オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

「月曜のたわわ」から考えるスケベ表現の仕方

日経新聞に掲載された「月曜のたわわ」の広告に批判的な意見が集まっている。

www.jprime.jp

www.huffingtonpost.jp

 

「月曜のたわわ」という漫画は読んだことがなかったので、調べて読んでみた。

無料公開分しか見ていないけれど、胸が大きい女の子を主人公に、胸が大きくてボタンが取れる、ブレザーが閉まらないなど、胸が大きい故に起きる出来事を取り上げていく。日常系の漫画だろう。

yanmaga.jp

 

「胸が大きい事」をネタにしている故に、女性の身体を性的に見ている作品だと批判されている。

 

◆「月曜のたわわ」だからではなく、「日経新聞」だから炎上

ラブひな」や「いちご100%」などセックス描写はないけれど、女性の性を連想させる少年漫画はある。だから、なぜこの作品が批判されているの?と始めにニュースを知ったとき感じた。

恐らく作品自体よりも、「日経新聞」という一般の全国紙に広告が掲載されたという点が問題だったのだろう。これがもしピンク面もある夕刊紙だったら問題にはならなかった。「エロいものがあるかもしれない」という想定で、その新聞を買っていたなら問題はないが、「エロいものがある」という想定を一切持たずに見たら驚いてしまう。

作品自体に問題があるわけではない。そして、それを掲載する事が法令に違法しているわけではない。その作品と媒体が合っていないという事なのだろう。

 

◆媒体に合う表現なのだろうか、という視点

媒体と作品が合わないという問題は、日経新聞の広告だけに限らない。多くの媒体で、法的に違反にはならないが、媒体に合わないコンテンツという物が存在している。そして、多くの媒体では、問題になる前に「自主規制」をしている。

先日、文春オンラインに書いた記事『「女性をターゲットにしても失敗する」が定説…それでも今アダルトグッズショップに女性客が増え始めている“納得の理由”』の中で、amazonでのアダルト商品の規制について触れた。

bunshun.jp

通販ではなく店舗でアダルトグッズを購入するという事実も意外だった。実店舗に行くのは、時間も手間もかかる。女性が実店舗に向かう理由はなんだろうか……。そのひとつに大手通販サイトAmazonのアダルト商品への規制があるように筆者は考える。

 ここ数年、セクシーなパッケージはAmazonの商品紹介画面に掲載できなくなった。場合によってはURLが開けなくなることもある。基準は明確になっていないが、バストトップが露わになったイラストや、男性器を模したデザインなどは、そのまま掲載することが難しい。モザイクをかけたり、画像をトリミングしたりといった画像加工をするなど、手を尽くしたうえで各メーカーが掲載している。女性用商品でも、ディルドなどは、商品画像をそのまま掲載することは難しい。

 

amazonの場合、ページを開く前には18歳以上か否かのチェック項目がある。18歳以上を対象にしているページであっても、一般商品も扱うamazonというサイト上、男性器やバストトップは自主規制している。

(そして私も、文春オンラインという媒体に合わせ「乳首がモロ見えている絵やチンコみたいな形」を「バストトップが露わになったイラストや、男性器を模したデザイン」と言い換えている)。

法令を守るだけではなく、媒体に合わせた表現というのが求められてきている。

 

◆エロを扱うならば「普通の視点」を捨ててはいけない

一方で、エロの分野のコンテンツや制作者が、一般の、R指定のつかない分野に出ていく事もある。AV業界でいえば、文学作品を書いた紗倉まなさんや、一般の映画やドラマに出演している川上なな実さんなどだろう。彼女たちが炎上していないのは、エロを外に出さない――つまりエロ業界での当たり前を、外の世界に持ち込もうとしないからだろう。

彼女たちがAVのままの常識で、一般作の世界にでていけば批判を受ける(おそらくAV女優たちは一般のテレビ番組では出演作のタイトルすら口にだせないだろう)。

エロを一般社会に持ち込む事で反発がおきる。だから、彼女たちは一般の基準で、一般の表現をしている。エロを一般社会に出していく事はできないけれど、エロから一般に出ていく事はできる。そして、外に出ていくためには、向こうの常識を受け入れなくてはいけない。

 

◆エロは凶器にも救いにもなる

アダルトコンテンツの作り手側にいると、一般の感覚が鈍くなる。わたしたちコンテンツの作り手側は忘れてしまいがちになるが、エロは賛否が分かれるコンテンツだ。

それは、好みの問題だけでない。エロは加害性を持ち合わせている。性によって心身が傷つく事もある。コンテンツが視聴者を直接傷つける事はないと言われるかもしれないけれど、ショッキングな出来事を思い出させてしまう可能性はあるだろう。

かといって、コンテンツ自体を禁止する事にはわたしは賛成できない。性的な表現のある作品であっても、それを楽しむ人も、生きがいになる人も、生活の潤いになる人もいる。人によっては、人生が救われる事もあるだろう。エロは凶器にも救いにもなる。だからこそ、慎重に扱わなくてはいけない。

 

◆一部の嗜好品で居続ける選択肢もある

そして、私は、性を一部の人だけの楽しみにしておいていいのではないかと考えている。「オープンに性を語ろう」という人もいるけれど、それはオープンにしたい人だけがすればいいことで、他人に強要してはいけない。クローズドな空間で好みの合う人だけが集まって語り合う。性はそういった物でいいようにわたしは考えている。

今の仕事の話になるが、私は、おとこの娘向けの衣装やSMグッズなど多数派ではない性嗜好の商品を売っている。商品はより売れた方がいいのだけれど、全人類に使ってほしいと思わないし、使っている事を無理に公表してほしいとも思わない。ただ、興味を持っている人が、偏見に会う事なく、抵抗なく使えるようになってほしいとは思っている。

売り手として、「使いたいけど使えない」というハードルを飛び越えられるようにしたい。使いたい人が、使いたい物を使える世の中になってほしいと考えると、好奇の目や偏見や頭ごなしに否定する意見はすごく嫌な存在だ。

娯楽としてのエロを消滅させないために、興味のある人以外に届けないようにする方がいい場面もあるのではないか。エロが一般の世界に届く事で傷つくのは、エロを嫌いな人だけでない。そのコンテンツそのものを好きな人たちも、作品を否定される事で傷ついていしまう。好きな物を否定されるという場面をわざわざ作る必要なんてない。

 

そういえば、最近読み返したAV男優のインタビュー集「AV男優」で、AV監督バクシーシ山下さんが語っていた言葉印象に残っている。

AV男優

AV男優

Amazon

 

「世間にAVが認知され始めたんですね。でもやっぱりこれは認知されちゃダメなんです。AV男優だって持ち上げられちゃだめなんですよ」

バクシーシはそこまで言って氷の解けたアイスコーヒーをストローで啜った。

「え?」

と、意外な顔を向ける私を、微笑みながら見つめ、そして言った。

「ダメです、やっぱり僕らは指さされるような人間であり続けなきゃダメなんです。日の目を見ちゃダメなんです」

 

「日の目を見ちゃダメなんです」

バクシーシ山下さんの言葉は今の現状にも通じる言葉ではないだろうか。エロを凶器ではなく、楽しみにするためには、「制限」と、その中での「自由」がきっと必要だ。

未来を予見した作家、石原慎太郎

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、--あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるからご覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない」と云って又にやにや笑っている。三四郎日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。

「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。

 

――夏目漱石三四郎

 

 

読んですぐ、巻末のページをめくった。夏目漱石の「三四郎」、この話が書かれたのはいつなのだろう。解説には、明治四十一年――1908年に新聞に掲載された作品だと記されていた。第一次世界大戦の終わりを告げるベルサイユ条約が1919年、その10年以上前に書かれた物語。日露戦争も終わったばかりの、浮かれていた社会の中で、漱石はこの物語を書いた。「亡びるね」というセリフは、1945年の日本を予見したかのようだった。

 

優れた作家は未来を予見する。

三島由紀夫石原慎太郎の対談集「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」を読んだときも、同じように思った。

1956年から1969年の間に行われた前六回の二人の対談と、三島・石原、それぞれが相手に向けた手紙、そして石原慎太郎への追加のインタビューが収録されている。この本の内容は石原慎太郎の未来を示しているようだった。

 

 

 

◆過剰な父と取り残された息子

三島:失礼だが、君のお父さんが早くになくなったことは、君の中で父と子の関係を、かなり美しく見せているんだよ。生きているとまたうるさいことになるんだよ(笑)。君のお父さんがご存命だとすると、君とてもあんなきれいな小説かけませんよ(笑)。男というは、生物学的な役割をはたし、息子に対する技術的な伝授を終わったら死ぬべきなんだよ。男盛りで死ぬべきだ。

石原:三島さんのお父さんみたいに、ご健在で視力があって、お前の週刊誌は面白くないとか、お前週刊誌に書きすぎるぞ(笑)、なんていってくれる人がいた方が僕はいいけどね。僕は親父のやらなくちゃならなぬことを、今やってるんだもの。

三島:君は自分に対して、父親と息子の一人二役をやってるわけ(笑)。ただ、実業家なかで親父がものすごくえらくていまだに実力があると、息子にはたいてい欠陥あるな。

石原:ほんとうに親父というのは夭折した方が、イメージが鮮明に残るな。

 

三島由紀夫 石原慎太郎全対話」の中、三島は、父親は早くに居なくなった方がいい、石原の父が若くして亡くなったことは石原にとって良かったと軽口を叩く。

口の悪い三島のジョークのように聞こえるこの発言。昨年末に行われた衆院選の結果を見た後では、三島が本質を見抜いているように思えてならない。石原慎太郎の息子、石原伸晃衆院選で落選したからだ。

衆院都知事と歴任した偉大な父を持ち、確固たる地盤を持ちながらも、石原伸晃は今回の選挙で落選した。石原伸晃の所属する与党自民党が大敗したわけではない。大衆は、石原伸晃、その人を排除しただけだ。三島の言う、「えらい親父と欠陥のある息子」を自身が体現してはしまったように、今回の衆院選で感じた。

 

◆ジェニュインを使い果たした作家の果て

石原自身も、自分の未来を指し示す言葉を残している。巻末、石原慎太郎が、三島とのやり取りを振り返った後書きがある。そこで石原は、三島の遺作「豊饒の海」が退屈だったと述べた後、以下のように続ける。

 

豊饒の海』はよくないけれど、三島さんには、長編にも短編にも素晴らしい作品が多かった。長編でいえば、『仮面の告白』(四九年)がそうだし、男色の世界を書いた『禁色』(五一~五三年)もいい。『禁色』なんかは、僕なんかのあずかり知らぬ世界だけど、自分のことを書いているから、その辺にリアリティがった。ところがやっぱり徐々に自分の抱えているジェニュインなものがなくなってくると、結局、下敷きも持ってきて書くわけですよ。『金閣寺』(五六年)もそうだし、『潮騒』(五四年)も完全に『ダフニスとクロエ』でしょう。六〇年代の小説でよかったのは、料亭を舞台にした『宴のあと』(六〇年)、近江絹糸のストライキを扱った『絹と明察』(六四年)。短編では、初期の「春子」(四七年)、「山羊の首」(四八年)などが素晴らしいな。

 

ジェニュイン――つまり自分の抱えた真実は、物語を綴った分だけ枯渇していく。ジェニュインを使い果たした表現者は、誰かのジェニュインを下敷きに他者の言葉でジェニュインを編む。それができなければ、自己模倣の退屈な表現になるしかない。

2016年に発売された石原慎太郎の「天才」は田中角栄の一人語りで綴られ、ヒット作となった。昨年は安藤昇伝を題材にした「あるヤクザの生涯」を刊行した。イタコように、誰かの言葉をかり、実在の人物の人生をなぞった作品が多い。

ノンフィクションを下敷きに、語りを展開していく作風は、文学では珍しくはない。ただ、それは、石原慎太郎のデビュー作「太陽の季節」とは随分と違った文体だ。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」に書かれた後書きは、石原慎太郎の書き味の変化を告げているようだった。

年を重ねてからの石原は、社会に目を向け、取材を続け、誰かの物語を書き進めた。それは、三島が陥った自己模倣に、自分も陥らぬようという恐怖からではないだろうか。三島の遺作、豊饒の海を「彼がたどり着いた虚無の世界の表象」「作家として衰弱の証拠」と称した石原だからこそ、自分が同じようにならぬようにという変化なのだろう。三島のようになってしまうのが怖かった、だから、書き方を変えざる負えなかった。

 

橋下徹三島由紀夫を重ねていた

三島由紀夫石原慎太郎によって映し出された未来の断片は、作家、石原慎太郎としてだけではない。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」を読むと、政治家、石原慎太郎の最後も思い出さずにはいられなかった。石原の三島に対する思いは、その後の政治家としての行動を予見するかのようだ。

2012年、東京都知事選を辞職した石原は、衆議院議員となり、再び国政に復帰する。石原は、新党「太陽の党」を結成し、日本維新の会に合流する。当時の政権放送では、石原と維新の会の代表、橋下徹が向かい合って議論していた。

橋下と向かい合って話す石原を見ながら、わたしは、「石原慎太郎じゃないみたいだ」と思っていた。大衆に迎合するような、軟派な印象を受けた。日本維新の会は2010年に結党された「大阪維新の会」を母体に、2012年に結党された政党。歴史も浅く、当時の党首橋下徹はタレント弁護士出身の元府知事。二世議員ではない。大衆に人気の橋下徹にのせられたように私には見えた。

だが、三島由紀夫との対談を読み、このときの印象は変わった。石原は橋下徹に、三島由紀夫的な物を求めていたのではないだろうか。三島は、亡くなる直前、参院議員の八田一朗に出馬の相談をしていたと「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」の中で石原は語っている。

「もしも、三島由紀夫が政界に進出していたら……」その「もし」を実現する人が橋下だったのではないだろうか。

維新の会の行っている事は、自民党的な政治から見たら、過度に右寄りに映る。「それ自体が連立政権」と、三島に揶揄された自民党のような雑多な組織ではない。統一された思想--それはまるで三島由紀夫の作った民間防衛組織「楯の会」のよう。

楯の会を「おもちゃの兵隊」と皮肉っていた石原だったが、「楯の会」を政界の中で立ち上げようとし、オモチャではなくしようとしているのが維新の会に映っているのではないだろうか。維新の会の主張する憲法改正は、三島が楯の会で行っていた憲法の審議と被る。現在の停滞を打ち破る革命を政界の中で興そうとする--三島がもし政界に入っていたらという仮定を重ねていた。

2014年石原慎太郎は政界を引退する。翌年2015年、橋下徹も政界を引退した。それはあの政見放送の数年後だった。政治家人生の最後、石原は「三島由紀夫がもし政治家になっていたら」という幻を夢見ていたのではないだろうか。

 

◆過去の作家となった石原慎太郎

このブログを書きかけているとき、私は石原慎太郎の訃報を聞いた。

三島由紀夫石原慎太郎の対談を読んだのは、彼の訃報を聞く二か月前だった。石原の作品に関して、「天才」など近年話題になった作品は読んでいたが、古い作品は読んでいなかった。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」をきっかけに、石原慎太郎の以前書いていた小説も読み始め、ちょうど「太陽の季節」を読んでいるところだった。もっと彼の作品を読みたいと思った最中、彼は死んでしまった。

もっと前から、石原慎太郎の書いた物語を読みたかったと思う。そして、彼の書き進んでいく道を見ながら、作家の予言した未来がどれだけ当たっているのか、答え合わせをしていきたかった。

わたしはもう、作家、石原慎太郎と同じ時代を歩む事はできない。

夏目漱石を読んだときのように、巻末をめくり、書かれた時代を感じながら、「あの時代に、こんな作品を書くなんてすごい作家だ」と感心する事しかできない。石原慎太郎は過去の作家になってしまった。同じ時代に生きながら、彼の作品を読まなかったことを後悔している。もっと早くに気が付いていればよかった、と。

わたしはSATCにはなれない

ここ最近、重い読み物ばかり読んでいてなかなかページが進まない。小林秀雄サルトルも栞が挟まったまま放置されて、ついついツイッターを開いてしまう。難しい本は駄目だーと思っていた所、スクロールしたスマホから、ジェーン・スーさんが新刊「ひとまず上出来」を出版したと流れてくる。すぐに電子書籍で購入した。スーさんは何時もタイミングがいい。1テーマが3~4ページ、ライトなエッセイ集。ツイッターに溢れる気取った投稿文のような、嫌な読後感や罪悪感はない。気負わずにサクサク読み進めながら、漠然と考えていた事をスーさんの力で言語化していく。自分の脳内にあった概念をスーさんによって言葉にしてもらう。

 

「ダメ男と女の友情の相関関係」という章は、まさにわたしが思っていた事だった。女の友情を扱う海外ドラマでは、必ずダメ男の話で女同士が盛り上がり、連帯が強まるという内容。SATC(海外ドラマ「sex and the city」)よろしく、派手で、可愛くて、楽しそうな、女たちは、恋愛だけは不安定なのが定番だ。そして、それは東京の現実に生きる女の子たちも同じだとスーさんは語る。「女友達最高!」と叫ぶ女の子たちは、男関係に問題を抱えている。

苦難に見舞われると、愛に悩む女たちは互いを励まし、時には叱咤して肩を抱き合う。なにか事件が起きるたび「もう恋愛は懲り懲り、信頼できるのは女友達だけ!」と親睦を深めていくわけです。ダメ男がいないと友情が深まらないのではないかと思うほど、映画やドラマのダメ男は女の友情に都合よく機能します。

そんな映画を何本か観ていたら、気づいてしまったのですよ。現実社会でも「女友達最高!」と叫ぶ異性愛者の我々は、男の問題を抱えがちなことに。ガーン。

もちろん、女友達は仕事や家族の悩みも癒してくれます。しかし、我々の結束がより固くなるのは、圧倒的に男問題が勃発した時

そうそう、わたしも思っていた!わたしが言いたかった事をスーさんに、先に言われたようで少し悔しいけれど納得する。女同士楽しそうにしている子たちは、男関係に問題を抱えながらも、恋愛話でもりあがる。言葉を選ばずに言うと、ダメな人ばかり好きになり、ダメな恋愛をネタに盛り上がる。

文章を読んでいると、スーさんも「女友達最高!」と叫ぶ側なのだろうな、と感じる。ただ、わたしはそっち側ではない。異性関係の問題を割と避けて通っていける。ジェーン・スーさんの文章は好きだけど、読みながら、スーさんに壁を感じたり、感情移入しきれなかったりする時があるのは、わたしが「女友達最高!」の側ではないからだろう。

恋愛感情に自分を捧げられないし、できない。打算が入る。問題がありそうな異性に恋愛感情を抱くときもあるけれど、メリット・デメリットで天秤に掛けてしまう。そして、その小賢しい打算を公にしたくないとも思う。そのせいだろうか、わたしは、SATCのような同性の友情という物に縁がない。

 

◆「女友達最高!」の弊害

以前、ブログにも書いたけれど、性的な魅力を全面に押し出し、トラブルに巻き込まれた知人がいた。彼女の言動を見ていると、疲れてしまうので距離を置いた。そんな話を、先日食事にいった際、別の友人にしたら、こんな言葉が返ってきた。

「性的魅力や恋愛感情での魅力以外で、女の子も承認を得られた方がきっといいですよね」 わたしは頷いて、コーヒーを飲んだ。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

女性が承認を満たせす際、性や恋愛での比重が大きすぎる。それは、異性からの承認だけでなく、同性同士の仲間内の「連帯」「共感」という場面でも生きている。仕事をしたり、勉強をしたり、遊びに行ったり--色んな事をしているけれど、女の子たちが共感し、連帯できる話題は「恋愛」や「性」に偏っているように感じる。

一方で、女の子たちの共通言語である「性」や「恋愛」の話題は、リスクの大きい話題でもある。たとえば、LGBTQのアウティングの問題。当事者が性的嗜好をカミングアウトした際に、その事実を許可なく第三者に伝える事は「アウティング」とされ、ルール違反の行為だ。アウティングを相手にさせないために、性や恋愛の好みを伝えたくない場合もあるだろう。そこまでいかなかったとしても、人と違う性・恋愛の好みを持った人が、それを伝え、からかわれたり、面白がられたりしたくないと考えるケースもある。「恋人がいる?」「恋人とどんな関係?」といった恋愛に関する質問は、公にしたくないプライベートな部分に踏み込んでしまう可能性がある。質問をしていいか否か、よく考えてからしなくてはいけないだろう。

「女友達最高!」という人たちに、苦手意識があるのは、「女友達」という関係性を理由に、配慮やプライバシーは無視しているように感じてしまうからだ。それは、ちょっと前のヤンキー文化にも似ているように映る。仲間同士の内側であれば、何でも許して貰える前提がある。ルール違反やハラスメントになる発言も「女友達最高!」の中なら許されてしまい、結果、グループで疲弊してしまう人がでてくる。そうやって距離を置いた友人たちが、わたしにはいる。

 

◆ハラスメントと仲間意識

そして、この仲間意識とハラスメントの問題に関しても、スーさんは同じ書籍の中で書いている。「正義と仲間は相性が悪い」というタイトルの章。

スーさんの十年来の友人に、普段はいい人だけど、お酒を飲むと失礼になるAさんという人がいる。スーさんはある日、Aさんのいるグループに、Bさんという新しい友人を連れて行く。そこでAさんはBさんに失礼な振る舞いをし、Bさんは疲弊する。Bさんは、Aさんがいるなら集まりに行きたくないとスーさんに伝える。

後日、あなたは改めて Bさんに謝罪しました。すると Bさんは言いました。「集まりは楽しいからできればまた参加したいけれど、 Aさんも来るんだよね?」

さあ、ここからが問題。あなたは Bさんになんと答える?

 

スーさんは、Aさんに昔、助けてもらった恩がある。だけど、Bさんのような立場になりコミュニティを去った過去もある。板挟みにされている様子だけが書かれ終わっている。「女友達最高!」のグループの歪みがここなのかと、わたしは思っている。

女友達だから、仲が良いから、と他では許されない事を行い、見逃される。そして、新しくコミュニティに入ったBさんのように、立場の弱い人が傷ついていく。スーさんは、このときどうしたのか、本の中では書かれていない。わたしは、スーさんが、その時どうしたのかが一番知りたかった。 現状、自分が嫌な思いをしたくないので、距離を置いている女の子たちはいる。ただ、そこの連帯感、ワクワク感が見ていて楽しそうだと思う部分もある。「女友達最高!」の中で、渡ってきたスーさんだったら、仲間意識とハラスメントの問題の突破口を提示してくれるんじゃないかと、わたしはちょっと期待している。ハラスメントの不安がなくなった先に、そっち側に入っていけたらいいなあ。SATCのような友情に憧れてはいるから。

 

 

ジェーン・スーさんのラジオの感想も以前書いていました。よかったらこちらも。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

野田佳彦と宴のあと

数年前、西船橋駅に行った際、異様な光景を見た。

ビラを配る野田佳彦と素通りする人々。

 

総理大臣経験者、テレビでしか観たことない野田佳彦がいる。そして、それなのに、みんな無視している。むしろ避けて通っている。

不審に思い近寄った。秘書かSPか、スーツを着た男たちに囲まれたその人は野田佳彦本人だ。ミーハーなわたしはテンションがあがった。首相経験者を見るなんて初めてだ。写真を撮っていいか確認すると、快くツーショットを撮ってくれた。野田さんいい人だった。

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野田佳彦氏とわたし

はしゃぐわたしを無視し、船橋市民たちは通りすぎる。写真を撮っているわたしの方が異様だ。自分の価値観が歪む。

その数か月後、また船橋市内の某駅に行く。野田さん?!また野田佳彦がいた。その後、別の日に船橋市内の駅へ行く。駅前に野田さん?!選挙区民でもないのに、野田佳彦に三度も遭遇した。

調べると、野田佳彦は選挙区の主要駅に割といるらしい。前首相に会うという、わたしにとっての超非日常が、ここに住む人にとっては日常だった。船橋市民にとってわりと見かける人だった。

 

三島由紀夫が描いた政治家像

最近、三島由紀夫の小説「宴のあと」を読み、野田佳彦を思い出した。

保守党御用達の料亭の女将かづは、革新政党から都知事選に立候補する野口と結婚し、選挙活動に邁進していく。元大臣で、外交官の経験もある知的な野口は、自己完結な演説ばかりで大衆をつかむことができない。大衆がこちらに追いついてくることも望んでいる。一方で、かづは、地域の祭りがあれば一緒に歌い、踊り、大衆の中に入り、人々に合わせ、心をつかむ。かづの活動方法は、毎朝、毎朝、無視されながらも、大衆の中に立つ野田佳彦のそれであった。

「宴のあと」の野口がそうだったように、インテリで革新的な政治家――知識があり、その自負もある政治家の多くは、大衆に自ら学ぶ事、自分のことを理解する事を望む。愚かな大衆に賢くなるよう促す。自分から大衆の傍に降りる事はしない。

 

◆大衆に寄り添えなかった候補者たちの宴のあと

今回の衆院選。開票開始して早々、野田佳彦小選挙区での当確がでていた。与党自民党対立候補に倍近くの差をつけて当選している。一方で、小沢一郎、辻本清美といった立憲民主党のベテラン議員たちは小選挙区で落選した。大衆側に降りて寄り添えない政治家は排除される。イデオロギーだけの問題でない。自分が変化できるか、どうかではないか。

SNS上、落選した候補者の支持者が、有権者は見る目がないという旨を発信していた。それは間違いだとわたしは思う。そのような支持者しかいなかった事が、彼・彼女が一番の敗因だろう。

有権者が立候補者を理解しなかったのではない。立候補者が有権者の気持ちを汲み取れなかった。だから選ばれなかった。選挙区民の要望をくみ取るのが国会議員であり、それを放棄した候補者など絶対に選ばれないし、選ばれてはいけない。

 

◆民主主義は異質を排除しない者を選ぶ

野田佳彦以外、国政選挙のない時期に、衆議院議員が立って挨拶しているところをみたことがない。駅に立ってビラ配る――地道で泥臭い作業を続けている人はいない。

街中に立っていれば、対立政党を支持する人や、自身の政策をよく思わない人が話しかけてくることもあるはずだ。自分とは考えの違う人々とも対峙しなくてはいけない。そんなストレスを請け負って、それでも市井の人々の方に近寄って行こうとするのは辛いだろう。だけどそこから、わざわざ会いに来る選挙区民だけを相手にしていたのでは絶対にわからない世論をくみ取れるだろう。

しんどい思いを避けなかった人たちを、わたしたち有権者は見抜いているだけだ。有権者に責任を押し付け、民主主義を否定するような人々を選ばないぐらいの鑑識眼を持っている。大衆をさげすむ人々が選ばれる事などない世界が続いてほしい。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

昨年の都知事選でも似た事を思った。大衆の側に行けない候補者は、支持をされない。

ちんこに聞こえる中国語

中国語を勉強していると、どうしても下ネタにしか聞こえないなって言葉があります。

中国語を勉強していない方でも、中国語話者の会話を聞いて「あの人、チンコって言ってない??」って瞬間あるかもしれません。全然エロくないのに、下ネタに聞こえる中国語を紹介します。空耳アワーの中国語エロ版です。

 

◆「ちんこ立っちゃった」に聞こえる文章

・辛苦大家了(Xinku dajia le)

直訳は、「みんなお疲れ様」。普段の会話でも使う熟語です。中国語のアニメを見ていたら出てきた言葉で、わたしは聞こえなかったのですが、一緒に見ていた知人が「ちんこ立っちゃったって言ってない???」と聞いてきたので、もしかしたらそう聞こえるかも。お疲れ様なのはチンコのことじゃないです。

 

 

◆「ちんこ」に聞こえる言葉

亲口(qinkou)

「自分の口で」という意味の福祉です。口という漢字は「コウ」と中国語で読むので、チンコとかマンコとかに聞こえやすいですね。亲という漢字は日本語では「親」という文字になります。親しさとか敬う意味合いとかあるので、全然下品なニュアンスはないです。

使い方:亲口告诉 「自分の口で告げる」

 

◆「ちんちん」に聞こえる言葉

倾情(Qingqing)

「情熱を注ぐ」「情感を込める」という意味です。チンチンの情熱によって突き動かされているのは事実ですから日本語に近いのかもしれないですね。エロい情熱以外を注ぐときも使います。

 

请进(qing jin)

「お入りください」という意味です。台湾に行ったとき、地下鉄の改札で聞こえ「チンチンって言ってない???」と興奮しましたが、とっとと改札入ってくれって事だったんですね。カタカナにすると「チンジン」になるけど、中国語に触れる機会が少ないと、チンチンって聞こえます。

 

◆「まんこ」に聞こえる言葉

・门口(menkou)

「入口」という意味です。日常ですごく頻繁に使う単語です。学校门口(学校の校門)とか。中国語圏の人「マンコ」が言っていたらこの単語の可能性が高いです。·ウィキペディアで調べたら、まんこの語源は门口からきているという説もあるっぽいです。マンコに聞こえるではなく、本当にマンコなのかもしれないです。

 

・满口(mankou)

聞こえ方でいったら、门口よりも满口の方がモロマンコです。门口はメンコーに近い、アとエの間の音なのですが、こちらは母音がアなので、マンコそのものです。意味は、口の中とか、話すことすべてとか、です。

 

中国や台湾に行った際、下ネタが聞こえてきても、エロい気持ちにならないように気を付けてください。

 

中国語の下ネタは以下をご覧ください。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

真面目に中国語を勉強したい方はこちらを見てください。中検三級の勉強の際に使ったテキストの紹介です。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

大森靖子ちゃんが好きすぎるのでZOCのプロデュースをやめて欲しいと願ってしまう

「毎朝、6時半になるとコンポから流れ出すんですよ、爆音で、お父さんがコンポの設定あるじゃないですか、目覚ましソングの設定を気分爽快にしてて朝から飲もうって流れ出すんです。ホント気分爽快に起きれました。低血圧ぎみでしたけど。無理せずゆるっと起きれる感じが結構気に入っててて、青春時代ずっと」

「だから今日声聞いて本物だ、朝の声だって」

 

MCの森高千里さんに話す様子が、気に入られようとしているように見えた。でも、それは、今回だけでなくて、相手を喜ばそう、褒めよう、嫌われないようにしよう、そういった気遣いと下心の混じり合ったようなコミュニケーションを彼女はとる。 7月18日の「LOVE MUSIC」で、前述した森高さんとのやり取りをみた。大森靖子ちゃんの出演しているテレビ番組はこれ以外も可能な限り見るようにしている。それくらい大森靖子ちゃんが好きだ。新しい楽曲があれば聞いて、今年に入ってやっとライブにも行けた。熱狂的なファンとは言えないけれど、自分にできる範囲で、彼女の活動を応援し、楽しませてもらっている。

www.tnc.co.jp

 

わたしが大森靖子ちゃんを熱心に追いかけるきっかけは、数年前に、テレビの収録を見学した際、偶然、彼女に会ったときだった。彼女の楽曲を聞いてはいたけれど、ファンと言えるほど好きではなかった。それでも、直接目にする彼女はかわいくて、収録後に握手を求めると、笑顔で応じてくれて、一緒に写真まで取ってくれた。「今日も聞いていきました」とわたしが言うと、彼女は「うれしい」と喜んでくれた。さっきまでイヤフォンから流れていた声で、そんな風に言われたこと、急にお願いした写真にも笑顔で応じてくれたこと、全てが嬉しくてたまらなかった。彼女はわたしのアイドルになった。

初対面の人を邪険にするような事ができないのだと思う。突然の要望にも機嫌良く対処する。だからこそ、奥底にひたひたと貯まる、ストレスやしんどい思いがあるのかもしれない。そして、普段の可愛い大森靖子の裏側にあるしんどさが楽曲になる。 

 

◆出演停止を決めた荻上チキの意見

大森靖子ちゃんが炎上した。彼女がメンバー兼、プロデューサーとして活躍するアイドルグループZOCにて、他のメンバーに怒鳴りつける大森靖子ちゃんの音声が流失したのだ。この騒動が理由で、ラジオ番組「荻上チキ・Session」で放送予定だった彼女へのインタビューは放送を見送られた。

www.tbsradio.jp

 

パーソナリティを務める荻上チキさんはこの出来事に関して、8月17日の番組内でコメントしている。

 

同じメンバーだと言ってはいるけれど、年少者と年長者の関係であると同時にプロデューサーとプロデュースされる側という関係も依然としてある。つまり権威と権力の勾配がある関係ではあるので、メンバー間の見解や言い争いとは言いがたくて、パワーハラスメントにあたるという疑念がでてくるわけですね。 

 

ZOCというアイドルグループにおいては、僕は初期から活動を追いかけてはいるんですけれども、元々、男性が女性をプロデュースして、プロデュースする側とされる側が擬似的な父と娘の関係になるようなことに対して、大森靖子氏が違和感があるというような事をインタビューで答えていたんですね。それに対するひとつのアンサーとして、こういったグループをつくったんだという事も語っている。だけれども、今回の疑惑というのは、そうした活動のコンセプトの根幹にも関わる事でもあったので、こういった疑念が生じた際に、そういった説明がなされるのかということが注目がされていたわけですね。その応答の仕方によって今回放送をどうするのかと言う事も考えなくてはいけなかったわけです。 

  わたしも実際の音声を聞いた。大森靖子ちゃんが、感情的に怒鳴りつける部分だけが切り取られているため、前後のやり取りは分からない。もしかしたら、相手側からも攻撃的な言葉があったのかもしれない。だけど、それだとしても、荻上さんの言うように、勾配のある関係で、立場が上の人が下の人に向ける言葉ではない。 わたし自身の話になるが、似たような場面--つまり、仕事の上の上の立場の人に感情的に怒られた事がある。もう十年近く前の話しで、今は違う職場にいるけれど、それでも、あの時恐怖を感じたことを覚えている。彼の指導の仕方・伝え方は間違っていたと思う。そして、今でも彼が嫌いだ。だから、大森靖子ちゃんの行った行為で、きっとやられた側のメンバーはずっとこの先しこりのような、嫌な感情を抱き続けるかもしれないな、とわたしは思う。

ただ、わたしはこの出来事を知って、大森靖子ちゃんがそんな酷い事をするわけない、とは思えなかった。それどころか、大森靖子ちゃんだったら、ありそうだなとも思った。彼女はこれまでも、感情を全面にだして表現してきた。プラス感情--喜びやうれしさだけでなく、怒りや憤りといった負の感情も垂れ流すように表現する。何かを殴り続けるみたいに言葉を流し続ける。それは、彼女の今まで書いてきたブログなり、ライブでの発言なりで見てきた。そしてその怒りの感情が、彼女の歌に生かされてもしていた。 彼女の抱える怒りの感情は表現することで発散し、他者に向けないでくれるだろうと信じていたが、やっぱり、そうじゃなかったんだなというのがわたしの感想だ。 

 

◆「大森靖子」だけを受け入れる世界

ミュージシャンのロマン優光さんは、大森靖子ちゃんのこの出来事に関して、連載で意見を書いている。

bucchinews.com

 

端から見ていると、彼女にとって世界は「大森靖子」であるか、そうでないかで成り立っているようにも見える。音楽も大好きなアイドルも友人もZOCのメンバーも「大森靖子」なのだろう。それを奪おうとするものに対して過敏に反応し戦おうとするし、「大森靖子」だと思っていた人がそうではなかったと感じてしまうと、過剰に攻撃的な対応をしてしまう。「大森靖子」であるため「大森靖子」を守るために彼女は常に世界と戦い続けているかのようであり、それは単に表現の場でということではなく生きること自体をそう捉えているように見える。それゆえ、彼女の世界に存在できるのは「大森靖子」であって、他者は存在できない世界なのではないかのように感じるのだ。今回の炎上の原因になった巫まろに対する怒りにしても、別に若い女の子の容姿に嫉妬したとかいうくだらない話ではなく、愛しているメンバーが「大森靖子」の思想をわかってくれていないと感じたことから起こってしまった出来事なのだと思う。

 

ロマンさんは「大森靖子」と表現している箇所は、わたしも同意できる。大森靖子ちゃん自身が、納得できる物、良いと思える物は全力で受け入れて、そう思えない物は過剰の排除する。極端にも見える行動や発信をしているときがある。 自分が納得できない物、受け入れられない物を過剰に排除するという傾向は、彼女自身が受け入れてもらえない側だったからかもしれないとわたしは思っている。排除された側だからこそ、彼女を否定する人が怖いのではないだろうか。

 

最果タヒさんとの共著「かけがえのないマグマ 大森靖子激白」には彼女が高校時代まで過ごした愛媛での出来事が書かれている。そこでは、他の女の子が理解できなかった事、女の子たちに馴染めずいた事が書かれている。

www.cinra.net

 

 

でもさ、「好きな人いる?」とかそんな話、私じゃ思いつかない。「好きな人できないといけないんだよ」なんて言われたら、私は、あ、かわいいな、って思っちゃう。同じにはどうしてもなれなくて、だから私はカバンをあさった。家でなにしてるのって聞いてみたり、トイレ覗いて、何度か先生に叱られた。夢中になったのはほとんどが、女の子。弟や近所の男の子と遊んでばかりいたから、私には女の子が自分とまったく違う生き物に見えていた。

 

私がめっちゃくちゃ好きになった女の子はユリリンっていうあだ名。道重さゆみちゃんみたいにかわいい顔で、「お父さんにムカついたから玄関の木彫りの熊投げてきた」とか言う(中略)当然、昼休みは一緒にお弁当食べてたし、これからもずっとずっと一緒に食べたかったし、ずっとずっとずーーーっと友達でいようね!ってかんじだったけど、ユリリン熊投げるぐらいだし、まあ自己中で、気性荒くて気分屋で、外見がいい子だったのもあって他の子も「ユリリン!」って声かけるし、ギスギスするようになってカップルの修羅場みたいな喧嘩を何度もした。そのうちお昼も一緒に食べなくなったし、ああじゃあ私はトイレでいいや、とにかくユリリンが違う人と食べているところも見たくないしもうトイレで、いいやっていう気分になった。

 

他の女の子が告げ口みたいに、「大森とは仲良くするな」って転校生に言っている。金髪だし、ボコボコだし、絶対援交してるし、みたいなかんじで一気に誤解がすり込まれていく。

学生時代に、集団に上手く馴染めなかった--これは大森靖子ちゃんの表現にも生きていて、だからこそ、弱い人、生きづらい人の気持ちがくみ取れるのだと思う。しかし、ZOC活動は、その経験が悪いように生かされているようにわたしからは見えてしまう。学生時代、集団に馴染めなかったという負の経験を、アイドルグループを作り、尚且つ、自分もその中の一員になる事で、自分が中心でいられる理想の女の子集団を作ろうとしているように見えてしまう。意図していないのかもしれないけれど、「大森靖子」ではない物を拒絶しながらグループを運営しようとする彼女は、以前、彼女を拒絶した周囲と同じ方法で、彼女の理想を作り上げる方に向かってしまっている。排除された側だった彼女が、繰り返してしまっている事実が悲しい。 

「かけがえのないマグマ 大森靖子激白」では、高校生だった大森靖子ちゃんが、銀杏BOYSのボーカル峯田和伸さんとメールのやり取りをしたエピソードがある。峯田さんが、ライブ中に発した自身のメールアドレス宛てに、大森靖子ちゃんがメールを送る。毎日、日課のようにメール送り続け、あるとき峯田さんから返事がくる。

「僕は今青森でライブが終わってメガ君とりんごジュースを飲んでいるところです。そのままでいてね。」

そのままでいてね。それは峯田さんだけでなくて、大森靖子ちゃんのファンの多くが思っている事なのではないだろうか。過剰に溢れる感情と、感情をろ過してできる彼女の音楽。彼女は過剰で、コンプレックスだらけで、女の子なのに、女の子の事が分からず、馴染めず、世界に溶け込む事ができなかった。そこで、溢れた感情が音楽になった。そんな表現できるのは大森靖子しかいない。峯田さんではなくても、そのままでいてほしいと願う。

 

大森靖子ちゃんがそのままでいるために

ひとりのファンとしてわたしが大森靖子ちゃんに希望するのは、ZOCのプロデュースをやめて欲しいということだ。溢れかえる感情を出して叩き付けて歌詞を書き歌う行為と、プロデュ-サーとして、グループを俯瞰してみながら、メンバー達が活躍できる場と方向性をつくっていく行為は、あまりにかけ離れている。歌を作る方法と同じやり方で、グループを運営していったら、他のメンバーの個性や気持ちを殺してしまう。 

プロデュースとは制作、産出などを意味する。だけど、プロデュースする側が、自分の理想を叶えるだけの場を生産する行動に、他者が付いて行けるだろうか。同じような諍いがまた起こってしまうような気がわたしはしている。

かといって、大森靖子ちゃんが変わって、溢れる大森靖子個人の感情をZOCのプロデュースの際には押さえ、メンバー一人ひとりの気持ちを考慮して、うまく立ち回って、一人ひとりの個性をみながら、良いグループしてしまうというのは……ZOCにとっては素晴らしい事だけど、大森靖子ちゃんらしくないような気がわたしはしている。できたら、わたしは大森靖子ちゃんに、そのままでいてほしいんだ。   

 

DaiGoのようなエリートだからこそホームレスを差別してしまうのではないか

とても残念は事だけど、ホームレスを差別する人は存在する。「悪い奴を退治した」といいながら路上生活者に暴行をする人もいる。以前のブログにも、ホームレスの暴行するニュースを見ると憂鬱な気持ちになると書いた。

mochi-mochi.hateblo.jp

先日、インターネット等での発信を続けるDaiGoさんが、ホームレスに対して、差別的な発言をして話題になっていた。

「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。どちらかというと、みんな思わない?どちらかというといない方がよくないホームレスって?言っちゃ悪いけど、本当に言っちゃ悪いこといいますけど、いない方がよくない?」

 

www.buzzfeed.com

news.yahoo.co.jp

彼がどういった意図をもってこの発言をしたのかは分からない。ただ、どういった意図があったとしても、こういった考えを公にしてしまったのは愚かな行為だ。

わたしは以前、ホームレスの炊き出しのボランティアを行っていた。炊き出しに来る路上生活者の中には、会社を経営していたと話す人もいた。昔、一緒に暮らしていた妻子の話をする人もいた。彼らは排除していい対象ではない。わたしたちと同じ人間だ。そんな当たり前の倫理感すら身につけない、他者の立場や、気持ちや、もし自分がされたらという想定を想像できない人を、乱暴な言い方だけど”馬鹿な人”だと思う。

学業や仕事で成果をあげ、立派に見える成果物があっても“馬鹿な人”はいる。今回、自身のSNSでホームレスを罵って炎上したDaiGoさんも、偏差値の高い大学をでているけれど、わたしから見るととても“馬鹿な人”に見える。高い教育を受け、教養を深める事に多くの時間を使ったであろう人がなぜこんな事を言うのだろうか。

特定の人間を「いないほうがいい」と言ってしまう愚かさに、馬鹿馬鹿しさだけでなく、恐ろしさをも抱いた。こんな意見を公にしていいと思わせてしまうのは恐ろしい。いないほうがいい人と決めつけられた人は消えろというのか。

 

◆能力や立場による差別は許されていいのだろうか

「ホームレスはいない方がいい」。ここまで明確な言葉で、特定の人たちを差別し、侮蔑する人は、めったにいない。だからこそ、こうやって話題になったのだけれど、DaiGoさんと同じような考え--つまり、その人の能力や立場を見て、いらない物や取るにならない物と見なす人は居るように感じる。

以前、ある人がSNSで、「ちゃんとしていると見られたいから学歴を公表している」と言っていた。その人の卒業大学は確かに、偏差値の高く、一般的に難関大学と言われる学校だったけれど、「難関大学卒=ちゃんとしている」と言う認識に違和感が残った。難関大学を出ていないとちゃんとできないのだろうか? 最終学歴が中学卒業や高校卒業の人はちゃんとしていない人なのか? 

ジェンダーや国籍、人種といった生まれ持った特徴を差別する事は駄目な事という認識が広まりつつある。まだまだ発展途上ではあるけれど、そういった差別に対しての声は上げやすくなった。しかし、一方で、違う差別が広がっている。それは、能力や立場に対する差別だ。その人の学歴や仕事、収入と言った能力による差別は許されないばかりか広がりつつある。

マイケル・サンデル氏の著書「実力も運のうち 能力主義は正義か?」では、学歴や能力に偏重しつつある現代を批判している書籍だ。

 

学歴や能力を理由に差別をする人は、他の差別にも鈍感で、周りからの評価が低い人か?違う。それどころか、むしろ、先進的で、ジェンダーや国籍に対してはリベラルな考えを持っている人だ。教養があるように見える人が無意識に差別を行う。

たとえば、バラク・オバマヒラリー・クリントンといったリベラルな政治家。「実力も運のうち 能力主義は正義か?」には、バラク・オバマが、才能と努力の許す限る人々は成功し出世できるとうたったと、書かれている。

「高等教育に関して言えば」と、オバマホワイトハウスで開かれた教育者の集会で語った。最終的に重要なのは「聡明で意欲ある若者が……彼らの才能、労働倫理、夢が許すかぎり前進できる機会を必ず手にできるようにすることです」。オバマは、大学教育を社会的地位向上の主要な手段と見なしていた。「目下のところ、国として平等な結果を約束するわけにはいきません。しかし、われわれは、すべての人が成功への平等な機会を手にするべきだという理念を基に国を築きました。誰であろうと、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、成功できるのです。それがアメリカの根本的な約束なのです。出発点によって終着点が決まってはなりません。したがって、誰もが大学進学を望んでいることをうれしく思います」

また別の機会には、オバマは妻のミシェルを引き合いに出した。ミシェルは労働者階級の家庭で育ったが、プリンストン大学とハーバードロースクールで学び、世に出ることができた。「ミシェルと彼女の兄は信じられないほど素晴らしい教育を受け、夢の許すかぎり前へ進めたのです」。このことがオバマのこんな信念の土台になった。「アメリカを卓越した国にするもの、きわめて特別な国にするものは、こうした基本契約、こうした考え方です。つまり、この国では、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、名字が何であろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力をすれば、自らの責任を引き受ければ、成功できるのです。前へ進めるのです」

バラク・オバマの主張は、一方で、出世しない・できない人は、才能や努力が足りないからだとも受け取る事ができる。成功できない人は、懸命な努力を怠り、自らの責任を引き受けていないのだろうか。そんな中、出現し支持を得たのがドナルド・トランプだった。

絶えず「機会」について語ったバラク・オバマヒラリー・クリントンとは異なり、トランプはその言葉をほとんど口にしなかった。代わりに、勝ち組と負け組について無遠慮に語ったのだ(中略)エリートたちは、栄達へ至る道としても社会的敬意の土台としても、大学の学位に大きな価値を置いてきたため、能力主義が生み出すおごりや、大学に行ってない人に下す厳しい評価を理解するのが難しい。こうした態度こそ、ポピュリスト的反発とトランプ勝利の核心にあるものだ。

しかし、なぜ、バラク・オバマのような知見のある人がこういった差別の裏返しとも受け取られるような発言をしていたのか。そこには、学歴や仕事の成果はその人の努力で得た功績、という認識があったからだろう。本人が、努力し、頑張ったのだから、成功を評価するのは当たり前で、成功しなかった人は、本人の行動が足りなかったーーそういった「自己責任論」は普遍的に言われている。しかし、成功できない事はその人だけの責任なのだろうか。

 

◆成功できない人は努力不足なのか

学歴は本人の努力の結果ではない。家庭や周囲の環境、大人によって左右される。その事実を調査し、述べているのが松岡 亮二さんの著書「教育格差」だ。

「生まれ」によって学力や大学進学期待など長期間の経験蓄積に基づく格差があるという「現状」(第2~5章)と向き合わずに実践されたこれらの実践・制作・制度変更によって影響を受けてきた児童・生徒たちの中で、自身の可能性が失われたこと--血が流れたことに自覚的である人は皆無に近いのではないのだろうか。

 巻末の7章目でこのように考察を語る筆者は、数々の調査を通じ、生まれや環境によって、そこにいる子供たちの学力に偏りがでることを説明していく。本書の中ではSES(socioeconomic status=社会的地位)という表現を用いて解説していく。SESとは、経済的、文化的、社会的要素を統合した地位を意味する。世帯収入、親学歴・文化的所有物と行動、職業的地位を指標化して1つの連続変数とすることが多いようだ。SESの高い家庭に生まれた子供が高学歴になりやすく、逆にSESの低い家庭に生まれた子供で高等教育を受ける割合は少ない。さらに、SESの平均が高い・低いというのが地域ごとにあり、SESの平均値が高い地域の学校は公立であっても、教師が熱心に教育するようになり、逆に低い地域は教師の仕事への貢献も低くなる。

もちろん、バラク・オバマの妻、ミッシェルのように、貧しい家庭から高い教育を受ける人もいるだろう。しかし、「教育格差」の中ではこう語られている。

「どんな家庭環境でも結局は本人次第で成功できる」という例を意図的に探すことは、他の大多数を無視すれば難しくない。同じSESが下位25%で学力が上位25%に入らなかった26万5000人に触れずに高学力となった3.5万人だけに焦点を合わせれば、日本はどんな家庭に生まれても高学力になる機会のある国と解釈できるのだ。(中略)SESが下位16%というのはだいたい「子供の貧困」の層と合致すると思われる。このうち学力偏差値60以上の生徒は100人のうち6人でる。一方こSES偏差値が60以上の層からは100人のうち28人が偏差値60以上だ。

生まれや環境によるハンデを超えて成功する人がゼロではない。しかし、それは、恵まれた生まれの人よりもずっとずっと低い。それを無視し、「成功できないのは自己責任」と言ってしまっていいのだろうか。

  

◆高学歴だから手放してしまうもの

aiGoさんは、慶応大学を卒業し、仕事の実勢も多々あるように見受ける。華々しい経歴があり、エリートと言えるような人だ。わたしは最初に、なぜ、勉強もでき、仕事できる人がこんなにも馬鹿な事を言ってしまったのだろうかと言ったけれど、エリートだからこそ、成功できない人が理解できないのではないかとも思う。

「実力も運のうち 能力主義は正義か?」の中には、能力主義が生み出すおごりや、大学に行ってない人に下す厳しい評価をエリートは気がつかないとある。持っている人は持っていない人の気持ちを気がつかない。

わたしの話になるが、家族で大学に行ったのは私だけだ。他の兄弟は行っていないけれど、彼がわたしよりも人間的に劣っているというのは違うと言える。ただ、それに気が付く事ができるのは、わたしの身近に高い教育を受けていない人がいるからなのだろうか。もし、身近にいなかったとしたら、いくらでも卑下して良い対象になってしまうのだろうか。

高い教育を受けなかったから、収入のよい仕事に就かなかったから、生活が苦しくなるのが当たり前。不幸になるのは自己責任--その主張はあまりに酷ではないか。正常な倫理観を失ってしまうような高等教育に意味があるように思えない。