オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

「有能な人材」と「やりがい搾取」の間

「キネーシスとエネルゲイアって知っていますか?」

彼はコーヒーカップを置いて尋ねた。わたしは聴きなれない言葉に「知らないですね」と答えた。

時世の影響でなかなか会えずにいた友人と食事にいった。転職が決まったと報告を受け、新しい職場の話を聞きたいと、わたしがメッセージを返したきりになっていた。会うのは半年ぶり。新しい職場はリモートワークで人と会うのは久々だと彼は言った。最近は家でギターを弾いて、オリーブを育てているらしい。演奏動画を投稿したらどうかというわたしに、彼は、さっきの聞きなれない言葉を知っているか尋ねたのだ。

「どちらも哲学者のアリストテレスが提唱した言葉なんです。キネーシスが目的を達成するための行為、エネルゲイアはその行為自体が目的の行為。ギターを弾くは、目的それ自体が楽しいからやっているエネルゲイアです。もし、ネットに投稿したら、投稿数を気にしたり、観た人の反応を気にしたり、それ自体が楽しい行為ではなくなりそうだと思って控えているんです」

ギターの演奏は投稿したとたんに、アクセス数を増やすという目的を達成するためのキネーシスに変わってしまう。ギリシャ哲学を専攻していた彼は、エネルゲイアとキネーシスの概念をわたしに伝えてくれた。

今はエネルゲイア的なものが減っている。ただ集まってお酒を飲む行為、それはエネルゲイアの最たる例だ。遊園地に行くのも、映画に行くのも、何かを達成するための行為ではない。それそのものが楽しいから行く。それが今はできない。エネルゲイアは抑制されている。

エネルゲイアがなくなったから、世の中がピリピリしてしまうのかもしれませんよね」と彼は続けた。たしかにそうかもしれないな、とわたしは考える。感染症が流行する以前は、同僚との飲み会や、友達との雑談で言えた言葉たち。それを発する場所がない。意味を持たない言葉たちを発する機会をわたしたちは失った。雑談的なコミュニケーションというエネルゲイアを失い、みんな沢山の言葉をため込んでいる。

 

エネルゲイアがなくなれば頑張れなくなる

「寝る間も惜しんで」という手垢のついた表現がある。何かを成し遂げた人は、それ以外の時間を惜しんで、対象に打ち込んできた人が多い。飲み会の時間は無駄、なれ合いの人間関係は無駄――努力の対象以外に時間をかけることを否定する。そうやって能力を身に着けた有能な人材だけが生き残れる。対象にかけられる労力と時間が増えれば、目標を達成する可能性はあがる。効率的でコスパの良い行動。

ここ一年半、できることが限られるようになった。人と会うこと、出かけることは「不要不急」とラベリングされた。無駄を排除した社会。飲み会の誘いも、遊びの誘いも、なくなった。無駄な誘惑はなくなった。なれ合いの人間関係がなくなり、意識の高い成功者が提言していたことが実行できるようになった。

……そして、夢が近くなったのだろうか。「無駄」と言われたものがなくなって、対象に打ち込めるようになったか、努力できるようになったか……多くの人がそうではないだろう。苦しい日々が増え、新たに努力するどころではなくなった。エネルゲイアを排除する考え方――つまり「目的のために他を犠牲にする」という考え方は人間の精神を無視している。「寝る間も惜しんで」の努力と、精神の健康の両立を多く人はできなかったのだ。目標達成だけを追い求める行動ができる人は少ない。やはりただただ楽しい時間「エネルゲイア」を獲得して心を自由にすることが必要だ。

 

◆キネーシスをさせることは「やりがい搾取」なのか

一方でわたしは、キネーシス――目的のための行為を否定する風潮もよくはないような気がしている。たとえば「仕事」の目的は対価を得ること、キネーシスに近い行為だ。なので、対価を得るだけのために、最小限の時間と労力に絞ったほうがいいと主張をする人がいる。残業は悪だし、生産性を重視して短い時間で仕事をこなすことが正義。こちらの人たちも「コスパ」を重視する。ただし、彼らの言うコスパは、エネルゲイア――やりたい行為に時間を費やすためのコスパだ。

「楽しいエネルゲイア」と「苦痛に耐えるキネーシス」に分けて、キネーシスは目的の最短ルートを目指し、極力、時間を減らしていく。キネーシスは少なければ少ないほどいいという考え方。「ただ働き」「やりがい搾取」のような表現で、キネーシスの行為に、エネルゲイア的な側面を持たせようとすることを否定する。

わたしはこの考えをあまりいいとは思えない。キネーシスであっても、エネルゲイア的な側面――行為自体をやりたいと思える時はある。「やりがい搾取」なんて言葉があるけれど、「やりがい」が皆無の仕事をわざわざ選ぶのはどうしてなのだろう。たとえ仕事であっても、自らやりたいと思える瞬間が一切ない作業を、わたしはしたくはない。

多少、コスパが悪くても、効率的でなくても、世間から無駄に思えても、ちょっとやってみたくなるそういったエネルゲイア的な側面が、仕事をしていて時折現れる。わたしは仕事をしていてワクワクする瞬間がある。

前述した人たちのように「寝る間も惜しむ」必要はない。無理をして、一部の人の提示する「有能な人材」になる必要なんてない。ただ、心身の健康を保つという前提をもったうえで、キネーシスは必要だと思う。

 

エネルゲイアVSキネーシスではない

目的のないこと(エネルゲイア)に時間を使う人を批判する風潮も、対価のためだけに自分の時間を犠牲にする(キネーシス)を批判する風潮もあるように思う。とくに感染症が流行った、ここ1年半くらいは、どちらの主張も聞く。だけど、一人の人間に「キネーシス」も「エネルゲイア」も必要だし、ひとつの行為においても「キネーシス的な側面」と「エネルゲイア的な側面」がある場合が多い。

アリストテレスの話をしながら、食べたガレットはとてもおいしかった。この時間はエネルゲイアだったと思ったけれど、こうやってブログのアクセス数を上げるという目標に貢献している点を考えてみると、キネーシスでもあるように思う。

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アリストテレスの話をしながら食べたイワシのガレット

 

彼と別れた後、お礼のメッセージの最後に一言を添えることにした。

「今年中にエネルエゲイア的な行為を見つけたいと思います」

人と会えなくなって生活にエネルゲイアが不足している。それはわたしも一緒だ。一人でただただ楽しめる行為がわたしはあまりに少ない。とりあえず、スイッチで遊べるぷよぷよのゲームソフトを買った。ぷよぷよを消していく行為はただただ楽しい。