そもそもソニマニに行った目的は
カサビアンだった。いや、もっと言うと、そこまで明確にこれが見たいという目的はなく、コロナで中止されていたフェスが復活しつつあるし、何か行ってみたいなーというその程度の綿埃のごとく軽すぎる動機だった。
フジロックや
ライジングサンは遠いし、
サマソニは東京公演が7月の時点で売り切れている。
カサビアンや
サカナクションや一時期よく聴いていたバンドも出るし、ソニマニがいいかなーぐらいの具合だ。半ば消去法で選び、ライブ好きの友人に連絡を入れた。チケットを買った後になって、深夜だし、体力的に持つかなーなんて心配したりもした。盆休み中に出勤した代休が余っていたので、それをフェス当日に当てて、昼間寝ればなんとかなるかーなんてゆるい気持ちだった。
なんとなくで行ったソニマニだったが、最高だった。
カサビアンもよかったし、
プライマル・スクリームもよかったし、色々良かったけれど、超絶よかったのはSparksだ。歪で不安定な音楽なのに、ポップで明るい。サーカスか
見世物小屋かミュージカルか、なんと形容したらいいか分からない、明るさと暗さが瞬間ごとに切り替わるような様な演出。狂っていて、変態で、リズムカルで、ポップで、飛び跳ねたくなって、最高だった。なんでもっと早く興味持たなかったんだと、酷く後悔している。わたしが生まれる前から活動しているのに気がつくのが遅すぎる。夜、寝る前に、「this town ain't big enough for the both of us」の演奏を思い出して、ワクワクしながら、この感情を半世紀前の誰かも持っていたんだよなーとか思って眠れなくなった。
Sparksが最高すぎて東京の単独も行こうと思ったけれど、すでに完売。ソニマニ翌々日のサマソニ大阪ならまだチケット余っている。大阪行こうか考えたが、一旦冷静になり我慢した。大人になるのは冷静になることだ。Sparks熱に浮かれ、サマソニ中はネットサーフィンしまくった。みんなSparks最高って思っているよね、サマソニ最高だよね、そうだよね、そんな気持ちでサマソニ来場者のツイートを見まくっていたけれど、みんながみんなそうではなくて、ちょっと、きな臭い、嫌な話題も目に入ったりしてきた。
◆マネスキンのニップレスをどう見るのか
Sparksと同じ時間、大阪
サマソニの別ステージで演奏していた「マネスキン」。メンバーの一人である女性ベーシストが表現としてニップレスをつけ演奏したことを別のバンドが揶揄をしたと問題になっていた。
彼女がニップレスを付けることは性的なアピールではなく、むしろ逆で、女性の裸すべてが性的対象物なわけではないとのアピールだ。このベーシストは、彼女の裸で欲情しないで欲しいと主張している。それに対して、彼女を模してニップレスを付けて出演した別の男性出演者に対して非難が集まった。
女性が、自分の身体で欲情するなと主張し、裸になる。それは今まで前例のないことなので、異質に写るが、わたしは理解は出来る。感情の伴わない欲情への嫌悪感。つまり、相手が好きだから欲情するのではなく、ただただ、記号としての裸、胸、性器に欲情し、ひとりの人間を記号として消費することへの嫌悪。欲情により物のように見られている感覚を想像できる。その感情の伴わない欲情へのアンチテーゼとしてのニップレスであり、裸であり、だから、それを笑いにしてはいけないと、大衆が思った。
本人が性的に見ないで欲しいと、主張しているのに、性的眼差しを向けるのは失礼だ。ただこの被害者は女性だけではなくて、男性にもあるかもしれない。ちょっと前に、格闘家の
那須川天心に対して、編集者の
中瀬ゆかりさんが、抱かれたい、フェロモンがでていると、テレビで言っていた。それに対して、
那須川天心はあからさまな嫌悪感を出していて、不寛容な人だなー、とわたしは思ってしまった。けれど、
那須川天心の裸は、格闘技をするための裸、強さを誇示するための裸、戦うための裸であって、女の人に性的に見られる目的での裸ではない。そういった目的の裸体を、性的に見てしまうことはもしかしたらマナー違反の行為だったのかもしれない。裸という極めてプライベートな部分を晒しているからこそ、受け手側が言っていけない線引きを考えてあげることが優しさだろう。
◆褒め言葉にもけなし言葉にもなる「エロい」「ヌける」
以前、性は凶器にも救いにもなると書いた。
mochi-mochi.hateblo.jp
楽しいものにもなるが、加虐性もあるのが「性」。それは言葉も一緒で「エロい」「抱かれたい」など性的魅力を評価する表現は、人によっては侮蔑にもなり得る。AV女優の方で、ファンから「(あなたで)ヌいた」「エロい」と言われて嬉しいと言っていた人がいた。だけど一方で、同じ言葉を違う場面で使ったら、侮蔑されたと思うだろう。性的であるという前提で表現している人と、そうでない人とで褒め言葉が違う。同じ言葉が、褒め言葉にも侮辱の言葉にもなり得る。AV作品の出演者に「エロい」「抜いた」ということは、その作品の演出や出演者の演技を評価するもので、作り手の目指している表現が受け手に正しく届いたことの証明だ。しかし、エロい表現、演出を目指していない相手に「エロい」「抜いた」ということは、作り手の目指している表現が正しく届いていないことの証明であり、かつ、その人の主張を無視して、その人の身体を部分的な記号で消費していることである。その人を人格のある人ではなく、物のように消費することだ。そこへの憤りは理解できる。「エロい」という言葉は最高の褒め言葉にも最悪の侮蔑の言葉にもなる。そこを理解せず「エロい」を使ってしまうのは、言葉を使う側として配慮が足りない。
◆見習うべきは『ナマモノは鍵アカ』のイデオロギー
だからといって、エロいと思うべきものを決めて、それ以外をエロいと思うなというのも不寛容で狭量だ。そもそも人の思考を制限などできない。そこで、思うのは、思っても本人に聞こえないように言おうよ、ということだ。
腐女子界隈の考えて、ナマモノは鍵アカで言おうという考えがある。ナマモノ……つまり実在する人物について、同性愛の描写をするときは、鍵付きの見えないアカウントでしよう、という主張だ。これは、本人を不快にさせないための配慮であって、本人に嫌な気持ちをさせない気遣いと、自分の表現をしたい表現欲をギリギリラインでの両立だとわたしは思う。
もちろん、ナマモノを公にするなという主義主張が過激になり、不適切な発言をした人を過度に攻撃してしまうのもよくない。以前、あるテレビ番組で、共演者を同性愛的に見ていると発言した
吉木りささんに誹謗中傷が集まっていたが、そこまで過度に攻撃してしまうのはよくない。そもそもわたしも
安倍晋三と
麻生太郎でBLを書こうとしているし、それによって
麻生太郎が嫌な思いしたらとか言われたら、すいません、みたいな気持ちになる。大きなこと言えない。麻生さん、ごめんね。
だけど、
腐女子たちの「ナマモノは見えないところで」という考えは共感していて、愛すべき対象を大切にしながら、自分のやりたい方法で応援するという姿勢はとても素敵だと思う。とりわけ性的な眼差しについては、持っていけないことはないが、本人はそれを聞くと嫌だと思うという前提を忘れずにしたほうがいい。
◆ファンに疲弊していく表現者たち
本人の求めない方法での応援や褒め言葉が、当人を追い詰めてしまうというのはあることだ。とりわけ、性的魅力を評価する意見は凶器にもなり得る。見て欲しいのは、表現やパフォーマンス、訓練や努力の結果として身体であって、代替可能な消費対象としての本人ではない。それはきっと性表現をする人、しない人共通だ。この音楽、この試合、この漫画、このAVがいいと言って欲しい。
もちろん、求めない意見であっても、表現をする以上覚悟をするべきと言う意見は理解できる。的確な批判が表現に役立つことだってある。だが、批判にすらならないような、相手を消費するような眼差しによって、疲弊し表現自体がなくなることもある。わたしたち表現の受け手は、自分たちの反応によって表現自体がなくなることを覚悟して、その意見をいわなくてはいけない。わたしたちが求めるのは、すばらしい表現物、素晴らしいパフォーマンスであって、ファンへの従順さや無抵抗さではないはずだ。それならば、無益に相手を傷つけるだけ言葉を相手に届ける必要はないのではないだろうか。