オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

ヘイトを売れと言われたとき

2010年代半ば、ヘイト本と言われる本が流行していた。ヘイト本とは、ヘイトスピーチが書かれた本。国籍や思想、信条、セクシャリティなど人々の内面を差別する内容が書かれた本だ。

ヘイトスピーチとは何か、国連では以下のように定義している。「ヘイトスピーチに関する国連戦略・行動計画」は、ヘイトスピーチを次のように定義している。

ある個人や集団について、その人が何者であるか、すなわち宗教、民族、国籍、人種、肌の色、血統、ジェンダー、または他のアイデンティティー要素を基に、それらを攻撃する、または軽蔑的もしくは差別的な言葉を使用する、発話、文章、または行動上のあらゆる種類のコミュニケーション

www.unic.or.jp

 

編集者の友人が、昔勤めていた会社で、ヘイト本を売っていたと話していた。ヘイト本に書かれた内容は彼自身の信条ではない。むしろ彼自身は他人を軽く見たり、バカにしたりもしない、差別を嫌う人間性だ。だからだと思う。当時は、仕事が嫌だったと言った。嫌だったけれど、仕事だから売らないといけない。結果的に彼はその会社を辞めた。

仕事として、商業活動の一旦として言論を扱うことは、自分の倫理観にそぐわないものを扱わなくてはいけない。わたしは、ジャーナリストや編集者を目指していたこともあったけれど、ならなくてよかった。たとえ、仕事であっても、だれかを馬鹿にしたり、差別したりする読み物を作りたくないし、売りたくない。わたしはAVでよかったなと思った。

AVの中には、犯罪をモチーフにしたものや、現実に行うと罰せられる行為を演じさせる作品ある。だけど、そこはフィクションの世界という線引きがある。特定の誰か個人や団体を貶めることはない。現実から分離された中での出来事として扱っている。だからよかったと思っていた。思っていたけれど、それがひっくり返る出来事があった。ヘイトスピーチみたいなAVを見つけた。

 

◆批判するときこそ誠実に

作家の内田樹さんは、批判するときこそ、相手の尊厳を傷つけないように気を付けると言っていた。わたしもその通りだと思う。たとえ、自分と異なる考えや思想だとしても、その考えに至った背景や生き方がそれぞれにある。そこに敬意を払わず、馬鹿にしたり、茶華したり、下に見たりしながら、違うと言っても伝わらない。誠実に、真摯に、相手個人を否定せず「違う」と言わなくてはいけない。

そのように誠実に批判する媒体として、AVは不向きだ。多くの人がAVを買う目的は、性欲だ。あとは面白さとか、エンターテイメントとして買う人もいるかもしれない。誠実な気持ち、学びたい気持ちでAVを見る人はいないだろう。AVは教科書にも、哲学書にもならない。AVの中での他者への批判は、性欲の一旦になり、面白さを加速する道具になる。エンタメや性欲の一旦として消費される文脈で「間違っている」を言われたとして、言われた相手はどう思うだろう。誠実に受け入れることなどできないはずだ。わたしなら受け入れられない。批判した人へ怒りを持つ。

 

◆ヘイトを扱わなくてはいけない人々

同時に考える。わたしから見れば、ヘイトのように見えるAVを、作らなくてはいけない人、売らなくてはいけない人も存在している。可哀相だと思う。本心から、これが素晴らしい作品と思っている人もいるかもしれないけれど、だけど、きっとわたしのように、これは好きになれない作品だなと思っている作り手側もいると思いたい。

今わたしのいる会社はヘイト本のような作品は作っていない。だけど、もし万が一企画が上がったら、ちょっと良くないですよ、批判されますよと、何か機会を見つけて言う。それでも販売することになったら、本心では嫌だけど、営業してしまうと思う。仲のいい店には、あんまりよくないですよ、とこっそり言うかもしれないけれど、仕事だから、やっぱり売ってしまう。ヘイトの一旦に加担してしまうだろう。嫌だなと思いながら仕事をする。ヘイト本を売った彼のように。

そんな売り手がわたしと同じ業界にいるかもしれない。それを悲しいことだとわたしは思う。わたしはその人に辛いねって言ってあげたいけれど、そんな言葉、届かない。