オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

排除される正しくないセックス

AV新法が成立してしまった。どうなるのかな、と不安に思いながら、日々仕事をしている。

望まないのにAVに出演する人々がいなくなってほしい。その意見にはわたしも同意する。その通りだと思う。思うけれど、「AV新法」の規定する、契約から撮影まで一カ月、撮影から発売まで四カ月期間をあけることで、望まないのにAVに出演する人々を救うと確信できない。わたしはちょっと的外れなように思うけれど、決まってしまったので仕方ない、従うしかない。

 

「AV新法」を変えようと、活動している人たちはいる。行動的だと思うし、意義のあることだとは思うけれど、わたしは、そこまで踏み切ることはできない。それは、わたしの中で、「AV業界は賛否の別れる世界だよね」という思いがあるからだ。今いる場所を守ることは必要かもしれないけれど、原罪のような意識も同時に自分の中にある。これに関しては、先日、ネット記事で見た映画監督、平野勝之さんのコメントがわたしの意見に近いのかなと思っている。平野さんはアダルトビデオも撮影していた。

www.news-postseven.com

 

アブノーマルな映像を数多く撮影しましたが、僕にとってはアクション映画を撮っているような感覚だった。

自分の作品を見たという若者が「見たことのない映像で影響を受けた」と話しかけてくれるのは嬉しかったし青春の通過点を切り取ったような、ある程度の手応えを感じられたことは幸せでした。

でも、そもそもの前提として、やっぱりAVってまともとは言えないものを撮っているんですよ。アウトローであるべき業界が、作品数も女優さんの数も増えて、メジャーになり過ぎてしまった。もちろん出演強要問題はメーカーや事務所が責任を持って対処する必要がありますが、格式ばって法律を決めるような業界じゃないと思うんです。

 

"青春の通過点を切り取ったような、ある程度の手応え" それは確かにわたしも感じていたことで、ライターとして働いていたときに、散々ボロクソに言われていたわたしがやっと手ごたえを感じられる仕事だった。それと同時に、平野さんの言う"まともとは言えない"という側面も理解できる。それは法に触れる行為をしたとかではなく、人に嫌悪される仕事だということだ。著作にも書いたけれど恋人と仕事を理由に別れた。AVの仕事を醜業と捉える人もいるだろう。倫理的に許せない人もいるだろうことは想像できる。

そして、過去に出演強要問題のような事柄が起きたことも事実だ。わたしが直接行ったわけではなかったとしても、被害にあった人がAV業界全体を許せないかもしれないというのは理解できる。少し前にテレビで、ロシア出身の人が、今起きている戦争はプーチンがやっていることだが、ウクライナの人がロシア人全体に嫌悪感を持つのは仕方ないだろう、と話していた。似た感情をわたしも持っている。同じ業界にいた非常識な人間がやってことだとしても、実際の被害者が業界全体を捉えて恨むことを否定してきれない。被害にあった人に「大げさだ」と断罪はできない気がしている。

だけど、戦争の被害者がロシア人は全て死んでしまえと思っても、ロシア人が生活していくほかないように、被害にあった人がAV業界は滅びてしまえと言っても息をさせてほしい。過去の行為を残忍だと思っている。だけど、存在する事は許してほしい。あなたを痛めつけたこの業界は、わたしを救った業界でもある。加害をしてきた場所にいる罪の意識はある。だけど同時に、この業界でやっと救われたという意識もある。

だから、AV業界は素晴らしいと言うことも、この業界はなくなった方がいいからと業界を去ることもできずにいる。どっちつかずと言われたらそうかもしれない。エロをオープンにしようとは、全然思わないけれど、ひっそりと端っこの方で居させてほしいとは思う。

 

◆中絶を前提としたセックスを認めない社会

これといった活動も、発信もしなくても、AV新法のニュースが一応は追いかけていて、ネットニュースだけでなく、Twitterの発信なんかも、見てしまっている。業界に批判的な意見であっても、「そういう意見もあるかもね」と思い、見ていたのだけど、ちょっとギョッとしたものもあった。それは塩村あやか参議院議員が、AVの許可制について言及した投稿だ。

 

 

sakisiru.jp

 

許可をもらったAVだけが撮影できる。撮影してもいいセックス、悪いセックスが国によって判断させるというのだろうか。許可制の議論はこの発言以上に膨らむことはなかったけれど、それでも、国であったり、大きな権力によって、性行為の良し悪しを規定しようという空気が、限定的な話であるとは思えなかった。それは、「中絶禁止」のニュースとリンクしてしまったからだ。

jp.reuters.com

 

少し前から中絶禁止を定める法律がアメリカの一部の州で施行されるとは言われていた。6月27日の日経新聞では国際面で大きく紙面を割きオクラホマ州で施行された「中絶禁止法案」を伝えていた。

紙面の中央、若い白人男性が顔写真入りで、インタビューに答えていた。ディズニーやスターバックスなど中絶禁止に反対している企業はいくつもある。そういった企業の担当者かと目線を向けると、オクラホマ州副知事が、同州での事業リスクを可能な限り低減すると語ったインタビュー記事だった。副知事は42歳の青年だ。調べるとオクラホマ州は知事も40代だった。

www.nikkei.com

 

セックスをしてできた子どもは必ず生まなくてはいけないということは、出産を前提としないセックスを認めないということだ。森喜朗元首相が、セクハラ発言をして問題になったように、年配の権力者が、古い男尊女卑の価値観を押し付けて「中絶禁止法案」を成立させたと、わたしは勝手に思っていた。だが実際は、40代の青年たちによって、セックスという極めて個人的な行為を規定する法律が作られていた。

若々しい青年が「中絶禁止法案」の被害の小さを語るのはあまりに不釣り合いだ。AVの許可制を言及した塩村議員も同じ40代。これからを担っていく世代で、正しいセックスを規定しようという動きがある。正しいセックスと、そうでないセックスを権力が規定する。個人の意思ではなく、権力によって定められた行為をしなくてはいけない。それはあまりに気持ちが悪くないだろうか。

 

◆正しくない存在を認められない不寛容さ

恐らく、AVを正しくないセックスと見る人もいる。強要の被害者をださないという前提は絶対必要だが、出演者の意思と関係なく、業界自体を存在しない方がいいという意見もある。

対価をもらって性行為をしてはいけない、という倫理観。もちろん、そういった倫理観を持った人がいてもいいとは思う。対価をもらって性行為をしない自由はあるし、対価をもらってセックスをする人との付き合いも辞める自由もある。

だが、対価をもらうセックスの是非は権力が決めることではないとわたしは思う。それは一人ひとりの個人が行うか否か、考え、責任を持ち決めていくことではないだろうか。

そして、対価をもらうセックスの存在を拒絶されたとき、次に、セックスによりできた胎児を殺す行為は倫理的ではない、出産を前提としないセックスは倫理的ではないと言われる可能性が見えてくる。実際、中絶は倫理的に正しくないという考えは存在している。「中絶禁止」が遠い国の話だけではなくなるだろう。

正しいセックスを権力が規定した時、それは安全で幸せな国になると思っているのだろうか。わたしはそうは思わない。幸せの型にはまれない人々が溢れるデストピアだ。結果として中絶をするセックスも、対価をもらうセックスも、正しくはないかもしれない。顔をしかめる人もいるかもしれない。嫌だなと思う人もいるかもしれない。だけど、それが存在することは許してほしいとわたしは思う。正しくないものが隅で小さく存在する、それを許す寛容さを、わたしは世界に求めている。