多くの親は子どもを受験の勝者とするためにさまざまな戦略を練り、なぜ勉強しなければならないかの説明言語を用意する。そこにはいささかの差別感がひそんでいる。だからこそ、理想や幸福、やりたいことを実現させるといった価値を強調するのだ。ところが本章に登場した母は、成績が悪いことは頭が悪いこと、バカは生きる価値がない、あんたはそうなりたいか、といったむき出しの言葉を娘に吐き出すのだ。恥ずかしげもなく、時には陶然として憎悪と差別の言葉を娘に向かって口にする母親たちの姿に触れると、息が詰まる思いがする。
生きる価値のない人間が存在するという考えは、優生思想そのものではないだろうか。不幸な事件や戦争を経験することで、私たちはどのような人間にも生きる価値があるというヒューマニズムの原則だけは死守してきたはずだ。にもかかわらず、多くの母親たちがあっけらかんと差別を肯定し、勝者になることにしか価値がないと娘に伝えている。
母親は子どもに差別や偏見を植え付けることがある。今読んでいた本に書いたった。
わたしだけじゃないんだ。読んだ瞬間、わたしは思った。
子どもの頃、母から悪口を聞かされた。親戚の人、近所の人、母の周りの人の悪口を聞かされた。派手なシングルマザーを母親なのに、と嘲笑し、ダダを捏ねたわたしを見て、「○○さんみたい」と悪口を言っていたヒステリックな親戚の女性を引き合いに出した。「段ボールおじさん」と、ホームレスを卑下していった。下に見ていい人を、わたしは母から感じ取っていた。それは、わたしだけでなくて、多くの子どもがすることだった。
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差別はいけない。面倒な人だな、嫌だなと思っても、その人なりの事情があってのことで、受け入れなくてはいけない。そうやって、道徳を教わってきたわたしたちなのに、当然のように、差別をしている。公に言わない。家族だけに、子供だけに、親しい人だけに、インターネット上だけに、そっと、その差別を伝え、それはなくならず、引き継がれていく。
◆殺してもいい人だったのか
津久井やまゆり園の事件から10年が経った。19人の人間を殺した植松聖は「わたしが殺したのは人間ではない」と言ったと、新聞に書かれていた。記事では、植松聖と接見しつづける元職員の方を紹介する。「他者を選別しようとする感情を問い続ける必要がある」と元職員の方は話す。
www.nikkei.com
植松聖にとって、面倒な人だな、嫌だなと思う人がやまゆり園に入所する人たち、障害をもつ人たちだった。人間ではない、殺してもいい、尊重しなくていい。そうやって思う相手が障がい者たちだった。事件当時都知事だった石原慎太郎がこの事件に関して、「犯人の気持ちが分かる」と発言し、批判されていた。
www.huffingtonpost.jp
植松聖の持つ感情はわたしたちの中に巣くっている。他人事ではない。面倒な人だな、嫌だなという感情は、だから、「殺しても許される」につながっている。
◆『差別をしてはいけない』の中に全ての人が入っているか
わたしは違う、と言う人もいるだろう。差別はいけない。ハンデキャップのある人、マイノリティな人と共存しなくてはいけない、と。だけど、その、あなたの言う、『差別をしてはいけない』の中に全ての人が入っているだろうか。
よく読むブログがある。著者の女性には、外国籍の恋人がいて、その恋人との日々や、昔留学した思い出を語る。引き込まれる文章だった。海外によく行き、グローバルな価値観を持っている女性だ。ブログには、「日本人ファースト」と声高に叫ぶ政治家たちを批判的にとらえていると綴られていた。わたしは彼女の書くその文章に共感した。外国籍の人たちに排他的な感情を持つ一部の人を、わたしもよくは思えない。差別だと思う。
だけど一方で彼女は、「日本人ファースト」と声高に叫ぶ政治家たちに向けるような鋭く、批判的な視線をAV女優に向けてもいた。それも、特定のAV女優の考え方や思想に向けて、ではなく、AV女優の存在自体に向ける。
身体を売りブランド品を買うことを批判し、身体を売らずに同じものを買う自分が損をしていると書き綴る。そして、男性の性的眼差しを享受するAV女優がいることで、自分たちも性的眼差しを向けられる、と憤る。AV女優がモデルを務めるアパレル商品をもう買わないと言う。
mochi-mochi.hateblo.jp
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◆正しくない世界でどうやって生きるのか
わたしは、AV女優をバッシングするその文章を読みながらぐったりとした。
性的眼差しを好きではない異性から向けられる、それを嫌に思う気持ちは理解できる。だけど、悪いのは、誰それ構わず、女性であるだけで、性的に見る男性であり、それを金銭の授受を理由に受け入れているAV女優ではない。あなたはあなたを性的に見る男性を批判してもいい、だけど、あなたの嫌がることを嫌じゃないという女性まで批判する必要はあるのだろうか。
それにわたしは、たくさんのAV女優たちを知っている。もちろん中には、彼女の言うように、ブランド品を買ったり、ホスト遊びをしたり、豪遊するために、稼いだ金を使う女性もいる。だけど、それだけでなく、恵まれているとは言えない家庭に生まれ、勉強もさせてもらえず、それでも目標を叶えるために、AVの世界に行く人もいる。
AVで稼いだ金で、学校に進学したり、勉強をしなおしたりする人もいる。AVに出たから手に入れた経済力をもって、AVに出なかったらできなかったことをした人たちも幾人もいた。
女の子が身体を売らなければ、学べない世界は正しくないかもしれない。だけど、その正しくない世界に、今、生きている人たちは、どうしたらいいの?とわたしは問いたくなる。世界は変わらない。小さな個人が変えることはできない。そのなかに、やれる方法をとるしかない。やりたいことをするために身体を売るしかなかった。それなのに、その方法自体をとりあげるの? それでも、あなたがしていることは差別ではないと、言えますか、と。
◆「わたしが殺したのは人間ではない」
ブログの著者は、結婚や子育てのことも語っていた。いずれはもしかしたら、お母さんになりたいと思っているのかもしれない。そのとき、子どもに、なに語るのだろうか。きっと、外国出身の人とも仲良くしなさい、差別はいけません、と言うだろう。子どもは、国籍の違う人とも分け隔てなく接して、友達ができるかもしれない。
だけど、身体を売る女の人のことは? 人間のクズ、いなくなればいい人、そんな風に言う? もしかして、人間ではない、と言ってしまうかもしれない。そうやって、お母さんに言われたとき、隣にいる子供は、どう思うだろう。もしかしたら憎悪が募り、AV女優たちを殺すのかもしれない。そして、こうやって言うのかもしれない。「わたしが殺したのは人間ではない」と。植松聖のように。