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勝者なき都議会議員選にかき消されるヒトラーの足音

7月5日、朝刊の並ぶコンビニの新聞ラックを覗くと「勝者なき」という文字が見えた。投げ置かれたどの紙面も前日の東京都議選を伝えている。

 

www.nikkei.com

www.asahi.com

 

www.yomiuri.co.jp

勝者なきあいまいな状況。新聞たちは悲壮感をもって報じていた。状況の定まらない、先の見えない、まさに今、この現状を映し出したかのような選挙の結果。選挙のことを「風」に例えることがあるが、今回はどこの党はにも追い風はなかった。無風のなかの選挙。つまらなく平穏な選挙。状況をドラマチックに書き連ねたいジャーナリストたちにとっては、結果が明確にならない今回はつまらないものだったのかもしれない。

だが、わたしは、この宙ぶらりんでつまらない選挙結果に至極安心した。極論に陥ることなく、どっちつかずの状況が本当に安心した。

 

 

ヒトラーの時代と酷似する今

選挙において、支持したい候補者が見つからないとき、わたしは、次点で落ちそうな候補者に入れるようにしている。選挙で支持者がいないとき、白紙表を投じてもいいのだろう。しかし、わたしは、わずかな差で落ちる人を予想して投じることにする。

この行動は「極論に陥らないように」という政治的主張の表明だ。当選した人に、あなたの意見を支持しない人も大きな数いるということを認識してほしい。受かった人が絶対的な正義ではない、「そうではない意見」も存在している。どんなイデオロギーにおいても。

今回の都議選も、すべての政策に賛成できる候補者は見つからず、次点の予測をした。わたしの入れた候補者は数千票差で落選し、わたしのつたない選挙予想は当たった。

「極論に陥らないように」

今回の選挙はとくに、強く思った。わたしたちを取り巻く環境に、極端な方に陥りそうな空気、流れを特に強く感じている。先日、偶然見た新聞に、今の状況が1930年代のドイツに酷似していると書かれていた。

www.nikkei.com

 

ヒトラーが独首相に就く2年前の1931年、世界の79%の国で1人あたり国内総生産GDP)が前年より減った。1929年の米国発の大恐慌が世界に及び、第1次大戦の戦地だった欧州経済に追い打ちとなった。

世界不平等データベースによると、30年代前半のドイツとフランスでは国民所得全体の4割を所得上位1割の人が占めた。広がる格差と募る不満が、隣国との摩擦の導火線となった。

格差と不平等が常態となり、富を再配分する機能が弱まった社会はもろい。ゆとりがなくなった人々から公共心や他者への寛容さが失われ、異質なものを安易に排斥するムードが漂う。

 

 富の偏りが起き、差別や格差が広がる社会。格差の下側に押しやられた人々は、自分たちより弱く見える階層を差別し、追いやっていく。アメリカで起きているアジア人や黒人への暴行も、白人至上主義の主張で、「弱く」見える有色人種に攻撃が向かっている。

それは、ユダヤ人を迫害した、アーリア人とよく似ている。経済的な富や、人間的な豊かな生活、自分の誇れるもの、確固たる自己を奪われ、人種や性別という生まれ持った自己の特徴にしかアイデンティティを見出せなくなる。歴史上だけの話ではないだろう。ヒトラーの足音は確実に近づいてきている。

 

◆独裁の芽を見抜くインテリ層たち

極論を述べる独裁者たち、彼らは時折現れる。それは、ヒトラーであり、毛沢東であり、ムッソリーニでもある。ヒトラーが台頭していた第二次世界大戦下、日本において総理大臣だった東条英機。彼もまた「独裁者」と呼ばれている。

ヒトラー同様、選挙において選ばれた東條も国民に支持されているように見えた。しかし、ごくごく一部の国民は東條を支持しなかった。それは、知識階層――インテリと呼ばれる人達だ。埼玉大学教養学部教授 一ノ瀬 俊也が東条英機の身辺を調べ、彼の実像に迫った書籍「東條英機 「独裁者」を演じた男」では、東条英機がインテリ層に支持されていない点を昭和天皇が懸念していたと書かれている。

 

昭和天皇は東條について「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」、「彼は万事、事務的には良いが、民意を知り、特に「インテリ」の意向を察する事ができなかった」とも述べている。後段は東條が民意、特にインテリの心をつかむことができなかったという批判である。だが、逆に言うと非インテリの「民意」はある程度はつかめていた、ともいえる。

極論を述べて、国を全体主義にもっていこうとする流れ、空気。そういった世間の雰囲気も、インテリ層の持つ知識をもってすれば、事前に批判することができる。平時であれば、知識層の批評に大衆も耳を貸すことができるだろう。

しかし、今はどうだろうか。経済的に貧しくなっている人がいる一方で、豊かな人も存在している。そして、経済的に豊かな人と、知識を持つインテリ層は、多くの場合重複もしている。持っている人は、金も知識も、すべて持っている。

インテリ層が独裁者の目を批判したとしても、それはつまり「金持ちが自分たちを脅かす存在を批判しているだけ」と映る。大衆が貧しくなればなるほど、富裕層と、大衆の格差が大きくなればなるほど、この傾向は強くなるだろう。

だからこそ、今、この格差の広がる状況で、勝者がいてはいけない。その勝者は、おそらく、独裁者の芽だ。

ヒトラーの著書「我が闘争」には「世界は不寛容たるべし」という章が存在している。

 

 

 

わがドイツ民族をこの現在の状態から解放しようとする人々は、あれやこれやがなかったならばどんなによいだろうということに、頭を悩ます必要はない。むしろいまあるものをどう除去するかということを、決定するようにしなければならない。

 

今ある多様な価値観をどうまとめるか--そんなことはどうでもいい。異論をどう除去するか、それが必要だ……そんな声がどこからか聞こえてきそうになる。ヒトラーの台頭は遠い過去の話ではないかもしれない。