オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

民主主義の破綻と独裁者を選ぶ人々

「もうすぐ価格下がるじゃないですかー。マンションでも買おうかなって思っちゃいますよねー」都内のエロビデオ屋のスタッフルーム。一折りの商談が終わって、雑談のついで、そんなことを話すわたしに「独身のうちはやめたほうがいいよ」と仲のいい担当者さんは苦笑いした。「独身で家買った男友達が周りにいるけれどね、結婚相手にとっては、ただ借金抱えているだけだから」。そうですよね、自分で選んだわけでもない家住みたくないですよね、と笑いながら、散らかった資料を片付けた。

 

そんな話をした数日あとに、ちょうど中国語のレッスンで、「租房子」という単語が出た。「家を借りる」という意味のその単語の説明の後、先生は「日本の人は家を買わないですよね」と話した。そして「中国人にとっては、とても不思議なんです」と付け加えた。先生が言うには、中国人の男性は、家と車をもっていないと結婚できないらしい。自分が住む家だけじゃなくて、人に貸して所得を得るための家も持っている。先生も、日本と中国、それぞれに家を買ったと言った。「わたしの中国人の友達は、人に貸すための家を日本にも持っていますよ」とも。中国の人が、そうやって日本のマンションを買うことを日本人は怖いと思ってますよ、とは言わなかった。

中国は、株式投資も盛んだという。借金してでも投資をしろ、金を稼ぐために金を使えという国民性。「借金を持つの嫌じゃないの?」とわたしが聞くと、「だからみんな一生懸命働くんです」と返した。リスクを負うことを不安に思わない。たぶん、それが、中国の強みであり、一部の日本人が中国に漠然とした恐怖や嫌悪感を抱いてしまう理由なのかもしれない。

わたしは今の中国語の先生が好きだ。彼女はわたしのやり方を重視して、丁寧に授業をしてくれる。いつも聞き手に回ってくれて、わたしのペースで話してくれる。「中国人」というと、押しが強いイメージをもっていたけれど、彼女はそんなことはない。日本人の知人のように自然に話せる、いや、もしかしたら、日本人の知人よりもずっとずっと話しやすい。だけど、たまに、彼女を通して、日本人と中国人は違うということを実感する。友人のように思う彼女から垣間見える「日本人との違い」にたまに、とてもショックを受ける。

 

◆分断を引き起こす「社会観」の近い

「中国人」でひとくくりにできない。中国人にもいろんな考え、思考の人がいるだろう。しかし、中国の多数派と、日本の多数派の人間性……生活において優先順位、日々の思考、人との付き合い方……そんな個人の言動を形づくる要素は違う。日本人と中国人は違う。少し前に日経新聞におもしろい記事が上がっていた。8月5日朝刊に掲載された寺西重郎一橋大学教授による寄稿だ。

r.nikkei.com

 

 

寺西教授は、米中の対立は単純な政治的な対立ではなく文化や社会規範の対立と説く。

コロナ対策でも香港政策でも、自由や人権といった普遍的とみられる価値に対する中国の否定は、単なる共産党の独裁体制維持行動によるものではなく、中国国民の基本的な社会観によるものだと考えるべきだ。

 

西欧の自由・人権・民主主義といった思想の背景には、キリスト教の下で神の創造した人類や公共を重視する観念の影響があり、公共概念を基本とする集団的意図性が組み込まれている。ルールや法制度など公共の目的のために、人々の行動を制約する際には、自律した個人という前提のもと、自由・人権・民主主の尊重が不可欠となる。西欧では、公共概念をもち自律した個人という前提があり、それが秩序を維持している。しかし、一方で、善や倫理の争いを回避し、一見中立的に社会秩序を構築・運営しようという傾向が近年欧米、とくに米国で強まっている。

寺西教授は明記していなかったが、トランプ大統領の当選などが、善や倫理を無視した一見中立に見える社会秩序の構築なのだろうと、わたしは感じた。

一方で中国の価値観は違う。記事では以下のように本文には記載している。

中国での社会と市場の秩序付けの方法は「士庶論」とも呼ぶべき、社会をエリートと非エリートからなる二重構造としてみる社会構造から生まれた人治による秩序付けとして要約できる。

 

士庶論の重要性は(中略)すなわち本然たる性たる天の理を会得した人は聖人になり、その他の多くの人は気質性にとどまり、未完成な道徳的修養のままの状態に生きるという人間観だ。

 

聖人として天の理を体得した集団が社会のリーダーとなる。一方、非エリート層はエリートの判断下で自由や人権の制限を含む罰則を前提に許容されるのだ。

 

その地域の気候、地形、歩んできた歴史をもってして、国の考え方が決まる。日本に住んでいるわたしたちは、民主主義が素晴らしいし、正しいと思ってしまう。だけど、それが違う地域にとっても正義なのかといったらそうではないかもしれない。民主主義によってえらばれたドナルド・トランプと、共産党一党独裁の中で頂点に立った習近平、どちらが優秀な政治家か問われたとしても、わたしはどちらがいいか言い切ることができない。

選挙によって、習近平を選んだらいいと民主主義国家に生きるわたしたちは思うけれど、その時々の時世に流されてしまう大衆が、最善の政治家を選べないことなど明らかだ。民主主義の国々は、自分たちが多数決で選んだ代表の批判を絶えずしている。当時、もっとも民主的と言われたワイマール憲法のもと、独裁者ヒットラーは大多数の国民に支持され選ばれた。民主主義が最善の選択をするとは限らない。哲学者プラトン哲人政治を説いたように、一部の有能な哲人が国民を導くほうがいいという主張も、賛成はしないけれど、理解はできる。中国の士庶論もそれに近いものなのだろう。一部の優秀なものが最善を決めていく。

中国に限らず、民主主義はすべての国にとっての最善ではない。国によっては機能するどころか、制度すら受け入れらない。イラク戦争後のアメリカによる占領は失敗した。アメリカ的な平和で民主的な文化は、そうでない世界で生きている人からは、恐ろしいものなのかもしれない。民主主義を望んでないのは、支配者だけでなく、国民全体なのかもしれない。

 

◆見直しの時期に来た日本の民主主義

民主主義は決して万全の政治手法ではない。それは、中国やイラクや外国の話だけでなくて、日本においてもそうだ。わたしは日本においても民主主義を見直す必要があるように思う。もちろん、独裁がいいとか、共産主義がいいとは絶対に言わないし、日本がそんな風になってしまってはだめだ。だけど、一方で、民主主義の主権者「民衆」が力を持ちすぎてしまうこともよくない。民主主義国家の政治は、「選挙」という人質を取られているがために、大衆迎合ばかりしてしまう。

同様のことを言う人は、わたし以外にもいて、たとえば、宇野常寛さんは著作「遅いインターネット」のなかで「民主主義を半分諦めることで、守る」と題した章で以下のように記載している。

遅いインターネット (NewsPicks Book)

遅いインターネット (NewsPicks Book)

 

 

 

まず第一の提案は民主主義と立憲主義のパワーバランスを、後者に傾けることだ。

立憲主義とは統治権力を憲法によって制御するという思想で、そのために民主主義としばしば対立関係に陥る。なぜならばたとえそれがどれほど民主的に設定されたものであったとしても、過去に定められた憲法を現在の民意が支持するとは限らないからだ。したがってあらゆる民主主義は憲法改正の手続きを憲法自体に組み込むことになる。言い換えればそれが民主的な憲法の条件で、ここで民主主義と立憲主義のパワーバランスが設定されることになる。そしてポピュリズムによる民主主義の暴走リスクを高く見積もらざるを得ない今日においては、このパワーバランスを立憲主義側に傾ける必要がある。もはや僕たちは民主主義で決定できる範囲をもつと狭くするべきなのだ。これから民主主義は、もたざる者の負の感情の発散装置になるしかないことを前提として、運用するしかない。民主主義を守るために、の決定権を狭めること。これしかない。これからは基本的人権など民主主義の根幹る部分は立憲主義的な立場を強化することで、(奇妙な表現になるが)民主主義の暴走から守る他ないのだ。

 

「僕たちは民主主義で決定できる範囲をもつと狭くするべきなのだ」という宇野さんの意見には、わたしは賛成していて、民主主義の暴走さけるために、民衆のもつ力を軽減させたほうがいいと思っている。

たとえば、わたしは、もう一度、中選挙区制に戻すなどの方法をとってもいいのではないかと考えている。政治家個人ではなくて、政党に投票する。塊で政治をみる。小選挙区では、大衆に好かれる政治家が有利になる。政治家個人は大衆に好かれるように寄せざるを負えない。容姿が優れた人や知名度がある人が有利になっていく。政治家個人の人間性や性格やパーソナリティなどは政策に関係はないにも関わらず。政治家は腹の底でどんなに悪いことを思っていたとしても、十年後、二十年後にいい国にできるならそれでいいはずだ。だけど、大衆は十年後、二十年後までの政策を見て政治家を選べない。

一人の政治家個人でなにかを動かすことはできない。会社でもそうだ。いろんな人が協力しあって政策をすすめていくしかない。だから、個人がなにをするかよりも、政党全体でなにができるかが重要だ。個人で選ぶ今の制度では、どうしても本質的な話にはなりにくいのは、その人ひとりの判断で決められないからなのだろう。

 

◆行き過ぎた国民主権からの脱却

また、世論調査やインターネットの意見のような大衆の意見を重視する風潮も変えていく必要があるようにわたしは思う。類似した意見は、西部邁さんの「そろそろ子供と「本当の話」をしよう」にも記載がある。

そろそろ子供と「本当の話」をしよう (Big birdのbest books)
 

 

民主主義は、なんといっても民衆が絶対権力を持つのがよいとされているのですから、ダイレクト,デモクラシー(直援民衆政)に傾きます。つまり、レファレンダム(国民投票)にせよパプリック・オピニオン(世論)への追随にせよ、民衆の意向が直接的に政策を左右することになるのです。それにたいしインダイレクト・デモクラシー(間接民衆政)としてのパーラメンタル・デモクラシー(議会制民衆政)は、世論の動向に注意を払いながらも、議員たちの独自かつ自発の意見で討論と採決を通じ政策が決まります。それを逆にいうと、民衆は議員の選出に票を投じるものの、政策についてまで直接に関与することはない(もしくは少ない)、それが間接型の民衆政治なのです。

しかし、民衆を主権者としてほめそやせば、主権者は偉大な能力の持ち主に違いないとみなされます。で、政策の決定に主権者の声を直接的に反映させよ、ということになります。政策への贅否を問う世論調査なるものが年に一〇回、二〇回と行なわれ、その結果に政治家たちが一喜一憂するのはそのためです。――この世論調査については、あとの節でもっと詳しくみることにします――。歴史上のディクテーター(独裁者)、デスポット(専制者)、タイラント(暴君)のほとんどすべてが、直接民衆政から生まれ、直接民衆政を使っておりました。その典型が、二十世紀についていうと、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーソ連スターリン、そして中国の毛(沢東)ということになります。

そこまでいかなくとも、政治が世論のポピュラリティ(人気)によって動かされるいわゆるポピュリズム(人気政治)は、この日本列島をはじめとして、世界を包み込みつつあるといってもよいでしょう。それはすべて、「民衆に主権あり」という概念が単純もしくは誇大に受け取られた結果です。

 

 民衆は議員の選出に票を投じるものの、政策についてまで直接に関与することはないーー民主が力を行使できるのは、票を入れるところまで。わたしは西部さんの意見に賛成する。民衆は自分たちの国の運営を任せたい人を決め、あとは彼・彼女たちを信用し、黙視するのみ。許せないであれば、次の選挙で票をいれない。それ以上の力を持たせた結果が、西部さんのいうように、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーソ連スターリン、中国の毛沢東だ。これは歴史上の話ではない。事実、米国では起き始めているし、独裁者の再来は日本だって容易に起こりうる。

民主主義、国民主権、それは日本においては正しい政治手法である。学校教育でも正しいと教えられる。だけど、それが行き過ぎてしまってはだめだ。民衆が無知なら政治も破綻する制度が、万全だとは言えない。選ぶのは民衆であっても、選んだあとはまかせた人を信用する。政治を行うのは民衆ではなく、政治家たちでなくてはならない。政治家は政治のプロであり、大衆よりも良い道を選ぶことができるのだから。横暴になりすぎた主権者、民衆による悪政を見直す段階に来ている。