オナホ売りOLの平日

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DaiGoのようなエリートだからこそホームレスを差別してしまうのではないか

とても残念は事だけど、ホームレスを差別する人は存在する。「悪い奴を退治した」といいながら路上生活者に暴行をする人もいる。以前のブログにも、ホームレスの暴行するニュースを見ると憂鬱な気持ちになると書いた。

mochi-mochi.hateblo.jp

先日、インターネット等での発信を続けるDaiGoさんが、ホームレスに対して、差別的な発言をして話題になっていた。

「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。どちらかというと、みんな思わない?どちらかというといない方がよくないホームレスって?言っちゃ悪いけど、本当に言っちゃ悪いこといいますけど、いない方がよくない?」

 

www.buzzfeed.com

news.yahoo.co.jp

彼がどういった意図をもってこの発言をしたのかは分からない。ただ、どういった意図があったとしても、こういった考えを公にしてしまったのは愚かな行為だ。

わたしは以前、ホームレスの炊き出しのボランティアを行っていた。炊き出しに来る路上生活者の中には、会社を経営していたと話す人もいた。昔、一緒に暮らしていた妻子の話をする人もいた。彼らは排除していい対象ではない。わたしたちと同じ人間だ。そんな当たり前の倫理感すら身につけない、他者の立場や、気持ちや、もし自分がされたらという想定を想像できない人を、乱暴な言い方だけど”馬鹿な人”だと思う。

学業や仕事で成果をあげ、立派に見える成果物があっても“馬鹿な人”はいる。今回、自身のSNSでホームレスを罵って炎上したDaiGoさんも、偏差値の高い大学をでているけれど、わたしから見るととても“馬鹿な人”に見える。高い教育を受け、教養を深める事に多くの時間を使ったであろう人がなぜこんな事を言うのだろうか。

特定の人間を「いないほうがいい」と言ってしまう愚かさに、馬鹿馬鹿しさだけでなく、恐ろしさをも抱いた。こんな意見を公にしていいと思わせてしまうのは恐ろしい。いないほうがいい人と決めつけられた人は消えろというのか。

 

◆能力や立場による差別は許されていいのだろうか

「ホームレスはいない方がいい」。ここまで明確な言葉で、特定の人たちを差別し、侮蔑する人は、めったにいない。だからこそ、こうやって話題になったのだけれど、DaiGoさんと同じような考え--つまり、その人の能力や立場を見て、いらない物や取るにならない物と見なす人は居るように感じる。

以前、ある人がSNSで、「ちゃんとしていると見られたいから学歴を公表している」と言っていた。その人の卒業大学は確かに、偏差値の高く、一般的に難関大学と言われる学校だったけれど、「難関大学卒=ちゃんとしている」と言う認識に違和感が残った。難関大学を出ていないとちゃんとできないのだろうか? 最終学歴が中学卒業や高校卒業の人はちゃんとしていない人なのか? 

ジェンダーや国籍、人種といった生まれ持った特徴を差別する事は駄目な事という認識が広まりつつある。まだまだ発展途上ではあるけれど、そういった差別に対しての声は上げやすくなった。しかし、一方で、違う差別が広がっている。それは、能力や立場に対する差別だ。その人の学歴や仕事、収入と言った能力による差別は許されないばかりか広がりつつある。

マイケル・サンデル氏の著書「実力も運のうち 能力主義は正義か?」では、学歴や能力に偏重しつつある現代を批判している書籍だ。

 

学歴や能力を理由に差別をする人は、他の差別にも鈍感で、周りからの評価が低い人か?違う。それどころか、むしろ、先進的で、ジェンダーや国籍に対してはリベラルな考えを持っている人だ。教養があるように見える人が無意識に差別を行う。

たとえば、バラク・オバマヒラリー・クリントンといったリベラルな政治家。「実力も運のうち 能力主義は正義か?」には、バラク・オバマが、才能と努力の許す限る人々は成功し出世できるとうたったと、書かれている。

「高等教育に関して言えば」と、オバマホワイトハウスで開かれた教育者の集会で語った。最終的に重要なのは「聡明で意欲ある若者が……彼らの才能、労働倫理、夢が許すかぎり前進できる機会を必ず手にできるようにすることです」。オバマは、大学教育を社会的地位向上の主要な手段と見なしていた。「目下のところ、国として平等な結果を約束するわけにはいきません。しかし、われわれは、すべての人が成功への平等な機会を手にするべきだという理念を基に国を築きました。誰であろうと、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、成功できるのです。それがアメリカの根本的な約束なのです。出発点によって終着点が決まってはなりません。したがって、誰もが大学進学を望んでいることをうれしく思います」

また別の機会には、オバマは妻のミシェルを引き合いに出した。ミシェルは労働者階級の家庭で育ったが、プリンストン大学とハーバードロースクールで学び、世に出ることができた。「ミシェルと彼女の兄は信じられないほど素晴らしい教育を受け、夢の許すかぎり前へ進めたのです」。このことがオバマのこんな信念の土台になった。「アメリカを卓越した国にするもの、きわめて特別な国にするものは、こうした基本契約、こうした考え方です。つまり、この国では、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、名字が何であろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力をすれば、自らの責任を引き受ければ、成功できるのです。前へ進めるのです」

バラク・オバマの主張は、一方で、出世しない・できない人は、才能や努力が足りないからだとも受け取る事ができる。成功できない人は、懸命な努力を怠り、自らの責任を引き受けていないのだろうか。そんな中、出現し支持を得たのがドナルド・トランプだった。

絶えず「機会」について語ったバラク・オバマヒラリー・クリントンとは異なり、トランプはその言葉をほとんど口にしなかった。代わりに、勝ち組と負け組について無遠慮に語ったのだ(中略)エリートたちは、栄達へ至る道としても社会的敬意の土台としても、大学の学位に大きな価値を置いてきたため、能力主義が生み出すおごりや、大学に行ってない人に下す厳しい評価を理解するのが難しい。こうした態度こそ、ポピュリスト的反発とトランプ勝利の核心にあるものだ。

しかし、なぜ、バラク・オバマのような知見のある人がこういった差別の裏返しとも受け取られるような発言をしていたのか。そこには、学歴や仕事の成果はその人の努力で得た功績、という認識があったからだろう。本人が、努力し、頑張ったのだから、成功を評価するのは当たり前で、成功しなかった人は、本人の行動が足りなかったーーそういった「自己責任論」は普遍的に言われている。しかし、成功できない事はその人だけの責任なのだろうか。

 

◆成功できない人は努力不足なのか

学歴は本人の努力の結果ではない。家庭や周囲の環境、大人によって左右される。その事実を調査し、述べているのが松岡 亮二さんの著書「教育格差」だ。

「生まれ」によって学力や大学進学期待など長期間の経験蓄積に基づく格差があるという「現状」(第2~5章)と向き合わずに実践されたこれらの実践・制作・制度変更によって影響を受けてきた児童・生徒たちの中で、自身の可能性が失われたこと--血が流れたことに自覚的である人は皆無に近いのではないのだろうか。

 巻末の7章目でこのように考察を語る筆者は、数々の調査を通じ、生まれや環境によって、そこにいる子供たちの学力に偏りがでることを説明していく。本書の中ではSES(socioeconomic status=社会的地位)という表現を用いて解説していく。SESとは、経済的、文化的、社会的要素を統合した地位を意味する。世帯収入、親学歴・文化的所有物と行動、職業的地位を指標化して1つの連続変数とすることが多いようだ。SESの高い家庭に生まれた子供が高学歴になりやすく、逆にSESの低い家庭に生まれた子供で高等教育を受ける割合は少ない。さらに、SESの平均が高い・低いというのが地域ごとにあり、SESの平均値が高い地域の学校は公立であっても、教師が熱心に教育するようになり、逆に低い地域は教師の仕事への貢献も低くなる。

もちろん、バラク・オバマの妻、ミッシェルのように、貧しい家庭から高い教育を受ける人もいるだろう。しかし、「教育格差」の中ではこう語られている。

「どんな家庭環境でも結局は本人次第で成功できる」という例を意図的に探すことは、他の大多数を無視すれば難しくない。同じSESが下位25%で学力が上位25%に入らなかった26万5000人に触れずに高学力となった3.5万人だけに焦点を合わせれば、日本はどんな家庭に生まれても高学力になる機会のある国と解釈できるのだ。(中略)SESが下位16%というのはだいたい「子供の貧困」の層と合致すると思われる。このうち学力偏差値60以上の生徒は100人のうち6人でる。一方こSES偏差値が60以上の層からは100人のうち28人が偏差値60以上だ。

生まれや環境によるハンデを超えて成功する人がゼロではない。しかし、それは、恵まれた生まれの人よりもずっとずっと低い。それを無視し、「成功できないのは自己責任」と言ってしまっていいのだろうか。

  

◆高学歴だから手放してしまうもの

aiGoさんは、慶応大学を卒業し、仕事の実勢も多々あるように見受ける。華々しい経歴があり、エリートと言えるような人だ。わたしは最初に、なぜ、勉強もでき、仕事できる人がこんなにも馬鹿な事を言ってしまったのだろうかと言ったけれど、エリートだからこそ、成功できない人が理解できないのではないかとも思う。

「実力も運のうち 能力主義は正義か?」の中には、能力主義が生み出すおごりや、大学に行ってない人に下す厳しい評価をエリートは気がつかないとある。持っている人は持っていない人の気持ちを気がつかない。

わたしの話になるが、家族で大学に行ったのは私だけだ。他の兄弟は行っていないけれど、彼がわたしよりも人間的に劣っているというのは違うと言える。ただ、それに気が付く事ができるのは、わたしの身近に高い教育を受けていない人がいるからなのだろうか。もし、身近にいなかったとしたら、いくらでも卑下して良い対象になってしまうのだろうか。

高い教育を受けなかったから、収入のよい仕事に就かなかったから、生活が苦しくなるのが当たり前。不幸になるのは自己責任--その主張はあまりに酷ではないか。正常な倫理観を失ってしまうような高等教育に意味があるように思えない。