳の青年だ。調べるとオクラホマ州は知事も40代だった。

www.nikkei.com

 

セックスをしてできた子どもは必ず生まなくてはいけないということは、出産を前提としないセックスを認めないということだ。森喜朗元首相が、セクハラ発言をして問題になったように、年配の権力者が、古い男尊女卑の価値観を押し付けて「中絶禁止法案」を成立させたと、わたしは勝手に思っていた。だが実際は、40代の青年たちによって、セックスという極めて個人的な行為を規定する法律が作られていた。

若々しい青年が「中絶禁止法案」の被害の小さを語るのはあまりに不釣り合いだ。AVの許可制を言及した塩村議員も同じ40代。これからを担っていく世代で、正しいセックスを規定しようという動きがある。正しいセックスと、そうでないセックスを権力が規定する。個人の意思ではなく、権力によって定められた行為をしなくてはいけない。それはあまりに気持ちが悪くないだろうか。

 

◆正しくない存在を認められない不寛容さ

恐らく、AVを正しくないセックスと見る人もいる。強要の被害者をださないという前提は絶対必要だが、出演者の意思と関係なく、業界自体を存在しない方がいいという意見もある。

対価をもらって性行為をしてはいけない、という倫理観。もちろん、そういった倫理観を持った人がいてもいいとは思う。対価をもらって性行為をしない自由はあるし、対価をもらってセックスをする人との付き合いも辞める自由もある。

だが、対価をもらうセックスの是非は権力が決めることではないとわたしは思う。それは一人ひとりの個人が行うか否か、考え、責任を持ち決めていくことではないだろうか。

そして、対価をもらうセックスの存在を拒絶されたとき、次に、セックスによりできた胎児を殺す行為は倫理的ではない、出産を前提としないセックスは倫理的ではないと言われる可能性が見えてくる。実際、中絶は倫理的に正しくないという考えは存在している。「中絶禁止」が遠い国の話だけではなくなるだろう。

正しいセックスを権力が規定した時、それは安全で幸せな国になると思っているのだろうか。わたしはそうは思わない。幸せの型にはまれない人々が溢れるデストピアだ。結果として中絶をするセックスも、対価をもらうセックスも、正しくはないかもしれない。顔をしかめる人もいるかもしれない。嫌だなと思う人もいるかもしれない。だけど、それが存在することは許してほしいとわたしは思う。正しくないものが隅で小さく存在する、それを許す寛容さを、わたしは世界に求めている。

「月曜のたわわ」から考えるスケベ表現の仕方

日経新聞に掲載された「月曜のたわわ」の広告に批判的な意見が集まっている。

www.jprime.jp

www.huffingtonpost.jp

 

「月曜のたわわ」という漫画は読んだことがなかったので、調べて読んでみた。

無料公開分しか見ていないけれど、胸が大きい女の子を主人公に、胸が大きくてボタンが取れる、ブレザーが閉まらないなど、胸が大きい故に起きる出来事を取り上げていく。日常系の漫画だろう。

yanmaga.jp

 

「胸が大きい事」をネタにしている故に、女性の身体を性的に見ている作品だと批判されている。

 

◆「月曜のたわわ」だからではなく、「日経新聞」だから炎上

ラブひな」や「いちご100%」などセックス描写はないけれど、女性の性を連想させる少年漫画はある。だから、なぜこの作品が批判されているの?と始めにニュースを知ったとき感じた。

恐らく作品自体よりも、「日経新聞」という一般の全国紙に広告が掲載されたという点が問題だったのだろう。これがもしピンク面もある夕刊紙だったら問題にはならなかった。「エロいものがあるかもしれない」という想定で、その新聞を買っていたなら問題はないが、「エロいものがある」という想定を一切持たずに見たら驚いてしまう。

作品自体に問題があるわけではない。そして、それを掲載する事が法令に違法しているわけではない。その作品と媒体が合っていないという事なのだろう。

 

◆媒体に合う表現なのだろうか、という視点

媒体と作品が合わないという問題は、日経新聞の広告だけに限らない。多くの媒体で、法的に違反にはならないが、媒体に合わないコンテンツという物が存在している。そして、多くの媒体では、問題になる前に「自主規制」をしている。

先日、文春オンラインに書いた記事『「女性をターゲットにしても失敗する」が定説…それでも今アダルトグッズショップに女性客が増え始めている“納得の理由”』の中で、amazonでのアダルト商品の規制について触れた。

bunshun.jp

通販ではなく店舗でアダルトグッズを購入するという事実も意外だった。実店舗に行くのは、時間も手間もかかる。女性が実店舗に向かう理由はなんだろうか……。そのひとつに大手通販サイトAmazonのアダルト商品への規制があるように筆者は考える。

 ここ数年、セクシーなパッケージはAmazonの商品紹介画面に掲載できなくなった。場合によってはURLが開けなくなることもある。基準は明確になっていないが、バストトップが露わになったイラストや、男性器を模したデザインなどは、そのまま掲載することが難しい。モザイクをかけたり、画像をトリミングしたりといった画像加工をするなど、手を尽くしたうえで各メーカーが掲載している。女性用商品でも、ディルドなどは、商品画像をそのまま掲載することは難しい。

 

amazonの場合、ページを開く前には18歳以上か否かのチェック項目がある。18歳以上を対象にしているページであっても、一般商品も扱うamazonというサイト上、男性器やバストトップは自主規制している。

(そして私も、文春オンラインという媒体に合わせ「乳首がモロ見えている絵やチンコみたいな形」を「バストトップが露わになったイラストや、男性器を模したデザイン」と言い換えている)。

法令を守るだけではなく、媒体に合わせた表現というのが求められてきている。

 

◆エロを扱うならば「普通の視点」を捨ててはいけない

一方で、エロの分野のコンテンツや制作者が、一般の、R指定のつかない分野に出ていく事もある。AV業界でいえば、文学作品を書いた紗倉まなさんや、一般の映画やドラマに出演している川上なな実さんなどだろう。彼女たちが炎上していないのは、エロを外に出さない――つまりエロ業界での当たり前を、外の世界に持ち込もうとしないからだろう。

彼女たちがAVのままの常識で、一般作の世界にでていけば批判を受ける(おそらくAV女優たちは一般のテレビ番組では出演作のタイトルすら口にだせないだろう)。

エロを一般社会に持ち込む事で反発がおきる。だから、彼女たちは一般の基準で、一般の表現をしている。エロを一般社会に出していく事はできないけれど、エロから一般に出ていく事はできる。そして、外に出ていくためには、向こうの常識を受け入れなくてはいけない。

 

◆エロは凶器にも救いにもなる

アダルトコンテンツの作り手側にいると、一般の感覚が鈍くなる。わたしたちコンテンツの作り手側は忘れてしまいがちになるが、エロは賛否が分かれるコンテンツだ。

それは、好みの問題だけでない。エロは加害性を持ち合わせている。性によって心身が傷つく事もある。コンテンツが視聴者を直接傷つける事はないと言われるかもしれないけれど、ショッキングな出来事を思い出させてしまう可能性はあるだろう。

かといって、コンテンツ自体を禁止する事にはわたしは賛成できない。性的な表現のある作品であっても、それを楽しむ人も、生きがいになる人も、生活の潤いになる人もいる。人によっては、人生が救われる事もあるだろう。エロは凶器にも救いにもなる。だからこそ、慎重に扱わなくてはいけない。

 

◆一部の嗜好品で居続ける選択肢もある

そして、私は、性を一部の人だけの楽しみにしておいていいのではないかと考えている。「オープンに性を語ろう」という人もいるけれど、それはオープンにしたい人だけがすればいいことで、他人に強要してはいけない。クローズドな空間で好みの合う人だけが集まって語り合う。性はそういった物でいいようにわたしは考えている。

今の仕事の話になるが、私は、おとこの娘向けの衣装やSMグッズなど多数派ではない性嗜好の商品を売っている。商品はより売れた方がいいのだけれど、全人類に使ってほしいと思わないし、使っている事を無理に公表してほしいとも思わない。ただ、興味を持っている人が、偏見に会う事なく、抵抗なく使えるようになってほしいとは思っている。

売り手として、「使いたいけど使えない」というハードルを飛び越えられるようにしたい。使いたい人が、使いたい物を使える世の中になってほしいと考えると、好奇の目や偏見や頭ごなしに否定する意見はすごく嫌な存在だ。

娯楽としてのエロを消滅させないために、興味のある人以外に届けないようにする方がいい場面もあるのではないか。エロが一般の世界に届く事で傷つくのは、エロを嫌いな人だけでない。そのコンテンツそのものを好きな人たちも、作品を否定される事で傷ついていしまう。好きな物を否定されるという場面をわざわざ作る必要なんてない。

 

そういえば、最近読み返したAV男優のインタビュー集「AV男優」で、AV監督バクシーシ山下さんが語っていた言葉印象に残っている。

AV男優

AV男優

Amazon

 

「世間にAVが認知され始めたんですね。でもやっぱりこれは認知されちゃダメなんです。AV男優だって持ち上げられちゃだめなんですよ」

バクシーシはそこまで言って氷の解けたアイスコーヒーをストローで啜った。

「え?」

と、意外な顔を向ける私を、微笑みながら見つめ、そして言った。

「ダメです、やっぱり僕らは指さされるような人間であり続けなきゃダメなんです。日の目を見ちゃダメなんです」

 

「日の目を見ちゃダメなんです」

バクシーシ山下さんの言葉は今の現状にも通じる言葉ではないだろうか。エロを凶器ではなく、楽しみにするためには、「制限」と、その中での「自由」がきっと必要だ。

未来を予見した作家、石原慎太郎

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、--あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるからご覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない」と云って又にやにや笑っている。三四郎日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。

「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。

 

――夏目漱石三四郎

 

 

読んですぐ、巻末のページをめくった。夏目漱石の「三四郎」、この話が書かれたのはいつなのだろう。解説には、明治四十一年――1908年に新聞に掲載された作品だと記されていた。第一次世界大戦の終わりを告げるベルサイユ条約が1919年、その10年以上前に書かれた物語。日露戦争も終わったばかりの、浮かれていた社会の中で、漱石はこの物語を書いた。「亡びるね」というセリフは、1945年の日本を予見したかのようだった。

 

優れた作家は未来を予見する。

三島由紀夫石原慎太郎の対談集「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」を読んだときも、同じように思った。

1956年から1969年の間に行われた前六回の二人の対談と、三島・石原、それぞれが相手に向けた手紙、そして石原慎太郎への追加のインタビューが収録されている。この本の内容は石原慎太郎の未来を示しているようだった。

 

 

 

◆過剰な父と取り残された息子

三島:失礼だが、君のお父さんが早くになくなったことは、君の中で父と子の関係を、かなり美しく見せているんだよ。生きているとまたうるさいことになるんだよ(笑)。君のお父さんがご存命だとすると、君とてもあんなきれいな小説かけませんよ(笑)。男というは、生物学的な役割をはたし、息子に対する技術的な伝授を終わったら死ぬべきなんだよ。男盛りで死ぬべきだ。

石原:三島さんのお父さんみたいに、ご健在で視力があって、お前の週刊誌は面白くないとか、お前週刊誌に書きすぎるぞ(笑)、なんていってくれる人がいた方が僕はいいけどね。僕は親父のやらなくちゃならなぬことを、今やってるんだもの。

三島:君は自分に対して、父親と息子の一人二役をやってるわけ(笑)。ただ、実業家なかで親父がものすごくえらくていまだに実力があると、息子にはたいてい欠陥あるな。

石原:ほんとうに親父というのは夭折した方が、イメージが鮮明に残るな。

 

三島由紀夫 石原慎太郎全対話」の中、三島は、父親は早くに居なくなった方がいい、石原の父が若くして亡くなったことは石原にとって良かったと軽口を叩く。

口の悪い三島のジョークのように聞こえるこの発言。昨年末に行われた衆院選の結果を見た後では、三島が本質を見抜いているように思えてならない。石原慎太郎の息子、石原伸晃衆院選で落選したからだ。

衆院都知事と歴任した偉大な父を持ち、確固たる地盤を持ちながらも、石原伸晃は今回の選挙で落選した。石原伸晃の所属する与党自民党が大敗したわけではない。大衆は、石原伸晃、その人を排除しただけだ。三島の言う、「えらい親父と欠陥のある息子」を自身が体現してはしまったように、今回の衆院選で感じた。

 

◆ジェニュインを使い果たした作家の果て

石原自身も、自分の未来を指し示す言葉を残している。巻末、石原慎太郎が、三島とのやり取りを振り返った後書きがある。そこで石原は、三島の遺作「豊饒の海」が退屈だったと述べた後、以下のように続ける。

 

豊饒の海』はよくないけれど、三島さんには、長編にも短編にも素晴らしい作品が多かった。長編でいえば、『仮面の告白』(四九年)がそうだし、男色の世界を書いた『禁色』(五一~五三年)もいい。『禁色』なんかは、僕なんかのあずかり知らぬ世界だけど、自分のことを書いているから、その辺にリアリティがった。ところがやっぱり徐々に自分の抱えているジェニュインなものがなくなってくると、結局、下敷きも持ってきて書くわけですよ。『金閣寺』(五六年)もそうだし、『潮騒』(五四年)も完全に『ダフニスとクロエ』でしょう。六〇年代の小説でよかったのは、料亭を舞台にした『宴のあと』(六〇年)、近江絹糸のストライキを扱った『絹と明察』(六四年)。短編では、初期の「春子」(四七年)、「山羊の首」(四八年)などが素晴らしいな。

 

ジェニュイン――つまり自分の抱えた真実は、物語を綴った分だけ枯渇していく。ジェニュインを使い果たした表現者は、誰かのジェニュインを下敷きに他者の言葉でジェニュインを編む。それができなければ、自己模倣の退屈な表現になるしかない。

2016年に発売された石原慎太郎の「天才」は田中角栄の一人語りで綴られ、ヒット作となった。昨年は安藤昇伝を題材にした「あるヤクザの生涯」を刊行した。イタコように、誰かの言葉をかり、実在の人物の人生をなぞった作品が多い。

ノンフィクションを下敷きに、語りを展開していく作風は、文学では珍しくはない。ただ、それは、石原慎太郎のデビュー作「太陽の季節」とは随分と違った文体だ。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」に書かれた後書きは、石原慎太郎の書き味の変化を告げているようだった。

年を重ねてからの石原は、社会に目を向け、取材を続け、誰かの物語を書き進めた。それは、三島が陥った自己模倣に、自分も陥らぬようという恐怖からではないだろうか。三島の遺作、豊饒の海を「彼がたどり着いた虚無の世界の表象」「作家として衰弱の証拠」と称した石原だからこそ、自分が同じようにならぬようにという変化なのだろう。三島のようになってしまうのが怖かった、だから、書き方を変えざる負えなかった。

 

橋下徹三島由紀夫を重ねていた

三島由紀夫石原慎太郎によって映し出された未来の断片は、作家、石原慎太郎としてだけではない。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」を読むと、政治家、石原慎太郎の最後も思い出さずにはいられなかった。石原の三島に対する思いは、その後の政治家としての行動を予見するかのようだ。

2012年、東京都知事選を辞職した石原は、衆議院議員となり、再び国政に復帰する。石原は、新党「太陽の党」を結成し、日本維新の会に合流する。当時の政権放送では、石原と維新の会の代表、橋下徹が向かい合って議論していた。

橋下と向かい合って話す石原を見ながら、わたしは、「石原慎太郎じゃないみたいだ」と思っていた。大衆に迎合するような、軟派な印象を受けた。日本維新の会は2010年に結党された「大阪維新の会」を母体に、2012年に結党された政党。歴史も浅く、当時の党首橋下徹はタレント弁護士出身の元府知事。二世議員ではない。大衆に人気の橋下徹にのせられたように私には見えた。

だが、三島由紀夫との対談を読み、このときの印象は変わった。石原は橋下徹に、三島由紀夫的な物を求めていたのではないだろうか。三島は、亡くなる直前、参院議員の八田一朗に出馬の相談をしていたと「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」の中で石原は語っている。

「もしも、三島由紀夫が政界に進出していたら……」その「もし」を実現する人が橋下だったのではないだろうか。

維新の会の行っている事は、自民党的な政治から見たら、過度に右寄りに映る。「それ自体が連立政権」と、三島に揶揄された自民党のような雑多な組織ではない。統一された思想--それはまるで三島由紀夫の作った民間防衛組織「楯の会」のよう。

楯の会を「おもちゃの兵隊」と皮肉っていた石原だったが、「楯の会」を政界の中で立ち上げようとし、オモチャではなくしようとしているのが維新の会に映っているのではないだろうか。維新の会の主張する憲法改正は、三島が楯の会で行っていた憲法の審議と被る。現在の停滞を打ち破る革命を政界の中で興そうとする--三島がもし政界に入っていたらという仮定を重ねていた。

2014年石原慎太郎は政界を引退する。翌年2015年、橋下徹も政界を引退した。それはあの政見放送の数年後だった。政治家人生の最後、石原は「三島由紀夫がもし政治家になっていたら」という幻を夢見ていたのではないだろうか。

 

◆過去の作家となった石原慎太郎

このブログを書きかけているとき、私は石原慎太郎の訃報を聞いた。

三島由紀夫石原慎太郎の対談を読んだのは、彼の訃報を聞く二か月前だった。石原の作品に関して、「天才」など近年話題になった作品は読んでいたが、古い作品は読んでいなかった。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」をきっかけに、石原慎太郎の以前書いていた小説も読み始め、ちょうど「太陽の季節」を読んでいるところだった。もっと彼の作品を読みたいと思った最中、彼は死んでしまった。

もっと前から、石原慎太郎の書いた物語を読みたかったと思う。そして、彼の書き進んでいく道を見ながら、作家の予言した未来がどれだけ当たっているのか、答え合わせをしていきたかった。

わたしはもう、作家、石原慎太郎と同じ時代を歩む事はできない。

夏目漱石を読んだときのように、巻末をめくり、書かれた時代を感じながら、「あの時代に、こんな作品を書くなんてすごい作家だ」と感心する事しかできない。石原慎太郎は過去の作家になってしまった。同じ時代に生きながら、彼の作品を読まなかったことを後悔している。もっと早くに気が付いていればよかった、と。

わたしはSATCにはなれない

ここ最近、重い読み物ばかり読んでいてなかなかページが進まない。小林秀雄サルトルも栞が挟まったまま放置されて、ついついツイッターを開いてしまう。難しい本は駄目だーと思っていた所、スクロールしたスマホから、ジェーン・スーさんが新刊「ひとまず上出来」を出版したと流れてくる。すぐに電子書籍で購入した。スーさんは何時もタイミングがいい。1テーマが3~4ページ、ライトなエッセイ集。ツイッターに溢れる気取った投稿文のような、嫌な読後感や罪悪感はない。気負わずにサクサク読み進めながら、漠然と考えていた事をスーさんの力で言語化していく。自分の脳内にあった概念をスーさんによって言葉にしてもらう。

 

「ダメ男と女の友情の相関関係」という章は、まさにわたしが思っていた事だった。女の友情を扱う海外ドラマでは、必ずダメ男の話で女同士が盛り上がり、連帯が強まるという内容。SATC(海外ドラマ「sex and the city」)よろしく、派手で、可愛くて、楽しそうな、女たちは、恋愛だけは不安定なのが定番だ。そして、それは東京の現実に生きる女の子たちも同じだとスーさんは語る。「女友達最高!」と叫ぶ女の子たちは、男関係に問題を抱えている。

苦難に見舞われると、愛に悩む女たちは互いを励まし、時には叱咤して肩を抱き合う。なにか事件が起きるたび「もう恋愛は懲り懲り、信頼できるのは女友達だけ!」と親睦を深めていくわけです。ダメ男がいないと友情が深まらないのではないかと思うほど、映画やドラマのダメ男は女の友情に都合よく機能します。

そんな映画を何本か観ていたら、気づいてしまったのですよ。現実社会でも「女友達最高!」と叫ぶ異性愛者の我々は、男の問題を抱えがちなことに。ガーン。

もちろん、女友達は仕事や家族の悩みも癒してくれます。しかし、我々の結束がより固くなるのは、圧倒的に男問題が勃発した時

そうそう、わたしも思っていた!わたしが言いたかった事をスーさんに、先に言われたようで少し悔しいけれど納得する。女同士楽しそうにしている子たちは、男関係に問題を抱えながらも、恋愛話でもりあがる。言葉を選ばずに言うと、ダメな人ばかり好きになり、ダメな恋愛をネタに盛り上がる。

文章を読んでいると、スーさんも「女友達最高!」と叫ぶ側なのだろうな、と感じる。ただ、わたしはそっち側ではない。異性関係の問題を割と避けて通っていける。ジェーン・スーさんの文章は好きだけど、読みながら、スーさんに壁を感じたり、感情移入しきれなかったりする時があるのは、わたしが「女友達最高!」の側ではないからだろう。

恋愛感情に自分を捧げられないし、できない。打算が入る。問題がありそうな異性に恋愛感情を抱くときもあるけれど、メリット・デメリットで天秤に掛けてしまう。そして、その小賢しい打算を公にしたくないとも思う。そのせいだろうか、わたしは、SATCのような同性の友情という物に縁がない。

 

◆「女友達最高!」の弊害

以前、ブログにも書いたけれど、性的な魅力を全面に押し出し、トラブルに巻き込まれた知人がいた。彼女の言動を見ていると、疲れてしまうので距離を置いた。そんな話を、先日食事にいった際、別の友人にしたら、こんな言葉が返ってきた。

「性的魅力や恋愛感情での魅力以外で、女の子も承認を得られた方がきっといいですよね」 わたしは頷いて、コーヒーを飲んだ。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

女性が承認を満たせす際、性や恋愛での比重が大きすぎる。それは、異性からの承認だけでなく、同性同士の仲間内の「連帯」「共感」という場面でも生きている。仕事をしたり、勉強をしたり、遊びに行ったり--色んな事をしているけれど、女の子たちが共感し、連帯できる話題は「恋愛」や「性」に偏っているように感じる。

一方で、女の子たちの共通言語である「性」や「恋愛」の話題は、リスクの大きい話題でもある。たとえば、LGBTQのアウティングの問題。当事者が性的嗜好をカミングアウトした際に、その事実を許可なく第三者に伝える事は「アウティング」とされ、ルール違反の行為だ。アウティングを相手にさせないために、性や恋愛の好みを伝えたくない場合もあるだろう。そこまでいかなかったとしても、人と違う性・恋愛の好みを持った人が、それを伝え、からかわれたり、面白がられたりしたくないと考えるケースもある。「恋人がいる?」「恋人とどんな関係?」といった恋愛に関する質問は、公にしたくないプライベートな部分に踏み込んでしまう可能性がある。質問をしていいか否か、よく考えてからしなくてはいけないだろう。

「女友達最高!」という人たちに、苦手意識があるのは、「女友達」という関係性を理由に、配慮やプライバシーは無視しているように感じてしまうからだ。それは、ちょっと前のヤンキー文化にも似ているように映る。仲間同士の内側であれば、何でも許して貰える前提がある。ルール違反やハラスメントになる発言も「女友達最高!」の中なら許されてしまい、結果、グループで疲弊してしまう人がでてくる。そうやって距離を置いた友人たちが、わたしにはいる。

 

◆ハラスメントと仲間意識

そして、この仲間意識とハラスメントの問題に関しても、スーさんは同じ書籍の中で書いている。「正義と仲間は相性が悪い」というタイトルの章。

スーさんの十年来の友人に、普段はいい人だけど、お酒を飲むと失礼になるAさんという人がいる。スーさんはある日、Aさんのいるグループに、Bさんという新しい友人を連れて行く。そこでAさんはBさんに失礼な振る舞いをし、Bさんは疲弊する。Bさんは、Aさんがいるなら集まりに行きたくないとスーさんに伝える。

後日、あなたは改めて Bさんに謝罪しました。すると Bさんは言いました。「集まりは楽しいからできればまた参加したいけれど、 Aさんも来るんだよね?」

さあ、ここからが問題。あなたは Bさんになんと答える?

 

スーさんは、Aさんに昔、助けてもらった恩がある。だけど、Bさんのような立場になりコミュニティを去った過去もある。板挟みにされている様子だけが書かれ終わっている。「女友達最高!」のグループの歪みがここなのかと、わたしは思っている。

女友達だから、仲が良いから、と他では許されない事を行い、見逃される。そして、新しくコミュニティに入ったBさんのように、立場の弱い人が傷ついていく。スーさんは、このときどうしたのか、本の中では書かれていない。わたしは、スーさんが、その時どうしたのかが一番知りたかった。 現状、自分が嫌な思いをしたくないので、距離を置いている女の子たちはいる。ただ、そこの連帯感、ワクワク感が見ていて楽しそうだと思う部分もある。「女友達最高!」の中で、渡ってきたスーさんだったら、仲間意識とハラスメントの問題の突破口を提示してくれるんじゃないかと、わたしはちょっと期待している。ハラスメントの不安がなくなった先に、そっち側に入っていけたらいいなあ。SATCのような友情に憧れてはいるから。

 

 

ジェーン・スーさんのラジオの感想も以前書いていました。よかったらこちらも。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

野田佳彦と宴のあと

数年前、西船橋駅に行った際、異様な光景を見た。

ビラを配る野田佳彦と素通りする人々。

 

総理大臣経験者、テレビでしか観たことない野田佳彦がいる。そして、それなのに、みんな無視している。むしろ避けて通っている。

不審に思い近寄った。秘書かSPか、スーツを着た男たちに囲まれたその人は野田佳彦本人だ。ミーハーなわたしはテンションがあがった。首相経験者を見るなんて初めてだ。写真を撮っていいか確認すると、快くツーショットを撮ってくれた。野田さんいい人だった。

f:id:mo_mochi_mochi:20211104183724j:plain

野田佳彦氏とわたし

はしゃぐわたしを無視し、船橋市民たちは通りすぎる。写真を撮っているわたしの方が異様だ。自分の価値観が歪む。

その数か月後、また船橋市内の某駅に行く。野田さん?!また野田佳彦がいた。その後、別の日に船橋市内の駅へ行く。駅前に野田さん?!選挙区民でもないのに、野田佳彦に三度も遭遇した。

調べると、野田佳彦は選挙区の主要駅に割といるらしい。前首相に会うという、わたしにとっての超非日常が、ここに住む人にとっては日常だった。船橋市民にとってわりと見かける人だった。

 

三島由紀夫が描いた政治家像

最近、三島由紀夫の小説「宴のあと」を読み、野田佳彦を思い出した。

保守党御用達の料亭の女将かづは、革新政党から都知事選に立候補する野口と結婚し、選挙活動に邁進していく。元大臣で、外交官の経験もある知的な野口は、自己完結な演説ばかりで大衆をつかむことができない。大衆がこちらに追いついてくることも望んでいる。一方で、かづは、地域の祭りがあれば一緒に歌い、踊り、大衆の中に入り、人々に合わせ、心をつかむ。かづの活動方法は、毎朝、毎朝、無視されながらも、大衆の中に立つ野田佳彦のそれであった。

「宴のあと」の野口がそうだったように、インテリで革新的な政治家――知識があり、その自負もある政治家の多くは、大衆に自ら学ぶ事、自分のことを理解する事を望む。愚かな大衆に賢くなるよう促す。自分から大衆の傍に降りる事はしない。

 

◆大衆に寄り添えなかった候補者たちの宴のあと

今回の衆院選。開票開始して早々、野田佳彦小選挙区での当確がでていた。与党自民党対立候補に倍近くの差をつけて当選している。一方で、小沢一郎、辻本清美といった立憲民主党のベテラン議員たちは小選挙区で落選した。大衆側に降りて寄り添えない政治家は排除される。イデオロギーだけの問題でない。自分が変化できるか、どうかではないか。

SNS上、落選した候補者の支持者が、有権者は見る目がないという旨を発信していた。それは間違いだとわたしは思う。そのような支持者しかいなかった事が、彼・彼女が一番の敗因だろう。

有権者が立候補者を理解しなかったのではない。立候補者が有権者の気持ちを汲み取れなかった。だから選ばれなかった。選挙区民の要望をくみ取るのが国会議員であり、それを放棄した候補者など絶対に選ばれないし、選ばれてはいけない。

 

◆民主主義は異質を排除しない者を選ぶ

野田佳彦以外、国政選挙のない時期に、衆議院議員が立って挨拶しているところをみたことがない。駅に立ってビラ配る――地道で泥臭い作業を続けている人はいない。

街中に立っていれば、対立政党を支持する人や、自身の政策をよく思わない人が話しかけてくることもあるはずだ。自分とは考えの違う人々とも対峙しなくてはいけない。そんなストレスを請け負って、それでも市井の人々の方に近寄って行こうとするのは辛いだろう。だけどそこから、わざわざ会いに来る選挙区民だけを相手にしていたのでは絶対にわからない世論をくみ取れるだろう。

しんどい思いを避けなかった人たちを、わたしたち有権者は見抜いているだけだ。有権者に責任を押し付け、民主主義を否定するような人々を選ばないぐらいの鑑識眼を持っている。大衆をさげすむ人々が選ばれる事などない世界が続いてほしい。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

昨年の都知事選でも似た事を思った。大衆の側に行けない候補者は、支持をされない。