オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

かわいいの耐えられない軽さ

読んでました、と言えなかった。

バイト先のガールズバーにいたのは、愛読していたティーン誌のモデルだった。

 

田舎の高校生だった頃、毎月読んでいた雑誌に彼女はいた。雑誌名を冠にしたミスコンテストで入賞し、紙面を飾った。わたしは、懸賞ハガキの好きなモデルの欄に彼女の名前を書いて送った。彼女が好きだった。それは、幼さの残る顔だったかもしれないし、長くうねった髪だったかもしれない。なにが好きだったのか覚えていないけれど、誰が好きか問われたら彼女の名前を書いた。

何度も書いた名前をわたしは忘れていた。だから、目の前の同僚の女の子が彼女だと気が付かなかったし、本人から名前を聞くまで分からなかった。お客さんから、ケーキの差し入れがあったとき、彼女はいらないと断った。「食べたいけど、今食べると太るから」と言った姿を見て、美しくいようとする人は、こういう人なのだなと、苺の乗ったケーキを食べながら思った。ちょっとツンツンして話しづらかった。近寄りがたくて、少し怖かったけれど、その性格が、彼女の美しさ保障しているようにも思えていた。

十年経った今、思い付きで彼女の名前を検索してみた。でてきたインスタには、子どもの写真と食べ物の写真。昔よりは年をとっているけれど、変わらずきれいな彼女の写真があった。つまらないなと思った。彼女のSNSは、わたしが飛び出してきた地方都市に住む同級生たちと似すぎていた。

わたしの届かないような美しさをもった彼女は、届かないところにい続けてはいなかった。こんなところにいてはだめだと私が飛び出した街、そこに居続け、生きている女の子たちの未来と一緒だ。きれいな妻、母になって、その日々を綴る。雑誌の仕事も、商品広告の写真も、彼女の今インスタグラムからは消えていた。キラキラした非日常を歩く彼女はいない。

「かわいい」を担保にした刺激的な非日常は、年老いた先で維持する事はできない。非日常を維持する女の子は、可愛いに片足を置きながら、何か別の、非日常を構築する何かを、手にしている。何か「かわいい」以外の特別を得ている。それを手にできないなら――かわいい以外の価値を自分に見いだせないならば、かわいい女の子も、かわいくない女の子も、10年後に歩む未来は一緒だ。インスタに載せる商品の値札の差が、かわいいの差ならば、それはあまりに軽すぎる。かわいいのみで得れる対価は、それほど大きくない。であるならば、ケーキを我慢した、あの努力はなんのためだったのだろうか。

 

mochi-mochi.hateblo.jp