オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

ちんこに聞こえる中国語

中国語を勉強していると、どうしても下ネタにしか聞こえないなって言葉があります。

中国語を勉強していない方でも、中国語話者の会話を聞いて「あの人、チンコって言ってない??」って瞬間あるかもしれません。全然エロくないのに、下ネタに聞こえる中国語を紹介します。空耳アワーの中国語エロ版です。

 

◆「ちんこ立っちゃった」に聞こえる文章

・辛苦大家了(Xinku dajia le)

直訳は、「みんなお疲れ様」。普段の会話でも使う熟語です。中国語のアニメを見ていたら出てきた言葉で、わたしは聞こえなかったのですが、一緒に見ていた知人が「ちんこ立っちゃったって言ってない???」と聞いてきたので、もしかしたらそう聞こえるかも。お疲れ様なのはチンコのことじゃないです。

 

 

◆「ちんこ」に聞こえる言葉

亲口(qinkou)

「自分の口で」という意味の福祉です。口という漢字は「コウ」と中国語で読むので、チンコとかマンコとかに聞こえやすいですね。亲という漢字は日本語では「親」という文字になります。親しさとか敬う意味合いとかあるので、全然下品なニュアンスはないです。

使い方:亲口告诉 「自分の口で告げる」

 

◆「ちんちん」に聞こえる言葉

倾情(Qingqing)

「情熱を注ぐ」「情感を込める」という意味です。チンチンの情熱によって突き動かされているのは事実ですから日本語に近いのかもしれないですね。エロい情熱以外を注ぐときも使います。

 

请进(qing jin)

「お入りください」という意味です。台湾に行ったとき、地下鉄の改札で聞こえ「チンチンって言ってない???」と興奮しましたが、とっとと改札入ってくれって事だったんですね。カタカナにすると「チンジン」になるけど、中国語に触れる機会が少ないと、チンチンって聞こえます。

 

◆「まんこ」に聞こえる言葉

・门口(menkou)

「入口」という意味です。日常ですごく頻繁に使う単語です。学校门口(学校の校門)とか。中国語圏の人「マンコ」が言っていたらこの単語の可能性が高いです。·ウィキペディアで調べたら、まんこの語源は门口からきているという説もあるっぽいです。マンコに聞こえるではなく、本当にマンコなのかもしれないです。

 

・满口(mankou)

聞こえ方でいったら、门口よりも满口の方がモロマンコです。门口はメンコーに近い、アとエの間の音なのですが、こちらは母音がアなので、マンコそのものです。意味は、口の中とか、話すことすべてとか、です。

 

中国や台湾に行った際、下ネタが聞こえてきても、エロい気持ちにならないように気を付けてください。

 

中国語の下ネタは以下をご覧ください。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

真面目に中国語を勉強したい方はこちらを見てください。中検三級の勉強の際に使ったテキストの紹介です。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

大森靖子ちゃんが好きすぎるのでZOCのプロデュースをやめて欲しいと願ってしまう

「毎朝、6時半になるとコンポから流れ出すんですよ、爆音で、お父さんがコンポの設定あるじゃないですか、目覚ましソングの設定を気分爽快にしてて朝から飲もうって流れ出すんです。ホント気分爽快に起きれました。低血圧ぎみでしたけど。無理せずゆるっと起きれる感じが結構気に入っててて、青春時代ずっと」

「だから今日声聞いて本物だ、朝の声だって」

 

MCの森高千里さんに話す様子が、気に入られようとしているように見えた。でも、それは、今回だけでなくて、相手を喜ばそう、褒めよう、嫌われないようにしよう、そういった気遣いと下心の混じり合ったようなコミュニケーションを彼女はとる。 7月18日の「LOVE MUSIC」で、前述した森高さんとのやり取りをみた。大森靖子ちゃんの出演しているテレビ番組はこれ以外も可能な限り見るようにしている。それくらい大森靖子ちゃんが好きだ。新しい楽曲があれば聞いて、今年に入ってやっとライブにも行けた。熱狂的なファンとは言えないけれど、自分にできる範囲で、彼女の活動を応援し、楽しませてもらっている。

www.tnc.co.jp

 

わたしが大森靖子ちゃんを熱心に追いかけるきっかけは、数年前に、テレビの収録を見学した際、偶然、彼女に会ったときだった。彼女の楽曲を聞いてはいたけれど、ファンと言えるほど好きではなかった。それでも、直接目にする彼女はかわいくて、収録後に握手を求めると、笑顔で応じてくれて、一緒に写真まで取ってくれた。「今日も聞いていきました」とわたしが言うと、彼女は「うれしい」と喜んでくれた。さっきまでイヤフォンから流れていた声で、そんな風に言われたこと、急にお願いした写真にも笑顔で応じてくれたこと、全てが嬉しくてたまらなかった。彼女はわたしのアイドルになった。

初対面の人を邪険にするような事ができないのだと思う。突然の要望にも機嫌良く対処する。だからこそ、奥底にひたひたと貯まる、ストレスやしんどい思いがあるのかもしれない。そして、普段の可愛い大森靖子の裏側にあるしんどさが楽曲になる。 

 

◆出演停止を決めた荻上チキの意見

大森靖子ちゃんが炎上した。彼女がメンバー兼、プロデューサーとして活躍するアイドルグループZOCにて、他のメンバーに怒鳴りつける大森靖子ちゃんの音声が流失したのだ。この騒動が理由で、ラジオ番組「荻上チキ・Session」で放送予定だった彼女へのインタビューは放送を見送られた。

www.tbsradio.jp

 

パーソナリティを務める荻上チキさんはこの出来事に関して、8月17日の番組内でコメントしている。

 

同じメンバーだと言ってはいるけれど、年少者と年長者の関係であると同時にプロデューサーとプロデュースされる側という関係も依然としてある。つまり権威と権力の勾配がある関係ではあるので、メンバー間の見解や言い争いとは言いがたくて、パワーハラスメントにあたるという疑念がでてくるわけですね。 

 

ZOCというアイドルグループにおいては、僕は初期から活動を追いかけてはいるんですけれども、元々、男性が女性をプロデュースして、プロデュースする側とされる側が擬似的な父と娘の関係になるようなことに対して、大森靖子氏が違和感があるというような事をインタビューで答えていたんですね。それに対するひとつのアンサーとして、こういったグループをつくったんだという事も語っている。だけれども、今回の疑惑というのは、そうした活動のコンセプトの根幹にも関わる事でもあったので、こういった疑念が生じた際に、そういった説明がなされるのかということが注目がされていたわけですね。その応答の仕方によって今回放送をどうするのかと言う事も考えなくてはいけなかったわけです。 

  わたしも実際の音声を聞いた。大森靖子ちゃんが、感情的に怒鳴りつける部分だけが切り取られているため、前後のやり取りは分からない。もしかしたら、相手側からも攻撃的な言葉があったのかもしれない。だけど、それだとしても、荻上さんの言うように、勾配のある関係で、立場が上の人が下の人に向ける言葉ではない。 わたし自身の話になるが、似たような場面--つまり、仕事の上の上の立場の人に感情的に怒られた事がある。もう十年近く前の話しで、今は違う職場にいるけれど、それでも、あの時恐怖を感じたことを覚えている。彼の指導の仕方・伝え方は間違っていたと思う。そして、今でも彼が嫌いだ。だから、大森靖子ちゃんの行った行為で、きっとやられた側のメンバーはずっとこの先しこりのような、嫌な感情を抱き続けるかもしれないな、とわたしは思う。

ただ、わたしはこの出来事を知って、大森靖子ちゃんがそんな酷い事をするわけない、とは思えなかった。それどころか、大森靖子ちゃんだったら、ありそうだなとも思った。彼女はこれまでも、感情を全面にだして表現してきた。プラス感情--喜びやうれしさだけでなく、怒りや憤りといった負の感情も垂れ流すように表現する。何かを殴り続けるみたいに言葉を流し続ける。それは、彼女の今まで書いてきたブログなり、ライブでの発言なりで見てきた。そしてその怒りの感情が、彼女の歌に生かされてもしていた。 彼女の抱える怒りの感情は表現することで発散し、他者に向けないでくれるだろうと信じていたが、やっぱり、そうじゃなかったんだなというのがわたしの感想だ。 

 

◆「大森靖子」だけを受け入れる世界

ミュージシャンのロマン優光さんは、大森靖子ちゃんのこの出来事に関して、連載で意見を書いている。

bucchinews.com

 

端から見ていると、彼女にとって世界は「大森靖子」であるか、そうでないかで成り立っているようにも見える。音楽も大好きなアイドルも友人もZOCのメンバーも「大森靖子」なのだろう。それを奪おうとするものに対して過敏に反応し戦おうとするし、「大森靖子」だと思っていた人がそうではなかったと感じてしまうと、過剰に攻撃的な対応をしてしまう。「大森靖子」であるため「大森靖子」を守るために彼女は常に世界と戦い続けているかのようであり、それは単に表現の場でということではなく生きること自体をそう捉えているように見える。それゆえ、彼女の世界に存在できるのは「大森靖子」であって、他者は存在できない世界なのではないかのように感じるのだ。今回の炎上の原因になった巫まろに対する怒りにしても、別に若い女の子の容姿に嫉妬したとかいうくだらない話ではなく、愛しているメンバーが「大森靖子」の思想をわかってくれていないと感じたことから起こってしまった出来事なのだと思う。

 

ロマンさんは「大森靖子」と表現している箇所は、わたしも同意できる。大森靖子ちゃん自身が、納得できる物、良いと思える物は全力で受け入れて、そう思えない物は過剰の排除する。極端にも見える行動や発信をしているときがある。 自分が納得できない物、受け入れられない物を過剰に排除するという傾向は、彼女自身が受け入れてもらえない側だったからかもしれないとわたしは思っている。排除された側だからこそ、彼女を否定する人が怖いのではないだろうか。

 

最果タヒさんとの共著「かけがえのないマグマ 大森靖子激白」には彼女が高校時代まで過ごした愛媛での出来事が書かれている。そこでは、他の女の子が理解できなかった事、女の子たちに馴染めずいた事が書かれている。

www.cinra.net

 

 

でもさ、「好きな人いる?」とかそんな話、私じゃ思いつかない。「好きな人できないといけないんだよ」なんて言われたら、私は、あ、かわいいな、って思っちゃう。同じにはどうしてもなれなくて、だから私はカバンをあさった。家でなにしてるのって聞いてみたり、トイレ覗いて、何度か先生に叱られた。夢中になったのはほとんどが、女の子。弟や近所の男の子と遊んでばかりいたから、私には女の子が自分とまったく違う生き物に見えていた。

 

私がめっちゃくちゃ好きになった女の子はユリリンっていうあだ名。道重さゆみちゃんみたいにかわいい顔で、「お父さんにムカついたから玄関の木彫りの熊投げてきた」とか言う(中略)当然、昼休みは一緒にお弁当食べてたし、これからもずっとずっと一緒に食べたかったし、ずっとずっとずーーーっと友達でいようね!ってかんじだったけど、ユリリン熊投げるぐらいだし、まあ自己中で、気性荒くて気分屋で、外見がいい子だったのもあって他の子も「ユリリン!」って声かけるし、ギスギスするようになってカップルの修羅場みたいな喧嘩を何度もした。そのうちお昼も一緒に食べなくなったし、ああじゃあ私はトイレでいいや、とにかくユリリンが違う人と食べているところも見たくないしもうトイレで、いいやっていう気分になった。

 

他の女の子が告げ口みたいに、「大森とは仲良くするな」って転校生に言っている。金髪だし、ボコボコだし、絶対援交してるし、みたいなかんじで一気に誤解がすり込まれていく。

学生時代に、集団に上手く馴染めなかった--これは大森靖子ちゃんの表現にも生きていて、だからこそ、弱い人、生きづらい人の気持ちがくみ取れるのだと思う。しかし、ZOC活動は、その経験が悪いように生かされているようにわたしからは見えてしまう。学生時代、集団に馴染めなかったという負の経験を、アイドルグループを作り、尚且つ、自分もその中の一員になる事で、自分が中心でいられる理想の女の子集団を作ろうとしているように見えてしまう。意図していないのかもしれないけれど、「大森靖子」ではない物を拒絶しながらグループを運営しようとする彼女は、以前、彼女を拒絶した周囲と同じ方法で、彼女の理想を作り上げる方に向かってしまっている。排除された側だった彼女が、繰り返してしまっている事実が悲しい。 

「かけがえのないマグマ 大森靖子激白」では、高校生だった大森靖子ちゃんが、銀杏BOYSのボーカル峯田和伸さんとメールのやり取りをしたエピソードがある。峯田さんが、ライブ中に発した自身のメールアドレス宛てに、大森靖子ちゃんがメールを送る。毎日、日課のようにメール送り続け、あるとき峯田さんから返事がくる。

「僕は今青森でライブが終わってメガ君とりんごジュースを飲んでいるところです。そのままでいてね。」

そのままでいてね。それは峯田さんだけでなくて、大森靖子ちゃんのファンの多くが思っている事なのではないだろうか。過剰に溢れる感情と、感情をろ過してできる彼女の音楽。彼女は過剰で、コンプレックスだらけで、女の子なのに、女の子の事が分からず、馴染めず、世界に溶け込む事ができなかった。そこで、溢れた感情が音楽になった。そんな表現できるのは大森靖子しかいない。峯田さんではなくても、そのままでいてほしいと願う。

 

大森靖子ちゃんがそのままでいるために

ひとりのファンとしてわたしが大森靖子ちゃんに希望するのは、ZOCのプロデュースをやめて欲しいということだ。溢れかえる感情を出して叩き付けて歌詞を書き歌う行為と、プロデュ-サーとして、グループを俯瞰してみながら、メンバー達が活躍できる場と方向性をつくっていく行為は、あまりにかけ離れている。歌を作る方法と同じやり方で、グループを運営していったら、他のメンバーの個性や気持ちを殺してしまう。 

プロデュースとは制作、産出などを意味する。だけど、プロデュースする側が、自分の理想を叶えるだけの場を生産する行動に、他者が付いて行けるだろうか。同じような諍いがまた起こってしまうような気がわたしはしている。

かといって、大森靖子ちゃんが変わって、溢れる大森靖子個人の感情をZOCのプロデュースの際には押さえ、メンバー一人ひとりの気持ちを考慮して、うまく立ち回って、一人ひとりの個性をみながら、良いグループしてしまうというのは……ZOCにとっては素晴らしい事だけど、大森靖子ちゃんらしくないような気がわたしはしている。できたら、わたしは大森靖子ちゃんに、そのままでいてほしいんだ。   

 

DaiGoのようなエリートだからこそホームレスを差別してしまうのではないか

とても残念は事だけど、ホームレスを差別する人は存在する。「悪い奴を退治した」といいながら路上生活者に暴行をする人もいる。以前のブログにも、ホームレスの暴行するニュースを見ると憂鬱な気持ちになると書いた。

mochi-mochi.hateblo.jp

先日、インターネット等での発信を続けるDaiGoさんが、ホームレスに対して、差別的な発言をして話題になっていた。

「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい。どちらかというと、みんな思わない?どちらかというといない方がよくないホームレスって?言っちゃ悪いけど、本当に言っちゃ悪いこといいますけど、いない方がよくない?」

 

www.buzzfeed.com

news.yahoo.co.jp

彼がどういった意図をもってこの発言をしたのかは分からない。ただ、どういった意図があったとしても、こういった考えを公にしてしまったのは愚かな行為だ。

わたしは以前、ホームレスの炊き出しのボランティアを行っていた。炊き出しに来る路上生活者の中には、会社を経営していたと話す人もいた。昔、一緒に暮らしていた妻子の話をする人もいた。彼らは排除していい対象ではない。わたしたちと同じ人間だ。そんな当たり前の倫理感すら身につけない、他者の立場や、気持ちや、もし自分がされたらという想定を想像できない人を、乱暴な言い方だけど”馬鹿な人”だと思う。

学業や仕事で成果をあげ、立派に見える成果物があっても“馬鹿な人”はいる。今回、自身のSNSでホームレスを罵って炎上したDaiGoさんも、偏差値の高い大学をでているけれど、わたしから見るととても“馬鹿な人”に見える。高い教育を受け、教養を深める事に多くの時間を使ったであろう人がなぜこんな事を言うのだろうか。

特定の人間を「いないほうがいい」と言ってしまう愚かさに、馬鹿馬鹿しさだけでなく、恐ろしさをも抱いた。こんな意見を公にしていいと思わせてしまうのは恐ろしい。いないほうがいい人と決めつけられた人は消えろというのか。

 

◆能力や立場による差別は許されていいのだろうか

「ホームレスはいない方がいい」。ここまで明確な言葉で、特定の人たちを差別し、侮蔑する人は、めったにいない。だからこそ、こうやって話題になったのだけれど、DaiGoさんと同じような考え--つまり、その人の能力や立場を見て、いらない物や取るにならない物と見なす人は居るように感じる。

以前、ある人がSNSで、「ちゃんとしていると見られたいから学歴を公表している」と言っていた。その人の卒業大学は確かに、偏差値の高く、一般的に難関大学と言われる学校だったけれど、「難関大学卒=ちゃんとしている」と言う認識に違和感が残った。難関大学を出ていないとちゃんとできないのだろうか? 最終学歴が中学卒業や高校卒業の人はちゃんとしていない人なのか? 

ジェンダーや国籍、人種といった生まれ持った特徴を差別する事は駄目な事という認識が広まりつつある。まだまだ発展途上ではあるけれど、そういった差別に対しての声は上げやすくなった。しかし、一方で、違う差別が広がっている。それは、能力や立場に対する差別だ。その人の学歴や仕事、収入と言った能力による差別は許されないばかりか広がりつつある。

マイケル・サンデル氏の著書「実力も運のうち 能力主義は正義か?」では、学歴や能力に偏重しつつある現代を批判している書籍だ。

 

学歴や能力を理由に差別をする人は、他の差別にも鈍感で、周りからの評価が低い人か?違う。それどころか、むしろ、先進的で、ジェンダーや国籍に対してはリベラルな考えを持っている人だ。教養があるように見える人が無意識に差別を行う。

たとえば、バラク・オバマヒラリー・クリントンといったリベラルな政治家。「実力も運のうち 能力主義は正義か?」には、バラク・オバマが、才能と努力の許す限る人々は成功し出世できるとうたったと、書かれている。

「高等教育に関して言えば」と、オバマホワイトハウスで開かれた教育者の集会で語った。最終的に重要なのは「聡明で意欲ある若者が……彼らの才能、労働倫理、夢が許すかぎり前進できる機会を必ず手にできるようにすることです」。オバマは、大学教育を社会的地位向上の主要な手段と見なしていた。「目下のところ、国として平等な結果を約束するわけにはいきません。しかし、われわれは、すべての人が成功への平等な機会を手にするべきだという理念を基に国を築きました。誰であろうと、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、成功できるのです。それがアメリカの根本的な約束なのです。出発点によって終着点が決まってはなりません。したがって、誰もが大学進学を望んでいることをうれしく思います」

また別の機会には、オバマは妻のミシェルを引き合いに出した。ミシェルは労働者階級の家庭で育ったが、プリンストン大学とハーバードロースクールで学び、世に出ることができた。「ミシェルと彼女の兄は信じられないほど素晴らしい教育を受け、夢の許すかぎり前へ進めたのです」。このことがオバマのこんな信念の土台になった。「アメリカを卓越した国にするもの、きわめて特別な国にするものは、こうした基本契約、こうした考え方です。つまり、この国では、どんな見た目であろうと、出自がどうであろうと、名字が何であろうと、どんな挫折を味わおうと、懸命に努力をすれば、自らの責任を引き受ければ、成功できるのです。前へ進めるのです」

バラク・オバマの主張は、一方で、出世しない・できない人は、才能や努力が足りないからだとも受け取る事ができる。成功できない人は、懸命な努力を怠り、自らの責任を引き受けていないのだろうか。そんな中、出現し支持を得たのがドナルド・トランプだった。

絶えず「機会」について語ったバラク・オバマヒラリー・クリントンとは異なり、トランプはその言葉をほとんど口にしなかった。代わりに、勝ち組と負け組について無遠慮に語ったのだ(中略)エリートたちは、栄達へ至る道としても社会的敬意の土台としても、大学の学位に大きな価値を置いてきたため、能力主義が生み出すおごりや、大学に行ってない人に下す厳しい評価を理解するのが難しい。こうした態度こそ、ポピュリスト的反発とトランプ勝利の核心にあるものだ。

しかし、なぜ、バラク・オバマのような知見のある人がこういった差別の裏返しとも受け取られるような発言をしていたのか。そこには、学歴や仕事の成果はその人の努力で得た功績、という認識があったからだろう。本人が、努力し、頑張ったのだから、成功を評価するのは当たり前で、成功しなかった人は、本人の行動が足りなかったーーそういった「自己責任論」は普遍的に言われている。しかし、成功できない事はその人だけの責任なのだろうか。

 

◆成功できない人は努力不足なのか

学歴は本人の努力の結果ではない。家庭や周囲の環境、大人によって左右される。その事実を調査し、述べているのが松岡 亮二さんの著書「教育格差」だ。

「生まれ」によって学力や大学進学期待など長期間の経験蓄積に基づく格差があるという「現状」(第2~5章)と向き合わずに実践されたこれらの実践・制作・制度変更によって影響を受けてきた児童・生徒たちの中で、自身の可能性が失われたこと--血が流れたことに自覚的である人は皆無に近いのではないのだろうか。

 巻末の7章目でこのように考察を語る筆者は、数々の調査を通じ、生まれや環境によって、そこにいる子供たちの学力に偏りがでることを説明していく。本書の中ではSES(socioeconomic status=社会的地位)という表現を用いて解説していく。SESとは、経済的、文化的、社会的要素を統合した地位を意味する。世帯収入、親学歴・文化的所有物と行動、職業的地位を指標化して1つの連続変数とすることが多いようだ。SESの高い家庭に生まれた子供が高学歴になりやすく、逆にSESの低い家庭に生まれた子供で高等教育を受ける割合は少ない。さらに、SESの平均が高い・低いというのが地域ごとにあり、SESの平均値が高い地域の学校は公立であっても、教師が熱心に教育するようになり、逆に低い地域は教師の仕事への貢献も低くなる。

もちろん、バラク・オバマの妻、ミッシェルのように、貧しい家庭から高い教育を受ける人もいるだろう。しかし、「教育格差」の中ではこう語られている。

「どんな家庭環境でも結局は本人次第で成功できる」という例を意図的に探すことは、他の大多数を無視すれば難しくない。同じSESが下位25%で学力が上位25%に入らなかった26万5000人に触れずに高学力となった3.5万人だけに焦点を合わせれば、日本はどんな家庭に生まれても高学力になる機会のある国と解釈できるのだ。(中略)SESが下位16%というのはだいたい「子供の貧困」の層と合致すると思われる。このうち学力偏差値60以上の生徒は100人のうち6人でる。一方こSES偏差値が60以上の層からは100人のうち28人が偏差値60以上だ。

生まれや環境によるハンデを超えて成功する人がゼロではない。しかし、それは、恵まれた生まれの人よりもずっとずっと低い。それを無視し、「成功できないのは自己責任」と言ってしまっていいのだろうか。

  

◆高学歴だから手放してしまうもの

aiGoさんは、慶応大学を卒業し、仕事の実勢も多々あるように見受ける。華々しい経歴があり、エリートと言えるような人だ。わたしは最初に、なぜ、勉強もでき、仕事できる人がこんなにも馬鹿な事を言ってしまったのだろうかと言ったけれど、エリートだからこそ、成功できない人が理解できないのではないかとも思う。

「実力も運のうち 能力主義は正義か?」の中には、能力主義が生み出すおごりや、大学に行ってない人に下す厳しい評価をエリートは気がつかないとある。持っている人は持っていない人の気持ちを気がつかない。

わたしの話になるが、家族で大学に行ったのは私だけだ。他の兄弟は行っていないけれど、彼がわたしよりも人間的に劣っているというのは違うと言える。ただ、それに気が付く事ができるのは、わたしの身近に高い教育を受けていない人がいるからなのだろうか。もし、身近にいなかったとしたら、いくらでも卑下して良い対象になってしまうのだろうか。

高い教育を受けなかったから、収入のよい仕事に就かなかったから、生活が苦しくなるのが当たり前。不幸になるのは自己責任--その主張はあまりに酷ではないか。正常な倫理観を失ってしまうような高等教育に意味があるように思えない。

中国語検定3級に受かるまでに使ったテキスト

中国語検定3級に受かりました。

よかったね、よかったね。
2016年9月ごろから中国を勉強し始めたので、おおよそ4年半。長い。せっかく合格したので参考に今迄使ったテキストや勉強方法をお伝えしようと思います。

中国語を勉強中の方、これから勉強しようかなと思っている方はぜひご参照ください。

 

◆勉強方法・勉強時間

基本的に週1でネイティブの先生と一対一レッスンを行っています(年末年始やお盆などはお休みしてますが)。勉強の習慣は、レッスンの予習・復習を、一週間かけて行っています。だいたい1日20分くらい。忙しくてできない日もありますが、週4~5日は家庭学習をしています。ひとつのテキストは、一回一通り勉強したら、もう一度最初に戻って勉強していました。一周だけだと忘れていることも多いので、二回勉強して内容が定着したような気がします。


◆中国を歩こう―中国語初級テキスト

 

中国をはじめたとき、まず最初に使ったテキストです。ピンイン表にカタカナのフリガナがふってあります。中国はまったく分からない方でも、このテキストからなら始められます。大学の授業とかでちょっと中国を勉強したよって人は下に書いてある「汉语口语速成(入门篇)」の上から始めてもいいかもしれません。このテキストはCDもついているので、これ一冊で勉強できます。

 

◆汉语口语速成(入门篇)

 

上下巻に分かれています。上下巻合わせて、全部で30章あって、ひとつの章に、長文、単語、文章の解説、練習問題が掲載されています。
タイトルは中国語ですが、単語の翻訳と、文章の解説文はちゃんと日本語です。汉语口语速成の上は「中国を歩こう」にも重複しているような基本的なな中国語学習の内容です。下になると急に文章の難易度があがります(下のほうは可能補語とか使役構文とかしっかり学びます)。汉语口语速成の下の内容は、普段のレッスンの予習・復習とは別に章ごとに構文をまとめて学習していました。


あ、ひとつ注意点があって、「汉语口语速成」はCDは別売りなので、そちらは気を付けてください。中国の出版社が作っているせいか、日本では購入できる場所が少ないのでちょっとそこはめんどくさいです。amazonでは付属のCDは売ってなかったかな。上が終わったタイミングで中検準四級、下の途中くらいで中検四級にうかりました。


◆語ろう日中暮らしの文化

汉语口语速成の下よりも少し難しい内容です。とくに、新しい単語の数が多くて、覚えるのが大変でした。各章で「新出単語」を紹介していますが、そこに載ってないけど、長文に載っていて分からない単語というのが結構あったきがします。これをしっかりやると、中検3級の単語もだいぶカバーできるかな。CDもついています。

「語ろう日中暮らしの文化」の1週目が終わったタイミングで中国検定三級を受験して合格しました。基礎の総まとめな内容だと思います。
上記3冊は、普段のレッスンで使ったテキストです。翻訳や文章作成等の練習問題がどのテキストにもありますが、答えが記載されていないので、教えてくれる先生がいないと使いにくいかも。長文や単語のページもあるので、独学の方はそちらを中心に学んでいくといいと思います。

その他単語学習用に別のテキストも使っていたので紹介します。こちらは上記テキストよりは使っていないです。

 

◆単語勉強

単語の勉強はそこまで時間を割いてないのですが、パラパラテキストを見るみたいなことはしていました。

 

 ・キクタ

 基本的な単語が載っている単語集。一問一答のような形で、同じページに、日本語と中国語が並んでいました。最初のこと、これで単語カード作ったりしていたような気がしますが、あまり読んでなかったです。単語単体だけを覚えるのは苦手なので、使わなくなりました。

 

・聴読中国語

 

どちらかというとこちら方がみていました。高校時代「速読英単語」という英語の参考書を愛用していたのですが、それの中国語版です。長文が載っていて、その長文にでてくる単語の解説が次のページに掲載されています。わたしは文章で単語を覚える方が覚えやすいので、このテキストはたまにパラパラ見ています。
単語だけで覚えられる人は「キクタン」、文章を読みながらがいい人は「聴読中国語」がいいかと思います。


◆そのほか使った物

・辞書アプリ

そのほかスマホのアプリで中国語辞書をダウンロードして使っていました。無料の辞書アプリもありますが、掲載されている単語が少なかったり、発音機能がなかったりちょっと使い勝手が悪かったので有料の辞書のほうがおすすめです。わたしは三省堂の「超級クラウン中日・クラウン日中辞典」を使っています。多分3000円くらいでした。検索履歴も残るので結構便利です。


・スマート単語帳ノート

単語を覚えるために一瞬使っていました。書いた単語帳をすべてアプリ上に取り込めて単語カードを持っていないときも勉強ができます。前述したようにわたしは単語を一問一答で覚えるのが苦手だったので使わなくなりましたが、そういった暗記が得意な方はいいのかもしれません。

 

国語学習、最初はまったくの外国語で難しかったけれど、基礎ができて、ピンインが読めるようになったころからちょっとずつ分かって楽しくなりました。ぜひ勉強がんばってください。 

 

【告知】もちこ氏、YouTberになるよ

Twitterには書いたのですが、AV男優ゴローさんのYouTubeに主演します。

15日19時半からです。普通に店舗に営業行った後に出演します。夕方アポイント入っているので、ちょっと遅れたりしたらごめんなさい。

 

Youtubeに出演することになった経緯ですが、わたしから、社内のYoutubeの担当している人に企画をあげたんですよね。エロいニュースを紹介するYoutubeの配信をやりたいなーって思って企画をまとめて送りました。そしたら、ゴローさんのYoutubeがいいんじゃないって、決まった感じです。
わたしがYouTubeに出たところで、売り上げになるわけでもないし、企画を通すのは難しいかなと思ったのですが、取り合ってくれて、企画を送った翌週に話が決まってて。柔軟な社風を実感します。

 

これを企画したのは、この状況下で、イベントもなくなって、直接商品を買う層、AVを見る層の方々との直接会えなくなったからなんですよね。先日、ブログにも書いたけれど、直接会う機会がなくなって、とりとめのないくだらない話ができなくなっている。それは、対お客さんに対してもそうなのかなと思います。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

だから、「無駄な話」をする時間を作りたいなと思い企画しました。

Youtubeの機能としてリアルタイムでコメントを寄せられるようじゃないですか。生放送中もコメントも拾えるみたいなので、観ている人どんどんコメント書いてほしいです。「ニュースを紹介」とか言っているけれど、取り上げるのは、取り留めのない話題ばっかりです。
できるだけ、笑えるようなネットニュースを探して、引用しようかなと思っています。真面目な話とかじゃなくて、くだらない話。どうしようもないことを言い合えるような場にできたらいいな。夜の配信なので、お酒でも飲みながら、聞いてくれたらうれしいです。

アバターとして、わたしの書籍「オナホ売りOLの日常」に使われたイラストを使わせてもらいます。

 まだ読んでない方はそちらも読んでね!

とりあえず、一回きりの企画ですが、視聴者数が伸びたら、2回、3回目があるかもしれないので、みんな見てくれたらうれしいよ。

では7月15日の夜にね。

勝者なき都議会議員選にかき消されるヒトラーの足音

7月5日、朝刊の並ぶコンビニの新聞ラックを覗くと「勝者なき」という文字が見えた。投げ置かれたどの紙面も前日の東京都議選を伝えている。

 

www.nikkei.com

www.asahi.com

 

www.yomiuri.co.jp

勝者なきあいまいな状況。新聞たちは悲壮感をもって報じていた。状況の定まらない、先の見えない、まさに今、この現状を映し出したかのような選挙の結果。選挙のことを「風」に例えることがあるが、今回はどこの党はにも追い風はなかった。無風のなかの選挙。つまらなく平穏な選挙。状況をドラマチックに書き連ねたいジャーナリストたちにとっては、結果が明確にならない今回はつまらないものだったのかもしれない。

だが、わたしは、この宙ぶらりんでつまらない選挙結果に至極安心した。極論に陥ることなく、どっちつかずの状況が本当に安心した。

 

 

ヒトラーの時代と酷似する今

選挙において、支持したい候補者が見つからないとき、わたしは、次点で落ちそうな候補者に入れるようにしている。選挙で支持者がいないとき、白紙表を投じてもいいのだろう。しかし、わたしは、わずかな差で落ちる人を予想して投じることにする。

この行動は「極論に陥らないように」という政治的主張の表明だ。当選した人に、あなたの意見を支持しない人も大きな数いるということを認識してほしい。受かった人が絶対的な正義ではない、「そうではない意見」も存在している。どんなイデオロギーにおいても。

今回の都議選も、すべての政策に賛成できる候補者は見つからず、次点の予測をした。わたしの入れた候補者は数千票差で落選し、わたしのつたない選挙予想は当たった。

「極論に陥らないように」

今回の選挙はとくに、強く思った。わたしたちを取り巻く環境に、極端な方に陥りそうな空気、流れを特に強く感じている。先日、偶然見た新聞に、今の状況が1930年代のドイツに酷似していると書かれていた。

www.nikkei.com

 

ヒトラーが独首相に就く2年前の1931年、世界の79%の国で1人あたり国内総生産GDP)が前年より減った。1929年の米国発の大恐慌が世界に及び、第1次大戦の戦地だった欧州経済に追い打ちとなった。

世界不平等データベースによると、30年代前半のドイツとフランスでは国民所得全体の4割を所得上位1割の人が占めた。広がる格差と募る不満が、隣国との摩擦の導火線となった。

格差と不平等が常態となり、富を再配分する機能が弱まった社会はもろい。ゆとりがなくなった人々から公共心や他者への寛容さが失われ、異質なものを安易に排斥するムードが漂う。

 

 富の偏りが起き、差別や格差が広がる社会。格差の下側に押しやられた人々は、自分たちより弱く見える階層を差別し、追いやっていく。アメリカで起きているアジア人や黒人への暴行も、白人至上主義の主張で、「弱く」見える有色人種に攻撃が向かっている。

それは、ユダヤ人を迫害した、アーリア人とよく似ている。経済的な富や、人間的な豊かな生活、自分の誇れるもの、確固たる自己を奪われ、人種や性別という生まれ持った自己の特徴にしかアイデンティティを見出せなくなる。歴史上だけの話ではないだろう。ヒトラーの足音は確実に近づいてきている。

 

◆独裁の芽を見抜くインテリ層たち

極論を述べる独裁者たち、彼らは時折現れる。それは、ヒトラーであり、毛沢東であり、ムッソリーニでもある。ヒトラーが台頭していた第二次世界大戦下、日本において総理大臣だった東条英機。彼もまた「独裁者」と呼ばれている。

ヒトラー同様、選挙において選ばれた東條も国民に支持されているように見えた。しかし、ごくごく一部の国民は東條を支持しなかった。それは、知識階層――インテリと呼ばれる人達だ。埼玉大学教養学部教授 一ノ瀬 俊也が東条英機の身辺を調べ、彼の実像に迫った書籍「東條英機 「独裁者」を演じた男」では、東条英機がインテリ層に支持されていない点を昭和天皇が懸念していたと書かれている。

 

昭和天皇は東條について「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」、「彼は万事、事務的には良いが、民意を知り、特に「インテリ」の意向を察する事ができなかった」とも述べている。後段は東條が民意、特にインテリの心をつかむことができなかったという批判である。だが、逆に言うと非インテリの「民意」はある程度はつかめていた、ともいえる。

極論を述べて、国を全体主義にもっていこうとする流れ、空気。そういった世間の雰囲気も、インテリ層の持つ知識をもってすれば、事前に批判することができる。平時であれば、知識層の批評に大衆も耳を貸すことができるだろう。

しかし、今はどうだろうか。経済的に貧しくなっている人がいる一方で、豊かな人も存在している。そして、経済的に豊かな人と、知識を持つインテリ層は、多くの場合重複もしている。持っている人は、金も知識も、すべて持っている。

インテリ層が独裁者の目を批判したとしても、それはつまり「金持ちが自分たちを脅かす存在を批判しているだけ」と映る。大衆が貧しくなればなるほど、富裕層と、大衆の格差が大きくなればなるほど、この傾向は強くなるだろう。

だからこそ、今、この格差の広がる状況で、勝者がいてはいけない。その勝者は、おそらく、独裁者の芽だ。

ヒトラーの著書「我が闘争」には「世界は不寛容たるべし」という章が存在している。

 

 

 

わがドイツ民族をこの現在の状態から解放しようとする人々は、あれやこれやがなかったならばどんなによいだろうということに、頭を悩ます必要はない。むしろいまあるものをどう除去するかということを、決定するようにしなければならない。

 

今ある多様な価値観をどうまとめるか--そんなことはどうでもいい。異論をどう除去するか、それが必要だ……そんな声がどこからか聞こえてきそうになる。ヒトラーの台頭は遠い過去の話ではないかもしれない。

「有能な人材」と「やりがい搾取」の間

「キネーシスとエネルゲイアって知っていますか?」

彼はコーヒーカップを置いて尋ねた。わたしは聴きなれない言葉に「知らないですね」と答えた。

時世の影響でなかなか会えずにいた友人と食事にいった。転職が決まったと報告を受け、新しい職場の話を聞きたいと、わたしがメッセージを返したきりになっていた。会うのは半年ぶり。新しい職場はリモートワークで人と会うのは久々だと彼は言った。最近は家でギターを弾いて、オリーブを育てているらしい。演奏動画を投稿したらどうかというわたしに、彼は、さっきの聞きなれない言葉を知っているか尋ねたのだ。

「どちらも哲学者のアリストテレスが提唱した言葉なんです。キネーシスが目的を達成するための行為、エネルゲイアはその行為自体が目的の行為。ギターを弾くは、目的それ自体が楽しいからやっているエネルゲイアです。もし、ネットに投稿したら、投稿数を気にしたり、観た人の反応を気にしたり、それ自体が楽しい行為ではなくなりそうだと思って控えているんです」

ギターの演奏は投稿したとたんに、アクセス数を増やすという目的を達成するためのキネーシスに変わってしまう。ギリシャ哲学を専攻していた彼は、エネルゲイアとキネーシスの概念をわたしに伝えてくれた。

今はエネルゲイア的なものが減っている。ただ集まってお酒を飲む行為、それはエネルゲイアの最たる例だ。遊園地に行くのも、映画に行くのも、何かを達成するための行為ではない。それそのものが楽しいから行く。それが今はできない。エネルゲイアは抑制されている。

エネルゲイアがなくなったから、世の中がピリピリしてしまうのかもしれませんよね」と彼は続けた。たしかにそうかもしれないな、とわたしは考える。感染症が流行する以前は、同僚との飲み会や、友達との雑談で言えた言葉たち。それを発する場所がない。意味を持たない言葉たちを発する機会をわたしたちは失った。雑談的なコミュニケーションというエネルゲイアを失い、みんな沢山の言葉をため込んでいる。

 

エネルゲイアがなくなれば頑張れなくなる

「寝る間も惜しんで」という手垢のついた表現がある。何かを成し遂げた人は、それ以外の時間を惜しんで、対象に打ち込んできた人が多い。飲み会の時間は無駄、なれ合いの人間関係は無駄――努力の対象以外に時間をかけることを否定する。そうやって能力を身に着けた有能な人材だけが生き残れる。対象にかけられる労力と時間が増えれば、目標を達成する可能性はあがる。効率的でコスパの良い行動。

ここ一年半、できることが限られるようになった。人と会うこと、出かけることは「不要不急」とラベリングされた。無駄を排除した社会。飲み会の誘いも、遊びの誘いも、なくなった。無駄な誘惑はなくなった。なれ合いの人間関係がなくなり、意識の高い成功者が提言していたことが実行できるようになった。

……そして、夢が近くなったのだろうか。「無駄」と言われたものがなくなって、対象に打ち込めるようになったか、努力できるようになったか……多くの人がそうではないだろう。苦しい日々が増え、新たに努力するどころではなくなった。エネルゲイアを排除する考え方――つまり「目的のために他を犠牲にする」という考え方は人間の精神を無視している。「寝る間も惜しんで」の努力と、精神の健康の両立を多く人はできなかったのだ。目標達成だけを追い求める行動ができる人は少ない。やはりただただ楽しい時間「エネルゲイア」を獲得して心を自由にすることが必要だ。

 

◆キネーシスをさせることは「やりがい搾取」なのか

一方でわたしは、キネーシス――目的のための行為を否定する風潮もよくはないような気がしている。たとえば「仕事」の目的は対価を得ること、キネーシスに近い行為だ。なので、対価を得るだけのために、最小限の時間と労力に絞ったほうがいいと主張をする人がいる。残業は悪だし、生産性を重視して短い時間で仕事をこなすことが正義。こちらの人たちも「コスパ」を重視する。ただし、彼らの言うコスパは、エネルゲイア――やりたい行為に時間を費やすためのコスパだ。

「楽しいエネルゲイア」と「苦痛に耐えるキネーシス」に分けて、キネーシスは目的の最短ルートを目指し、極力、時間を減らしていく。キネーシスは少なければ少ないほどいいという考え方。「ただ働き」「やりがい搾取」のような表現で、キネーシスの行為に、エネルゲイア的な側面を持たせようとすることを否定する。

わたしはこの考えをあまりいいとは思えない。キネーシスであっても、エネルゲイア的な側面――行為自体をやりたいと思える時はある。「やりがい搾取」なんて言葉があるけれど、「やりがい」が皆無の仕事をわざわざ選ぶのはどうしてなのだろう。たとえ仕事であっても、自らやりたいと思える瞬間が一切ない作業を、わたしはしたくはない。

多少、コスパが悪くても、効率的でなくても、世間から無駄に思えても、ちょっとやってみたくなるそういったエネルゲイア的な側面が、仕事をしていて時折現れる。わたしは仕事をしていてワクワクする瞬間がある。

前述した人たちのように「寝る間も惜しむ」必要はない。無理をして、一部の人の提示する「有能な人材」になる必要なんてない。ただ、心身の健康を保つという前提をもったうえで、キネーシスは必要だと思う。

 

エネルゲイアVSキネーシスではない

目的のないこと(エネルゲイア)に時間を使う人を批判する風潮も、対価のためだけに自分の時間を犠牲にする(キネーシス)を批判する風潮もあるように思う。とくに感染症が流行った、ここ1年半くらいは、どちらの主張も聞く。だけど、一人の人間に「キネーシス」も「エネルゲイア」も必要だし、ひとつの行為においても「キネーシス的な側面」と「エネルゲイア的な側面」がある場合が多い。

アリストテレスの話をしながら、食べたガレットはとてもおいしかった。この時間はエネルゲイアだったと思ったけれど、こうやってブログのアクセス数を上げるという目標に貢献している点を考えてみると、キネーシスでもあるように思う。

f:id:mo_mochi_mochi:20210609135056j:plain

アリストテレスの話をしながら食べたイワシのガレット

 

彼と別れた後、お礼のメッセージの最後に一言を添えることにした。

「今年中にエネルエゲイア的な行為を見つけたいと思います」

人と会えなくなって生活にエネルゲイアが不足している。それはわたしも一緒だ。一人でただただ楽しめる行為がわたしはあまりに少ない。とりあえず、スイッチで遊べるぷよぷよのゲームソフトを買った。ぷよぷよを消していく行為はただただ楽しい。