オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

花束みたいな恋をしたを見いて抱いた感情は、菅田将暉とセックスしたいという熱望だった

 全く本を読まないわけでも、映画を見ないわけでもない。ただ、見たり読んだりする物はノンフィクションやルポタージュや評論が多い。いわゆるサブカルと言われるカルチャーは通らないで来てしまった。サブカルな人たちがいたことは分かるし、存在を認識はしている。映画「花束みたいな恋をした」にでてくる固有名詞のなかでも分かるものは結構あったけれど、興味をもてなかったんだよなと思ったものばかりだった。ジャーナリストを目指していたので、記者たちの書いた事件のルポを読み、深夜のドキュメンタリー見る方が、サブカルな表現を消費するより、地に足ついてて立派だという自分の自意識もあったのかもしれない。そこは自分の好みとは違うなと思い、通らないで来てしまった。「花束みたいな恋をした」がまったく自分に刺さらなかった。

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ノベライズ 花束みたいな恋をした

ノベライズ 花束みたいな恋をした

  • 作者:坂元 裕二
  • 発売日: 2021/01/04
  • メディア: 単行本
 

  この映画をしったのはTwitterでの投稿が、目に入ったことがきっかけだ。雨宮まみさんを連想させる人物がでてくるという投稿を偶然みた。Twitterの評判はいい。「素晴らしい映画だった」なんて言っている。雨宮まみ菅田将暉も好きだし、自分の本にも書いたけれど、昔長く付き合って別れた恋人もいた。自分とも合うかなと思い映画館にいったが、あまりいいと思えないし、好みではないし、うーん……わからないなとモヤモヤとしている。

オナホ売りOLの日常

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女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

 

 

ステレオタイプなイメージにキャラクターたちを押し込める

 ネタバレになりますが、簡単にあらすじを説明すると、きのこ帝国を聞き、今村夏子を読むような、所謂サブカルと言われる文化が好きな男女、麦と絹が、趣味があうことで惹かれ合い、同棲する。彼氏の麦のほうが絵を描き、イラストレーターを目指すけれど、なかなか仕事ない。仕方なくお互い就職。絹のほうは就職しても変わらず、カルチャーが好きだけど、麦のほうは興味が薄れ、お互いすれ違っていく……という話。

 まず、夢を追う若者が社会人になり、義務感や社会人としての責任で働き、どんどんつまらなくなるという描き方に憤りを覚える。会社員ならば怒られることも頭を下げ怒られることもある。だけど、惰性でやり過ごすことをせず、麦があんなに一生懸命やっているのは、言語化してない仕事への熱意のようなものがあったからだろう。映画の中で、麦の同僚は仕事中、めんどくさそうにしている。惰性でやっていても許される、なんとかなる職場で、それでもリソースを裂いていくのは、麦が何かしら良さを見いだしていたからではないか。物語終盤デートで行った本屋で麦はビジネス本を立ち読みするのもそれで、今居るところで上にいきたいという、何かがあったからではないか(そんな本読んでいることに絹はがっかりするのだけど)。そういった彼を、社会人になってカルチャーを捨てたつまらない男みたいな描き方をするのが、憤りを覚えた。わたしも会社員で、営業職なので余計。言うほど、つまらない仕事じゃないよ。

 近年は、副業が認められたり、表現の仕事自体の単価が安くなったり、クリエイティブ側の人も、表現者以外の面を持つようになってきている。有名フェスに出演するバンドですら、会社員の傍らで活動しているような今の時代に、「つまらない会社員」か「魅力的なクリエイター」みたいな二者一択で描くのはちょっと古いような気がわたしはした。別にそこまで窮屈ではないよなあ。

 

◆「〇〇が好きな自分が好き」という自意識にあふれている

 この作品が刺さらなかった理由は、主人公の言っていることが腑に落ちなかったというのもある。端的にいうと、カルチャーに執着しているけど、こいつら、そんな好きじゃないだろと見てて感じた。主人公のカップルふたりが、音楽とか、絵とか、漫画とか、本当に好きというよりも「好きといっている自分が好き」という印象を受ける。

 麦はイラストレイターになりたいという夢を持つのだけど、紹介された挿絵の仕事と、自分のスケッチブック以外、描く活動をしている描写がない。部屋の本だって、絵やイラストを勉強するための参考書や勉強するための道具であふれているということもない。映画撮ったり、別のことに時間を割いていたりもする。もっとできることあるだろ!!!と思ってしまった。ネットで表現するでもいいし、仕事がないかツテをたどるでもいいし、もがいてない感がある。

 でも、麦のような人、好きと言いながら、行動しない人は現実にいる。わたしは、以前ライターの仕事をしていたけれど、先輩や上司たちは「書くことが好き」「書くことにプライドを持っている」と言う割に、仕事以外で書かない。公募に応募したり、同人誌を作ったりする人は、わたしの知る限りいない。稀にブログを書き始める人はいたが、みな数投稿書いて止まってしまった。金もらわないと一切書かない。物書きの仕事をしている、書くことが好き、とアピールしたいだけだったのだろうなと、わたしは思っている。わたしはというと、「書きたい物書くとき以外は楽しくもないしな」と思い仕事していたので、「あなたは書くことが好きじゃない」と糾弾されたりした。「これが好きなの」とわざわざアピールする人はちょっと苦手だ。

 

◆売れない表現者だけがリアル

 ただ、一点だけ「分かる」と思った箇所があって、それは、カメラマンの先輩のシーン。麦の先輩で売れないカメラマンをしている男がいる。彼は「社会性とか協調性とか敵だから」と言いながら、自分の恋人に男性相手の水商売と言われる仕事をさせ、それで生活をしているであろうと思わせる描写もある。

 いやなヤツだなと思いつつ、どこかで聞いた話だなも思う。ライターや編集者がいる集まりにいくと、フリーのライターやジャーナリストに対して「あの人は奥さんが大企業で安定しているから」「実家が太いから」なんて下世話な話を聞いたりする。経済的な基盤が仕事以外に必要なんだ。パートナーに稼がせて、自分は金にならない仕事や下積みをするというのは、たまに聞く。そして、作品終盤、カメラマンの先輩は酒に酔って風呂に入り亡くなってしまうのだけど、それも、昔、某映像クリエイターの人が、忘年会の後、入浴中に亡くなったよなと思い出したりした。不遇なフリークリエイターの箇所だけ妙にリアルで苦しくなった。

 だけど、この作品の書かれ方だと、「退屈でつまらないサラリーマン」と「周りも自分も不幸にするクリエイティブな人」の対比であまりに救いがない。見終わった後、前の席に座っていた高校生たちが「わかんなかったね」と口々に話していたけれど、分からなくていい。君たちにもっと華々しい人生があるよ、と言ってあげたくなった。

 

ただ、この作品で唯一、よかった点をあげるとしたら、それは菅田将暉のセックスシーンがあったことだ。乳首が写らなかったのは残念だが、まあよかった。終わった直後は、最初に抱いた感情は、菅田将暉セックスしたいという熱望だ。菅田将暉のセックスをみるために映画館にいってもいいとは思う。菅田将暉とセックスしたい。