オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

ダサくて、つまんなくて、キラキラしてない未来が欲しかった

やや先を見るように手を翳せば、三島が自決した年齢が僕も見えている。現在の僕は、この年齢からくる人生への「自棄」の感覚は親しい。だけれども、三島は死ぬべきではなかった、と言いたい。自決の場に向かった三島と同様、青く、今から自意識から離れ三島に呼びかけたく思うのだが、僕はあなたのファンだと言っていい。僕はあなたが「人生の中点の危機」を乗り越えた作品を読みたかった。様々なことを抱えながら、しかし最後まで人生を生ききったあなたの作品を読みたかった。その方が格好いいではないか。そうだろう? 作家のくせに、あなたは逃げたのだ。人生の本当の苦しみから。

 

仮面の告白』と三島由紀夫 中村文則

 

三島由紀夫仮面の告白」文庫本の巻末、作家の中村文則は、生ききった三島の作品を読みたかったと書いた。わたしはそれを読んで救われる気持ちになった。三島は、あの日、自害などすべきではなかった。若さを失ったまま生きて、書くべきだった。

中村文則の解説文を読んでいたほぼ同時期、ある作家が、三島由紀夫には五十まで生きて欲しくなかったと語っていたのを見た。あの結果になり、三島としてはよかったんじゃないかと、彼女は語る。クソだ。四十五歳で、自ら命を終わらせた青年を、それで良かったと言うのは絶対おかしい。彼が世界的な作家だったことは関係ない。どんな背景があったとしても、青年が自ら命を絶つのは不幸せなことだ。そんなことも分からない作家に名作など書けるはずがない。わたしは彼女の書いたものはもう読まない。

五十を過ぎて、六十を過ぎて、おじいさんになった三島の書いた物をわたしは読みたかった。駄作しか書けなかったとしてしも、それを含めて三島由紀夫だと思いたかった。中村文則の言う「人生の中点の危機」を通り超していく三島を見たかった。三島に生きて欲しかった。

 

◆快楽に誠実だった雨宮まみ

三島が彼なりの美学を遂行するために、死を選んであろうことは、わたしにも想像できる。だが、自死しなくては達成できない美学など、取るに足らないものだ。7年前に亡くなったライター雨宮まみに対しても、わたしはそう思っている。美学に背いても生きて欲しかった。雨宮まみの著作が発売された。恐らくこれが遺作になるのだろう。雨宮まみとは直接の面識はない。イチ読者、イチファンから見た雨宮まみは、都会的で、洗練されていて、キレイで、だけど横柄や高飛車ではなくて、嫌みにはならない美しさがあった。憧れてもいた。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

だけどその美しさは、彼女が色んなものを犠牲にして手に入れたものでもあった。彼女の書く文章を見ていると、節々に戦った跡をみることができる。今回発売された「40歳がくる!」の中にもそれはある。

 

だからこそ、そこから逃げるように楽しいことを追いかけ続けた。父のようになりたくない。ならない。エロ本の編集者をしたり、AVライターになったりしたのも、その中のひとつだろう。父にとってそれは歓迎すべき展開ではなかっただろうが、この頃からだんだん「もう、そういう子だから仕方ないのかもしれない」という諦めたような需要の態度を見せるようになってきた。

真面目に生きることこそ正しいと考え、地元の大学を出て、堅実に働くように勧めた父。そこから逃げるように、雨宮まみは東京に出てきた。いや、逃げたのではない、彼女は、彼女の正しさに正直に生きた。楽しいことを追いかけることは正しい、という美学を彼女は追求したかった。甘い方に流れ、結果的に快楽的なものにありついたのではなく、楽しいこと、快楽的なことを求めることは正しいことだと証明したかったように、わたしは読み取れる。父から否定されてきた自分の好きなものを、悪いものではない、素晴らしいものだと証明したかったのだ。

 

雨宮まみが最後に書いた文章

「40歳がくる!」は雨宮まみの生前の連載コラムをまとめた書籍だが、掲載されたなかった未公開の作品がひとつ含まれている。「だんだん狂っていく」と題された、その作品は、雨宮まみが「いつまでに死にたい」という気持ちをもって生活していた様子が綴られている。

軽く「死にたい」と思う程度の落ち込みのときは何も手につかなくなったりするのだけど、わりと本気で「いつまでに死にたい」という感じのときは、自分でも意外なほど、表面上はなにも変わらない。死にたいなんて気持ちは、奥の奥のほうにあるもので、表側の自分は普通に日常をやってのけている。不思議なことだが、強く重い気持ちが胸の中にあっても、それを抱えながら過ごした毎日は、これまでにないくらい楽しい毎日だった。

自分自身で決めた余命宣告。その日までの日々が書かれている。もう死ぬんだからと、好きな服やアクセサリーを買い、日々を満喫する。その一方で、身辺を整理するかのように、調味料や食器を捨て、NetflixWOWOWの有料会員を解約する。そして、楽しみにしている数日後のパーティー、その後に死のうと、彼女は思う。

雨宮まみの死因は事故だったけれど、彼女は自ら死に向かっていた。それが、生々しく分かって、読むに堪えない気持ちになる。我慢せず、欲望に正直に生きよう。それは、彼女にとっての美学だっただけでなく、死に向かう故の刹那的な行動でもあったのだとしたら、わたしは残念に思う。快楽的なものをよしとする、楽しさを良しとする。そんな雨宮まみをかっこくよく、素敵だと思っていた。憧れてもいた。だけど、その美学が、いつまでに死のう、という「期限付きの生」故だったとしたら、そんな美学はかっこ悪い。

様々な事情で、楽しいことを我慢しなくていけなかったとしても、無難で、堅実で、ダサくみえても、たとえ、父親のようになってしまったとしても、生きていたほうが素敵だった。都会的でキラキラした雨宮まみではいられなくなったとしても、その四十歳の雨宮まみをわたしに見せてほしかった。

 

◆ダサく、つまんなくて、キラキラしてない人生

「40歳がくる」を読み終わった翌日、あるAV女優の死を知った。そのAV女優とは直接の面識はなかったけれど、わたしの会社は彼女の作品を撮影していて、彼女の印刷されたDVDジャケットを見せながら、彼女の魅力を語っていたことを思い出した。ああそっか、あの子は死んでしまったのか。あの作品について、営業先で話してたな。一緒にイベントでもやりたかったな。彼女について考えていたことが蘇る。わたしは彼女と一度も会えなかったし、営業資料とDVDジャケットの中でしか見れなかったけれど、生きててほしかった。

若くてかわいい彼女はきっと、年をとれば、大人の見た目になるだろう。劣化したなんて下品な言葉をかけられるかもしれない。それでも、生きててほしかった。AV女優の仕事は辞めてしまうかもしれない。ファンの前にでることもなくなるかもしれない。二十代を通り過ぎて、AV女優じゃなくなって、表に出る仕事をしない普通の三十代、四十代になって、わたしは十年後とか、二十年後とかに、あの時売ったあの子何しているだろうって思い出す。そんな未来がほしかった。そんな将来は、ダサいかもしれない、つまんなくて、キラキラしてないかもしれない。それでも、そんな未来が欲しかった。ダサく、つまんなくて、キラキラしてない人生でも、生きていてほしかった。