オナホ売りOLの平日

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未来を予見した作家、石原慎太郎

「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、--あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるからご覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない」と云って又にやにや笑っている。三四郎日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする。

「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。

 

――夏目漱石三四郎

 

 

読んですぐ、巻末のページをめくった。夏目漱石の「三四郎」、この話が書かれたのはいつなのだろう。解説には、明治四十一年――1908年に新聞に掲載された作品だと記されていた。第一次世界大戦の終わりを告げるベルサイユ条約が1919年、その10年以上前に書かれた物語。日露戦争も終わったばかりの、浮かれていた社会の中で、漱石はこの物語を書いた。「亡びるね」というセリフは、1945年の日本を予見したかのようだった。

 

優れた作家は未来を予見する。

三島由紀夫石原慎太郎の対談集「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」を読んだときも、同じように思った。

1956年から1969年の間に行われた前六回の二人の対談と、三島・石原、それぞれが相手に向けた手紙、そして石原慎太郎への追加のインタビューが収録されている。この本の内容は石原慎太郎の未来を示しているようだった。

 

 

 

◆過剰な父と取り残された息子

三島:失礼だが、君のお父さんが早くになくなったことは、君の中で父と子の関係を、かなり美しく見せているんだよ。生きているとまたうるさいことになるんだよ(笑)。君のお父さんがご存命だとすると、君とてもあんなきれいな小説かけませんよ(笑)。男というは、生物学的な役割をはたし、息子に対する技術的な伝授を終わったら死ぬべきなんだよ。男盛りで死ぬべきだ。

石原:三島さんのお父さんみたいに、ご健在で視力があって、お前の週刊誌は面白くないとか、お前週刊誌に書きすぎるぞ(笑)、なんていってくれる人がいた方が僕はいいけどね。僕は親父のやらなくちゃならなぬことを、今やってるんだもの。

三島:君は自分に対して、父親と息子の一人二役をやってるわけ(笑)。ただ、実業家なかで親父がものすごくえらくていまだに実力があると、息子にはたいてい欠陥あるな。

石原:ほんとうに親父というのは夭折した方が、イメージが鮮明に残るな。

 

三島由紀夫 石原慎太郎全対話」の中、三島は、父親は早くに居なくなった方がいい、石原の父が若くして亡くなったことは石原にとって良かったと軽口を叩く。

口の悪い三島のジョークのように聞こえるこの発言。昨年末に行われた衆院選の結果を見た後では、三島が本質を見抜いているように思えてならない。石原慎太郎の息子、石原伸晃衆院選で落選したからだ。

衆院都知事と歴任した偉大な父を持ち、確固たる地盤を持ちながらも、石原伸晃は今回の選挙で落選した。石原伸晃の所属する与党自民党が大敗したわけではない。大衆は、石原伸晃、その人を排除しただけだ。三島の言う、「えらい親父と欠陥のある息子」を自身が体現してはしまったように、今回の衆院選で感じた。

 

◆ジェニュインを使い果たした作家の果て

石原自身も、自分の未来を指し示す言葉を残している。巻末、石原慎太郎が、三島とのやり取りを振り返った後書きがある。そこで石原は、三島の遺作「豊饒の海」が退屈だったと述べた後、以下のように続ける。

 

豊饒の海』はよくないけれど、三島さんには、長編にも短編にも素晴らしい作品が多かった。長編でいえば、『仮面の告白』(四九年)がそうだし、男色の世界を書いた『禁色』(五一~五三年)もいい。『禁色』なんかは、僕なんかのあずかり知らぬ世界だけど、自分のことを書いているから、その辺にリアリティがった。ところがやっぱり徐々に自分の抱えているジェニュインなものがなくなってくると、結局、下敷きも持ってきて書くわけですよ。『金閣寺』(五六年)もそうだし、『潮騒』(五四年)も完全に『ダフニスとクロエ』でしょう。六〇年代の小説でよかったのは、料亭を舞台にした『宴のあと』(六〇年)、近江絹糸のストライキを扱った『絹と明察』(六四年)。短編では、初期の「春子」(四七年)、「山羊の首」(四八年)などが素晴らしいな。

 

ジェニュイン――つまり自分の抱えた真実は、物語を綴った分だけ枯渇していく。ジェニュインを使い果たした表現者は、誰かのジェニュインを下敷きに他者の言葉でジェニュインを編む。それができなければ、自己模倣の退屈な表現になるしかない。

2016年に発売された石原慎太郎の「天才」は田中角栄の一人語りで綴られ、ヒット作となった。昨年は安藤昇伝を題材にした「あるヤクザの生涯」を刊行した。イタコように、誰かの言葉をかり、実在の人物の人生をなぞった作品が多い。

ノンフィクションを下敷きに、語りを展開していく作風は、文学では珍しくはない。ただ、それは、石原慎太郎のデビュー作「太陽の季節」とは随分と違った文体だ。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」に書かれた後書きは、石原慎太郎の書き味の変化を告げているようだった。

年を重ねてからの石原は、社会に目を向け、取材を続け、誰かの物語を書き進めた。それは、三島が陥った自己模倣に、自分も陥らぬようという恐怖からではないだろうか。三島の遺作、豊饒の海を「彼がたどり着いた虚無の世界の表象」「作家として衰弱の証拠」と称した石原だからこそ、自分が同じようにならぬようにという変化なのだろう。三島のようになってしまうのが怖かった、だから、書き方を変えざる負えなかった。

 

橋下徹三島由紀夫を重ねていた

三島由紀夫石原慎太郎によって映し出された未来の断片は、作家、石原慎太郎としてだけではない。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」を読むと、政治家、石原慎太郎の最後も思い出さずにはいられなかった。石原の三島に対する思いは、その後の政治家としての行動を予見するかのようだ。

2012年、東京都知事選を辞職した石原は、衆議院議員となり、再び国政に復帰する。石原は、新党「太陽の党」を結成し、日本維新の会に合流する。当時の政権放送では、石原と維新の会の代表、橋下徹が向かい合って議論していた。

橋下と向かい合って話す石原を見ながら、わたしは、「石原慎太郎じゃないみたいだ」と思っていた。大衆に迎合するような、軟派な印象を受けた。日本維新の会は2010年に結党された「大阪維新の会」を母体に、2012年に結党された政党。歴史も浅く、当時の党首橋下徹はタレント弁護士出身の元府知事。二世議員ではない。大衆に人気の橋下徹にのせられたように私には見えた。

だが、三島由紀夫との対談を読み、このときの印象は変わった。石原は橋下徹に、三島由紀夫的な物を求めていたのではないだろうか。三島は、亡くなる直前、参院議員の八田一朗に出馬の相談をしていたと「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」の中で石原は語っている。

「もしも、三島由紀夫が政界に進出していたら……」その「もし」を実現する人が橋下だったのではないだろうか。

維新の会の行っている事は、自民党的な政治から見たら、過度に右寄りに映る。「それ自体が連立政権」と、三島に揶揄された自民党のような雑多な組織ではない。統一された思想--それはまるで三島由紀夫の作った民間防衛組織「楯の会」のよう。

楯の会を「おもちゃの兵隊」と皮肉っていた石原だったが、「楯の会」を政界の中で立ち上げようとし、オモチャではなくしようとしているのが維新の会に映っているのではないだろうか。維新の会の主張する憲法改正は、三島が楯の会で行っていた憲法の審議と被る。現在の停滞を打ち破る革命を政界の中で興そうとする--三島がもし政界に入っていたらという仮定を重ねていた。

2014年石原慎太郎は政界を引退する。翌年2015年、橋下徹も政界を引退した。それはあの政見放送の数年後だった。政治家人生の最後、石原は「三島由紀夫がもし政治家になっていたら」という幻を夢見ていたのではないだろうか。

 

◆過去の作家となった石原慎太郎

このブログを書きかけているとき、私は石原慎太郎の訃報を聞いた。

三島由紀夫石原慎太郎の対談を読んだのは、彼の訃報を聞く二か月前だった。石原の作品に関して、「天才」など近年話題になった作品は読んでいたが、古い作品は読んでいなかった。「三島由紀夫 石原慎太郎全対話」をきっかけに、石原慎太郎の以前書いていた小説も読み始め、ちょうど「太陽の季節」を読んでいるところだった。もっと彼の作品を読みたいと思った最中、彼は死んでしまった。

もっと前から、石原慎太郎の書いた物語を読みたかったと思う。そして、彼の書き進んでいく道を見ながら、作家の予言した未来がどれだけ当たっているのか、答え合わせをしていきたかった。

わたしはもう、作家、石原慎太郎と同じ時代を歩む事はできない。

夏目漱石を読んだときのように、巻末をめくり、書かれた時代を感じながら、「あの時代に、こんな作品を書くなんてすごい作家だ」と感心する事しかできない。石原慎太郎は過去の作家になってしまった。同じ時代に生きながら、彼の作品を読まなかったことを後悔している。もっと早くに気が付いていればよかった、と。