オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

堀江もちこ 過去のメディア掲載一覧

過去の実績がまとまっていた方が分かりやすいかと思い、メディア関連の活動をまとめておきます。

◆堀江もちこ プロフィール

アダルトビデオ、アダルトグッズの営業。広告ライター、AVメーカー広報職を経て、株式会社トータル・メディア・エージェンシーに営業職として勤務。会社員と並行して、ライターとしても活動する。

プロフィール用に撮影してもらった写真です。

 

◆著作

「オナホ売りOLの日常」という本を菅原県さんとの共著で出版しています。

◎台湾翻訳版

「オナホ売りOLの日常」は翻訳されて台湾でも販売されています。

www.books.com.tw

◆インタビュー

ウートピさんにインタビューしていただきました。著作「オナホ売りOLの日常」やアダルトグッズ営業の仕事について話しています。

wotopi.jp

 

◆執筆記事

文春オンラインさんで記事を執筆しました。アダルトグッズやショップに関する記事です。

bunshun.jp

bunshun.jp

 

元AV女優あべみかこさんにインタビューしました。

bunshun.jp

Youtube出演

作家、家田荘子さんのYouTubeに出演しました。アダルトグッズ紹介をさせていただきました。


www.youtube.com

 

 

そのほか、日刊ゲンダイさんや、サンスポさん等紙媒体にもインタビューしてもらいました。出演依頼などの問い合わせは、所属会社(株式会社トータル・メディア・エージェンシー)のお問合せページに送ってください。

下館スチーム

2025年の太宰治賞に応募し、一次選考を通過した作品です。

 

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

 

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 すち~むと書かれた看板を見て、中国で四大ボイラーと呼ばれる極暑地帯を連想した。武漢、重慶、南京、あとひとつはどこだっただろう。車内で流れるラジオは、今日の東京の最高気温が三十五度に届くと伝えた。
――続いては週間天気
 この場所を風呂を修理する会社だと思っていた。ボイラーを連想したのもそのためだ。スチームが蒸気を指すことは知っていて、だから風呂の会社だと納得していた。大人の誰かに、言われた嘘だ。
 下館スチームが、風俗店だと知ったのは一週間前だ。ボイラー修理の会社という認識を訂正しないまま、この場所を離れ、思い出すこともなかった。仕事用のリュックの中から取り出した資料には、下館スチームの文字が見える。
 ここが風俗店だと知ったとき、幼少期には見えなかった世界が見えた気がした。すち~むは風呂に繋がる。風呂はボイラー、ではなくソープランドに繋がった。連想ゲームのゴールに、大人になるまで気が付かなかっただけだ。
――時刻は十一時をお伝えします。
 広げた資料には、今日の取材の確認事項が書かれている。店長へのインタビュー、店舗のオススメポイント、価格帯、在籍人数、嬢への取材(チャームポイント、得意なプレー)。
 自分の文字を見ながら、今日行うであろう取りを想像する。まず店長と話しをして、その後、女の子のインタビュー、男女関係なく接してくれる女の子だとありがたい。
 氷の溶けかけたアイスコーヒーを飲みほして、資料を鞄入れ、車のエンジンを切った。外に出た途端、熱風が私の身体に絡みつく。熱くボイラーを炊いた風呂みたいだ。
 店の扉を開けると、黒いシャツを来た小柄な男性がこちらに歩いてきた。笑う目元には、細かな皺が見える。口元はマスクで見えないが、五十歳を過ぎたぐらいの年齢だろうか。若くはないが、高齢者と言えるほどでもない。
「暑い中ありがとうございます。メールをお送りした笹川です」
 暑い中と言いながらも、笹川さんの顔に汗は見えない。空調設備が部屋の隅々まで冷やし、三十五度の外気を遮断する。外から来る人間が、身体を冷やすための適温に整えられていた。笹川さんは、中に入るよう促す。
「この頃は、本当に暑いですね」
「ええ、今日は特に」
「ライターさんって言うから、男性かなと思っていたんですけど、女性の方だったので驚きましたよ」
「よく言われます」
「あ、こっちがね、取材をお受けする部屋です。普段は、待合室なんですけど、いつも面接やら、なんやらに使っているんですよ。場所もなくてね」
 一方的に喋りならが、私を部屋に通す。客が待機するために普段は使われている部屋には、布地のソファとそれに合わせたテーブルが置いてあった。わたしは促されるままソファに座る。
「こう暑いと、マスクも取った方がいいかなって思うんですけど、この辺りは年配の人多いでしょ。おじいちゃんとか、気にする人いるんですよ。最近はマイコプラズマが流行っているとか言ってね」
「ああ、なるほど」
 わたしは鞄を探り、予備の使い捨てマスクを取り出し、装着した。笹川さんはそれを見て「すいませんね」と頭を下げる。毛髪の間から頭皮の地肌が見えた。
「そもそも病気が怖いなら、風俗くるなってことですよね。矛盾しているんですよね。あ、飲み物コーヒーでいいですか?」
「あ、はい、ありがとうございます」
「じゃあ、ちょっと取ってきますね」
 ひとり取り残された私は部屋を見渡す。待合室と言っても、入り口をカーテンで仕切っただけだ。笹川さんの足音がハッキリと聞こえる。
 私はマスクを外し、顔に付いた汗をハンカチで拭う。外で感じた暑さと湿度が、まだ身体の中に残っている。汗を拭い乾いた肌の上に、再び不織布マスクを被せた。
 こんな日にマスクをするなんて可笑しいと、私はあの時も思っていた。十年前の夏の最中、アダルトビデオ女優を呼んだ大規模な展示会だった。
 海沿いのイベント会場を貸し切った催しで、会場にはメーカーのブースが立ち並び、AV女優たちが見世物のように配置されている。客の大半はAV女優のファンたちで、大勢の男が、水着や下着の女の子に群がっていた。
 そのとき、私は、雑誌の取材で、会場を歩いていた。目的の取材も終わり、他に記事になりそうなブースは無いか見ていたとき、水着姿のAV女優の隣に立つ、黒のパンツスーツの女性が目に入った。
 彼女の口元は、白いマスクが覆っている。風邪でもひいているのだろうと思い気にしないでいると、彼女に話かける別の女性の口元も不織布マスクで口元で覆われていた。
 AV女優以外の女は皆、一様に黒いスーツを着込み、白いマスクを装着していた。新型感染症などという言葉が無かった時代、白いマスクで口元を覆う一団は異様だった。
――わたしは売り物ではありません。
 マスク越しに言っているように、映った。AV女優と同じ性で、違う役割を与えられた女たち。性行為をすることはない。それではない役割が彼女らにはあった。
「すいませんね、お待たせしちゃって」
 ぼんやりしていると、笹川さんが待合室に戻ってきた。手には二本の缶コーヒーが握られている。私達を隔てるローテーブルにその一本を置く。
「冷蔵庫に入れたばっかりで、まだ冷えてないけど、よかったら、飲んで下さい」
「ありがとうございます」 
 缶を開けた後、マスクを下げ一口啜った。冷房の効きすぎたこの部屋で、常温のコーヒーは丁度良かった。温く苦い液体が、口内に広がった。
「お店のことを、伺ってよろしいでしょうか?」
 店のオススメポイント、価格帯、在籍人数、ここに来る前に書いた走り書き通りに確認し、必要な事項を埋めていく。来る予定だった在籍の風俗嬢が来なかった意外は、予定通りだ。
「女の子のインタビューだけ、後日お送りください。最後に、店内の写真を撮って終了しますね」
 喋り終えたあと缶を持つと、予想外に軽い。コーヒーが残っていないことが、持っただけ分かった。仕方なく空の缶をテーブルに戻す。
 手首に目を向け時計を盗み見ると、ここに来てから四十分以上が経っていた。笹川さんは饒舌で、店の様子を詳しく喋ってくれた。このまま、風俗嬢のインタビューがもらえなかったとしても、形にはなるだろう。
「東京からだと遠かったでしょう。わざわざありがとうございます」
「いえ、実家が近所で、帰省のついでに丁度よかったです」
「えー! 藤田さん、この辺り出身なの?」
 身を乗り出して私を見る。人口十万人にやっと届く地方の小さな市だ。驚くのも理解ができる。東京に住んでいて、この街出身の人間に会ったことはない。そのぐらい小さく不便な場所だ。
「私は市内の外れで、ここからは遠いんですけど」
「ああ、そう、実家にはよく帰ってくるの?」 
「実家がリフォームする都合で、今は定期的に掃除に帰ってるんです。面倒ですけどね」
「定期的にどれくらい?」
「だいたい週一ぐらいですかね。だから、東京からの運転もだいぶ慣れちゃいました。まだ片付かなくて、しばらくは通わないといけなそうです」
 私が苦笑いを浮かべていても、笹川さんは笑いもせず、じっと私を見ていた。個人的なことを喋りすぎたかもしれない。興味を持ってくれたことが嬉しくて、話しすぎた。
「いや、ね、こんな話をするのはアレかもしれないけど、ひとつ、相談していいかな?」 
 話題の終わらせ方を考えていた私は、笹川さんの言葉に思わず「はあ?」と奇妙な声を上げていた。
「人が足りないんですよ、この店」
「人、ですか?」
 自分の想定よりも高い、落ち着きのない音が、自分の喉から出てくるのが分かった。笹川さんはそれに気にする様子もなく、話を続ける。
「先月、受付と事務やっていたバイトが辞めちゃって。新しい人探しているんだけど、この人手不足でしょ、なかなか見つからないんだよ」
 口元が隠れ、笹川さんの表情は読み取れない。その声色と口調から、疲弊していることだけは伝わってきた。言葉の最後、ため息のような諦めの息が漏れるのがマスク越しにも分かった。
「帰省するときだけいいから、やってくれない? もちろんバイト代は多めに出しますから」
「私、ですか? 無理ですよ」
「無理を言ってるのは分かるけど、本当にお願い。本当に休めてないんですよ」
 笹川さんはため息を吐くように言った。疲労感は声と下を向く視線から伝わってくる。俯く頭に薄らと頭皮の色が見える。若いとは言えない年齢で、休みなく働くのは身体に堪えるだろう。
「それに、私、女ですから」
 風俗の類いは随分見てきた。ソープランド、ピンサロ、セクシーキャバクラ……数十店舗、もしかしたら百店舗近く行ったかもしれない。だが、それも全て取材者としてだ。店員としては勿論、客としての視点も持ち合わせていない。
「いや、それはそうなんですけどね、本当にいないのよー。今、二週間休めてない」
 目の下の黒ずんだ肌が見えた。休んでいないと言う言葉に嘘はないだろう。黙っている私に、笹川さんは早口で続ける。
「藤田さんは、媒体のライターさんだし、この手の店もよく行くでしょう。こんな店、それで十分だよ。客の案内すればいいだけだから、ね。オーナーは休み無く営業しろって言うし、困っているの、いいよね? 次の人、見つかるまででいいから」
 私は苦笑いしたまま黙った。私が困惑している事を伝えたかったが、笹川さんは私の表情など気にすることない。止まらずに話を続ける。
「時給もできるだけ多くする。日払いとか、週払いとかも応じるし、お金の問題なら融通効かせるから」
 近頃、雑誌の仕事は少ない。知人の紹介で、AV撮影の雑用を引き受け、収入の補填をしている。他の収入源を探さなくてはいけないと、思ってはいたところだ。
「ちなみに、いくらですか?」
 笹川さんの言った金額は、撮影現場の給料よりは幾ばくか高額だった。押し出すような声で、私は「たまにだったら」と言うと、笹川さんは、飛び上がるような勢いで喜んでいた。

 初めて出勤する日は、七月半ばの蒸した曇りの日だった。駐車場に止めた車の中で、私は白い不織布のマスクを装着した。窓を見ると、雨粒が車体を濡らしている。
 笹川さんが伝えてくれた業務は、私が考えていた通りだった。掃除、受付、接客……驚くような業務は無い。風俗店ゆえの歪さは、業務内容の中には見当たらない。
 その中でも一番時間を割くのは、待機だった。受付窓の後ろ、畳六畳ほどのスペースで客を待つ。客が来たら待合に通して、風俗嬢を呼ぶ。風俗嬢の控え室は私の居る受付のすぐ隣で、彼女たちは、私のいるこの場所を通って、客の元に行くらしい。
「客もそんなに来ないから大丈夫。もし、困ったら、電話して」
 笹川さんはそう早口に私に伝えると、そのまま出口の方に向かっていった。帰ろうとする笹川さんを慌てて、受付窓から呼び止める。
「もう帰るんですか?」
「十二時になったら出勤の女の子くるからよろしくね。女の子には新しい人入るって伝えてあるから」
 バタンと扉の閉まる大きな音が店内に響き、私はひとりになった。受付の中でだらしなく流れるラジオは十一時五十分だと言っている。
「おつかれさまですー」
 笹川さんが出ていってから十分ほどで、女の子と呼ばれた彼女は来た。気の抜けた眠たそうな声だ。受付窓の中からのぞき込むと、小柄なショートボブの女性が見えた。
「お疲れ様です」
 目が合って、咄嗟に挨拶を返す。彼女は欠伸をした後、重たそうな瞼を無理やり開け、こちらを見た。猫のような目が私を捉える。二十代半ば? もっと若いかもしれない。
「新人さん? 今日シフトにいた?」
「あの、わたし、今日から受け付けのバイトで」
「あー、笹川さんの言っていた人。へー女の子だったんだ」
 低く、抑揚のない声だった。今にも転がって眠りたいとでも思っていそうだ。彼女は受付の横にある扉を開け、私のいる受付の内側に入る。
「藤田と言います、よろしくお願いします」
「レナです、よろしくお願いします」
 それだけ言うと彼女は、自らの待機場所である控え室のほうへ消えていった。ロッカーの開く音、鞄がロッカーに当たる音、着替えの音がラジオに混じって聞こえる。
 黒のベビードールに着替えたレナは、スリッパを引きずりノロノロとこちら側へ出てきた。手には緑色の煙草の箱を持っている。
「灰皿ありません?」
「灰皿? あ、これですか?」
 手元に赤い陶器の小皿を手に取る。短くなった吸い殻が三つ横たわっていた。私は立ち上がり、レナと名乗った女の子に向けて、その赤い小皿を差し出した。
「笹川、いつも使いぱなしだよねー」
 プールサイドにでもありそうな長い椅子がある。レナは私の手から灰皿を受け取ると、自分の控え室には戻らず、プラスティック製の座面に灰皿を置いた。自身もそこに腰を下ろした。
「あ、煙草、吸って大丈夫ですか?」
 息を吐き出してから、レナは私に聞いた。もうすでに吸っているのに。あまりに取ってつけたような言い方で、私は笑いそうになった。笑わないままで「大丈夫ですよ」と答える。
「全然、吸ってください」
「よかった。今、嫌いな人多いから困りますよねー」
 ショートカットの黒い髪に、小さく丸い顔、高校生と言っても納得できそうだった。吐き出した煙は、彼女の真上にある換気扇に吸い込まれ消えていく。
「アイコスは煙でないからいいって、みんな言うんですよ。でも電子煙草って吸った気しないですよねー」
 唇の隙間から、紫色と灰色の混ざり合った煙が、細く漏れ、上に登り換気扇の歯車に巻き込まれ消えていく。その姿が綺麗だった。
「藤田さんは、」
「はい」
 名前を呼ばれ咄嗟に返事する。レナは、薄い唇の隙間からフフと声を漏らし笑う。
「煙草、吸わなそうですね」 
「昔は吸ってましたけど、高いから辞めました」
「あー、たしかにねー」
 唇の間から、また細い煙を吐く。ため息のように吐かれた灰色の空気は、上に向かって登っていく。換気扇の歯車は規則的に周り、煙を取り込んでいった。
「銘柄、吸ってたんですか?」
「赤い奴、たぶんラークかマルボロだと思います」
 レナはまた、フフと笑った。白い貝殻が並んだような歯列の間から、灰色の空気が漏れる。一瞬見えた歯茎は鮮やかな赤色だった。煙草なんか吸ってなさそうな綺麗な口元だ。汚い物を全てを塗りつぶす若さがあった。
「マルボロは面倒くさいおじさんが吸ってて、ラークは渋いおじさんが吸ってそう」
「どっちもおじさんなんですね」
 レナと一緒に私も笑った。馬鹿にされていたけれど、嫌な気はしなかった。レナは二、三回瞬きをした。長い睫が揺れて、色素の薄い茶色い眸を隠す。
「赤いマルボロはパパが吸っていた」 
「お父さん?」
「うん」
 レナは頷いて、灰色の煙を吐き出した。華奢な煙はゆらゆらと彼女の周りを漂う。緑色の煙草の箱が、彼女の隣に転がっていた。
「お父さんと仲良かったんですね」
「仲良くない、離婚したんだから」
 レナは灰皿を見たまま息を吐いた。私は小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。少しの沈黙の後、レナは煙草の灰を灰皿に落とし、私に言った。
「藤田さんは、どうしてこの仕事始めたんですか?」
「えっと、取材に来たときに笹川さんに頼まれて」
「取材?」
「風俗雑誌のライターで」
「へー」
 レナは興味なさそうに、煙草を灰皿に押し当てていた。横に転がっていた煙草の箱を手に取り、二本目を押し出している。細い、白い指の間にそれは挟まる。
「レナちゃんは、どうして……」
 言いかけたところで止めた。これは取材ではない。風俗雑誌で在籍嬢が答えるような、読み手の男を喜ばせ、安心させ、傲慢にさせる返答は返ってこない。
「なんでだろー、なんとなく」
 レナは立ち上がると、部屋の隅にある冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り出し、私の前に置いた。それは、私が取材の時に飲んだ銘柄だった。
「飲む?」
「勝手に飲んでいいんですか?」
「いいよ、どうせバレないし」
 パカっと缶の開く音がラジオの合間から聞こえた。レナが缶を開けて呑み込むのを見て、私も同じ事をした。初めて来たときよりも冷たかった。
「なんでだろうね、本当に。どうせ働くなら単価の高い店のが良いはずなのに」
 入り口の扉の開く音がした。私は咄嗟に「いらっしゃいませ」と声を張り上げる。振り返ると、レナは受付の裏側から居なくなっていた。奥からファスナーを開ける音とガチャガチャと何かを取り出す音が聞こえる。化粧を直しているみたいだった。

 初出勤は問題も無く終わり、笹川さんに電話することもなかった。夜中、合鍵で家に入り、音を立てないよう歩く。リビングに着くと、ソファに深く座った母親がこちらを見た。父はもう眠った後のようだ。
「遅いよ。なんで、こんなに遅いの?」
「ごめん、取材が遅くまでかかっちゃって。先に寝ててよかったのに」
 帰りが遅く胸は連絡していた。それでも、母は、起きていて、私に喋らなくてはいられない。着けっぱなしのテレビから、笑い声が聞こえた。段になったセットにお笑い芸人たちが座り、何かのテーマで話している。
「朝帰ってくればよかったじゃない」
「明日しか予定空かないからさ。日帰りだと片付けの時間とれないから」
「明後日、休めないの?」
「明後日は仕事が入っている」
「そんな無理して働いて」
 母はソファから体を起こし立ち上がる。そのまま台所に歩いてく。私はダイニングの椅子に座り、付けっぱなしのテレビを視界に入れた。
「夕飯、素麺だけど食べる?」
 空腹で、何かを呑み込みたい気持ちになっていた。
「ありがとう、食べる」
 火を灯す瞬間のカカカカカという音が聞こえた。 水を注いだ鍋を、ガスコンロにかけているようだ。私に背中を向けたまま、母は台所に立っている。
「この前ね、業者の人と、間取りのこと話したの。新しい家の。それでね、お二階どうしようかなって思って。ほら、今、綾と美沙の部屋、物置みたいじゃない。どうするかって話になったのよ。あんたがね、もし、ここに戻ってくる予定あるなら、二階全部、あんたの部屋にしてもいいかなって思うのよ」
「二階全部?」
「そう、美沙に聞いたらね、もう自分の部屋はいらないって言うから。あの子も東京行ったきり、帰ってこないでしょ。それで、お姉ちゃん好きに使って良いよ、とか言うのよ。あ、あんた、そうめんに、ネギとミョウガも入れるよね? 切るね」
 テレビの中で、お笑い芸人が自分の子供の話をしている。私はそれを見ながら、うんとか、ああとか言う。母は喋りだすと止まらない。私の返事を聞いているか、聞いていないかも分からない。
「それでね、あんたが、もし戻ってくればって、思っているのよ。樋口アサミちゃん、覚えてる? 中三のとき同じクラスだった子、仲良かったでしょ、あの子もね、最近、実家に戻ってきたんだって。東京の仕事が大変だったみたいで、こっちで就職したって言っていたの。国道沿いの、小学校の近くの介護施設で働いてるんだって。あんたもさ、そんな、休みも取れないような仕事じゃ大変だから、こっちに戻って来た方がいいんじゃない」
 私はテレビの中の、お笑い芸人の話を聞いている。母の話が身体に入らぬよう、別の音で自分を埋めたい。
 私は母と会話をしない。うんとか、ああとか言うだけだ。何か言うと、言い返せないほど沢山の言葉が母から帰ってくる。父も私と同じで、会話をしていたのは妹だけだった。
「美沙も、ちゃんと、家に帰ればいいのに。荷物いらないから勝手に片付けちゃって、って言うの。その分、綾はちゃんとしているからいいわよね。ちゃんと人の言うこと聞くし、大人しいけれど、言われたことは真面目にやるからね。そこはね、昔からいいと思っていたのよ。ぼーっとしているけど、逆らったり、反抗したりしないで、ちゃんと私の言うこと聞くでしょ」
 キッチンタイマーのアラームがけたたましく響く。母はコンロの火を消したようだ。そうめんを笊に空ける音、水道水が素麺を冷やす音が順繰りに耳に入った。
「あんたと美沙、足して二で割ったら丁度いいのにねー。本当にそう。美沙の、あのワガママで自己主張が強い性格、少しはマシになればいいのに」
 ジャバジャバと音を立てて水道水が流れる。茹で上がった素麺が冷やされていく。母は冷えた素麺を、水を張った器に入れた。素麺の時以外出てこない、私の顔より大きな器だった。ダイニングテーブルにそれは置かれる。
「みょうがとネギとめんつゆ、持ってくるから」
 目の前のそうめんを見たとき、私は自分が手を洗ってないことに気が付いた。椀の中に水道水を固めた氷が揺れていた。
「ほら、早く食べなよ」
 母はミョウガとネギと、つゆの入った椀を置いた。
「ごめん、手、洗ってくる」
「えー、あんた、さっきまで何していたの、ぼーっとして」
 私は黙って洗面台に向かう。母がまだ何か言っているようだったけれど、私は聞かないようにした。いつの間にか面倒な言葉は身体に入れないようになった。母の声はまだ遠くに聞こえる。

 杉並区内にあるハウススタジオを、随分と近く感じた。私のアパートから徒歩と電車で四十分。片道二時間の運転に慣れた私にとって、電車に乗るだけで着く場所は負担が少なかった。
 朝、起きて、電車に、乗って、場所に向かう。それが楽に感じるようになったのは、下館スチームで働くようになったからだ。
「二日連続、現場はキツい」
 川村さんは、昨日も撮影だったようだ。撮影現場を作り込む手順を説明しながら、近頃、撮影が多いと不平を漏らしている。今日は都内だからまだ良かった、昨日は木更津だったと私に言う。
「女子高生の設定だから、いつも通りそれっぽくやって」
 川村さんが運んできたであろうキャリーバッグの中には、必要な備品が詰め込まれていた。参考書、ぬいぐるみ、洋服、鞄、アクセサリー……それぞれを取り出し、相応しい位置を考えていく。
 学習机の上には参考書を置き、熊のぬいぐるみはベッドの上に置く、カーテンレールにハンガーにはワンピースを引っかける、本棚にはマンガ本を配置する。ただのハウススタジオを女子高生の部屋にしていく。
 参考書を本棚に並べていると、隣のリビングに移動した川村さんが、作業の手を止め、話しかけてきた。
「来週の木曜空いてる? 大泉学泉のスタジオで義母モノの撮影があってさ。空いてたらまたADで入ってくれない?」
「ちょっと調べます」
 スマートフォンを取り出し、スケジュールアプリを起動させた。下館スチーム、と書かれた文字列が目に入る。私はそのまま、アプリを終了された。
「すいません。別の仕事入ってます」
「了解。取材?」
「いえ、違うバイト始めたんです?」
「へー、なにやってんの?」
 次の言葉を言うか悩み、黙って目線を下げた。川村さんの足下には、リビングで使うであろう調味料が転がっていた。女子高生がくつろぐリビングの部屋を作っている。
「頼まれて、風俗の受付やってるんですよ」
 なるべく軽く受け取られるように、笑いながら言った。予想通り、川村さんは目を開き、作業の手を完全に止め、身体ごとこちらに向きなおす。
「えー、なにそれ? 風俗嬢?」
「いや、風俗嬢じゃないんですよ。完全に受付。おっさんを案内する仕事です」
「ちょんの間の客引きババアみたいな?」
「まあ、そんな感じです」
 期待外れとでも言いたげな様子で、川村さんは元の作業に戻った。足下の調味料を手に取り、ダイニングテーブルの上に並べていく。
「でも、女の子で珍しいよね、そんな仕事。まあそもそも、エロライターもAVのADも珍しいけど」
 川村さんはこちらを見ずに言った。軽い感じの言い方だった。わたしも作り込みの続きをしながら、彼を見ないで返した。
「ホントですよね。エロの仕事ばっかりです」
 取材で知り合った縁で、川村さんの会社の雑用を任せてもらっている。単発のアルバイトのような気持ちで引き受けていたが、思ったよりも続いていた。
「川村さんは、なんでこの仕事やっているんですか?」
 女子高生の本棚を作りながら、私は聞いた。
「なんでだろ」
 川村さんはそのまま、少し手を止めた。
「最初デザイナーだったんだよね、一応、美大出てんだよ」
「すごいですね」
「そんな凄くないよ、武蔵美とか、多摩美とか有名なとこじゃないし」
 川村さんが言った大学名を私は知らなかった。それでも一応は「すごいですよ」と言うことにした。川村さんは作業をしながら、話を続けた。
「それで大学出て、最初は普通の会社に入ったんだけど、合わなくて辞めて、何ヶ月が無職していい加減、仕事しなきゃなーって、今の会社入ったの。エロビデオ屋なら裸見放題だしいいだろって」
「テキトーですね」
「そうだよー」
 川村さんは笑って言う。目の前の本棚は女子高生の本棚になりつつあった。キャリーバッグから学生鞄を引っ張り出して、本棚の横に転がす。この企画の少女は、少々ガサツで鞄を床に置きそうだ。
「それで、三年ぐらいやった頃に、デザインだけじゃなくて、現場もやるかって話になって、なんとなくプロデューサーやってる」
「へー、でも合っててよかったですね」
「合ってたのかな」
 床に置いたスクールバッグに数冊の本を入れる。中身がカメラに映ったとき、スカスカだと、現実味がない。川村さんの方を見ると、今度はテレビの周りを飾りつけていた。
「あれ? 今何時?」
「えっと、九時二十分です」
 慌てた様子で立ちあがる。
「入れ込み九時半だった。ちょっと迎え行ってくる。メイクさん来たら、メイクルームの案内、よろしくねー」
 早口に言うと、スタジオを出ていった。彼が居た場所には、小道具が散乱している。私は川村さんがやりかけていたリビングの作り込みを始めた。

 

 東京の最高気温は三十三度だと、流れているラジオが告げる。私のいるこの場所は、エアコンが室温を整え、暑さへの実感を持たせない。窓のない部屋は真空パックのように密閉されていた。
 突如空いた扉から熱気が舞い込む。三十三度の熱気とともに、中年の男が一人入ってくる。私を見るなり、歯を見せ笑った。黒ずんだ歯茎が見えた。
「なに? お姉ちゃん、新人? マスクなんかしちゃって顔、分かんないじゃん」
「いえ、私は新しく入った受付のバイトで」
 中年の男は、黒ずんだ歯茎をまた見せて「何だよ」と吐き捨て、短く刈り上げた頭を搔いた。
「ババアが受付かよー、やりにくいな」
 サービスを説明しようと喋り出すと、男が遮った。
「いいよ、いいよ、何回も来てるよ」
 怒鳴るような声が室内に響く。なんだ、この人は。不機嫌が表情に出そうになる。私は感情を抑え、笑顔を作る。
「もしかして、田所さん!」
 レナの声が、控え室とここを隔てるカーテンの内側から聞こえた。張り上げた声が耳に入ったとき、男の鼻の穴が膨らみ、中に生えた毛まで目に入った。
「レナちゃん?」
「そう! 声で分かった! しばらく来てなかったから心配してたの! すぐ行くからちょっと待ってて」
「しょうがねえな」
 前払い金を投げるように置き、田所は待合室に向かっていった。その少し後に、レナが控え室から出てくる。私を見て、小声で耳打ちする。
「あの人、ちょっと、変な人」
 レナは早足で客の方に向かった。「田所さん!」と呼ぶレナの甲高い声だけは、ここからでもハッキリと聞き取れる。ふたりの話声は徐々に小さくなり、何も聞こえなくなった。
「田所、向こう行った?」 
「あ、はい、多分」
 振り返ると、ベビードール姿のマリがいた。年はレナよりもやや上、この店の中では長い方だった。スリッパを引きずるようにこちら側に歩いてくる。
「アイツ、キモいよね。あ、海面ある?」
「海面? ああ、多分あったと思います」
 事務作業用のデスクを探り、三段目の引き出しの奥から、未開封の海面を見つける。手に取り、マリに見せると、彼女は私の手から受け取った。
「よかったー」
「入れられます?」
「人の入れたことないでしょ?」
「一応、あります。AVの現場でバイトしていたから」
 袋を開けていたマリは、一瞬こちらを見た後、すぐに海面の袋に視線を戻した。長い爪で器用に、袋を破っていく。
「そんなことやってたんだ、意外。私は自分で出来るからさ、客来ないか入り口見といてよ」
 マリは控え室に戻らず、長椅子に腰掛けていた。この場で膣に海面を入れるつもりようだ。仕方なく受付窓の外を眺めた。
 経血が滴る膣の中に、黄色い海面が入っていくはずだ。私がその様子を見ることができない。古びたラジオの音に意識を向け、海面を入れる音を聞かないようにした。
「藤田さんだっけ……AV、出てるの?」
 一言、一言を慎重に発している。その言い方があまりにぎこちなくて、声を出さずに笑った。表情を知られないよう、振り向かず、受付の先の扉を見たまま彼女の問いに答える。
「アシスタントディレクターです。雑用係みたいな仕事です。女優はやったことないです」
「なんだ、出てる訳じゃないんだ」
 マリはほっとしたように言った。AV出ているの? 男性は好奇を孕んだ声色で、女性は腫れ物に触るように、オロオロと、私に尋ねる。性を売る側のマリが、他の女性と一緒だったことが、私には面白かった。
「マリさんはずっとここですか?」
「ここ前は、水戸まで働きにでてたんだけど、遠くて、こっち来た」
 限られた場所しか知らないマリにとって、アダルトビデオも、そこに写る女も、画面の中だけの存在だ。ライターを付ける音がして、振り返ると、マリが足を放り出して煙草を吸っていた。開いた足の間から黒いレースの下着が見える。
「藤田さんはどうしてここに? 東京でAVやってたんでしょ」
 AVやってた。ガサツな言い方だと思いつつも、それが彼女らしくもあり、私は少し笑った後に「はい」と返した。マリは私の言葉を聞き、煙を吐き出した。
「こんなとこさ、なんで来たの?」
 こんなとこ、とマリは言った。それはここで働く彼女にも言えることだ。身体を売るにしたって、金を稼げるところも、未来が開けるところもある。だけど、私はそれを聞かない。
「ここに来た理由ですよね、うーん、取材に来たら、笹川さんに誘われて」
「なに? もしかして、ここでAV撮ったの?」
「違います、違います! 私、風俗雑誌のライターもしてて、それで、取材でこの店に来たんです。そのとき、働かないか誘われたんです」
 マリは「なーんだ」とだけ言って、煙草の煙を吐いた。口だけ無く、鼻の穴からも紫とグレーの混じった煙を吐き出した。爪の赤い人差し指が、煙草の先叩く。灰が粉々になって落ちていく。
「色々やってんのねー」
 吸いかけの煙草を灰皿の底に押しつけ、マリは立ち上がった。伸びをするように腕を上に伸ばした後、薄汚れたスリッパを引きずって、レナと同じように冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。
「飲みなよ」
 マリは、スリッパを引きずって、私の隣に来て、よく冷えた黒い缶コーヒーを置いた。それは取材の時に出された缶コーヒーの銘柄だった。
「飲んでいいんですか?」
「いいんじゃない、別に。誰も気がつかないよ」
 マリは長椅子の中央に腰を下ろし、足を組む。缶コーヒーが開く音がした。何度か喉の骨を動かした後、マリはまた、煙草に火を付けた。
「藤田さん、住んでんのも東京? わざわざ遠いでしょ?」
「住まいは東京ですけど、実家がこっちで、帰省のついでです」
「へえ、この辺の人」
「マリさんは?」
「私も、近くだよ」
 想定通りの答えを言って、紫色の息を吐き出した。
「良いところですよね」
「ここが? いいとこ?」
「いや、うーん。違いますね」
 良いところなどと思ったことは一度もない。思わないから出ていった。東京に出た私が、この場所を悪く言うことに気が引けたから言っただけだ。
「わたしは知らないけど、東京に住んだら、そう思うのかもね」
 マリの吐き出した息はため息のようだった。
「生まれてからずっとこっちですか?」
 マリは灰皿に煙草の先を近づける。吸いかけ煙草が灰皿の中にホロホロと粉を落とす。私はコーヒーを飲みこんで、黙ってそれを見ていた。
「ずっとこっち。東京なんか遊びでしか行かないよ。最初は、工場で働いてたんだけど、子ども生まれて働けなくなってからずっとこの仕事」
 マリは話の合間に煙草を口に咥えて、空気を呑み、吐き出した。鼻と口から漏れ出した灰色の息は、空間を登り、上へ上へ向かっていく。壁の換気扇がシュルシュルとそれを吸い込んでいく。
「工場だと稼ぎも少ないでしょ。夜勤もあるし、残業もある。身体がもたないからさ」
 私は一言、「苦労されたんですね」とだけ言って黙った。手に持った缶コーヒーを、一口呑み込む。苦い汁が喉の奥を通り、身体の下方へ流れていった。
「藤田さんは、いつから東京?」
「高校出て、大学からです」
「いいねー、東京で女子大生かー」
 マリはそう言って、気だるく笑った。私はどう返していいか分からなかった。自分ばかりが、この街から抜け出してごめんなさい。抜け出す術があってごめんなさい。思っていても、そんなことは言えない。
「そのうち、実家に戻んの?」
「うーん、まだ、分からないです」
 私が困ったように笑うと、マリはそれっきり黙った。客が来る気配はない。仕方なく頼まれていた事務仕事に取りかかる。振り返るとマリは壁に凭れ、眠っているようだった。
 うつらうつらしているうちに、レナの高い声が聞こえた。欠伸をした瞬間、レナの外行きの声がはっきりと聞こえる。
「ありがとうございました」
 時計を見ると、接客終了の時間だった。二人の声は徐々に大きくなっていく。私は姿勢を正し、座り直した。
「ありがとうございました」
 受付窓から見えた田所に声をかける。田所は、私の前を無言のまま、通り過ぎる。私が向けた言葉は、存在しなかったかのように、空間に消えていく。扉が大きく音を立てて閉まった。
「あー、疲れた」
 立て付けの悪い扉が閉まっているのを確かめると、レナは途端に大きな声を上げた。腕を伸ばしながらこちらに戻ってくる。レナの声に、居眠りをしていたマリも目を覚ました。
「終わった?」
「終わったー、クソだった」
「おつかれー」
 レナはマリの隣に腰掛け、置きっぱなしだった緑の箱の煙草を手に取った。マリの使っていたライターを受け取り、咥えた一本に火を灯す。
「時間まだあるからって、二回目やって中折れすんの」
「あーあるある、それで説教でしょ」
「そう、中折れした後、長話。消えてほしい」
 レナは紫色の煙を吐き出した。隣でマリアも息を吐く。ふたりの吐いた煙はスルスルと上へ流れ、換気扇に吸い込まれてゆく。
「チンポたたねえくせに来るなよ」
 マリは吐き捨てるように言うと、煙草を灰皿に置き、コーヒーを呑み込んだ。呑み込んだ後に、苦々しい表情を浮かべる。
「アイツ、バイアグラ飲んでんだって」
「うわー、勃起薬飲んでまで、なんで風俗くるんだよ、気持ち悪い」
 私は彼女たちに背を向け、任された事務作業に戻った。入り口をチラリと見る。人の入ってくる様子はない。後ろで二人の会話がふいに止まり、どちらかが「お茶挽いちゃったね」とだけ言った。
「そういえば、藤田さん、東京から来てんだって。すごいよね」
 僅かな沈黙を破るようにマリが言った。自分の話を無視することもできず、振り返って笑った。
「すごくないですよ」
 レナはマリの隣で興味なさそうに煙を吐いた。東京という言葉に、憧れも畏怖のないように見える。息を吐ききると、レナはぼんやりと宙を見ながら私に言った。
「東京のどこにいたの?」
「府中の方です、知らないですよね」
「パパのとこだ」
 レナは揺れていく煙を目で追いかけていた。
「レナちゃん、東京の人なの?」
 マリは驚いたように、レナの方を見た。
「ううん、違うよ、パパだけ東京」
「ふーん」
 それだけ言うと、マリは黙った。
「レナちゃんは、よく東京に行くんですか?」
 私が聞くと、レナは気だるそうに息を吐いた。
「一回も行ったことないよ。パパは東京だけど、ママと離婚してから会ってないし」
「まあ、そんなもんだよねー」
 マリは煙と一緒に言葉を吐いてそのまま黙った。私が身体をむき直すと、お茶挽いちゃったね、とまたどちらかが言った。

 母が私を呼ぶ声が聞こえた。アヤという声が聞こえる。私を視界に入れると、母はすぐに喋り始める。これはもう決まったことだ。
「昨日も遅かったんでしょ、遅くに帰ってきて。東京にいるときもそんなのなの?」
 答えるより先に、リビングの椅子に座って、出されたトーストを齧る。私が何も言わなくても、母の会話は止まらなかった。
「いつも遅く帰ってきて、もっと早く来てよね。あなたは昔から、マイペースで、人のこと気にしないんだから」
 母が黙っているのを見たのは何時だろうかと、考える。ずっと昔、子どもの頃、病院の待合で並んで座ったとき、彼女は静かに雑誌を読んでいた。そういえば、家の外では、母はいつも静かだった。
「それでね、綾、家の建て替えのことなんだけどね」
 私が生まれる前に立てられたこの家は、床を踏むたびにギシギシと音がした。住み続けられないから、新しい家に立て替える。日取りは来年の夏前になりそうだ。それだけの内容を、過剰な量の言葉で母は言う。
「綾は結局、戻ってくる?」
 私はトーストを口に含んだまま、台所に立つ母を見た。声を出そうとするが、口に含んだパンが邪魔で、んんとかああとかしか音が出ない。
「んんじゃなくてさ、どうするの? あのね、お父さんも帰って来た方がいいんじゃいのって言うの」
 リビングのソファに座る父を見る。父は黙ってテレビを眺めていた。いつもそうだ。話しすぎる母の横で、父は黙っている。自分が話題に出てきても、父は聞こえてない。私が父に話しかけようとすると、母はまた喋り出す。
「うちは女の子しかいないから、どっちか戻って来ないといけないって話していたのよ。でも、美沙はその気なさそうだし、綾がくればと思うの。もし戻ってくるなら、二階は全部使っていいから。美沙はもう自分の部屋いらないって言ってるの」
 どしゃぶりの雨のように、母の言葉は止むことなく打ち付ける。無数の言葉を、私はいつも黙って浴び続ける。話す声が止むことはない。
「ほら、結婚するときは、旦那さんに一緒に住んでもらえばいいじゃない。あなただっていい年なんだから。子供だって早く作ったほうがいいでしょ。相手は次男にしなさい。次男の方が、こっちの家に住んでもらうのに丁度いいから。そういえば綾の友だちの」 
「お父さん」
 母の言葉を遮って、父に向けて声を出した。父は、ピクリと動いた後、私の方に振り返る。母も私の声を聞き黙った。
「お父さんはそれでいいの?」
 父はまたテレビに視線を戻した。
「お母さんと、綾がそれでいいなら、それでいいよ」
 台所に立っていた母は「そう、だからね」と、また話の続きを始める。わたしはまた、ああとかうんとかそんな音だけを発した。

 チョークの埃っぽい匂いが鼻に入る。私は何度か、咳をしてそれを誤魔化す。教卓に肘をつけて眺めると、本物の学校と遜色ない風景だった。
 ポケットから香盤表を取り出す。川北みなみ 女子高生企画モノ。赤文字で書かれた下に時間と表が描かれる。どこで誰が何をするか。全て決まった上で性交する。このセットであとワンシーン撮影する。
 性交するためだけに作られた偽物の教室だった。入り口にある偽物の引き戸は、本物みたいにガガガガと音を立て開いた。入ってきたのは川村さんだった。
「おつかれ」
「おつかれさまです、撮影、いつ再開しますか?」
「なんかね、メイクちょっと時間かかるっぽい」
「顔にかかってましたもんね」
 男優の精液が女優の顔に付着した。フェラだけのシーンで射精したようだ。新人はダメだねと、演者が居なくなった後、監督が笑っていた。
「監督は?」
「煙草吸い行った。このスタジオ、喫煙所、外だから遠いんだってー」 
「川村さんは一緒に行かないんですか?」
 わたしは教卓の上に腕を伸ばし置いた。川村さんは手近にあった椅子を引いて座った。
「あー、辞めたよ。今は高いし」
「多いですよね、時代的に」
 言い終わった後、頭の中に、下館スチームの受付の景色が浮かんだ。モクモクと灰色の煙が漂い、天井に上り、換気扇の羽の中にシュルシュルと吸い込まれていく、あの場所。あんな場所は時代遅れだ。
「禁煙、難しくなったですか?」
「風邪ひいて喉痛くてさ、吸わなかったの。吸わなくなったら自然と辞めれるよ」
 教室の椅子に座ったまま、川村さんは脚を投げ出していた。退屈なのか、大きく欠伸をして、腕を大きく伸ばす。
「丁度いいよ。忙しくて、吸いにいく現場も多かったからね」
「最近、忙しいんですか?」
「忙しいよ。一人、辞めちゃって全部しわ寄せ来ているよ」
「キツいですね」
 私も欠伸をしそうになり、口を閉じ誤魔化した。
「藤田さんの周り、誰かいない? やれそうな人? 業界は知ってた方がいいけど、撮影とか編集とかはできなくてもいいからさ」
 AVの制作の仕事は誰かいるだろうか。知り合いの顔を浮かべる。当てはまる人間はいない、たぶん。だけど、なにか、誰か、いないだろうか。
「うーん、わからないです」
「難しいよね」
 川村さんは、そのまま黙り、手近にあった机を引き寄せそれに突っ伏した。手持ち無沙汰になって、私はもう一度、香盤表を広げた。
「そういえばさ、前行っていた風俗の受付やってんの?」
 川村さんは身体を倒したまま、顔を上げ私に尋ねる。
「あー、一応やってます」
「どうよ?」
 川村さんは身体を起こし、私の方を見た。退屈を紛らわす話題だろう。
「こっちの仕事と全然違いますね。接客業だし。クソ客もいたし」
「へー、どんな奴なの?」
「ババアって言われたり、挨拶無視されたり、そんな感じです。女の子の話だと勃起不全のくせに、それでも制限時間いっぱい使ってヌイてくれって言うらしいですけど」
「ヤバいね、それ」
 川村さんは吹き出して笑う。私は話続ける。
「セックスする場所だし、風俗もAVの現場と一緒だろうって、どっか思っていたんですよ。でも、違いますね」
「男優で、そこまでヤバい奴はいないからね」
 川村さんは笑ったままだった。面白い雑談として聞いている。
「AVの現場は、撮りたい画を撮らないきゃいけないし、男優だって、自分の気持ちだけで絡みしないじゃないですか。でも、風俗の客は、自分の欲だけで、人間ってここまで傲慢になるんだなって思います」
 川村さんに、私の抱えている消化しきれない感情を吐露したかった。この話はここでしかできない。
「ここで撮ったAVを買っている奴らも、似たような奴いるだろうけどな」
「そうですよね」
 ここで行われている商売の性行為は、撮影現場だけで完結している気がしていた。だがそれは私の思い込みだ。地続きで、あの傲慢さにつながっている。
「昔さ、営業の手伝いで、AV女優の、ファン向けの撮影会、行ったのよ。藤田さんは取材とかである?」
「ないです」
「あそこにいる人もさ、大概はちゃんとしてるんだけど、たまに変な奴いるんだよ。エグいこと聞いたり、暴言を言ったり。普段の生活でそれやらないだろって事をするの。あれも、金払っているんだから、許されるって思ってたんだろうなー」
「だけど、お金の対価って、女の子に会うこと自体じゃないですか?」
「まあ、そうなんだけどね。金、払ってんだから、満足させろってことじゃないの?」
 払った金は、客の満足の対価なのか。だとしたら、満足できるまで、幾ら求めても許されてしまう。
「裸になったからって、全部明け渡したわけじゃないのに」
 私は苛立っていたけれど、自分が何に苛立っているのか分からなかった。クソ客なのか、クソ客を理解しようとする川村さんなのか、こんな仕事を自分する自分なのか、何か分からないけれど、苛立っていた。
「まあ、可哀想だけどさ、脱いだ子はさ、何やってもいいって思われちゃう部分はあるよねー」
 そんなはずないです。頭の中に反論が浮かぶと同時に、監督と女優の話す声が聞こえる。私は「そうですよね」とだけ言って黙った。川村さんを呼ぶ監督の声が聞こえ、そのまま何処かに行ってしまった。私は、ひとり、偽物の教室の中に残された。

 

 最高気温が三十五度になるとラジオが伝えた。ぼんやりとしながらラジオの音を耳に入れる。レナが控え室から出てきた音がした。
「今日も暑いみたいだよねー」
「最高気温35度らしいです」
 振り返り、レナに言う。レナはすでに私の後ろの細長い長いベンチに座り、煙草をふかしていた。傍らには、缶コーヒーが置かれていた。
「子どもの頃はもっと、涼しかったよね」
 子供の頃と、レナは言うけれど、彼女の幼少期と私のそれとではズレがある。レナは見た目から推測するに二十代半ばほどだ。少なくとも三十二歳の私よりは若い。
「ここの近くにある神社、藤田さん行ったことある?」
 唐突な質問に、私は少し考え、答えた。
「あの、住宅街の中の神社ですか?」
「そう、藤田さんも行った? 実家このあたりでしょ?」
「いえ、車で前を通ったことはありますけど、ないです。実家は市内ですが、ちょっと離れたところにあるので」
 私の実家は、この店から十キロほど離れた場所にある。親の車でこの店の横を通ることはあったが、歩いていける距離にはなかった。
「ああ、そうだんだ。この辺の子はみんな、あの辺で遊んでたんだよねー」
「レナちゃんこの辺の子なんですか?」
「そうだよ」
「実家の近くで、働いているんですか……?」
 風俗で働く女を、嘲笑の対象にする人間はいる。昔から知っている人間なら尚更、下世話な視線を向けるだろう。もちろん、私にも類似した視線はあるが、マスクを付けて受け付けに座る私と、性器まで晒すレナとでは、意味の重さが違う。
「そんな、びっくりしないでよー。ここに居たのは小学校三年までだから。今は全然違う場所」
「よかった」
 言い終わった後で、「よかった」が、相応しくない言葉だとも思った。『よくない』状況を作るのはレナ自身ではない。身体を売る女を蔑む社会の方だ。それなのに、私もレナもその間違った社会に順応して生きるほかない。
「そんな変なことしないよ」
 レナそれだけ言って、煙草を一口呑んだ。嘲笑されるし、非難もされる。それはレナも分かっている。それでもなぜ、ここにいるのか。私は気になっていた。
「レナちゃんはどうして、ここで働いているんですか?」
「どうしてだろうね」
 レナはそれだけ言ってまた煙草を加えた。長く時間息を吸い、苦い煙を肺に届けた後、息を吐ききり、また話し出した。
「昔の家はね、この店の隣にあった。店の横の50号線、工事してたの覚えている?」
「十年ぐらい前ですよね?」
 たしか、車線を増やす計画と聞いていた気がする。こんな錆びた街で道路広げてどうするんだろうね、と母が言っていたことを覚えている。
「車線、広がるって噂でしたよね」
「そうそれ、それで、わたしの家、立ち退きしたの」
「でも、なんで、もう一度こんなところに?」
「わかんない。この辺、車で通ったら、下館スチームって看板見て、なんか、またここに居たくなった」
「そうですか」
 レナの言葉を上手く理解できないまま、私は下を向いた。入り口が開く音がする。客かと思い目を向けると、マリだった。ロングスカートにTシャツのラフな格好でこちらに来る。
「今日も客少なそうだね」
「はい、来なそうです」
「また暇だねー」
 それだけ言って笑うと、スカートをゆらして、控え室に消えていった。マリの姿がなくなった後、長椅子の上に倒れるようにレナが寝転がった。
「昔、このあたりにおじさんがいたの。腕のないおじさん」
「腕のないおじさん?」
 レナの言葉を私は繰り返した。レナは椅子の上に転がったまま天井を見ていた。
「たぶん、怪我とかそんなのだと思うの。腕がね、途中からなくなったおじさんが、この後ろの田んぼの中をよく歩いていたの。歩いている大人なんて、あの人だけだから、いつも目立っててね。一人でずっと歩いているの」
 私の方を見ないで、天井と換気扇の回る羽根の動きだけを見ているようだった。
「近所の、リーダーみたいな女の子がね、見つかったら追いかけられるって言うの。でも、私はおじさんに追いかけられたことも、追いかけているのを見たことも、一度もなかった。それでも、見つかることが怖くて、遠くからずっと見ていた」
 レナは、同じ場所を見たまま続ける。私からは彼女の顔は横半分しか見えなかった。
「小学校三年生の夏休み、そのおじさんが、ここに入っていって行くのを見た。それから、ここがなんの場所なのか考えていた」
 扉が開く音がした。今日はレナとマリ以外のシフトはないはずだ。レナもそれを知っていたのだろう。立ち上がり控え室の方に消えてゆく。
 のろのろとこちらに歩いて来たのは田所だった。私を見ると、わざとらしくため息を吐く。
「なんだ、今日もババアか。今日誰いんの? こっちで選んでいい?」
「すいません、指名はできないんです」
「あー、なんだよ、それ」
 ここで田所に謝り、宥めて、レナか、マリを呼に行く。その手間を面倒に思ったとき、レナの声が聞こえた。
「田所さんでしょ? ねえ、あたしがいいよね?」
 よく通る少女のような高い声だった。さっきまで煙草の煙と一緒に吐き出していたものとは違う。田所は目尻を下げニヤニヤと笑った。
「しょうがねえな、ちょっと待ってるから」
 投げるように金を置き、田所は控え室の方に消えていった。数分置いて出てきたレナは、礼を言った私を見ないようにして、控え室の方へ消えていった。
 ふたりの声が聞こえなくなった後、マリはスリッパを引きずりながら、ノロノロと出てきた。
「また、面倒な客引き受けてもらっちゃったよー」
 ありがたいですね、よかったですね、私の言う、どの言葉も嫌みに聞こえる気がして黙った。
「レナちゃん、面倒な客も全部やってくれるから、ありがたいんだけどね」
 マリは煙草を口に咥えて、火をつけた後、口の右側だけを動かす。モゴモゴと、独り言のような聞き取りにくい言葉が私の耳まで届いていく。
「抵抗できない子って感じだよね」
 言葉と一緒に吐いた息は、換気扇にシュルシュルと吸い込まれてゆく。私はその煙を黙ったまま見ていた。マリアは退屈そうに細い足を組み替え、長い髪をクルクルと指に巻き付けた。
「そういえばさ、わたし、接客したことあるよ。腕のないおじさん」
「さっきの話の人ですか?」
「そう、もうおじいさんだったけど」
「会えるといいですね、レナちゃん」
「そう?」
 マリは目の端で私を見た。
「会っても、なんてことないよ」
 そう言うと、マリは細い指で、トントンと煙草を叩いた。灰皿の中に粉々になった灰が落ちる。そして小さくなった煙草をまた加え、息を吐いた。私は、自分がどうして、会えるといいと言ったのか分からなかった。
「クソ客しか来ないのかー、今日はー」
 マリは腕を上げ、大きく伸びをしながら言った。小さくなった煙草は、灰皿に押しつけられて潰れていた。その日、田所の後に来た客も、マリの言葉を借りれば「クソ客」だった。
 ぽつり、ぽつりと、客が来ては帰り、混雑はせず、閑散もしないまま営業を終えた。マリを先に帰し、私はレナが最後の客の相手を終えるのを待っていた。ラジオから聞こえる音だけが耳の中を通り過ぎ、何も残ることなく身体から出て行った。
 レナと客の声が聞こえる。私は彼らを待ち、通りかかった客に礼を言い、見送った。全てが終わった店内で、施錠をして受付に戻る。
「おつかれだねー」
 レナは疲れた顔で笑って、私を見た。
「おつかれさまです、もう、上がっちゃっていいですよ」
「うん、一服したら」 
 火をつけた煙草は煙を吐き出し、雲が広がるように、上に上っていく。私は広がった煙の後ろで、売り上げの集計を続けた。
「そういえばさ、藤田さんはさ、なんで東京に行ったの?」
「うーん、大学行くためですかね、一応」
 作業の手を止めないまま、思い出していた。母は、地元でいいじゃない、家から通えるところが楽でいいでしょ、と言った。母の、当時の猫なで声が耳の中で再生される。
「あとは、窮屈だったからですかね」
 振り返ってレナを見る。薄い唇を動かし、「きゅうくつ」と、私の言葉を口の中で繰り返していた。私は、ぼやけていて、曖昧な記憶をたどりながら言葉を紡ぐ。
「周りと合わなくて、居心地悪かったんですよね」
「藤田さん、ちょっと変わっているもんね」
「変わってます?」
「うん、なんとなく変わっている」
 人に変わっていると言われたのは初めてかもしれない。大人しい、真面目、いい人、そんな言葉ばかり押しつけられてきた。懐柔できる対象だった。変化を求めて、奇抜な職業についたが、それでも他者からの認識は変わらない。
「大人しそうだけど、自分独自の世界がありそう。あ、悪口じゃないよ。そうじゃないと、ここでやっていけないでしょ」
 言い終わると、煙草の煙を吐く。白い空気と匂いが充満する。さっき換気扇を止めてしまったことを思い出した。
「藤田さんの家族に、藤田さんみたいな人いないの? ちょっと変わってる人」
「父も母も割と真面目でした。家族じゃないけど、おじさん……お母さんの妹の旦那さんはちょっと変な人でした」
「えー、どんな人?」
 レナは面白いものでも見つけたみたいにこちらを見た。机の上の千円札の上に空き缶を置いて、落ちないようにしてから、レナの方に向きなおす。
「どんな人……深くは知らないけれど、絵が上手くて、私の学校のノートにもポケモンとか、アニメキャラの絵、描いてくれたんです」
「ウケる。うちのパパみたい」
 栗色の目を開いて、レナは笑った。
「お父さんは、絵、上手だったんですか?」
「なんかねー。学習中の表紙にラクガキすると怒られるよね?」
「そうだったかも」
「そう! それで、怒られたんだよ、ポケモン描いて」
「仲、よかったんですね」
 私の言葉で、レナの笑顔は止まった。彼女の口元に見えていた、綺麗に揃った白い小さな歯列は姿を消した。
「そんなことはないよ」
「すいません」
 下を向いたレナを見て、私はそれだけ言って黙った。
「その、おじさんは今も元気?」
「会ってないから……分からないです」
「そっか」
「はい、今どうしているんだろう」


 おじさん……つまり、みいちゃんの旦那さんが、私のノートにピカチュウの絵を描いたのは、小学三年生のときだった。みいちゃんは、私の母の妹の愛称で、本名は美耶子だった。
 母と年の離れたみいちゃんは、当時、大学を出たばかりで、私が家に行ったときは、テレビゲームを一緒に遊んでくれた。伯母さんというよりも、友達みたいだった。
 みいちゃんの旦那さんは、いつも黒いシャツを着ていた。男の人なのに、髪は肩につくぐらいの長さで、前髪で目がよく見えなかった。私は、彼の名前を今でも知らない。
 二人のアパートの奥の部屋は、美術室みたいな書斎だった。本棚と机と、絵の具と、スケッチブックがあって、本棚は四つもある。私はその部屋で、漫画をよく読んでいた。
――あのおじさんね、ぼのぼのの絵上手いよ
 みいちゃんは、ぼのぼのを読む私を見るとそう言った。私が、彼に尋ねると、みいちゃんが代わりに、本当だよと言って笑った。
――今度、書いてもらいなよ
 その次、みいちゃんの家に行くとき、私は学校で使う計算ノートを持って行った。表紙に絵を描いてもらいたかった。
 クラスの絵の上手い男の子、彼の計算ノートの表紙には、ポケモンのリザードンが描かれていた。ポケモンカードと同じ構図のイラスト、それにクラス中が群がる。同じ思いをしたかった。
 私は、恐る恐るノートを差し出す。みいちゃんは隣で笑っていた。みいちゃんの旦那さんと喋ったのはそのときが初めてだった。
 何を書くのか問われて私は少し考える。ぼのぼのが上手いとみいちゃんは言った。だけどぼのぼのじゃ、あのリザードンには勝てない。ピカチュウとニャースを描いて欲しい。私は頼んだ。
 みいちゃんはピカチュウと、私の言葉を繰り返し、首を傾げる。みいちゃんの旦那さんは、わたしのノートを受け取って、本棚のある部屋に消えた。
 少したって、渡されたノートには、じゃれつくピカチュウと、それを煙たがるニャースのイラストが描かれていた。それは、あのリザードンより、ずっとよかった。
 喜ぶ私の横で、みいちゃんは得意げだった。みいちゃんの旦那さんは笑っていた。彼の笑顔は、そのとき初めて見た。
 五年生に上がった頃、みいちゃんは、引っ越した。引っ越した先を私は知らない。みいちゃんと私は、たまに、『おばあちゃんのうち』で会うだけになった。旦那さんには、会えなくなった。
 小学五年生のお正月、『おばあちゃんのうち』でみいちゃんを見た。学校のことを話した後、みいちゃんは言った。
――まだピカチュウ好きなの?
 クラスでもうポケモンは流行っていない。それでも、私は好きと言った。あのピカチュウを、好きじゃないと言ったら、みいちゃんの旦那さんと私を繋ぐものがなくなってしまう。
 みいちゃんが帰った後、祖母は、「変なのと結婚しちゃうと駄目よね」とため息をついた。『変なの』が、みいちゃんの旦那さんを指していることは、私でも分かる。
「なんで、変なの?」
 祖母は一瞬、怪訝な顔をして、私を見た。その目は、疎ましい物をみるような、庭に来た野良猫を見るような目だった。
「おばあちゃん困っているでしょ。大人の話に入ってこない。向こうの部屋でゲームでもやってなさい。ほらプレステあるんだってよ」
 変が何だったのかを聞く前に、私は母に促され、別の部屋で妹とゲームをした。
 その日のことはそこから先は覚えてない。何のゲームをしたのか、いつ帰ったのか、その次、みいちゃんにいつ会ったのか。全部覚えてない。だけど、私を見た祖母の表情と、その後の母の言葉だけは、今、頭の中に映像として残っていた。

 

「あれ? レナちゃん?」
 待合室や風呂を片付けた後、受付に戻るとレナはまだそこにいた。先ほど勘定を数えながら話してから三十分は経っている。服に着替えてはいるが、先ほどと同じ位置に座っている。
「なにかありました?」
「そうだよね」
 私の驚いた様子を見て、レナは困った顔で笑った。
「なんかね、言い忘れてて。さっき、父親のこと言ったけど、アレに感謝しているとか、いい思い出とか、そんなのはないって言いたかったの」
 わざわざ、そんなことを言うために待っていたようだ。なんでそんなことのために? 
「今は、あんな奴死ねって思っている。散々手をあげられて死んでほしい。だから、なんか、いい思い出みたいに思われたくなくて」
 レナは下を向いて話し始める。慰めでも、弁解でも、意味のありそうな言葉を言ったら、彼女の感情を刺激してしまう。私は黙ったまま、レナを見ていた。上向きの長い睫が揺れる。
 レナの怒りが、私に向けられた感情ではないのは分かっていた。だけど、私のした話-―みいちゃんの旦那さんの話が、彼女の中の、何か、悪い感情が引っ張りだしたとしたら、私が悪い。
「すいません」
「ごめん、藤田さんが悪いわけじゃない。もう帰りますね」
 レナはそのまま、店を出て行った。ガシャリとドアが閉まる。何かが壊れた音みたいだった。静かになった後、ラジオの音だけが流れていた。

 朝、起きても、レナに言われた言葉が耳に残っていた。勘違いされたくなくて、とレナは私に言った。勘違い、勘違い、勘違い。そもそも、勘違いをするほど、あの子のことを知らない。
 むくんだ瞼のまま、リビングに行くと、母はもう起きていて、テレビを眺めていた。頻繁に帰るようになった私に朝食の用意はない。仕方なく、自分でコーヒーを注ぎ、砂糖を溶かした。
「やっと起きたの?」
 母は洗濯物を畳んでいる。テレビでは情報番組が流れていた。昔イケメン俳優と言われていたタレントが、ニュースを説明している。私はそれを見て「うん」とだけ答えた。
「前、言った部屋の話、どうする?」
「部屋?」
「ほら、美沙がもう使わないから、好きにしていいって話。綾がね、もし結婚して同居するなら、二階はそれに合うようにした方がいいんじゃないかって思っているって前言ったでしょ?」
 母に恋人の話などしたことはない。それなのに、彼女の中では、結婚をして同居をする話が始まっている。意見を返すことが億劫で、私はコーヒーを呑み込んだ。
「ねえどうする? 綾はいつも何考えているか、分かんないから、お父さんもわたしも困るのよ。仕事も毎日遅くて大丈夫なの? 昨日だって帰り遅かったじゃない。いくら車だからって、こんな夜に帰ってくるのは危ないんじゃないの」
 私は、母の、延々に続く話が面倒になった。
「ねえ、みいちゃん、元気?」
 私の言葉で母は黙った。シャツを畳む手を止め、私を見た後、すぐまたテレビに視線を戻す。皺の多い骨張った手が畳み終わったシャツを横に置いた。
「しばらく、会ってない」
「そっか」
 もう一度、私を見た。その目は、あのときのおばあちゃんの目に似ていた。彼女たちは親子なのだなと思う。
「もしかして、美耶子に連絡しているの?」
「してないよ」
「そう」 
 母は、そのまままた黙る。けれどすぐに、沈黙に耐えられなくなって喋りだす。
「美耶子も、ちゃんとした人と結婚したらよかったのよ。お父さんみたいに、真面目に働いて、ちゃんと一カ所で長く勤められる人と結婚したらよかったの」
 母はまた、いつもの母になる。無限に言葉を発する母親になる。母親は、こうやって無限に言葉を音にしていける人間しかなれない。
「ああやって、よく見える方に飛びついたらダメなの。好きなことやって過ごせるわけないでしょ。地に足ついて、生きていくために仕事をする人じゃないと駄目だよね。お父さんみたいに、真面目に働ける人と結婚しないと駄目よ」
 みいちゃんは、たぶん母親にはなれなかった。
「みいちゃんの、旦那さんだった人は」
 私が最後まで言い終わるより前に、母は、あの野良猫を追い払うような目つきで私を見た。
「ああいう人は駄目、フラフラして、仕事も続かないで。あの人とのことがあったせいで、美耶子がおばあちゃんのうちに来れなくなったんじゃない」
 お母さんになる人は、こうやって、楽しいことを切り捨てていく。ピカチュウもニャースも描けなくなる。そして、同じことをする人を生み出していく。
「そういえばさ、話、変わるけど」
 私は、帰る途中に見かけたスーパーの話を母にした。そのスーパーは、水曜日に冷凍食品が安くて、火曜日は卵が安い。だけど、牛乳は高い。そんな覚えられないくらい話を母はした。会話の合間に私を見た瞳は、いつもの母だった

 父親の話を聞いた翌週、レナはいつものレナだった。私を無視することも、怒りを当てつけることもない。仕事先の、源氏名レナの風俗嬢――そうやって接してくれた。
 手を振るレナに、振り返った客が手を振り返す。Tシャツ姿の男は三十五歳だと言っていた。おそらく独身、ガチ恋に近いけれど、悪い客じゃない、と誰かが言っていた。今日は面倒な客が居ない。よかったね、と心の中で、接客する彼女たちに向けて呟く。
「ねえ、藤田さん」
 入り口から戻ってきたレナが私を呼び止めた。作業の手を止めて、彼女を見る。瞬間、長い睫が二回動いて、瞬きをした。涙が落ちそうな瑞々しい眸だった。
「今日、終わった後、空いてる?」
「片付けが終われば、特になにも」
「ちょっと一緒に来て」
「え、いいですけど」
「ありがとう、先、着替えてる」
 来てってどこに? 質問しようにもレナはもう居ない。簡単に返答してしまってよかったのか。身の危険を感じるような場所ではないだろう。だが、なぜ私と?
 何も分からないまま、仕方なく残った作業を続ける。雑用が終わる頃には、レナは支度を整え、受付の隅に座っていた。その姿は、どこにでもいる若い、普通の、女の子だった。
 どこに行くにしても、車に乗るはずだ。駐車場に向かう私を追い抜いて、レナはずんずん歩いて行った。
「すぐだから、歩いていける」
 不安を抱えたまま、彼女の歩幅に合わせ私も歩く。道が開け、たんぼ道にでた。夜の田園はどこまでも見渡せる。しばらく終わらない田んぼの間を私たちは歩く。
「前、話した神社、行きたいの」
 レナはずっと先を見ていた。私は彼女の左側後ろをついて歩く。盗み見た彼女の右側に、小さな入れ墨があった。細い首の付け根、数本の花束が彼女の肩に向かって落ちていく。
「すぐ近くだから大丈夫」
 細い首筋、Tシャツから覗く二の腕、ショートカットが動く合間に見える、産毛の生えるうなじ。彼女の身体をこんなに近くで見る機会はなかった。美しい。身体を売るにしたって、もっといい金額で売れるはずだ。  
 直後、自分の視線が嫌になった。女の身体を探るような、詮索するような、値付けするような視線。どうして、女だけが、こんな視線を向けられなくていけないのだろう。
 田園は終わり、住宅が並ぶ通りに出る。遠くのほうで、犬の鳴く声が聞こえた。灯りのつく家はひとつもない。全てが眠った後、私たちふたりだけが通り過ぎていく。この世界に二人きりみたいだった。
「ここなの」
 店から二十分ほど歩いただろうか。大きな鳥居の前に出た。入り口近くには、滑り台とブランコがある。レナは自分の足で進み、ブランコに座った。私も隣に座った。
「小学校ぶり! 引っ越しぶり!」
 叫ぶように言って、レナは大きく地面を蹴った。子どもと大差ない、レナの小さな体を乗せ、ブランコは大きく揺れる。
「わたしね、小さいときはブランコに乗れなかったの。本当は、友だちなんか居なくて、みんなに陰口言われてて、いつも乗りたくても乗れなくて帰ってたの」
 細く小さな身体を乗せ、ブランコは大きく宙に向かい、反動で後ろに揺れる。振り子のように揺れるたび、レナは子供みたいに笑った。錆びた鎖が音を立てる。
 ギリリと、鎖が鳴って、宙を舞ったブランコからレナが飛び降りた。放り出された身体は、地面に着地し、地面を踏む。レナの居なくなったブランコは音を立てたまま、止まらずにずっと動いている。
「藤田さんに渡したいものがある」
 レナの声を聞き、緩くブランコを漕いでいた足を地面に擦りつけた。スニーカーに土が擦れる音がする。私はレナのように飛び降りることはできない。
「これを渡して欲しいの」
 鞄から取り出した何かを、私に向けた。暗がりの中、彼女の手元に視線を合わせる。何かノートのような物と、その上に紙が一枚置かれていた。
「あの人の、わたしの父親が、置いていった物」
「お父さんの?」
 受け取った冊子はスケッチブックだった。上に乗ったメモ用紙には、どこかの住所が書いてある。私の住む市だ。これがレナの父親の住所ということだろう。
「中身、見てもいいよ。絵が描いてある」
 ページを捲ると、色鉛筆で描かれた絵や、ボールペンで描かれマーカーで色づけされた絵が現れた。アニメやゲームのキャラクターに混じり、恐らくレナであろう女の子のデッサンもある。
「もういらない。だから返してほしい」」
「私が、ですか?」
 驚いてレナを見る。彼女は、困ったように笑い、下を向いた。そして、ブランコに座ったままの私に、もう一度、その細い指を差し出した。
「ごめん、自分で捨てるから大丈夫」
 私は、その表情が、小さな小学生の女の子のように見えて、自分の手の中の冊子を返すか躊躇した。これを返したら彼女ともう会えなくなってしまう気がした。
「返してきます。家近いし。帰り道だし」
 住んでいる市が一緒、それだけだった。近いかどうかも分からない。場所の検討もつかない。だけど、私は、普段、言わないで済んでいる、相手を喜ばせるための嘘をここで言っておきたかった。
「ありがとう」
 その表情に、さっき見た小さな女の子の面影は見えない。少女のように見えたのは、気のせいだったのかもしれない。それでも、レナの心を、ほんの僅かであっても満足させることが出来るなら、私はそれで構わなかった。

 

 203と書かれた紙をもう一度見て、私は階段を登った。レナに渡された住所は古いアパートだった。同じ市内と言っても最寄り駅は別で、レナに言った「近い」は嘘だった。
 九月になっても夏は続く。アパートの錆び付いた外階段を登ると、それだけ汗が溢れた。少し迷ってからインターフォンに触れる。チャイムの音が鳴った。反応はない。
「なんか用ですか?」
 振り返ると、階段の下に一人の男性が立っていた。黒いTシャツに緩いズボンを履き、右手にはコンビニのビニール袋がぶら下がっていた。無精髭の間の肌はやけに白く、シャツの袖からは長い腕が伸びている。
「すいません、小山さんですか?」
「そうですけど、だれですか?」
「 娘さんから、渡された物があって」
「灯から?」
 あかり。レナの生まれ持った名前を初めて知った。レナの名前は小山灯。私は名前すら知らぬまま、一緒に働き、喋り、彼女の頼みを受けた。性行為する客にも、性行為を売る私にも、呼ばせなかった本当の名前。
「これを頼まれました」
 階段を下り、私はスケッチブックの冊子を差し出した。掌がそれを受け取る。指一本、一本が長く、絵を描くには不必要なぐらい大きな手だった。
 受け取り、黙ったまま、ページをめくる。レナと一緒に見た絵が、再び目の前に現れる。赤やオレンジや黄色や緑、幾つもの色彩が、ページが変わるたびに、浮かび上がって、消える。
「なんでこれを?」
 男は、階段に座り、白い、何も書いてない紙を見ていた。肩を落とし下を向くこの人に、暴力や恐怖を結びつける要素は見つけられなかった。
 彼は、娘と過ごしていた十数年間、こうやって離ればなれになる未来を、一瞬でも考えたことがあったのだろうか。
「渡してって言われました」
「灯、今、元気ですか? 何をしてますか?」
 娘さんは身体を売っています。言いたかった本当の言葉を呑み込み、偶然、飲み屋で会って、身の上を話しただけ、と嘘をついた。男は下を向いたままだった。
「私の家が近所だったので、それで頼まれただけです。名前も今、初めて知りました」
「灯から、何か聞きました?」
 男は顔を上げ、私の方を見た。掘りの深い、ハッキリとした顔立ち、二重瞼で長い睫、レナと同じ、色素の薄い眸、共通項はいくつもあった。私は、その茶色い目を見つめ返した。
「絵が上手いって」
「そっか、そうなのかな」
「だけど、もう、会わないから、それを返してきてって言われました」
 男は私から目を剃らし、自分の手元を見ていた。不格好に伸びた髪が下へ流れていく。暑い夏なのに、汗もかかず、座り込んでいた。
「昔、絵画を学んでました」
 そう言って男が口にした学校は、川村さんの言っていた美術大学でもあった。卒業して地元に戻ったけれど、離婚し、その後、大学時代に住んだ地域に戻ってきた。ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「灯とは仲良いんですか?」
「何回か会って、色々話はしました」
 男は座って下を向いたままだった。午後の日差しが私を照りつける。暑い。汗が流れる。私はポケットからハンドタオルを取り出して、自分の額に当てた。そこそろ、帰ろうか、口を開くタイミングを計っていた。
「灯に手をあげたりしてないんですよ」
「え?」
 唐突に目の前の男から漏れた言葉に、私は不用意に声を出した。男は私の方など見ない。ずっと下を向いている。私の首に汗が流れるのが分かる。
「灯は、殴ってない。首を絞めたことはあったけど、それは加減ができるんですよ。力の加減をして、痛みがないようにやっていたんです」
 汗を拭うために、首の付け根にハンドタオルを当てた。レナの首元の刺青は花束だった。この父親の手が、このポリエステルの布より柔らかなはずはない。
 後ずさりするようにゆっくり動き、彼と距離を取った。僅かであっても、この人との距離とりたい。目の前の男は、アパートの前の、照りつけるコンクリートの地面をずっと見ていた。
「そろそろ行きますね」
 私の声に「ありがとう」と言って、彼は立ち上がった。私たちの間には、三メートルほどの距離があって、身体的に危害を加えられる可能性は少ない。それでも、止まらない汗と、圧迫されるような息苦しさがある。不快だった。
 私は早足で道を歩き、振り返り、階段を見る。男はまだ座っている。歩いて、歩いて、角を曲がり、見えなくなったとき、熱気を帯びた地面を一気に走った。早くこの暑さを拭い去りたかった。
 無意識のような意識のままバス停まで歩く。乗り込んだバスから窓の外を見た。もし、あの男が居たら、と一瞬だけ頭に浮かんだからだ。私が座っていたバス停のベンチには誰もいなかった。私はそれを見て、ほっとしていた。
 アパートに入るとすぐに、エアコンの設定温度を三度下げた。こびり付いた暑さをエアコンの風が冷ましていく。身体が冷え、眠気が私を覆っていく。灯りが消えていくように、脳内がゆっくり機能を失う。私はベッドに潜り込んだ。

 スマートフォンのバイブレーションで、目が覚めた。のっそりと起き上がり、手に取った。画面中央の笹川さんの名前、画面上部の2315のデジタル表示、それを順番に見てから、通話ボタンを押した。
「はい」
 起きたばかりの縺れた声を、電話口に向けた。
「藤田さん?」
「はい、なにかありました? 」
「えっとね、今、大丈夫かな? 」
 笹川さんの声はいつもより速度が遅い。電話の後ろでラジオの音が聞こえる。閉店後の店内から電話しているようだった。わたしは、スマートフォンを持ったまま、ベッドから起きだし照明のスイッチを入れる。
「いやあね、新しい人、見つかったんだよ」
「新しい人?」
「受付で働く男の子」
「そうだったんですか」
 ああ、そうか、私はもう用済みだ。
「藤田さんが、まだ働いてくれもいいけれど、どうしようか? 最初三ヶ月だけってお願いだったから、そろそろ本業も忙しくなるかなって」
 歯切れの悪い言葉を聞きながら、ノロノロと冷蔵庫の前まで進み、扉を開けた。ミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。手のひらが冷えていく。蓋を開け一口、静かに呑み込んだ。
「ああ、そうですね、それなら退職します。次のシフト、次の金曜と来週の木曜、それまでで大丈夫ですか?」
「うん、そう、ありがとう、それでお願いね」
 一瞬、ふっと息を吐く音が聞こえ、笹川さんの期待通りの答えを言えたのだと知った。入ったばかりの私に、田所が行った「女だとやりにくい」と言う言葉は笹川さんも思っていたのだろう。次に入るバイトは男だと言っていた。
「本当にありがとうね」
 それだけ言って電話は切れた。耳に当てたスマートフォンからツーツーと機械音が聞こえる。私は手に持ったスマートフォンをベッドに投げた。
 もう一度、ミネラルウォーターを呑み込む。今度は何も気にせず、喉を鳴らして飲み込んだ。失業を知らせる連絡なら、もっと横柄に応じればよかった。
 水曜は確かレナも居たはずだ。彼女に今日のことをなんと言えばいいだろうか。伝えたい気持ちと、言葉を選ぶのが面倒な気持ちと混在している。
 あの男の、汗をかかない白い肌と、長い睫、色素の薄い眸を思い浮かべる。それはレナによく似たあの男の身体だった。

「辞めるんだってね」
 田所はそう言った。口元はニヤニヤとしている。私は「ええ」とか「ああ」とかだけ言って、待合室に促そうとした。
「寂しいね、あんた居なくなるの。あんたのこと、嫌いじゃなかったよ」
 そう言って、皮の剥げた財布を取り出した。今更、何を言っているんだろう、この人は。私は、こんなときに言うべき嫌みは思いつかない。黒ずんだ指が一万円札を取り出し、いつものように私に投げた。
「レナちゃんもいなくなるし、変わっちゃうよね」
「レナちゃん、辞めちゃったんですか?」 
「知らないの?」
 レナがいないのは、今日、都合が悪くなっただけだと思っていた。辞めたことを知らなかった。私より客の方が、店のことを知っている。辞めるときになっても外れ者だった。
「レナちゃん、もう来ないんですか?」
 これは私が、聞かれる側の質問だ。答えを知らされないのは、私が女だからではなく、私が後二回で辞めるからだと思いたい。田所はニヤニヤとした口元のまま得意げな表情を浮かべ、答えた。
「来ないみたいよ、あんた、知らせて貰えなかったんだね」
「そうみたいですね」
 待機しているスタッフに声をかけると、すぐに田所の方に向かってくれた。田所と女の子、二人の話し声はいつの間にか聞こえなくなった。
 待機の子がいなくなったまま、私は受付に座る。扉の開く音がした。
「すいません、ちょっと待っていただ……」
「おつかれさまー」
「マリさん」
 開いた扉から入って来たのはマリだった。時計を見ると、出勤予定時間はとうに過ぎていた。マリがシフトに遅れるのは、たまにあることだ。来るならそれでいいと、私は思っている。
「客いる?」
「田所さんが今来たところです」
「あー、アイツか。こんな時間だし、どうせアレ以外こないよね」
 マリはそう言って、私の後ろの長椅子に腰掛け、煙草を取り出した。せめて着替えてから吸ってくれと、以前言ったが変わらない。もう数回しかない見ることのできない彼女の一服を、黙って見過ごした。
「そういえばさ、レナちゃん辞めたの、知っている?」
「さっき、田所さんから聞きました」
「アイツ、誰にでもベラベラ喋るんだな」
「分かって、よかったです」
 マリは換気扇の方を向き、息を吐いた。こうやって、煙が上がっていくのを見るのも最後だ。グロスを塗った口火の間から、灰色のため息が漏れる。
「寂しいですね」
「何時までもいたら駄目だろ」
 吐き捨てるようにマリは言った。午後の店内に人が来る様子はない。ぬるい空気が漂う。客など来ないだろう。早く着替える必要なんかなかった。
「幸せになってくれるといいですね」
「なるに決まってんじゃん」
 吐き捨てるように言った。そして、煙草をもみ消し、私の方を見る。彼女の眸はレナとは違い、黒々と色づいていた。
 私は受付の椅子から立ち上がり、人ひとり分ほどのスペースを空け、マリアの隣に腰掛ける。それはいつもレナが座っていた場所だった。マリは、不審なものでも見るかのように、私を見る。
「私も一本いただいてもいいですか?」
「ああ、うん、いいよ」
 マリは緑色の煙草の箱を私の方へ差し出した。その箱は、いつもマリが吸っている物とは違う。レナが愛煙している銘柄だ。
「レナちゃんが置いてった、禁煙するんだって」
 煙を大きく吸い込んだ。灰色の空気が肺の奥の方に流れていく。こんなに苦かったかな。昔吸っていた煙草を思い出そうとしたけれど、分からなかった。

 川村さんは片付けの手を止めないまま、目だけ私の方に向けた。水洗いしたアダルトグッズを、ファスナー付きのビニール袋の中に乱暴に詰め込んでいる。
「女優帰った?」 
「はい、マネージャーが送ってきました」
「てっぺん越えんの今月、何度目だよー」
 ため息をつきながら、乱暴にアダルトグッズをファスナー付きの袋の中に投げ込み、ファスナーを締める。封をされたビニール袋の中にピンク色の電動器具が密集していた。
「今日、電車? 監督、送ってくから乗ってく?」
「いいですか、助かります」
「始発まで待つじゃ大変でしょ」
 現場が予想外に長引いた。訪問販売員に扮するAV女優が老人の家に行く企画だった。セットの畳の上に、川村さんはあぐらをかいて座っている。手元にはアダルトグッズを持ったままだ。
「どうよ、風俗の受付?」
「辞めました」
「辞めた? どうして」
 私も畳の上に座り、片付けの作業に加わる。作り込まれた部屋の中から、メーカーが備品として持参した物を探す。見つけた物は、ビニール袋に放り込む。
「新しい受付の人が見つかったので。元々、三ヶ月だけって話だったしいいかなって」
「やっぱ面倒だった?」
「そうですね。クソ客いるし、その割に暇なときは暇だし」
「まあ、そうよね、風俗なんて」
 今日の撮影は、アダルトグッズ販売員の女優が、一人暮らしの老人の部屋を訪問し、電動バイブとオナホールを実演販売するという突飛な企画だった。老人役の男優が使った湯飲みを手に取る。
「ああ、それも会社から持ってきた奴」
「片付けますね」
「ありがとう。コタツの周りの備品はだいたい会社のだから」
「了解です、その辺り片付けます」
 独居老人の部屋にある爪切りやら、コケシやら、エロ本やらを手に取り、ゴミ袋の中に放り込んだ。寂しい独居老人の散らかった部屋だ。田所がここに居ても違和感はない。
「川村さん、これもうちのですよね?」
 言い終わった後に、自分が『うち』と使っていたことに気が付く。外部のバイトの私にとって、川村さんの会社は『うち』ではない。川村さんは気にすることなく「そう」とだけ答える。
「そういえば、川村さんのとこは、新しい人見つかったんですか? 前、人足りないって言っていましたよね」 
「ぜんぜん、ハローワークだしても見つからない。やっぱエロビデオ屋は駄目だよねー」
 こちらを見ずに、作業を続けながら答える。パッキングされたアダルトグッズは増えていて、ピンクだの、白だのが積み重なっていた。
「私、採用受けてもいいですか?」
「うそ? うちの?」
「丁度、ライターの仕事も減ってきているし。いや、だめならいいんですけど」
「本気で言ってる?」
 川村さんは今度は手を止めて、こちらを見た。私は向けられた視線に驚き、作業を止めて川村さんを見た。目が合ったので、何度か頷いておいた。
「はい。本当に」
「いや、本気ならありがたい。本当に。明日、会社に言っとくよ」
 独居老人が住んでいた部屋は、生活感を無くし、ハウススタジオの一部になっていく。私は雑に物を詰め込んだゴミ袋の口を縛った。

セックスに乗せすぎている

飲み屋のカウンターに並び、その人は、女の子とヤれなかったと言った。
インターネット上で知り合った女の子で、セックスしたいけれどできなかった。わたしはその人が結婚していることを知っている。その人の妻が、彼が妻以外と性行為をしようとしていることを知っているかは知らない。そこまでして、なぜセックスしたいのかな、とわたしは思ったけれど、面倒で聞かなかった。

前にその人は、女の人に付きまとわれたと話していた。付きまとった人と性行為があったか、どんな関係だったか、知らないけれど、ヤッてもいいぐらいは思ってたんだろうな、とわたしは思った。
バカだなと思う。その人は頭のいい大学を出ていて、お金も稼いでいるけれど、わたしはバカだなと思う。セックスで身を滅ぼす人、私生活を壊す人は馬鹿だ。

セックスで駄目になった人を幾人も知っている。結婚生活を破綻させた人、傷つき、自暴自棄になった人、犯罪に巻き込まれた人、セックスに関わり、人生をダメにする人を幾人も見た。そのたびにわたしはバカだなと思った。セックスに、自分を滅ぼすほどの価値はないはずなのに。


◆セックスにたくさんの目的を乗せている

文春オンラインで記事を書いた。自慰行為に関するアンケート調査をまとめた記事。

bunshun.jp

 

bunshun.jp

その中で、今の20代、30代はセックスをしない人が多いこと、自慰行為をする際に使用するメディアは、実写のアダルト映像だけでなく、音声や二次元作品などもあることを知った。面白い。記事の最後、わたしはこうまとめた。

 セックスをしない人が増える今後、床オナ、脚ピンのような不適切と言われるオナニーをあえて楽しむ人がいてもいいと筆者は考えている。「ヤラハタ」とセックスをしないことに強迫観念を与えるのではなく、自分の性的快感を得る方法を、自ら柔軟に選べる時代がくるのではないだろうか。

 

記事の感想をみていると、セックスをしない20代、30代が多い事に対して、悲観的な意見がいくつかあった。だけどわたしは、無理にセックスをする必要なんてない気がしている。

そもそも人間はセックスに多くの目的を乗せすぎている。

射精したい欲求、オーガズムに達したい欲求は、人間の多くに存在している。一般的に性欲と言われる欲求がこれだろう。セックスにはまずこれが乗る。

それから相手への欲求が加わる。相手から認められたい欲求、受け入れられたい欲求、相手を思いのままにしたい欲求。それだけでなく、相手と関係を深めたい欲求。そんなコミュニケーションへの願望をセックスに乗せる。人によっては異性とセックスできた事実によって得られる自信や自尊心がセックスの目的になっていることもある。

それに加えて、セックスには、生殖の役割も乗っかる。それから、セックスには嗜好、好みのプレーも加わる。こんな行為をしたい欲求もセックスで満たそうとする。


いくつもの役割を乗せられて、セックスは不安定になる。
射精やオーガズムを優先したら、相手とのコミュニケーションが成り立たないかもしれない。生殖を目的にしたら、やりたいプレーをできないかもしれない。

目的を乗せすぎて、複数を遂行できない。そして、参加する側がお互いに(もしくは複数人すべてが)、目的を共有しているとも限らない。

だから、セックスには齟齬がでる。傷つき、トラブルになることもある。トラブルにならないようにしよう、それがセックスの第一事項じゃないか、とわたしは思う。そのうえで、自分と、他者の目的の達成、もしくは、妥協点を見つけるしかない。

 

◆セックスと自慰どちらも無意味ではない

わたしの書いた記事はYahoo!ニュースに転載されて、いくつものコメントが付いていた。納得できるもの、できないもの、発見になったもの、嫌になったもの、さまざまあった。その中で、ひとつ、よいな、と思ったものがあったので引用させてもらう。

セックスは相手への愛情表現。自慰は自分へのご褒美。どっちも要るんだよ!

わたしもそうだと思う。セックスが悪いとも、自慰が不要だとも思わない。どちらも適量に楽しむのであれば問題ない。ただ、セックスは相手がいる。自慰にはできない生殖やコミュニケーションができる反面、ともに行為を行う相手を傷つけるリスクもある。そして、その傷は、セックスの場面だけでなく、それ以外の生活にも波及する。セックスで人生が面倒になった人は、そこまでの影響を考えてなかったのだろう。

満たしたい欲求はセックスでなくては満たせないものなのか?無理にセックスに求めなくてもいいのではないか?コメントの人が言ったように、愛情表現のような、相手があるからできる行為であるとセックスを捉えることが、もっと自由に性を楽しめるようになる気がしている。

トランプ大統領を殺すのは熱狂的な支持者かもしれない

最近は、仕事は落ち着いて、以前よりはストレスもなくなりました。そうやって話し始めた後、わたしは、でも、続ける。昔のことを思い出して、怒りを抱いてしまうんです。それは退屈を紛らわすように、攻撃的で鋭い感情として、浮かぶ。そんな話を臨床心理士のカウンセラーにした。

攻撃の対象は幾人かいる。昔の上司、学生時代の指導者、先輩、友人。たぶん彼、彼女たちを信用していたんだと思う。信用していた人、この人の言う言葉は正しいと思っていた人、そんな人に期待外れたことを言われ、され、そうすると、それは、失望ではなく、怒りになってしまう。わたしの、あなたを正しいと思った気持ちを返してと言う気持ちになる。憎悪する。

 

◆トランプならば全て正しい

ゼロイチで考えてしまうからなんでしょうね、とカウンセラーは言った。全てが正しい人、もしくは正しくない人で考えてしまうから、自分の期待と違ったときに嫌悪感になる。この人は全て正しいと思う。たとえば、と言って、トランプ大統領と支持者のようにカウンセラーは言う。

トランプ大統領はいつでも全て正しいと支持者は思う。他国に爆弾を落としても、無茶苦茶な要求をしても、支持者にとっては正しい。トランプは全て正しい。だから、ドナルドトランプは一部の人間から非難されても大統領で居続ける。

わたしはカウンセラーと話しながら、いつかトランプ支持者も、トランプのことを憎む瞬間が来るかもしれない気がした。

 

◆熱狂的な支持者への恐怖

こんな感情を自分がもっているから、わたしは熱狂的な支持者が怖い。本を書いたとき、ありがたいことに読んでくれる人がいた。記事やブログを書くと感想を言ってくれる人もいる。嬉しい。文章を読んで、なにか思ってくれるのはとても嬉しい。だけど一方で、わたしを狂信的に好いている人がいたとしたらそれは怖い。好いてくれる瞬間はわたしのことをよいと思ってくれるのだろう。だけど、なにか、彼、彼女たちを失望されるものがあったならば、彼、彼女らはわたしに憎悪を抱くかもしれない。

だから、わたしは、文章に対しての感情ーー好き、嫌い、面白い、つまらない、共感できる、分からない、どんな感情であっても、なにか思いを抱いてくれたら嬉しいけれど、書き手のわたしに対しては、何も思わなくていい。

そもそもわたしは、読んでくれる人たちが想像するよりも、ずっとつまらない、退屈な人間であるような気がしている。自分の脳内を文章にしたいだけ。勉強と練習をしているから、たまたま読むに耐えるものが書けているだけで、魅力のある人間でも、才覚のある人間でもない。

わたし自身を好きになる必要ない。それは、わたしが一方的に信用し、憧れてしまう側の人間だから思う。その後の失望を想像できるから、そうやって思う。わたしはあなたの思うわたしじゃないかもしれない。

 

◆過剰な期待の後の憎悪

今、わたしは、また失望しそうになっている。憎悪しそうな知人がいる。その人のことは、素敵だと思っていて、憧れてもいた。考えの深い、聡明な人だと一方的に思っていた。だけど、最近、彼女がわたしの思うような人でないと思うことが増えた。

異なる立場の人に対して、バカにしているのかな、下に見ているのかな、と思うことが幾度かあった。そう思ったきっかけは、インターネット上にした投稿で、直接会った際に言われたわけでも、わたしに向けて言われたわけでもない。それでも、彼女のインターネット上のログを見て、嫌だなと思う。嫌だけど、見てしまう。

わたしは彼女を、勝手に、寛容な人、視野の広い人と思っていたけれど、違うのかもしれない。勝手に、そう、勝手に彼女をよく解釈していた。それは凄く身勝手なこと、身勝手によく思ってしまっただけなんだ。

トランプ支持者の一部はいつか、トランプを殺したいほど憎むかもしれない。だけど、殺してはいけない。あーあー、いいところもあったけど、ダメなとこも多い奴だったな、トランプってさ、と笑って、過去の自分の愚かさを自覚しないといけない。失望しそうになっている人だって、わたしが過剰によく思っていただけ。いいところばかりではないし、素晴らしいだけの人じゃない。思っていたよりも大したことないんだ。

やさしい依存、ぽこあポケモン

最近はゲームばかりやっている。
ぽこあポケモンというゲーム。

www.pocoapokemon.jp

 

 

 

 

3月上旬に購入し、4月28日時点で、135時間プレーしていた。完全に依存している。ポケモン依存だ。

そもそも依存とはなにか、厚生労働省のサイトによると以下の様にある。

特定の何かに心を奪われ、「やめたくても、やめられない」状態になることです。

www.mhlw.go.jp


やめたいとは思わない。思わないが、毎日やりたい。ついゲームを手に取る。依存かもしれない……だが、やめたいと思うことはない。

そもそも、ぽこあポケモンは時間がなくなる以外のデメリットがない。依存という言葉でイメージする事象……アルコール・薬物・ギャンブルなどは、金銭を失ったり、健康を害したり、人間関係を壊したり、依存することで、何かしらの負担を強いられる。


だが、ポケモンは時間を失う以外のデメリットがない。
睡眠不足や眼精疲労により健康を害することはあるが、それ以上のデメリットがない。
お金はゲームソフト代金の8,980円以外使っていないし、ラインの返信は遅くなったが、それ以外に周囲に迷惑をかけたりもしていない。依存というには、あまりに失うものが少ない。


◆止めるタイミングを示してくれる

時間を使い睡眠不足や眼精疲労が起きると言ったが、それでも、たとえば、仕事や大切な予定をすっぽかしたり、やるべきことが出来なくなるほどののめり込みはない。そもそも、ぽこあポケモンは、止めるタイミングを示してくれる。
それを説明するためには、そもそも「ぽこあ ポケモン」とはどんなゲームかを伝えなくてはいけない。

 

「ぽこあポケモン」はプレイヤーが主人公メタモンになりきって、荒廃した街を再生していくゲームだ。メタモンはさまざまなポケモンに変身できる。草を生やすポケモン、水をかけるポケモン、地面を耕すポケモン……ゲームで出会う様々なポケモンになりきって、草を生やし、地面を耕し、花や作物を育て、他のポケモンたちと共に街を作っていく。


バトルゲームでも、RPGでもない。ただ、もくもくと街をつくる。とても地味なゲームだ。そして、街をつくる作業は待ち時間がかかる。ゲームを進めると特定のポケモンにしかできない作業がでてくる。木を切って丸太をつくる、ねんどを燃やしてレンガをつくる、鉄から鉄の棒をつくる。そんな作業はポケモンに依頼するが、すぐにはできない。「作るからちょっと待っててね」。そんな言葉と共に、数十分待たせる。

建築が得意なポケモンに頼んで、ポケモンセンターや家を建築することもできる。だが、これも時間がかかる。ゲーム画面は完成時間を表示する

「完成は明日です」
これは現実世界でわたしたちの生きている時間での明日だ。そう、明日まで待たないとゲームが進まない。このゲームでは、一日で出来ることが限られている。

「ゆめしま」という貴重なアイテムが手に入る場所がある。そこに行けるのは一日一回まで。
一日一回のみ、スタンプを押してもらえて、たまったらコインがもらえる。
日々更新されるミッションがあり、それをクリアしたらコインがもらえるが、それも一日三個のみ。

少しずつしか進められない。RPGゲームを徹夜で進めてクリアするようなことは出来ない。「明日完成です」の文字を見て、セーブして辞めることができる。睡眠不足にはなるけれど、10時間以上ぶっ続けでやったりはしない。一日で出来ることは限られているから、毎日毎日、飽きもせずにプレーしている。「やることやったし、やめるかー」ができるゲームだ。


◆こころが満たされる

テレビゲームのなかには、暴力的な描写があったり、射幸心を煽ったりする内容のものもあるだろう。ぽこあポケモンには一切ない。前述した通り、もくもくと街をつくる地味なゲームだ。バトルもないし、危機もない。ドキドキすることもないし、ワクワクして興奮するドーパミン的な楽しさはない。

興奮や刹那的な楽しさはないが、コツコツ作っていった街が完成し、荒廃した土地が綺麗な街並みになったときの達成感はある。日々の積み重ねが実を結ぶ達成感は他のゲームにはない。

ポケモンたちと交流する楽しさもある。ポケモンにはそれぞれに住処があって、それぞれの住み心地がある。ポケモンに話しかけて、住み心地を尋ねると、要望を伝えてくれる。それを叶えると、喜び、感謝を伝えてくれる。これが嬉しい。だれかの望みをかなえ、感謝されるという人間の根源的な欲求をポケモンたちは満たしてくれる。
普段、日常生活で人から感謝されることはどのぐらいあるだろうか? 大人になれば、そんな機会は少なくなる。なにかしたとしても「あたりまえ」で済まされてしまう。その「あたりまえ」を「あたりまえ」で済ませず喜びを伝えてくれるのがポケモンだ。辛い日々で満たされない感情を満たしてくれる。


やさしくされたい、認められたい、ほめられたい。そんな感情は人間であれば、当たり前に持っている。だが、それを満たされる機会は残念ながら少ない。労働では、金銭の授受が「ありがとう」の代わりになる。家族の間では、当たり前の行為になってしまう。

そうやって、満たされない気持ちを抱えた人が、自分の気持ちを満たす、もしくは満たされない現実をごまかすものとして、依存があるのかもしれない。ぽこあポケモンはあまりに簡単に、満たされる。達成感と感謝される嬉しさがある。みんなぽこあポケモンやろう。

ポケモンと一緒に写真も撮れる

 

AV男優感溢れるポケモンもいるよ



 

『もし』を考えない身軽さ

変なおっさんが家に来てケンカばっかり

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変なおっさんはわたしと同じ年だった。わたしが同じ立場だったらどうだろう。好きな恋人がいて、相手が過去結婚していたことは知っていた。会う瞬間は恋人同士で、戯れあい、笑い合う。だけど、ある日、恋人と結婚するために、恋人の子供に会い「変なおっさん」と言われる。ショックだろうな。大人なんだから、三十すぎてるんだから、世間の意見は分かる。でも感情として、ショックだと思う。

女が男から言われて一番嬉しい言葉は女房になってくれだと、昔、白石一文が書いた本で見かけた。逆に男が女から言われて一番嬉しいのは、いざとなったら食わせてあげるだとも書いてあった。

男女関係において決定的な殺し文句が男女それぞれに一つずつある。

 男のそれは当然ながら、

「俺の女房になってくれ」

で、この一句に気持ちを揺らさない女性は一人もいないだろう。

 だが、女性の側からの殺し文句は意外に知られていない。というよりも、そんな一句が本当にあるのかと首を傾げる女性が多いに違いない。  

 当の肝腎の一句は以下の通り。

「あなたが駄目になったら、そのときは一生私が食べさせてあげるから」

 この言葉を説得力を持って口にできる女性は必ず結婚できると私は断言する。

結婚に対して、多くの人が持つ感覚はそうなのだろう。相手を食わせる、の言い換えとしての結婚。だからこそ、相手の生活に責任など持つ気のない、食わせる気もないダメな人間が、気持ちを引き留めるためだけに、結婚しようと言い、それに騙される哀れな話が成り立つ。お互いの生活に多少なりとも責任を持つ感覚があり、大概は、一対一の関係で成り立つ。
ステップファミリーの難しさは、そこなのだろう。一対一ではなく、一対二、もしくは三、四……一の側が支え切れるか、不均等な約束と思ってしまわないか。


◆ステップファミリーはなぜバッシングされるのか?

嫌な事件があって、ステップファミリー、とくにシングルマザーとの結婚へのバッシングをよく目にする。嫌だなと思う、ステップファミリーでうまくいっている人はいる。上手くいかない一部を持ち出して極論だと思う。
思うけれど、なんとなくバッシングしたい気持ちを持ってしまうのは、どうしてだろう。好きで生んだんだから、という自己責任論?自分は慎重に人生を歩んでいるのにという気持ち?なぜだろう。


わたしと同じ年の『変なおっさん』は、わたしと同じ時間を生きている間に結婚して、子供を持って、離婚して、再婚して、再婚相手の子供を殺した。何度も結婚できる、子供も持てる、人生の節目へのハードルが低い。人生の展開が早いなと思う。

プライベートの新しい出来事がポンポン起きて、人間関係が目まぐるしく変わる人はたまにいる。恋愛や結婚にハードルがない。腰が重くない。わたしは人生の展開が早い人が羨ましい。わたしも含め、多くの人が臆病で、新しい環境に飛び込めない、もし失敗したら、と思う。

新しい環境であっても就職や進学をすることに迷いはない。仕事をしなければ、経済的に生きていけないからするしかない。そして就職するために勉強を頑張るしかない。だけど、恋愛や結婚は、しなくても生きていける。学生時代は、恋愛に対して、そんなものするなとも言われた。恋愛は余計なものとされてきた。

余計なものとされてきた恋愛をして、結婚して、家族を抱えられる。結婚という重い約束を選択する。無駄なものと思い込まされてきたものを、わざわざ何度も取りに行けるところが羨ましい。
離婚経験のないわたしが、離婚経験者に抱くイメージは、身軽さだ。気軽に人生を捉えられる身軽さがあり、身軽さゆえに好きなように生きているように見える。その身軽さが羨ましい。


◆展開の早い人生を送る人たち

わたしはシングルファザーと恋愛をしたことはない。
だから想像してみる。もしも恋人の子どもが懐いてくれたら、一緒に遊んでくれたら嬉しいかもしれない。だけど、もし、「変なババア」と言って、恋人の周りの人間にわたしの悪口言っていたら、耐えられないな……耐えられない。わたしはシングルファザーと仮に出会っても、その『もし』を考えて、恋愛よりももっと前の段階で足踏みしてしまう。
身軽で、展開の早い人間はそんなことがない。『もし』で悩まない。だからきっと、シングルファザー、マザーの心を救いもしたし、ステップファミリーとしてたのしい家庭も築けた。臆病な人間ならば、その人間の内面を見る前に恋愛対象ではないとして除いてしまう人間とも向き合える。『もし』を考えないのは、長所でもある。だけど、『もし』を考えないから、重さを増していく不均等な約束に耐えられなくなってしまうこともある。

臆病で、『もし』ばかりを考えている私たちが、うまくいかなかった人たちと、うまくいった人たちとすべてをひとくくりにして『ステップファミリーは悪』と言ってしまっていいのだろうか。
『もし』を考えず展開の早い人生を歩む人を、『自己責任』と糾弾してしまうのは、わたしたち自身をより臆病で、身軽ではない存在にさせてしまわないか。『もし』を考えないで行動するのは、軽率で、恥ずかしい行為、やってはいけない悪と、決めつけられた社会では、わたしたちは何もできなくなってしまう。


子供を殺すのはよくない。絶対悪だ。
だけど、その起きてしまった『もし』ゆえに、起きてない状況まで非難する人たちに辟易としている。

あの子は育ちが悪いから

朝、NHKのドラマを見ていた。

主人公は没落した士族の娘。父が死に、家を支えるために18歳年上の男の元へ嫁に行く。夫になるのは、足軽出身で、運送業で成り上がった男。祝言のシーン、男の前に並べられた膳が映る。それは食べ終わった後の鯛の姿焼きで、白い身が骨の上にバラバラに散らばり、綺麗とは言えない食べ方だった。その後、ドラマは主人公の結婚生活に映る。夫は、無口で、ぶっきらぼう。教育を受けてないようで、文字は読むことはできない。夜になると酒に溺れ、暴れ、悪態をつく。士族の娘だからってバカにしてんだろ。夫は叫ぶように主人公に言った。

見ていて、嫌な気持ちになった。暴言や暴力的なシーンがあったからだけじゃない。育ちと暴力が結びついたような気がして嫌になった。それは、私が潜在的にもっている偏見だ。昔、養護施設から通っている同級生にいじめられた話をブログに書いた。

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私は彼女と二人きりになったとき、わざと施設の話を聞いた。中学生の頃、わたしは、覆りはしない彼女の育ちを、やり返すための材料にしようとしていた。あのこは施設の子だから意地悪する。そうやって、憤りを納め、なんとかやり過ごそうとしていた。あの子は育ちが悪いから。そうやって、自分が我慢する材料にしていた。

 

◆自分から見える母の嫌な部分

私は普通な側で、私の普通から逸脱した人はおかしな人。そうやって思ってしまうときがある。普段、差別はいけない、共存しないといけない。寛容でありたい、と思っている。そうやって思う傍らで、誰かに苛立ったとき、納得できないことをされたとき、言われたとき、自分と異なる部分を取り出して、あんな人だから、と納得させるときがある。

その部分は、私が嫌いな母と似ていた。母は、自分の常識から逸脱する人を嘲笑する。近所にシングルマザーの女の子がいた。彼女の母親が派手な服を着ていたのを見て、母親なのにいい年してあんなかっこしてね、と言って嫌な顔をして笑っていた。親戚の女の子の結婚式に、その兄弟が来なかったときには、兄弟なのに可笑しいよね、と嘲笑していた。母の常識から逸脱すると笑われてバカにされる。そうやって大人まで生きてきたわたしは、わたしに染みついた常識と違う人に、酷いことをされたとき、言われたとき、あの人は可笑しいよね、とバカにして、笑って、納得しようとする。その仕草は、派手なシングルマザーや兄弟の来ない結婚式を笑う母のようで嫌になってくる。

 

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◆差別して納得して怒りを収める

嘲笑は、余裕がないときに出てくる。いじめられたとき、嫌なことを言われたとき、されたとき、そんなときにでてくる。あの場所の出身だから、親がああいう人だから、生まれた家庭がああだから、あんな仕事しているから、学歴がああだから……それだから、あんなことするんだろうな可哀想。何か嫌なことをされたとき、自分の考えるその人の普通じゃない部分を持ち出す。あんなバックグラウンドがあるから、嫌なこと言うんだ、と思い、対等に接するのはバカバカしいと思い込ませようとする。納得させる。

違う人も受け入れよう、寛容になろうと、思っている。思っているけれど、違う人に、嫌なことをされたとき、わたしは、その違いを持ち出してしまう。悪いのは、その行為であり、その発言であり、その人個人なのに……あの人は育ちが悪いからと、示すドラマのプロットのように、その属性とその嫌な部分を結びつけてしまう。

 

◆自分に染み付いた嫌な部分

私は、私に染みついた、この差別的な感情をどうしたらいいのだろう、と思っている。差別はいけないと言った口で、差別をしている。そして、いじめっ子に施設の話をしたときのように、無知をふりをして、酷いことを言いたいと思う瞬間が今でもある。反論できない方法で、やり返してやりたいと思ってしまう。せめて本人に悟られないようにしたいのに、傷つけたい欲求が、差別はいけないという倫理を上まわる。やさしい人になりたい。

 

ゾスの世界

ゾス???

言葉の意味が分からなかった。

テレビを見ながら考える。ゾスって何?

 

最近見た、お笑い芸人ロングコートダディの万引きのコントみたいだった。コントの中では、スリルが欲しくて万引きした主婦と、スリルの意味が分からない店長が出てくる。

「スリル……とはどう書くんですか?漢字は?」

「スリルとは、あなたにとっての神様みたいなものですか?」

「この商品がスリルなんですか?」

店長役は要領を得ない質問を繰り返す。テレビを見ながら混乱する自分は、コントの中の店長に自分みたいだ。

ファッションゾス?ゾスに染まりきれてない?ゾスは概念?でも?画面の中で、ゾスゾス言い合っている。ゾスってなに??理解できない。これは薬物や新興宗教の被害者の話ではなく、企業のドキュメンタリーなのに。

 

ザ・ノンフィクションの「今どきじゃない会社で夢みる僕と私の新入社員物語」を観た。

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テレビの中の企業は、挨拶が『ゾス』だ。お疲れ様です、おはようございます、はい分かりました、全て『ゾス』で通じている。

それだけじゃない。ゾスを概念のように語る。退職した社員にインタビューすると「ファッションゾスだった」「ゾスに染まりきれなかった」と語る。え、なに?コント?ドキュメンタリーと銘打ったコント?だけど、ノンフィクション――事実だ。「ゾス」の会社は、存在するし、『ゾス』の挨拶もみんな言い合っている。

 

◆異様に見える『ゾス』の世界

『ゾス』の会社は元気がいい。

朝礼では叫び、テレアポではハイテンション、飲み会では歌い、踊る。

「ありがとうございます!!!!社長!!石原さとみが来ると思って楽しみにしていてください」

トップ営業マンの女性は、元気よく電話口で話していた。テンション高い……正直、友達がこんな感じだったらウザいな。だけど、わたしは、この風景に既視感があった。わたしが大学をでて最初に入った求人広告の代理店そっくりだ。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

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わたしの昔いた会社の営業たちは、テレビの中の営業たちのように、ハイテンションでテレアポをする。「お世話になっています!!!」という声がフロア内から幾つも響く。近くで聞いていたら、耳が痛くなるような声量だ。

営業マンたちは常にテンションが高く電話をして、アポイントのためにフロアを飛び出していく。元気がいい、と言えば、聞こえがいいけれど、暑苦しいとか、うるさいとか、そんな形容もできる人たちだった。そして、成績のいい営業マンほど、テンションが高かった。

わたしのいた会社では『ゾス』とは言ってなかったけれど、この雰囲気が『ゾス』だと言われたら納得できる。テンション高く、暑苦しい営業マンたちのいる雰囲気。馴れ馴れしくて、うるさくて、ウザいけれど、元気がいい雰囲気。それが『ゾス』ということか?そして、その雰囲気『ゾス』を合言葉のように、挨拶にも使っている……のか? なんとなく『ゾス』を理解した気がする。そして、彼らのようなビジネスマンと接していて、気持ちがいい、元気になれるという経営者たちもいるだろうことも想像できる。

 

◆傍で見ていた『ゾス』の世界

わたしは『ゾス』の雰囲気の会社に馴染めなかった。今でも苦手だ。番組を観ながら、昔を思い出し嫌な気分になった。

テレビの中の会社は、ハイテンションで、勢いのあり、社員同士の距離が近い。一方で、成績が振るわない社員には厳しい。番組の中でも、ノルマ達成できない社員が他の社員の前で糾弾されるシーンがあった。ノルマを達成することが正義で、それができないと高圧的に糾弾される。

それはわたしの昔いた会社でも同じだった。受注件数はホワイトボードに張り出され、達成率を朝礼で発表する。出来ない社員は恥をかき、上司からは糾弾されることもある。

わたしは制作職だったので、営業ノルマはない。それでも、『ゾス』の文化に対して、いい印象は持てなかった。営業社員がノルマに追われ、糾弾されている姿を横目で見ながら、「怖い」と思っていた。わたし自身も広告の制作数というノルマに追われ、精神的に追い詰められていった。

 

◆『ゾス』が活きる場所

だけど、その『ゾス』な雰囲気にいた経験が活きたことがある。それは営業職に就いてからだ。著作にも書いたが、元々営業志望ではなかった。

 

営業職の同僚が退職し、成り行きで営業になった。

自分に適正があるとは思えなかったが、それでも10年も営業を続けられたのは、見本としてのあの会社の『ゾス』な人たちがいたからだと思う。

わたしの考える営業マンのイメージが、元気よく、テンション高く、若々しいという像だった。わたしは、営業の最中に、昔見た『ゾス』の人たちを演じていた。

至らない部分も多い営業だったと思う。細かなミスはいくつもした。それでも、営業先で嫌な思いをすることは少なかった。大半はよい思い出で、営業先の人にはよくしてもらったことばかりだ。成り行きで営業になったわたしだったけれど、明るく、元気のいい営業を演じきったから、10年も営業で楽しくやりきることができた気がしている。

エロビデオの営業は特定の販売店を巡るルート営業だ。飛び込み営業は少ないし、第一印象の良さだけで判断されるわけでもない。それでも、元気がいい、勢いがあるは、長所になる。その見本として『ゾス』の営業マンたちがいたのは、わたしにとっては助けになった。

 

◆今に最適化した『ゾス』はないのか?

役立つ部分もあったけれど、わたしは、昔いたあの会社に戻りたくはない。在籍中は、精神的に追い詰められていて、退職した直後は、恨んでもいた。社員同士の距離が近く、テンションが高く、一方で、結果がすべてで、成績の振るわない人は糾弾する。そんな文化は間違っているし、危険だとも思う。わたしのように追い詰められる人もいるだろう。なかには、退職後に逆恨みする人もいるかもしれない。

わたしはあの番組を観て思ったのは『ゾス』をブラッシュアップした方がいい気がした。たしかに、元気よく、テンションあげて、何十件もテレアポする、その営業手法が結果がでやすい。だけど、それを出来ない人、やっても結果が出ない人をフォローする仕組みも必要なのではないか。ただただ糾弾し、ついていけない奴は辞めろと言う。そんな風に、振り落とされた人たちの人生を踏みにじってもいいとは思えない。

元気がよく、夢中になり、転んだ人にも手を差し伸べる組織だったなら、わたしも嫌いにならないですんだのかもしれない。ゾスの文化がブラッシュアップされた企業はこれからどこかで出てこないのか。