オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

朝からセックスを連呼する三浦瑠麗から目がはなせない

「みたよ、ブログ。僕も朝生たまに見るんだけどね、三浦瑠麗ってなんか胡散臭いよね」
数年前、テレビの収録の感想をブログに書いた直後。営業先の店長からそんな話をされた。なんか胡散臭そう、なんか怪しそう、だけど気になるし、テレビにでていたら観てしまう。好きじゃないけど気になる存在。
 三浦瑠麗さんを、気にしているのは、わたしたちだけじゃなくて、たとえば北原みのりさんは連載コラムで、三浦さんについて書いている。
女友だちと会うと、なぜか三浦瑠麗さんの話題になる今日この頃。ご存知のとおり今をときめく国際政治学者で、東京大学卒業、30代、美人。私たちの話題は残念ながら「ご活躍素晴らしいよね」というものではなく、「なぜオジサンは三浦瑠麗さんが好きなのか」である。そうですよね。オジサンは右も左も関わらず、メロメロですよね。
 
 エロビデオ屋の店長から、フェミニストの作家まで、男女問わず、好きじゃないけれど気になる、でているとつい観てしまう。世間の視線を集めてしまうのが三浦瑠麗嬢の魅力であり、欠点でもある。
 

◆とくダネでの不倫擁護発言

朝のワイドショーもザッピングして三浦嬢がでているとチャンネルを止めてしまう。つい。先日も、「とくダネ」で芸能人の不倫に関して、三浦さんが話すのをぼーっと観ていた。この際、三浦さんは、不倫擁護ともとれる発言をし、後に話題になっていた。
 
国際政治学者の三浦瑠麗氏が23日、フジテレビ系「とくダネ!」で、東出昌大の不倫報道について「俳優さんというのがそこまで身を律して妻としかセックスをしてはいけないというスタンダードを置きたいのか」などと、違和感を唱えた。
 
更に「子育てのパートナーとしては最高だけど、この人とはセックスしたくないというのはたくさんある。それを夫婦関係破綻と呼んできた?呼んでないし、男女として破綻しても夫婦として素晴らしいというのはある」ともコメント。
 
 
アダルトグッズを売っているわたしが言うことじゃないかもしれないけれど、セックスってしなくても良いと思うんですよね。したい人すればいいし、したくないならしなくていい。そして、誰かを傷つけてまでするものではない。それは、レイプや痴漢のような性犯罪だけでなくて、不倫のような不貞行為も同じだとわたしは思う。パートナー同士で話し合い、お互いで合意がとれているならばいいけれど、どちらかが傷つくのであれば、不倫はしてはいけないとわたしは考えている。
セックスすると誰かを傷つける状況であるならば、自制心をもたなくてはいけない。AV男優一徹さんの本でも書いてあったけど、抱き合うだけ、手をつなぐだけのコミュニケーションであってもいいと思う。年をとればちんこは立たなくなるし、生理的欲求としての性欲は衰えていく。それでもセックスをしなきゃいけないなんてことはない。
 
わたしから観ると、三浦瑠麗さんはセックスに重点を置きすぎているよう映る。常に性の対象としての女でいることを望んでいる。別にそれでもいいんだけど、それはパートナーや周りのを傷つけない範囲でのほうがいいよなあ。
 

◆娼婦であり母でもある三浦瑠麗

女性は娼婦と淑女に分けられると言われれている。上野千鶴子さんの著書「ナショナリズムジェンダー」の中では、母、妻といった聖性を保つために、「娼婦」がもうけられたと書かれた。大戦中、良家の子女の貞操を守るためという大義名分で慰安所がもうけられた。そのため、妻や母である立場の女性から、娼婦と見なされる女性への差別もあった。「ナショナリズムジェンダー」で従軍看護婦に関して以下のように書いている。
「看護婦」のカテゴリー上の聖性が、現場におけるセクハラの問題化さえ阻んできたといえよう。そしてそのことは「慰安婦」差別のちょうど裏返しにあたる。事実、戦場では多くの「慰安婦」が看護要員として駆り出されたが、従軍看護婦の側から「醜業婦に看護をさせるな」という非難の声があがったという。
 
従軍看護婦のように、妻や母の側にいる女性たちは、娼婦とされる、女性性を売る女性に対して、線引きをする。自分はこの人とは違うと。母、妻であることと、女であることは分けられている。
母として、妻として、家族に求められることと、女性として異性に求められること。どちらも女性にとっては魅力的だ。しかし、両立するのは難しい……。母や妻という安定した立場をもった以上、女であることは犠牲にせざるを得ない場面もある。女性は「母や妻」か「娼婦」どちらからを選ぶしかない……はずだったのに三浦瑠麗さんはどちらも手に入っているよう見える。彼女のごわっとさせる違和感は、相反する二つのものを手に入れているよう見える点のだと思う。
性的魅力と母性。色気と知性。美しさと立場。多くの人たちが、どちらかをとるために、どちらかを諦めてきたものをどっちもとっている。それが「それはずるい」と見られる所以だろう。三浦さんが、実際におじさんに好かれているかは分からないけれど、「言いたいことをいいながら、おじさんに好かれる」という相反するうまみを持って行っているように見えるのは北原みのりさんだけじゃないかもしれない。
 

◆性的魅力と知性は両立できるのか

北原さんは「おじさんに好かれる」と言うけれど、三浦さんがその実力や発信を信頼され、おじさんに好かれるか、というとどこか怪しい。東京大学をでている彼女は賢いのだろうが、印象として賢さが一番にそれがこない。知性よりも色気が先行する。三浦さんのの著作「孤独の意味も、女であることの味わいも」には、三浦さん自身が性的暴行を受けたことを夫に話したときのことを以下のように書いている。
長じて夫に出会ったとき、伴侶として語り合ううちに彼が私に言ってくれたことがある。帰責性と因果関係を混同したらだめだ。あなたという存在には、他者の支配欲を呼び起こす原因はあるが、だからといって責任はない。ああ、あのときにそう分析して私に語ってくれる存在がいたらよかったな、と切に思うのである。
孤独の意味も、女であることの味わいも

孤独の意味も、女であることの味わいも

  • 作者:三浦 瑠麗
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/05/17
  • メディア: 単行本
 

 

支配欲をかき立てる。それが彼女が女性としての魅力なのだろう。自由そう、奔放そう、だけど母であり戻るべき場所がある。手に入りそうだけど、手に入らない。
 
田嶋陽子さんや辻本清美さん、といった女性論者のように舌鋒鋭く、感情をだし、自分の意見を発信すれば、色気や魅力よりも、その人自身の話に目がいく。男性は、うるさいなと思いながら、議論を戦わせざる負えない。論破した先に、自分が正しいという誇示はあるが、性的な支配はない。
三浦さんは、論破の先に、性的支配を感じさせる。それが引き起こされる原因は、男性に好かれるであろう美しい容姿であることや、前述の発言に代表されるような性へのオープンさがあることなのだろう。

 

田嶋陽子の男性にこびない美しさ

しかし、三浦さん以外の女性論者に性的魅力がないかというと、そういうわけではないとわたしは思う。田嶋陽子さんは、近年歌手としてCDデビューした。CDジャケットには、美しい田嶋さんの写真が使われていた。
揺蕩い たゆたい

揺蕩い たゆたい

  • アーティスト:田嶋陽子
  • 出版社/メーカー: Aizumi
  • メディア: CD
 

 

Ami~恋人~/アヒルのいいぶん

Ami~恋人~/アヒルのいいぶん

  • アーティスト:田嶋陽子
  • 出版社/メーカー: オリエントレコード
  • 発売日: 2007/09/25
  • メディア: CD
 

 

田嶋さんは、討論番組でそのような美しい姿を見せることはなかった。自身のその美しさを、周囲の男性に好かれるために使ってはいない。

三浦さんは、美しいけれど、その美しさは、自身が美しくいたいからではなくて、周囲の異性に好かれるための美しさで、美しくいるための理由が異性に求められることなのかなと想像する。求められたいと思うゆえに美しくいる。だからこそ、異性から求められるセックスという行為に重点を置いたのではないか。そして、異性として、男性に求められたいと思いながらも、低い女、頭の悪い女だとは見せたくない、自意識もある。色気と知性を両立したい自意識。
 

◆色気と下品の違い

しかし、知性と色気の両立はむずかしいのかもしれない。男性には、「エロい人」と支配欲をかき立てて、女性には男性に媚びを売っていると見られる。知性の印象が薄まる。
そして、三浦さんに対して性的魅力があると書いているけれど、不倫とか、セックスとか、公で堂々と言われると、色気があるというよりも下品なだけに見える。エロさというのは、オープンにしすぎるとなくなる。隠れているからこそエロいと思う部分はある。押しつけられた魅力はなくなる。
三浦さんのオープンでエロい発言がどんどん増えて、岩井志麻子さん的な下ネタを連発する面白い書き手という枠組みになったら、それはそれでおもしろいけれど、彼女はそこまでできないだろうな。自分を低く見せられないのだろう。本人は頭よくて色気があるように見せたいのだろうけど……下品なだけだよね、と思われてしまうのかな。どうするんだろう、どうやって方向転換するのか気になってしまう、やっぱり三浦瑠麗は魅力的な人。