オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

わたしは清水潔が好きでした。

わたしは清水潔記者の書いた記事が好きだった。あこがれていた。憧れのジャーナリストだった。

清水さんを知ったのは大学生のときで、「犯罪心理学」の授業中だ。警察の犯罪捜査の問題を紹介する事例として、桶川ストーカー殺人の不祥事が紹介された。興味をもったわたしは清水さんの書いた「遺言―桶川ストーカー殺人事件の深層」にたどりついた。

 

清水さんが、桶川ストーカー殺人事件を取材したのは、週刊誌フォーカスにカメラマンとして在籍していたときだ。あたかも被害者に非があるように話す警察の発表に疑問を持ち、取材を重ねた。風俗店の店員だった加害者が、被害者に嘘をつき、車のディーラーとして接したこと、加害者から執拗ないやがらせがあったところなど、警察の出さなかった真実を丁寧に打ち出し、「カップルの痴話ゲンカの延長」であるとかのように説明されたこの事件が、本当は残忍で、恐ろしい殺人事件だったことを暴きだした。事件のことは国会でも取り上げられ「ストーカー規制法」ができるひとつのきっかけにもなった。

当時大学生だったわたしは、こんな記者になりたい、と思った。自分の取材で真実を見つけたい。自分の書いたもので世の中を変えたいと。市井の声を届け、人を苦しめる仕組みをなくしていきたい、と。わたしは、清水潔記者が好きだった。

週刊誌のカメラマンだった清水さんは、日本テレビに移り、記者として報道の仕事を続けた。日本テレビで、足利事件が冤罪だと報じたのも清水さんたちだ。桶川ストーカー殺人のときと同様に、市井の人々の声を聞き、普通に生きる人を苦しめる社会を報じた。足利事件でも清水さんたちの報道をきっかけに、冤罪が確定し、加害者とされていた菅家 利和さんは釈放された。すごい人だなと思った。清水さんは変わらず、苦しみながらも声を届けられない市井の人々を見つけ、丁寧に正しさを証明する。

殺人犯はそこにいる (新潮文庫)

殺人犯はそこにいる (新潮文庫)

  • 作者:潔, 清水
  • 発売日: 2016/05/28
  • メディア: 文庫
 

 

ヘイト本のような報道

清水さんに憧れていた、こうなりたいと思った。だから、今、清水潔さんにとてもがっかりしている。最近の清水さんの目は市井の苦しい人々に向いていない。イデオロギーを主張する手段としての報道になっている。清水さんのツイッターを見ていていると、特定の個人や思想を批判……にすらならない嘲笑や悪口のような発信を見かける。見るに堪えないなと感じるときもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘイト本みたいだ……とわたしは感じた。ヘイト本というのはヘイトスピーチのような特定の民族や生まれを悪く言う本を指す。多くは、中国籍韓国籍の人を差別する内容が書かれているという。ヘイト本について取材した書籍「わたしは本屋がすきでした」にはこう書いている。

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

私は本屋が好きでした──あふれるヘイト本、つくって売るまでの舞台裏

  • 作者:永江朗
  • 発売日: 2019/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

安倍晋三を批判したからといって、それを「安倍ヘイト本」とはいわない。なぜなら、そこで批判しているのは安倍政権の政策であり安倍普三の思想であるからです。安倍政権や安倍晋三個人への差別を助長し、攻撃を扇動するものではない。批判とヘイトは違います。

その人の意思では変えられない属性――性別・民族・国籍・身体的特徴・疾病・障害・性的指向など――を攻撃することばは、批判ではなく差別です。

ヘイト本が巧妙なのは、タイトルや見出しも含めて、一見すると韓国政府の政策を批判したり、韓国社会を批判しているかのように装いながら、「韓国人だからダメなのだ(そして韓国にルーツをもつ人もダメなのだ)」と思わせるように書かれているところです。客観性を装いながら、じつは主観的な結論に誘導している。読者が政権や権力者と国民・民族を混同するように書かれている。

 

 

清水さんは誰かの生まれに言及した意見は述べてない。だけど、政策に対する論理的な批判かといったら、わたしは疑問が残るように思う。感情的な言葉や、馬鹿にしたような表現があまりに多すぎて政策への反論ではなく、嘲笑したり、バカにしたりしているように、わたしは見えてしまう。

政策に対して、こんなデメリットがあるからやるべきではないと記事を書くなら理解できる。この政策は、この根拠で間違っているというならば、それは批判であって悪口ではない。だけど、わたしは、清水さんの発信が、冷静な批評には見えなかった。

例えば休校処置に関して、政府に対して、いい格好をしたかったといいながら、政府より先に学校休校し、その後非常事態宣言を出した北海道知事に関しては評価するコメントをしている。

 

 

もちろん、同じ政策だったとしても、北海道と日本全体では条件が違う。北海道が検査をたくさんしている事実はあるのかもしれない。だけど、北海道でも、学校閉鎖にともなう弊害はでているが、わたしが見た限り、その批判は見つからなかった。政府だけ、首相だけを批判している。

「わたしは本屋が好きでした」をたどると、清水さんの言っていることはヘイトではない。だけど、その発信は、名誉を傷つける目的の、ヘイトに近い発信のようにわたしは見えてしまった。相手の意見に賛成できないというのではなく、相手を馬鹿にしている発信。

 

◆イジリや嘲笑が差別につながらないか

少し前、テレビ番組で女性政治家へのいじりを問題視していた。

2月26日、東京MXのモーニングクロスという番組で、立教大学准教授の富永京子さんが、小池百合子、辻本清美、蓮舫山尾志桜里を例に、日本の女性政治家は、外国と比べて、面白いあだ名をつけられたり、いじられたりすることが多いと話していた。富永さんは、そのいじりが冗談の延長に差別や暴力行為があると説明し、先入観による軽い冗談が大きな差別の引き金になると話した。

これは女性の政治家だけではないように、わたしは感じている。清水さんのような嘲笑が、その人個人への攻撃につながることはある。だからこそ、そういった真摯ではない批判。根拠をあげ、政策が間違っているというのではなく、政治家個人をバカにするような批判は、よくないように感じる。ジャーナリストの発信が差別の引き金になってしまっていいのだろうか。

 

 ◆偏った事実で作られる嘘のイメージ

清水さんの著作「遺言―桶川ストーカー殺人事件の深層」には、桶川ストーカー殺人の被害者の女性の身に着けていたグッチの時計が警察から返却された際のことをこう述べている。

「グッチの時計」、「プラダのリュック」、「厚底ブーツ」に「黒のミニスカート」……。メディアは、警察の発表通りに書いた。警察が押収したままで、それがどんなものであるか知る術などなかったからだ。なかには「ブランド依存症」などと書き立てた雑誌もあった。いまどきの、遊び好きの、派手目の女の子を表すための記号。マスコミが、まんまと踊らされるに到った、最初の一歩。

だが、いま私の手の上にあるその時計は、なんということもない、鈍い輝きを放っているだけだった。二十代の女性がよく腕に巻いているような、それほど高価でもなく、おそらくは大事に、長い期間、使い込まれた時計。

あの日、この時計の針が、十二時五十分を指した時、詩織さんはその生を終えた……。私は手のひらの上でそっと腕時計を裏返してみた。そこには、詩織さんの血痕が黒く残っていた。

 

桶川ストーカー殺人では、被害者がブランド品を身に着けていたという事実を、強調し、ブランド好きな派手な女子大生というイメージを警察が作り上げた。表現の仕方によって人々が誘導されてしまう恐ろしさは、桶川ストーカーを取材した清水さんがきっと一番わかっているはずだ。政府の政策は悪いかもしれない。欠点があるかもしれない。だけど、まるで、政治家個人やその思想を持つ人が悪いかのように表現するのは、当時の警察と一緒なんじゃないか。マイナスイメージを膨らませているのではないか。わたしは、弱者に寄り添っていたころの、ジャーナリストだったころの、清水潔さんが好きだった。