オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

立ち止まって、反対側を考える

立ち止まって、考えてみて。言いたかったけれど言えなかった。

数ヶ月前、ある車椅子ユーザーの女性が、映画館で補助を依頼したが断られたというSNSの投稿を見た。女性は車椅子用の席ではなく、映画の観やすい一般の座席での視聴を希望し、スタッフに補助を依頼した。SNSの投稿は非難に晒され、女性には「傲慢」「自分中心」といった言葉を投げられていた。わたしは非難の言葉を観ながら、息苦しい気持ちになった。

www.tokyo-np.co.jp

 

知人の一人が、SNSでこのニュースを取り上げていた。その人は怒っていた。息苦しくなるような非難の言葉を、車椅子の女性に向ける。わたしは、その知人に言いたかった。

立ち止まって考えてみて。もしもあなたが、急に事故にあって、車椅子の生活になって、映画を、いつも観ていた観やすい席で見えなくなる。それを不便だと思わない? その不便は解消できないかもしれない。だけどそれは車椅子ではない、わたしたちの側に合わせた都合で社会が動いているからで、わたしたちの側に合わせてもらっていることを我が儘だと言ってしまっていいのかな? 解決できなかったとしても、断罪していいのかな?

言いたかった。SNSでコメントを送ろうか、それとも、他人には見えないダイレクトメールの方がいいだろうか。他の方法がいいか。どうやって伝えたら良いか。伝え方を考えながら、伝えることができなかった。その言葉をかけることで、相手との関係が縺れることが面倒だった。立ち止まって考えてみて。それを言いたくて言えない場面はたくさんある。日常、人と喋っているとき、いつも言えない。変わらない状況が続く。

 

◆AV業界がまとまらないのは、よくないこと?

「業界がまとまらくて、よくないですよね」

ある人はそうやって言った。AV新法の改正に関しての話。業界の中で分裂している。だから話が進まない。AV新法の改正に関して動いている人がいることは知っている。街で署名集めをしている人も見た。だけど、わたしは、その横を下を向いて通り過ぎた。意味のある運動だと思う。賛成できる部分もあった。だけどやっぱり、全てに納得したうえで協力する気持ちにはなれなくて、黙って通り過ぎた。

その人はわたしが通りすぎたことなど知らない。「よくないですよね」がわたしに向けたわけではない。だけど、責められたような気になり、頷いて、話題を変えた。

ある部分の主張、立場が一緒だったら、全てにおいて協力しなくていけないのだろうか。協力しないことが、よくない、になってしまうのか。引っかかっていた。だけど、やっぱり、わたしは、まとまらなくて良いような気がしている。最近読んだ「慣れろ、おちょくれ、踏み外せ」という本に、まとまらない人の話がでてきて、救われた気持ちになった。それはLGBTQの人たちが、自分たちの権利を主張するプライドパレードの話だ。

 

ひとつ例を挙げると、2010年の第七回プライドパレードの女子フロート(パレードで装飾が施された台車)のテーマが「She Love Her」だったそうで、そのフロートには、女性カップルが上に乗っかって、女同士でもこんなに愛し合えるよ、みたいなことをアピールするトラックがあったらしいんです。今年のテーマはマリアージュだ、と言った人もいたようで。

そしたら、それにものすごい反発するレズビアンの人たちも集まったんですって。マリアージュがゴールってどういうことだ、ひとりだってレズビアンだし、結婚というシステムに乗っかってんじゃない!って主張して、筆文字で「貧乏女参上!」「婚姻制度反対!」「少子化上等!」って書いたプラカードをたくさん掲げたパペットを二体出して、後ろからついていったらしいんです。それも私、なんかいいな、と思った。

 

一部のレズビアンにとっては、同性婚は目指すべきゴールかもしれない。だけど、それが、すべてのレズビアンに当てはまると、思われるのはおかしい。結婚したくないレズビアンもいる。そもそも結婚制度に反対するレズビアンもいる。その人までもが一緒に、レズビアンの権利として、同性婚を目指すように向かわされるのはおかしい。その主張に救われた。自分の所属する主張、立場に利益を優先して、完全に同意できない意見の賛同する……それをしなくてもいいんだ。

わたしは、AV新法改正の運動に協力することはできなかった。理由はいくつかあるけれど、そのひとつは、業界の中の一部の人の、人を、とくに出演者を下に見るような目線にある。数年前「これは今じゃぜったいできないけどね」と枕詞をつけ、過去、出演女優に対して行っていたことを話した人がいた。その人の話しぶりは「こんなこと絶対にしてはいけない」ではなくて「今は規制が厳しくて出来ない」という趣旨だった。わたしのその言葉に、「なんで出来なくなったと思いますか?」「それは当時であっても、やっていいことだったんですか?」と聞きたかったけど、聞けなかった。昔は自由でしたね、と同意したふりをわたしはした。そんな「昔はよかった」という意識を底に持つ人に、「立ち止まって考えてみてください」と、わたしは言えない。オフレコの場の「昔はよかった」に、「立ち止まって、考えてみてください」と言える人はどれだけいるだろう。それが、言えてない状況で、昔に戻ろうとする動きが出てしまわないか怖い。AV新法がAVの作り手にとって、面倒な規則なのは事実としてある。だけど、できてしまったAVへの面倒な規制がなくなるのが正解なのか、わたしは正直、分からない。「昔はよかった」の「昔」が戻ってこないように、なにか歯止めになるものが、必要であるような気がしている。

 

◆見える世界の片寄りを自覚する

立ち止まって、考えてみて。わたしはその言葉をいつも言えない。

AV新法改正に関しては、営業先でも話題に上がった。どうなるんでしょうね、と話していたとき、何年もの付き合いのあるなじみの店長がぼそっと言った。

「こういう世界にいるから、その法律が悪いような気がしてしまうけど、本当はどうなのかって分からないよね。片寄りもあるのかもしれないし」

自分たちの目線に片寄りがあるのかもしれない。それを意識しなくてはいけない気がする。偏った目線のままでの選択は、長い時間の視点、大きな世界の視点でも見て、良い結果にならないこともある。強い主張を持ちそうになるとき、わたしたちとは反対側の目線を、立ち止まって考えていかなくてはいけない気がしている。