オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

ひけらしよくない。過度な攻撃もよくない。

「ひけらかしをする人は変な人わきますよね、ツイッターって」

「ひけらかし?」

「自慢っていうか。自慢とも限らないけど。いいもの買ったとか、どこにいったとか、何食べたとか、どういう生活しているとか見せる発信する人は嫌なコメントつくっていうか」

先日、SODの田口桃子さん(@taguchimomoko)と配信したクラブハウスで、ツイッターでの「ひけらかし」の話題になった。すごく簡単に言うと自慢なんだけど、単純に「いいでしょ?うらやましいでしょ?」と自慢するのではなく、高額な美容グッズを普段使いと自称し写真に写したり、普段つかっているちょっと高めのブランド品を何気なく写したり、結婚やら出産やらそんな幸せな私生活を自ら発表したり……。人によっては「素敵だね」「よかったね」「おめでとう」と褒めたり、肯定的な意見を言えること。でも、それを手に入れられない人にとっては「自慢?」と受け取り兼ねないような発信。一対一、個人間で言うのであれば、補足もできるし、相手への配慮もできる。だけど、大多数に発信することによって、人によっては「自慢」と受け取られかねない発信。

たとえば、婚約破棄したばかりで傷心の人に「結婚しました」と満面笑顔のウェンディング写真を見せつけるのは、配慮のかける行為だけど、それすらも起こしかねないのが、ひけらかし行為。発信する側は「嫌ならみるな」なのだろうけれど、世界につながるインターネットではそうはいかず、ひけらかし行為によるくそリプってあるあるだよね、という話を田口さんともしていた。「ひけらかし」という言葉言い得て妙だ。田口さんはうまいことを言う。

わたしの見解では、ひけらかし行為は「こう見られたい」という自分像の表現手段だと思っている。美意識の高い私像、家族や旦那さんから愛されている自分像、おしゃれでかわいい自分像……自分はこう見られたいという虚像を直接的でなく発信しているのが「ひけらかし」。でも、別に、どう見るかは相手次第だし、わたしなんかは嫌なヤツだから、幸せだ、満たされているんだと、わざわざ発信しないと、それを実感できないほどの空虚な現実を生きているあなた像として受け取っている。そしてクソリプーー心無い言葉や嫌な言葉を返信すること、は我慢する。ちょっとうらやましいときもある。

 

◆現実世界にあるクソリプ

ひけらかしに限らず、ネット上のクソリプについて、「つきそうな発信だったよね」と思う瞬間がある。その一方で、わたしは現実世界でのクソリプ――心無い言葉や態度に悩むことがある。「ひけらかし」はしていないけど、言われる原因のようなものが、わたし側に皆無だったわけではない。自分の話ばかりしてしまうとか、相手の気持ちを考えられない(相手の気持ちを無視するのではなく、本当に嫌であったことがわからない)とか、仕事だったら、細かなミスや不都合が多いとか。わたし側にも問題はあった。それは、今振り返れば分かる。だけど、わたしの配慮のなさに対して、その仕打ちはひどくはないだろうか、と思うことがあった。

昔の職場の同僚で、わたしのミスが多くて、そのたびに迷惑をかけてしまった人がいる。たしかに、資料の間違いがあり、見直して「間違えています」と言われ、謝ることは何度もあった。たしかにわたしは作業が雑だった。だから、彼女がわたし注意したり、ミスの直後に高圧的になったり、それは仕方ないと思う。しかし、彼女の圧はそれだけではなかった。彼女のデスクにあった資料に袖がかすり資料が落ちてしまった。「すいません」と拾うわたしに対して、舌打ちをされ、資料を奪いとられる。挨拶は返されず、話しかけると、他の人よりワントーン低いこえで「え?」と聞き返され。ひたすら怖かった。たしかにわたしが悪い。だけど、そこまでするかなーと思うし、怖かった。今でも怖い。

今、思えば、あれは、だれかに相談してもよかった。上司ではなかったけれど、パワハラと言ってもよかった。だけど、わたしは彼女と関わらないようにすることしかできなかった。丁寧に仕事をしてミスをなくすという方法以外に防ぐ方法がわからない。もっというと、他の人が同じように資料のミスをしても、そこまでキツくあたってないところも何度かみた。彼女のなかの「駄目な人認定」があって、それに合致した人には、何をしてもいい人になるのだろうな、とわたしは感じている。

わたしは「駄目な人認定」をされても覆すことができない。舌打ちされても、挨拶を無視されても、本人に直接やめてといえない。反論しない人はきっと、攻撃するのに都合がよかったのだろう。

前述のクラブハウスで、クソリプをつく人には、何度もくそリプがつくよね、と田口さんと話していた。多分それも、ツイッター上で不配慮な発言や、ひけらかしによって「駄目な人認定」されたら、何を言ってもよいとなってしまうのかなと思う。クソリプがついた人に対して、ほかの人が言ってもクソリプがつかなかっただろうにと感じるときもある。

 

◆悪いに対して、攻撃が対等だったか

ネットでも、現実世界でも、なにか間違いを犯した人に対して、その報復が対等なのか、という視点が常に大切なような気がしている。わたしは、仕事の上のミスに対して、無視をしたり、舌打ちしたりすることは、対等な報いではないと思っている。それと同じで、どんな批判も、反対意見も、活動も、それがいきすぎてないかチェックすることが大切ではないか。悪い意見、賛同できないという意見であっても、それを理由に過剰な攻撃をしてしまってはいけない。

先日、東京五輪パラリンピック大会組織委員会森喜朗会長が女性を蔑視する発言をした。たしかに、森会長の発言はわたしも賛同できないし、ひどい意見だと思う。だけど、だからといって、攻撃的な言葉や人格を否定するような意見を述べていけない。たしかに彼は間違いを犯した。しかし、彼の人間性そのものを悪くいっていいわけではない。悪いのは彼の発した発言だ。ネット上にあがる、森氏の発言以外、彼自身の名誉を傷つけるかのような意見をみて私もつらくなった。そこまで言う必要はあるのだろうか。その罰は、間違いに対して釣り合っているのだろうかということを常にかんがえなくてはいけない。

そんなことを言いながらも、ひけらかしを見つけては、ぐぬぬと恨めしくなりつつも、クソリプを我慢している。他人への寛容さはないが、小心者だから、悪く言えないだけなんだ。