朝、NHKのドラマを見ていた。
主人公は没落した士族の娘。父が死に、家を支えるために18歳年上の男の元へ嫁に行く。夫になるのは、足軽出身で、運送業で成り上がった男。祝言のシーン、男の前に並べられた膳が映る。それは食べ終わった後の鯛の姿焼きで、白い身が骨の上にバラバラに散らばり、綺麗とは言えない食べ方だった。その後、ドラマは主人公の結婚生活に映る。夫は、無口で、ぶっきらぼう。教育を受けてないようで、文字は読むことはできない。夜になると酒に溺れ、暴れ、悪態をつく。士族の娘だからってバカにしてんだろ。夫は叫ぶように主人公に言った。
見ていて、嫌な気持ちになった。暴言や暴力的なシーンがあったからだけじゃない。育ちと暴力が結びついたような気がして嫌になった。それは、私が潜在的にもっている偏見だ。昔、養護施設から通っている同級生にいじめられた話をブログに書いた。
私は彼女と二人きりになったとき、わざと施設の話を聞いた。中学生の頃、わたしは、覆りはしない彼女の育ちを、やり返すための材料にしようとしていた。あのこは施設の子だから意地悪する。そうやって、憤りを納め、なんとかやり過ごそうとしていた。あの子は育ちが悪いから。そうやって、自分が我慢する材料にしていた。
◆自分から見える母の嫌な部分
私は普通な側で、私の普通から逸脱した人はおかしな人。そうやって思ってしまうときがある。普段、差別はいけない、共存しないといけない。寛容でありたい、と思っている。そうやって思う傍らで、誰かに苛立ったとき、納得できないことをされたとき、言われたとき、自分と異なる部分を取り出して、あんな人だから、と納得させるときがある。
その部分は、私が嫌いな母と似ていた。母は、自分の常識から逸脱する人を嘲笑する。近所にシングルマザーの女の子がいた。彼女の母親が派手な服を着ていたのを見て、母親なのにいい年してあんなかっこしてね、と言って嫌な顔をして笑っていた。親戚の女の子の結婚式に、その兄弟が来なかったときには、兄弟なのに可笑しいよね、と嘲笑していた。母の常識から逸脱すると笑われてバカにされる。そうやって大人まで生きてきたわたしは、わたしに染みついた常識と違う人に、酷いことをされたとき、言われたとき、あの人は可笑しいよね、とバカにして、笑って、納得しようとする。その仕草は、派手なシングルマザーや兄弟の来ない結婚式を笑う母のようで嫌になってくる。
◆差別して納得して怒りを収める
嘲笑は、余裕がないときに出てくる。いじめられたとき、嫌なことを言われたとき、されたとき、そんなときにでてくる。あの場所の出身だから、親がああいう人だから、生まれた家庭がああだから、あんな仕事しているから、学歴がああだから……それだから、あんなことするんだろうな可哀想。何か嫌なことをされたとき、自分の考えるその人の普通じゃない部分を持ち出す。あんなバックグラウンドがあるから、嫌なこと言うんだ、と思い、対等に接するのはバカバカしいと思い込ませようとする。納得させる。
違う人も受け入れよう、寛容になろうと、思っている。思っているけれど、違う人に、嫌なことをされたとき、わたしは、その違いを持ち出してしまう。悪いのは、その行為であり、その発言であり、その人個人なのに……あの人は育ちが悪いからと、示すドラマのプロットのように、その属性とその嫌な部分を結びつけてしまう。
◆自分に染み付いた嫌な部分
私は、私に染みついた、この差別的な感情をどうしたらいいのだろう、と思っている。差別はいけないと言った口で、差別をしている。そして、いじめっ子に施設の話をしたときのように、無知をふりをして、酷いことを言いたいと思う瞬間が今でもある。反論できない方法で、やり返してやりたいと思ってしまう。せめて本人に悟られないようにしたいのに、傷つけたい欲求が、差別はいけないという倫理を上まわる。やさしい人になりたい。