だいぶ昔のことだけど、知らない人に切りつけられる事件にあったことがある。幸い怪我は軽傷で、それ以外の被害もなかったけれど、救急車を呼ばれ運ばれた。救急車の中、「なんでこんなことしたんですかね」とわたしが言うと、救急隊員の人は「僕たちは絶対わからないですよ」と答えた。
「普通の人じゃないんです。僕たちとは全然違う人です。だから、どんなに考えても理解できないですよ」
彼の応急処置は適切だったし、救急隊員としては優秀だったと思う。だけど、その言葉だけはどうしても、納得できなくて、ずっとわたしのなかに残っている。「普通じゃない」と言われるのは、わたしだったかもしれないという思いがある。「普通じゃない」と切り捨てられなかったのは、ただ運がよかっただけだ。
◆断罪するだけで第二の事件をふせげるのか
少し前に、偶然みたネットのニュースで似たような気持になった。京都アニメーション放火殺人事件の報道だ。
何人もの命がなくなったこと、あまりに残忍な犯行だったこと、そんな事実を報道で聞きていた。亡くなった人の無念や不幸はわたしには計り知れない。事件の犯人は青葉だ。彼が罪のない命を奪った罪はあまりに重い。
だけど、ふたつの記事を読んで青葉真司が可哀想で、可哀想で、仕方なかった。誰ひとりとして、青葉に優しさを与えなかった事実が、青葉真司容疑者を生んだのではないか。青葉の周りにいながら、彼を追い詰めていった人たちにもこの犯罪の加害の一旦はあるのではないか。「普通じゃない」と言った、誰かをわたしは想像した。犯した罪はあまりに大きい。しかし、彼を断罪するだけでは、第二、第三が青葉真司がいずれ出るだろう。
◆青葉真司はわたしだったかもしれない
青葉に同情してしまうのは、「優しくされなかった」「理解されなかった」という思いが自分にあるからだと思う。わたしが加害する側にいかなかったのは、運がよかっただけだ。
わたしは母とどうも折り合いが悪い。これは本にも書いたけれど、大学に行くことを反対されている。それ以外にも、私の選んだ習い事やアルバイトなど自分のやっていることを反対された。「やったほうがいい」と応援したことはなかった。
保守的な性格なのだと思う。単純に、性格がわたしと合わないのだろう。今となっては、田舎の人だから仕方ないとも思う。わたしが本を書いたとき見せたら「一冊書いたぐらいで」と母は言った。その一冊書く苦労をどれだけ分かっているのかと、怒りたくなったけれど、言っても意味がないような気がしてやめた。
暴力を振るわれたとか、食事を与えられなかったとか、目に見える加害はない。だけど、小さな出来事が重なって、できるだけ、話さないほうがいいなと思う存在になっている。では、親族に代わる、自分のことを理解してくれる存在がいたかというといないような気がしてる。
要所、要所で、助けてくれたり、手を貸してくれたりする人はたくさんいた。「助けたい自分像」を偶然作れていたような部分もあるように思う。だから、わたしは、青葉真司にならなかった。なんとか、本当の、だれも見向きもしない人間にはならなくて済んだ。
けれど、家族との関係も、友人や学校での関係もうまくいかなかったわたしが「普通じゃない」と言われなくて済んだのは、本当の偶然だ。学校では虐めにもあったし、職場に馴染めなくて5回も転職した。「あいつのせいで」と逆恨みして、犯罪を犯す可能性はわたしにはあった。
◆寄り添いつつも、近づきすぎない距離感を
青葉真司のことを知りたい。だけど、凶悪犯に引き寄せられ、思い込みで美化したり、
独りよがりで被害者を苦しめるような人がいることもわかるし、自分がそうなってしまうような恐怖もある。
光市母子殺害事件の犯人を実名で報じて、問題になったノンフィションがあった。
「●●(実名)君を殺して何になる」というタイトルだった。書き手と被告はあだ名で呼び合う程の仲になったけれど、わたしは「殺して何になる」という気持ちにはならなかった。読んだ後、被害者や加害者家族をはじめ、事件の周りの人たちを苦しめてしまったのではないかと苦しくなった。
センセーショナルな事件を犯す犯人は、目を引いてしまう。理解したいと思ってしまう。そして、人によっては神格化してしまう可能性もある。だけど、そうなってしまってはダメだと思う。思うけれど、どうしようもない孤独を解体したい、気持ちにもなる。これからさき、「普通じゃない」と切り捨てられる人がでてこないように。