オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

野田佳彦と宴のあと

数年前、西船橋駅に行った際、異様な光景を見た。

ビラを配る野田佳彦と素通りする人々。

 

総理大臣経験者、テレビでしか観たことない野田佳彦がいる。そして、それなのに、みんな無視している。むしろ避けて通っている。

不審に思い近寄った。秘書かSPか、スーツを着た男たちに囲まれたその人は野田佳彦本人だ。ミーハーなわたしはテンションがあがった。首相経験者を見るなんて初めてだ。写真を撮っていいか確認すると、快くツーショットを撮ってくれた。野田さんいい人だった。

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野田佳彦氏とわたし

はしゃぐわたしを無視し、船橋市民たちは通りすぎる。写真を撮っているわたしの方が異様だ。自分の価値観が歪む。

その数か月後、また船橋市内の某駅に行く。野田さん?!また野田佳彦がいた。その後、別の日に船橋市内の駅へ行く。駅前に野田さん?!選挙区民でもないのに、野田佳彦に三度も遭遇した。

調べると、野田佳彦は選挙区の主要駅に割といるらしい。前首相に会うという、わたしにとっての超非日常が、ここに住む人にとっては日常だった。船橋市民にとってわりと見かける人だった。

 

三島由紀夫が描いた政治家像

最近、三島由紀夫の小説「宴のあと」を読み、野田佳彦を思い出した。

保守党御用達の料亭の女将かづは、革新政党から都知事選に立候補する野口と結婚し、選挙活動に邁進していく。元大臣で、外交官の経験もある知的な野口は、自己完結な演説ばかりで大衆をつかむことができない。大衆がこちらに追いついてくることも望んでいる。一方で、かづは、地域の祭りがあれば一緒に歌い、踊り、大衆の中に入り、人々に合わせ、心をつかむ。かづの活動方法は、毎朝、毎朝、無視されながらも、大衆の中に立つ野田佳彦のそれであった。

「宴のあと」の野口がそうだったように、インテリで革新的な政治家――知識があり、その自負もある政治家の多くは、大衆に自ら学ぶ事、自分のことを理解する事を望む。愚かな大衆に賢くなるよう促す。自分から大衆の傍に降りる事はしない。

 

◆大衆に寄り添えなかった候補者たちの宴のあと

今回の衆院選。開票開始して早々、野田佳彦小選挙区での当確がでていた。与党自民党対立候補に倍近くの差をつけて当選している。一方で、小沢一郎、辻本清美といった立憲民主党のベテラン議員たちは小選挙区で落選した。大衆側に降りて寄り添えない政治家は排除される。イデオロギーだけの問題でない。自分が変化できるか、どうかではないか。

SNS上、落選した候補者の支持者が、有権者は見る目がないという旨を発信していた。それは間違いだとわたしは思う。そのような支持者しかいなかった事が、彼・彼女が一番の敗因だろう。

有権者が立候補者を理解しなかったのではない。立候補者が有権者の気持ちを汲み取れなかった。だから選ばれなかった。選挙区民の要望をくみ取るのが国会議員であり、それを放棄した候補者など絶対に選ばれないし、選ばれてはいけない。

 

◆民主主義は異質を排除しない者を選ぶ

野田佳彦以外、国政選挙のない時期に、衆議院議員が立って挨拶しているところをみたことがない。駅に立ってビラ配る――地道で泥臭い作業を続けている人はいない。

街中に立っていれば、対立政党を支持する人や、自身の政策をよく思わない人が話しかけてくることもあるはずだ。自分とは考えの違う人々とも対峙しなくてはいけない。そんなストレスを請け負って、それでも市井の人々の方に近寄って行こうとするのは辛いだろう。だけどそこから、わざわざ会いに来る選挙区民だけを相手にしていたのでは絶対にわからない世論をくみ取れるだろう。

しんどい思いを避けなかった人たちを、わたしたち有権者は見抜いているだけだ。有権者に責任を押し付け、民主主義を否定するような人々を選ばないぐらいの鑑識眼を持っている。大衆をさげすむ人々が選ばれる事などない世界が続いてほしい。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

昨年の都知事選でも似た事を思った。大衆の側に行けない候補者は、支持をされない。