オナホ売りOLの平日

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ムハンマドの風刺画に怒ったとしても許さなくてはいけない

今年10月、フランスで、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を授業で紹介した教師が殺される事件があった。どんな表現であっても、それを理由に危害を加えられることはあってはならないとわたしは考えている。だから、この事件を聞いたときは、とても嫌な気持ちになったし、日本でこんなことが起きたら嫌だなとも思った。

 しかし、風刺画を公にすること、それ自体に問題があるという考えもある。ちょっと前に、新聞に、マレーシアのマハティール前首相がこの事件に関して表現の自由を主張するマクロン大統領を批判していた。

マレーシアのマハティール前首相(95)はクアラルンプールで日本経済新聞のインタビューに応じた。「人を罵る表現は『表現の自由』に値しない」と指摘し、

フランスの風刺週刊紙イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載した行為を「表現の自由」だと擁護するマクロン仏大統領を批判した。

 

www.nikkei.com

 

 マクロン大統領は「フランスには冒涜する自由がある」と述べたとニュースになっていた。

www.sankei.com

 

フランスのマクロン大統領は1日、2日付の風刺週刊紙シャルリー・エブドが、かつてイスラム教徒の反発を招き2015年の同紙本社襲撃テロのきっかけとなったイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載したことをめぐり「フランスには冒涜する自由がある」と表明した。

人が人を冒涜する自由などあるのだろうか。冒涜されたからといって、暴力を用いて報復をしてはいけない。しかし、報復がないからといって、冒涜していいのだろうか。冒涜や誹謗中傷はやってもよい行為なのか。

表現を自由するはある。そして守られなくてはならない。どういった表現であっても規制されてはならない。極論にはなるが、表現規制が起こることで、戦前の言論統制のようなことが起こり、国家や民族が極論や極端な行動に陥ってしまう可能性もある。しかし、表現の自由があるからといって、人の悪口を言ったり、意図的にバカにしたり、精神的に傷つけたりしていいという訳ではない。

批判をしてはいけないわけではない。国家の批判も、誰かの言動に対しての批判もしてもいいはずだ。しかし、言及される側は怒り、悲しむだろうという想像力を捨ててはいけない。そこの配慮を欠いた行為が怒りや悲しみにつながり、究極的に今回のような殺人という恐ろしい事態につながってしまうのではないか。表現の自由はある。しかし、誰かを悪く言う表現をする際は、誰かを傷つけてしまうかもしれないという想像や自省を欠いてしまってはいけないように、わたしは思っている。

 

NIKEのCMは外国人差別の解消につながるのだろうか

賛否ある表現として、最近はNIKEのCMも話題にあがっている。三人の女の子がサッカーに打ち込む様子を紹介した動画だ。そのなかで、ある外国の人をルーツに持つ女の子が、クラスメイトに差別を受けるシーンがある。

news.yahoo.co.jp

 

ムハンマドの風刺画のような特定の人物や思想を罵った表現ではないが、一方的に加害する側を悪者にしてしまっている表現であるように、わたしは感じた。加害する生徒たちはどうして、差別するような行為をしたのだろうか。そこの描写はない。

親による偏見を真に受けてしまったとか、周りの大人に仲良くしてはいけないと言われたとか、もしくは違う人からいじめをうけてうっ憤がたまってより弱いものを向かったとか、なにか、そこに至る構造的な問題は皆無だったのか。加害する側の背景が全く見えず、悪者を見つけ一方的に批判する構造にも見えるように私は思う。

以前、わたしは児童養護施設に通う同級生に、意地悪な言葉をかけてしまったことがあるとブログに書いた。それ自体は悪いことだった。わたしの悪意によって人を傷つけてしまった行為である。しかし、その背景には、わたし自身が、彼女や彼女の周りからいじめを受けていたということもあった。こういった経験があるので、わたしは、完全にその人の人間性の問題だけで加害をしてしまうケースは、多くないように考えている。加害に至るなにかがあったはずだ。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

差別に至る構造的な問題を深堀し、そこの解消に動いて初めて差別は解決するのではないだろうか。差別の背景を深堀せずに、だれか悪者を作って批判するだけでは、分断を呼び起こすだけではないか。事実、このCMには賛否両論、どちらの意見も出て、まさに思想によっての分断を呼び起こしている。「外国籍の子供たちが差別される」という問題はこのCMによって解決に近づくようには思えない。

 

◆noteへ抱くイメージと、描かれたホームレス像のギャップ

もちろん、そういった誰かを悪く言うように見える表現であっても規制される必要はない。だから、このCMの中止をNIKEに呼びかけようという動きには全く賛同できない。表現への批判はしてもいいが、「するな」ということはしてはいけない。どんな表現であっても許されていい。このCMに対して、わたしは、作り手側が、もう少し受け手側の捉え方を想像するほうがよかったように思う。だけど、わたしたちは、ムハンマドの風刺画に怒り、人を殺めた殺人鬼と同じになってしまってはいけない。

そして、表現内容自体への意見だけでなく、これをCMという公共性の高い媒体で放送することが適していたかという視点もあるのではないかとも思う。たとえば、この映像が映画館で見る映画だったら、ここまで問題にはならなかったのではないか。インターネットで商品情報を探していたり、テレビを見たりしていたときに、突然目に入るCMと、内容をある程度把握したうえで見る映画とでは受けての印象が違う。NIKEの商品を探していた人は、外国人ルーツを差別する人へ批判を見ようと思ってはいない。その表現のターゲットに合わない表現だったからより強く非難をされた。

 

違うメディアならば批判されないだろうという表現はある。先日、ウェブサイト「note」上に掲載された記事が批判をされていた。

biz-journal.jp

 

路上生活者のもとに行き、一緒に生活をする様子を綴った内容だ。ホームレスを差別的に見ている、路上生活者の様子を面白可笑しく報じているという点が批判をされていた。

 

多くの読者が違和感を感じ、批判を投じることとなる「問題表現」は随所に出現する。

ホームレスの住む河川敷については、「その空間をある種異世界のようにも感じてしまった」と表現、彼らの生活スタイルについても、「私たちが日常生活をしているなかでは触れる機会が少ない体験をおじさんたちを通してできるという刺激が根本にはある」「おじさんたちの時間にとらわれないゆったりとした生活スタイル【略】私たちが日常を過ごしているなかではめったに出会わない要素がたくさん散りばめられている」と記述したうえで、しかし結局のところ、「とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている」と結論づけてみせる。

ここに垣間見えているのは、ホームレスという存在の背後に横たわる多くの社会問題については捨象し、外部から無邪気に観察する差別的な視点ではなかろうか。そこでは、「ホームレスのおじさん」たちはこの一般社会からあえて“降りた”仙人のような存在であり、「『となりのトトロ』に出てくるような森の木々をかき分け」た先に現れる、「テクノロジーに囲まれた」この社会を相対化する存在として描かれる。

しかしホームレスの多くは、みずから望んでそうなったのではなく、仕事の喪失や病気などによる困窮の果てに致し方なくそういった生活に陥っているケースがほとんどなのはよく知られた事実だ。そしてその背景には、この日本社会におけるセーフティネットの欠如や格差社会の拡大などの深刻な社会問題が横たわっていることも、多くの識者、書き手が何度も指摘してきたことだろう。

 

この批判はたしかに賛同できる部分もあった。記事を読み、わたし自身も、ホームレスを面白がっている印象は確かに受けた。以前、ホームレスに暴行するニュースに耐えられないというブログを書いたけれど、ホームレスを「面白いネタ」のように扱う姿勢も、見るに堪えない部分もある。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

しかし、こういった路上生活者を見世物にする視線や、面白がる視線は以前からあった。見るたびに嫌だなと思ったけれど、そういった発信をするメディアはある。しかし、それは許され、noteは許されないのはどうしてか。それはnoteという媒体の色があるのではないか。

 

noteの公式サイトを見ると以下のような記載がある。

note.com

 

noteでできること

・自分の好きなことや伝えたいことを投稿する

・好きなクリエイターの記事を読んで、応援する

・同じ趣味や思いを持った人と、サークルでつながる

 

 

創作活動でもっとも大事なこと

創作を楽しみ続ける

ずっと発表し続ける

 

ページビューを増やすことよりも、お金を稼ぐことよりも、あるいはフォロワーを集めることよりも、何よりも大事なこと。それは、楽しんで、発表し続けることです。

  

過激でセンセーショナルな表現で、見る人を増やしたり、話題にあがったり、そういったものではなく、小さな気づきや小さな出来事でも発信する。noteはアフィリエイトの利用はできず広告収入は得られない。

 www.colorfulbox.jp

 

広告がなく、過度な宣伝もない、アクセス数を気にして記事を書くことを求めていない。中立な空間、攻撃的ではない空間に見える。穏やかな媒体という印象があり、それを求める人が見ているメディアだから、路上生活者を面白可笑しく伝えように見え、賛否両論がでるこの記事が批判されてしまったのだろう。

 

◆「誰に」「何を」「どういうか」

昔、求人広告のライターをしているとき、広告を作る際は「誰に」「何を」「どういうか」を意識して作らなくてはいけないと教えられた。高校生を対象にしたコンビニのアルバイトの求人広告で高尚な言葉を使っても伝わらない。一方で、経験者を対象にした求人広告で、専門用語を避けた平易な言葉ばかりを使ったら、求めていない層が集まってしまうもこともある。ターゲットに合わせ、言い方、伝える内容を選ぶ必要がある。

加えて、広告では、「何が目的か」ということも説いているらしい。

mag.sendenkaigi.com

 

これは広告だけでなく、表現全般に言えることかもしれない。それを伝えることで、受け手にどう考えてほしいのか、どんな意見をもってもらうことが目的なのか。意図せず人を傷つけないためには、「どんな目的で」「誰に」「何を」「どういうか」を、頭の隅に置いて書く。私も含め、伝えたい欲求が強くなると忘れてしまいがちだけど、少しだけでも、読む側に立って書くことが重要なのかもしれない。

そして、受け手側も、受け手の勘違いを招く表現をであっても、寛容に受け止めて、批判はしても、表現を潰してしまうことのないように。怒ったとしても許しあう、やさしい発信のし合いをわたしは望んでいる。