オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

「売る」と「作る」が分かれていく時代

「売れすぎて、困るなんて嬉しい悲鳴じゃないですか」と相手は笑った。

法人営業の商談中、すいません、とわたしは平謝りをする。そんなやり取りをしたあと、「これからはコンテンツを作るじゃなくて、何かに乗っていく方がいいのかもしれませんね」と取引先の担当者は言う。確かに、そんな見方もできるかもしれない。気が付かなかった。

「売れすぎて困る」、なんて言い方が正しいのかわからないけれど、前評判以上に売れ、商品が足りなくなるということが去年から時折、起きる。最近もそんなことがあって、商品が足りなくなり、方々に調整の連絡をしていた。売れていると言っても、出す商品、出す商品、すべて全て売れるなんてことはない。波がある。爆発的に売れるものと、売れないもの、その差は大きい。二極化ともいうのだろうか。そして、その波が大きくなるのが、先ほど、商談相手の言った”何かに乗っていく方”だ。

こういった波は、ここ一年、違う商品で、何度か来ていた。それは、たしかに、自分たちがゼロから作ったものではなく”何かに乗っていく”商品が多かった。Vチューバーであったり、インフルエンサーであったり、異なる分野で知名度のある人物やキャラクター、商材の名前を使って商品を販売する。そんな、乗っかる商品は確かに当たりが多い。

 

◆制作者の手を離れおきた鬼滅の刃ブーム

この傾向は私たちの会社や、アダルト業界だけに限らない。

たとえば、少年漫画「鬼滅の刃」もそうだろう。アニメが放送されたのは、2019年の春先から秋まで。すでに放送の終わった作品であったが、新型肺炎による自粛期間に、ネットフリックスなどの動画サイトでアニメを見る人が増え、2020年春ごろからブームが広がったと言われている。さらにこれに、企業とのタイアップなども加わりブームが加速していった。

xtrend.nikkei.com

 

www.businessinsider.jp

 

「コロナで巣ごもりが始まり、そのタイミングで、Amazonプライム、ネットフリックスなどで見られるようになったアニメ鬼滅の刃を、皆が家で見始めました。『これめっちゃおもろいやん!』となったのが春先。その影響もあってか、その頃は漫画が売れていました」

 

「春先の話題を受けて、メーカーが慌ててタイアップグッズを開発し始めた。春ごろはまだ鬼滅グッズを見なかったでしょう? そして企画して、グッズが(本格的に)表に出てきたのが(ローソンタイアップ商品が出た)6月頃から。その後夏から秋にかけて急増した。そしてこの映画のタイミングでした」

 

 

連載していた出版社や放映していた放送局とは離れたところで、コンテンツが広まり、加速していった。コンテンツが制作者の手を離れ、広がっていった例だろう。

作り手ではない企業が加わることで、より元のコンテンツも売れていく。コンテンツ制作者は、コンテンツ使用料だけでなく、宣伝効果というメリットも期待できる。(弊社でコラボアダルトグッズを作ったから作品も売れるというのはおこがましいですが……)。

 

◆表現したい欲求と商品としての価値とのジレンマ

「売れるが正義じゃないと思うんです」

別の会社の、若いAV制作の人がそう言っていた。今から数年前。飲み会か何か業界の色んな人が集まるとき。勝気な印象の人だった。

話を聞きながらわたしは思わずムッとしてしまった。AVを売っている人間に、それ言うのか。倫理的に問題がないかという一定の基準は必要だが、そこをクリアした以上、商品のゴールは売れることだ、とわたしは考えている。売れなかったけれど、いい商品だよね、とは言いたくない。

店舗は商品が売れ、利益を出すために、商品を置いている。でも、別にそれは、金を稼ぐことしか考えてないとかではなく、店を維持するためには、金を稼がないといけないからだ。私たちは「絶対に売れます、あなたの店を続けられるように置いてください」と商品を勧めている。そういった仕事をしているので、制作側の人に「売れるが正義じゃない」といわれるのは嫌だなと思った。

自分の考えやイメージを伝えたいという欲求が作り手側にあることは想像できる。だから、作り手が腹の底で「売れるが正義じゃない」と思ってしまうこともあるのかもしれない。売れなかったとしても、自分の表現をしたいのかもしれない。でも、それを口にだして、売り側に言わないでいてほしい。

私たちは、作り手の作ったものが、売れる商品だと信じて店にすすめている。売れないだろうと思いながら、商品を置いてくれというのは店舗に対して不誠実だ。もちろん、予想が外れ、結果的に売れないことは多々ある。それでも売る瞬間は売れると信用して営業をしている。モヤモヤしたものを抱えながら、わたしはこの人と同じ会社じゃなくてよかったと思った。

 

◆労働力として売れなくなる時代

ただ、最近「売れるが正義」が、どんどん崩れていくかもしないと感じている。売れるが正義じゃない世界になる。正確には、結果的に売れればいいと、なる。

コンテンツがよければ売れるわけでなくなっていく。誰の目に触れるか。どういった売り方をするか。時世やその時代のライフスタイルに合うか。……商品自体、コンテンツ自体以外の要素が重視される。商品自体と関係のない不確実な要素が売れ行きを左右する。それは何が当たるか、より予想できなくなることだ。

同時に、大がかりに仕掛けるコンテンツの終焉でもあるように思う。マーケティングをして、予想をたてて、売れる道を立てて、ゼロから100のコンテンツを作る限界。企画から広告、販売、そしてヒットをすべて計画を立ててやる大がかりなプロジェクトの限界。そして、AVもそうだが、組織に所属して、売り物となるコンテンツを作るクリエイターの限界みたいなものもあるような気がした。社外も含めて売れそうなコンテンツを、一定の使用料を払い、部分的に使用させてもらう。そして、それがコンテンツ自体の宣伝を兼ねる。コンテンツを作る専門業と、当たりそうなコンテンツで商売をする専門業が分かれても問題ない。

当たるなら、他社の制作物でもいい、となる。流動性が高く、コンテンツは展開される範囲が広くなるだろう。逆をいうと、映像や文章やコンテンツそれ自体を積極的に展開してくれる人、売ってくれる人は内部にはいなくてもよくなる。売れるなら、社外の制作物でもいい。売れないコンテンツを無理に売る人はいなくなる。

何が当たるかわからないのであれば、クリエイターを長期的に専属的に働いてもらう必要は少なくなる。だからきっとクリエイティブな人たちは不安定な立場の人が多くなるだろう。雇われて、物を作れる人は、きっと少なくなる。

売れるが正義じゃない、その代わり、自分自身の労力すら買ってもらえない可能性がでてくる。「売れるが正義じゃない」といったあの若い作り手は、それでも何かを撮るだろうか。今、その人がAV制作を続けていると話は聞かない。今でもカメラを回しているのだろうか。

 

ムハンマドの風刺画に怒ったとしても許さなくてはいけない

今年10月、フランスで、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を授業で紹介した教師が殺される事件があった。どんな表現であっても、それを理由に危害を加えられることはあってはならないとわたしは考えている。だから、この事件を聞いたときは、とても嫌な気持ちになったし、日本でこんなことが起きたら嫌だなとも思った。

 しかし、風刺画を公にすること、それ自体に問題があるという考えもある。ちょっと前に、新聞に、マレーシアのマハティール前首相がこの事件に関して表現の自由を主張するマクロン大統領を批判していた。

マレーシアのマハティール前首相(95)はクアラルンプールで日本経済新聞のインタビューに応じた。「人を罵る表現は『表現の自由』に値しない」と指摘し、

フランスの風刺週刊紙イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載した行為を「表現の自由」だと擁護するマクロン仏大統領を批判した。

 

www.nikkei.com

 

 マクロン大統領は「フランスには冒涜する自由がある」と述べたとニュースになっていた。

www.sankei.com

 

フランスのマクロン大統領は1日、2日付の風刺週刊紙シャルリー・エブドが、かつてイスラム教徒の反発を招き2015年の同紙本社襲撃テロのきっかけとなったイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を再掲載したことをめぐり「フランスには冒涜する自由がある」と表明した。

人が人を冒涜する自由などあるのだろうか。冒涜されたからといって、暴力を用いて報復をしてはいけない。しかし、報復がないからといって、冒涜していいのだろうか。冒涜や誹謗中傷はやってもよい行為なのか。

表現を自由するはある。そして守られなくてはならない。どういった表現であっても規制されてはならない。極論にはなるが、表現規制が起こることで、戦前の言論統制のようなことが起こり、国家や民族が極論や極端な行動に陥ってしまう可能性もある。しかし、表現の自由があるからといって、人の悪口を言ったり、意図的にバカにしたり、精神的に傷つけたりしていいという訳ではない。

批判をしてはいけないわけではない。国家の批判も、誰かの言動に対しての批判もしてもいいはずだ。しかし、言及される側は怒り、悲しむだろうという想像力を捨ててはいけない。そこの配慮を欠いた行為が怒りや悲しみにつながり、究極的に今回のような殺人という恐ろしい事態につながってしまうのではないか。表現の自由はある。しかし、誰かを悪く言う表現をする際は、誰かを傷つけてしまうかもしれないという想像や自省を欠いてしまってはいけないように、わたしは思っている。

 

NIKEのCMは外国人差別の解消につながるのだろうか

賛否ある表現として、最近はNIKEのCMも話題にあがっている。三人の女の子がサッカーに打ち込む様子を紹介した動画だ。そのなかで、ある外国の人をルーツに持つ女の子が、クラスメイトに差別を受けるシーンがある。

news.yahoo.co.jp

 

ムハンマドの風刺画のような特定の人物や思想を罵った表現ではないが、一方的に加害する側を悪者にしてしまっている表現であるように、わたしは感じた。加害する生徒たちはどうして、差別するような行為をしたのだろうか。そこの描写はない。

親による偏見を真に受けてしまったとか、周りの大人に仲良くしてはいけないと言われたとか、もしくは違う人からいじめをうけてうっ憤がたまってより弱いものを向かったとか、なにか、そこに至る構造的な問題は皆無だったのか。加害する側の背景が全く見えず、悪者を見つけ一方的に批判する構造にも見えるように私は思う。

以前、わたしは児童養護施設に通う同級生に、意地悪な言葉をかけてしまったことがあるとブログに書いた。それ自体は悪いことだった。わたしの悪意によって人を傷つけてしまった行為である。しかし、その背景には、わたし自身が、彼女や彼女の周りからいじめを受けていたということもあった。こういった経験があるので、わたしは、完全にその人の人間性の問題だけで加害をしてしまうケースは、多くないように考えている。加害に至るなにかがあったはずだ。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

差別に至る構造的な問題を深堀し、そこの解消に動いて初めて差別は解決するのではないだろうか。差別の背景を深堀せずに、だれか悪者を作って批判するだけでは、分断を呼び起こすだけではないか。事実、このCMには賛否両論、どちらの意見も出て、まさに思想によっての分断を呼び起こしている。「外国籍の子供たちが差別される」という問題はこのCMによって解決に近づくようには思えない。

 

◆noteへ抱くイメージと、描かれたホームレス像のギャップ

もちろん、そういった誰かを悪く言うように見える表現であっても規制される必要はない。だから、このCMの中止をNIKEに呼びかけようという動きには全く賛同できない。表現への批判はしてもいいが、「するな」ということはしてはいけない。どんな表現であっても許されていい。このCMに対して、わたしは、作り手側が、もう少し受け手側の捉え方を想像するほうがよかったように思う。だけど、わたしたちは、ムハンマドの風刺画に怒り、人を殺めた殺人鬼と同じになってしまってはいけない。

そして、表現内容自体への意見だけでなく、これをCMという公共性の高い媒体で放送することが適していたかという視点もあるのではないかとも思う。たとえば、この映像が映画館で見る映画だったら、ここまで問題にはならなかったのではないか。インターネットで商品情報を探していたり、テレビを見たりしていたときに、突然目に入るCMと、内容をある程度把握したうえで見る映画とでは受けての印象が違う。NIKEの商品を探していた人は、外国人ルーツを差別する人へ批判を見ようと思ってはいない。その表現のターゲットに合わない表現だったからより強く非難をされた。

 

違うメディアならば批判されないだろうという表現はある。先日、ウェブサイト「note」上に掲載された記事が批判をされていた。

biz-journal.jp

 

路上生活者のもとに行き、一緒に生活をする様子を綴った内容だ。ホームレスを差別的に見ている、路上生活者の様子を面白可笑しく報じているという点が批判をされていた。

 

多くの読者が違和感を感じ、批判を投じることとなる「問題表現」は随所に出現する。

ホームレスの住む河川敷については、「その空間をある種異世界のようにも感じてしまった」と表現、彼らの生活スタイルについても、「私たちが日常生活をしているなかでは触れる機会が少ない体験をおじさんたちを通してできるという刺激が根本にはある」「おじさんたちの時間にとらわれないゆったりとした生活スタイル【略】私たちが日常を過ごしているなかではめったに出会わない要素がたくさん散りばめられている」と記述したうえで、しかし結局のところ、「とはいえ、私たちはおじさんたちのような路上生活をしようとは思っていないし、現在のテクノロジーに囲まれた生活を続けていきたいと思っている」と結論づけてみせる。

ここに垣間見えているのは、ホームレスという存在の背後に横たわる多くの社会問題については捨象し、外部から無邪気に観察する差別的な視点ではなかろうか。そこでは、「ホームレスのおじさん」たちはこの一般社会からあえて“降りた”仙人のような存在であり、「『となりのトトロ』に出てくるような森の木々をかき分け」た先に現れる、「テクノロジーに囲まれた」この社会を相対化する存在として描かれる。

しかしホームレスの多くは、みずから望んでそうなったのではなく、仕事の喪失や病気などによる困窮の果てに致し方なくそういった生活に陥っているケースがほとんどなのはよく知られた事実だ。そしてその背景には、この日本社会におけるセーフティネットの欠如や格差社会の拡大などの深刻な社会問題が横たわっていることも、多くの識者、書き手が何度も指摘してきたことだろう。

 

この批判はたしかに賛同できる部分もあった。記事を読み、わたし自身も、ホームレスを面白がっている印象は確かに受けた。以前、ホームレスに暴行するニュースに耐えられないというブログを書いたけれど、ホームレスを「面白いネタ」のように扱う姿勢も、見るに堪えない部分もある。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

しかし、こういった路上生活者を見世物にする視線や、面白がる視線は以前からあった。見るたびに嫌だなと思ったけれど、そういった発信をするメディアはある。しかし、それは許され、noteは許されないのはどうしてか。それはnoteという媒体の色があるのではないか。

 

noteの公式サイトを見ると以下のような記載がある。

note.com

 

noteでできること

・自分の好きなことや伝えたいことを投稿する

・好きなクリエイターの記事を読んで、応援する

・同じ趣味や思いを持った人と、サークルでつながる

 

 

創作活動でもっとも大事なこと

創作を楽しみ続ける

ずっと発表し続ける

 

ページビューを増やすことよりも、お金を稼ぐことよりも、あるいはフォロワーを集めることよりも、何よりも大事なこと。それは、楽しんで、発表し続けることです。

  

過激でセンセーショナルな表現で、見る人を増やしたり、話題にあがったり、そういったものではなく、小さな気づきや小さな出来事でも発信する。noteはアフィリエイトの利用はできず広告収入は得られない。

 www.colorfulbox.jp

 

広告がなく、過度な宣伝もない、アクセス数を気にして記事を書くことを求めていない。中立な空間、攻撃的ではない空間に見える。穏やかな媒体という印象があり、それを求める人が見ているメディアだから、路上生活者を面白可笑しく伝えように見え、賛否両論がでるこの記事が批判されてしまったのだろう。

 

◆「誰に」「何を」「どういうか」

昔、求人広告のライターをしているとき、広告を作る際は「誰に」「何を」「どういうか」を意識して作らなくてはいけないと教えられた。高校生を対象にしたコンビニのアルバイトの求人広告で高尚な言葉を使っても伝わらない。一方で、経験者を対象にした求人広告で、専門用語を避けた平易な言葉ばかりを使ったら、求めていない層が集まってしまうもこともある。ターゲットに合わせ、言い方、伝える内容を選ぶ必要がある。

加えて、広告では、「何が目的か」ということも説いているらしい。

mag.sendenkaigi.com

 

これは広告だけでなく、表現全般に言えることかもしれない。それを伝えることで、受け手にどう考えてほしいのか、どんな意見をもってもらうことが目的なのか。意図せず人を傷つけないためには、「どんな目的で」「誰に」「何を」「どういうか」を、頭の隅に置いて書く。私も含め、伝えたい欲求が強くなると忘れてしまいがちだけど、少しだけでも、読む側に立って書くことが重要なのかもしれない。

そして、受け手側も、受け手の勘違いを招く表現をであっても、寛容に受け止めて、批判はしても、表現を潰してしまうことのないように。怒ったとしても許しあう、やさしい発信のし合いをわたしは望んでいる。

青葉真司のことを知りたい

だいぶ昔のことだけど、知らない人に切りつけられる事件にあったことがある。幸い怪我は軽傷で、それ以外の被害もなかったけれど、救急車を呼ばれ運ばれた。救急車の中、「なんでこんなことしたんですかね」とわたしが言うと、救急隊員の人は「僕たちは絶対わからないですよ」と答えた。
「普通の人じゃないんです。僕たちとは全然違う人です。だから、どんなに考えても理解できないですよ」
彼の応急処置は適切だったし、救急隊員としては優秀だったと思う。だけど、その言葉だけはどうしても、納得できなくて、ずっとわたしのなかに残っている。「普通じゃない」と言われるのは、わたしだったかもしれないという思いがある。「普通じゃない」と切り捨てられなかったのは、ただ運がよかっただけだ。

 

◆断罪するだけで第二の事件をふせげるのか

少し前に、偶然みたネットのニュースで似たような気持になった。京都アニメーション放火殺人事件の報道だ。

bunshun.jp

diamond.jp


何人もの命がなくなったこと、あまりに残忍な犯行だったこと、そんな事実を報道で聞きていた。亡くなった人の無念や不幸はわたしには計り知れない。事件の犯人は青葉だ。彼が罪のない命を奪った罪はあまりに重い。

だけど、ふたつの記事を読んで青葉真司が可哀想で、可哀想で、仕方なかった。誰ひとりとして、青葉に優しさを与えなかった事実が、青葉真司容疑者を生んだのではないか。青葉の周りにいながら、彼を追い詰めていった人たちにもこの犯罪の加害の一旦はあるのではないか。「普通じゃない」と言った、誰かをわたしは想像した。犯した罪はあまりに大きい。しかし、彼を断罪するだけでは、第二、第三が青葉真司がいずれ出るだろう。


◆青葉真司はわたしだったかもしれない

青葉に同情してしまうのは、「優しくされなかった」「理解されなかった」という思いが自分にあるからだと思う。わたしが加害する側にいかなかったのは、運がよかっただけだ。

わたしは母とどうも折り合いが悪い。これは本にも書いたけれど、大学に行くことを反対されている。それ以外にも、私の選んだ習い事やアルバイトなど自分のやっていることを反対された。「やったほうがいい」と応援したことはなかった。
保守的な性格なのだと思う。単純に、性格がわたしと合わないのだろう。今となっては、田舎の人だから仕方ないとも思う。わたしが本を書いたとき見せたら「一冊書いたぐらいで」と母は言った。その一冊書く苦労をどれだけ分かっているのかと、怒りたくなったけれど、言っても意味がないような気がしてやめた。

暴力を振るわれたとか、食事を与えられなかったとか、目に見える加害はない。だけど、小さな出来事が重なって、できるだけ、話さないほうがいいなと思う存在になっている。では、親族に代わる、自分のことを理解してくれる存在がいたかというといないような気がしてる。

要所、要所で、助けてくれたり、手を貸してくれたりする人はたくさんいた。「助けたい自分像」を偶然作れていたような部分もあるように思う。だから、わたしは、青葉真司にならなかった。なんとか、本当の、だれも見向きもしない人間にはならなくて済んだ。

けれど、家族との関係も、友人や学校での関係もうまくいかなかったわたしが「普通じゃない」と言われなくて済んだのは、本当の偶然だ。学校では虐めにもあったし、職場に馴染めなくて5回も転職した。「あいつのせいで」と逆恨みして、犯罪を犯す可能性はわたしにはあった。


◆寄り添いつつも、近づきすぎない距離感を

青葉真司のことを知りたい。だけど、凶悪犯に引き寄せられ、思い込みで美化したり、
独りよがりで被害者を苦しめるような人がいることもわかるし、自分がそうなってしまうような恐怖もある。

光市母子殺害事件の犯人を実名で報じて、問題になったノンフィションがあった。
「●●(実名)君を殺して何になる」というタイトルだった。書き手と被告はあだ名で呼び合う程の仲になったけれど、わたしは「殺して何になる」という気持ちにはならなかった。読んだ後、被害者や加害者家族をはじめ、事件の周りの人たちを苦しめてしまったのではないかと苦しくなった。

センセーショナルな事件を犯す犯人は、目を引いてしまう。理解したいと思ってしまう。そして、人によっては神格化してしまう可能性もある。だけど、そうなってしまってはダメだと思う。思うけれど、どうしようもない孤独を解体したい、気持ちにもなる。これからさき、「普通じゃない」と切り捨てられる人がでてこないように。

カマナ・ハリスに続く普通の女の子はいるのだろうか

1年ちょっと前。営業先の店舗で、他のメーカーに女性営業が入ったという話を聞いた。わたしよりもずっと若くて、AVが好きでこの業界に入った女の子。

「堀江さんの本も読んだって言っていて、会いたがっていましたよ。堀江さんに、憧れているって言ってましたよ!」 

何店舗か、彼女とわたしの共通の担当店舗があって、営業の合間に彼女の話題が上がった。わたしの書いた本を読んでいると聞いてうれしかったけれど、わたしから「紹介してください」と言ったら、本を読んだと聞いて思いあがっていると思われるような気がして、ちょっと恥ずかしくて「いつかお会いしたです」と話題を終わらせた。

少し前に、彼女が辞めてしまったことを聞いた。ちょうど営業に行った日に、この後、彼女の在籍したメーカーの営業が来るというから、やっと会えると思った。「あの女の子営業さんですか?」そう尋ねるわたしに、「あのこ、辞めちゃったみたいですよ」と仲のいい担当者は返した。そのあと、わたしと同じ歳くらいの男性の営業マンと名刺交換した。印象のいい青年だった。彼ならばきっと長く続くだろう。

 

◆聞くべき助言と受け流していいと助言

「女の営業はすぐ辞める」という言葉を何度も聞いた。わたしに直接言ってきた人もいるし、人づてに言っていると耳にした人もいた。近しいと思っていた人も、わたしに対してそう、言っていたと聞いた。彼と話す時、「わたしもすぐいなくなると思っているのだろうな」と思いながら、なんてことない話を今もしている。

この業界で仕事をして、偏見を感じたことはそれだけじゃない。昔、このブログにも書いたけれど、「口説いてきたらどうするの?」と言ってきた同業の営業がいた。この人は自分の営業先の担当者は、女の営業がくれば口説いているとか、それだけで発注多くするとか思っているのだろうか。

わたしは、取引先から、セクハラを受けたと感じたことはほとんどない。営業中に隠語がでてくることはよくあるし、それもセクハラにカウントしたら数え切れないほどあるけれど、恋愛対象として口説かれたり、言い寄られたりはしない。性的な関係を迫られたこともない。そんなくだらないことで困ったことはない。それでも、同業者ですら、そう思うのかと思うと残念でたまらない。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

 この業界に限らず、女性の少ない業界でやっていくと、実際のハラスメントと戦う場面ばかりでなく、偏見と戦う場面も多くある。軽く見られたり、偏った認識をされたり、先入観を持たれたりしがちだ。もしかしたら、ハラスメントに苦しむよりも、偏見と戦う場面の方が、ずっとずっと多いかもしれない。

 

◆先入観はアダルト業界以外にもある

以前、わたしは人見知りだった。営業職について、だいぶ改善されたけれど、昔は人見知り故に、勘違いされらことが多かった。人と上手く話せず対面の印象がよくないので、偏見を持たれがちだった。以前は、女だからでなくて「大人しい」とか「容量が悪い」とか、そういった特色からくる偏見だったと思う。

新卒で入った会社で、「やる気がない」とか「成長が遅い」と当時の女性上司から言われた。今思えば、わたしは、たしかに広告のライターとしては力量が不足してきた。クライアントの求める文体を再現できなかったし、誤字脱字も多かった。だけど、技術として足りない部分を、わたしの人間性の問題のように言うのはおかしいと、今は思う。今はだ。今振り返れば、彼女の指導……と呼んでいいかわからないけれど、注意の仕方は正しくなかったとわたしは思う。だけど、当時はわからなくて、追い詰められて、精神的に参ってしまった。

そんな経験があるから、今回の「女はすぐやめる」とか「口説かれる」とかそんな偏見も、役に立たない意見だし、適当に流せばいいものと思いっている。自分のコンプレックスを埋めたいとか、下に見られる人を見つけたいとか、そんな言っている側の欲求が透けて見える。大した意味なんかない。言いたいから言っている程度だろう。

仕事の仕方が間違っているならば変えたほうがいい。しかし、人間性や生まれ持った特色まで変えようとする必要はない。すぐ辞めるとか、女だからとか、そんな意見を、バカバカしいと思ってわたしは受け流したけれど、私よりずっとずっと若い、その女の子の営業が受け流せていたかはわからない。それに、もしかしたら、わたしも新卒でこの業界に入っていたらライター時代と同じように参ってしまったかもしれない。

自分の本を読んでもらって思いあがっていると見られても、紹介してほしいと熱心に頼めばよかった。話を聞いてあげたらよかった。今更、そんなこと思っても遅い。

 

◆強くて特別なカマナ・ハリス

最近、アメリカの大統領選で、カマナ・ハリスが黒人女性初の副大統領になりそうだとニュースで見た。彼女の演説はとても素晴らしくて、わたしは、大統領候補のジョーバイデンの演説よりも感動してしまった。新聞が和訳が載っていたので、一部転載したい。

ジョーは人格者です。なんと言ってもジョーはバリアを打ち砕くことができました。女性を副大統領候補に選んだのです。私が初の女性副大統領になるかもしれませんが、最後ではありません。すべての幼い女の子たち、今夜この場面を見て、わかったはずです。この国は可能性に満ちた国であると。

私たちの国の子どもたちへ、私たちの国ははっきりとしたメッセージを送りました。

www.tokyo-np.co.jp 

 

 

そうだね、そうだ。最後の女性副大統領になってしまってはだめだ。

だけど、一方でわたしはハリスに対して、少しだけしこりを感じている。先日、新聞を読んでいたら、彼女の両親はどちらも学者で、彼女自身も高い教育を受けてきたと知った。大統領候補になるジョー・バイデンが、ボイラー工や中古車販売業を転々とする父親に育てられたのとは対照的だ。

ハリスは、恵まれた状況――学問に理解あるな両親と、勉強できる環境の中で育った。さらに、カマナ・ハリスは2014年まで結婚することはなかった。夫のダグ・エムホフは再婚だが、カマナ・ハリスにとっては初婚だ。

www.afpbb.com

 

学問に理解ある恵まれた環境で育ち、そのうえ、結婚やプライベートな充実を捨てる覚悟を、50歳まで持っていた黒人女性――特別な、強い黒人女性。カマナ・ハリスは自分に続いてくれと女の子たちに言うけれど、彼女のような特別な女の子はいるのだろうかと、新聞を読んだあとにふと考えてしまった。

 

◆特別ではない人でも居られるように

わたしもそうかもしれない。この仕事をして、「偏見」による居心地の悪さややりにくさは感じた。だけど、図々しくも居座ることができたのは、やはり、この仕事に就くまでの経験――ライター時代の挫折や失敗があったからだ。そういう意味では、他の人にはない「特別さ」があったかもしれない。

そしてさらに、わたしは、物を書けたというのも大きかったように思う。本を出してから、以前よりも周りに受け入れてもらえるようになったとわたしは感じている。実際は営業の仕事とは関係のないスキルなんだけど、「本を書いた人」となって「特別枠」になれた。店の人はもちろんだけど、わたしのことをすぐ辞めそう言ってきた人も、本心かわからないけれど「すごいね」と言ってきたりした。特別枠だから、居ても許される。だけど、そんな飛び道具を持っている人ばかりではないとも思う。

普通に日々の営業業務を一生懸命やれば、偏見を持たれなくていいはずだ。だけど、実際はそんなことなくて、わたしの後、アダルドグッズやビデオの営業職について続けてくれる女性はなかなか見つからない。

カマナ・ハリスにやってほしいのは、彼女と同じように、特別で強い女の子を探し、彼女の後をつかせることではない。ハリスが、特別で強いゆえに乗り越えることができた障害をひとつひとつ取り除いていくことだ。普通の女の子が、がんばれば上を望めるそんな環境がきっと必要だと思う。カマナ・ハリスに続く普通の女の子を見たい。

中国語を勉強したい人必見!麻雀用語の日本語訳!

スイッチの「世界のアソビ大全51」を買ってからずっと麻雀やっている。麻雀ルールすら知らなかったのですが、やり方を解説しながら麻雀するモードもあり、任天堂様に丁寧に教えていただきました。

 

 

Nintendo Switch Lite グレー

Nintendo Switch Lite グレー

  • 発売日: 2019/09/20
  • メディア: Video Game
 

 

世界のアソビ大全51|オンラインコード版

世界のアソビ大全51|オンラインコード版

  • 発売日: 2020/06/04
  • メディア: Software Download
 

 

世界のアソビ大全51-Switch

世界のアソビ大全51-Switch

  • 発売日: 2020/06/05
  • メディア: Video Game
 

 

そんな話を中国語レッスンの雑談中にしましたら、「実家でもよくやりますよ」と先生。家に麻雀卓あるってすごいなと思ったけれど、そもそも麻雀って中国語のゲームだから、日本よりもメジャーみたいですね。せっかく中国語を勉強しているので、麻雀用語って、中国語でどう書くのかなって気になって調べてみたら、リンク先のサイトがでてきました。

zhwiki.easterntribe.org

 ※ロンに関してはなかったので別のサイトを参考にしています。

 

 

麻雀やっているときは、「チー」とか「ポン」とかカタカナで言っていたので、「チーって吃なの?!」「ポンって碰だったの?!」と発見。ただ、中国語を勉強している人でないと意味わかんないよなと思うので、翻訳してみようかなと思います。

 

◆麻雀用語の日本語翻訳一覧

・チー 吃(chi)

吃は中国語で「食べる」という意味です。自分のひとつ前の人(上家)が捨てた牌をもらって、3個そろえるときに「チー」っていうのですが、隣の人の捨てたものを食べるって意味なんですかね。

 

・ポン 碰(peng)

「ぶつかる」「であう」という意味の中国語です。中国語的に発すると「パン」って音に近い発音かなと私は思います。ポンは麻雀では、上家以外の人が捨てた牌をもらって、そろえるときに使います。なんで、出会うなのでしょうかね。遠いところの人の牌と出会うっていみでしょうか。

 

・カン 杠(gang)

中国語では、「棒」という意味です。中国語の発音では、カンよりグアンみたいな、ちょっと濁ります。カンは4個、同じ牌をそろえるので、長い棒みたいになりますよね。

 

・リーチ 立直(lizhi)·

立(li)は「立つ」、直(zhi)は「まっすぐ」。直訳すると「まっすぐ立つ」。なんで「まっすぐ立つ」なんでしょうか。一回も鳴かないであがるから?リーチのときに出す千点棒がまっすぐだから?ちょっと不思議です。

 

・ツモ 自摸(zimo)

摸(mo)は「手で触る」とか「探りだす」とかいう意味。自(zi)は自分という意味です。直訳は「自分で探り出す」「自分で触る」です。たくさん牌がある中から、上がれる牌を自分で探りだすというイメージっぽいですね。

 

・ロン 荣和(ronghe)

荣(rong)は「草や木が生い茂る」「勢いよく発展する」という意味です。日本語の「栄」と同じ漢字で、意味もほぼ一緒です。和(he)も、日本語同様の意味で、「調和がとれている」というニュアンスです。「発展し、調和もとれた状態」という意味でしょうか。ロンは人の捨て牌で上がること。捨てた牌であがることに、そんなにもいい意味を持たせるんですね。

 

タンヤオク・タンヤオ 断幺九(duanyaojiu)

初心者のわたしがつい目指してしまうタンヤオ。作りやすいですよね。幺(yao)は一番小さいという意味、九(jiu)は日本と同じで数字の9の意味ですが、発音はキュウじゃなくてジュオウ?ジョオウ?……カタカナではうまくかけないですが、ジに近い音です。断(duan)は「断ち切る」とか「切れる」という意味です。なので、一番小さい数字と九を断ち切る。2から8の字牌でそろえるからその通りですよねー。

 

 

麻雀用語って、日本人だと意味が理解できないから、たまに間違いそうになります。「ロン」と「ツモ」どっちだっけ?みたいな。意味を理解できれば、間違いにくくなるかな。

 

 

 

麻雀たのしいってツイッターに書いたら、葉月美音ちゃんがコメントくれたので、美音ちゃんとできるようになるよう頑張ります。スイッチでしかやったことがないので、まずは、人間とできるようにしたい……

 

一個師団の子供を作ることは可能なのか

少し前に、Twitterで過激な内容の投稿が出回っていました。

 


以前、参院選に出馬し落選した橋本琴絵さんのツイートらしいのですが、彼女の発言に対しての意見は置いておいて、そもそも論として、一人の男性が一個師団の子供を作るのは可能なのか。データが揃っていないため、ざっくりした結果になるのですが、考えてみました。ざっくりしているので参考程度に見てください。

 

◆一個師団の子供のためのセックス回数

一個師団の人数は何人なのか、諸説ありますが、wikipediaによると1万人~2万人。今回は一個師団=1万人という定義にします。

ja.wikipedia.org

 

1人の子供を作るために、一人の女性と何回セックスが必要か。

確かなデータはありませんが、だいたい妊娠を希望する女性が懐妊するまでの期間が、半年以内が約半数。なので、半年間の間を取って平均三カ月とします。

hoken-room.jp

 

そして、妊娠希望中のセックス回数で一番多いのが3~4回。

prtimes.jp

なので、1人の女性と1カ月に4度のセックスを3カ月行う前提とします。つまり、だいたい1人に対して12回のセックスで1人の子供ができるとして、1万人の子供なので、12万回のセックスが必要です。

あくまでこれは、アンケートの結果なので、偏りはあると思いますが、だいたいの数字としてこちらを参考になします。

 

◆1日16回のセックスを20年間

ここからは男性側の事情になります。男性は、35歳以上になると妊娠できる精子が少なくなるというデータもあります。

www.nhk.or.jp

そのため、18歳から38歳の20年間に性行為を限定します。1年365日として、20年間で、7300日。12万回のセックスを7300日で割ると、1日あたり、16.4回のセックスが必要になります。ちなみに、期間を10年延ばし30年間にすると、1日10回で済みます。それでも多いけれど。

 


20年間、毎日、1日16回のセックス……人により好みはあると思いますが、地獄のようだと私は感じます。売れっ子AV男優でも1日3~4現場程度で、1日で10現場以上行くというのは聞いたことがないので、1日だけでも大変だと思います。セックスというのは適度にするから魅力的なんじゃないでしょうか。

前述のツイートには、女性蔑視という批判が多くあり、それはその通りなのですが、男性側であっても、この数の子供をと、強要するのは、嫌な気分になる人はいるだろうなと感じました。男女問わず、人間をモノのように扱っているように、わたしは受け取ります。人間という概念、人の命という概念をあまりに軽くみているよう。

人の命を「数」でみてしまうガサツさ、みたいなものをこれを書きつつ自分自身が感じました。「数」のインパクトというのはあるのですが、人間を語る以上「個」でいけないなあ。

民主主義の破綻と独裁者を選ぶ人々

「もうすぐ価格下がるじゃないですかー。マンションでも買おうかなって思っちゃいますよねー」都内のエロビデオ屋のスタッフルーム。一折りの商談が終わって、雑談のついで、そんなことを話すわたしに「独身のうちはやめたほうがいいよ」と仲のいい担当者さんは苦笑いした。「独身で家買った男友達が周りにいるけれどね、結婚相手にとっては、ただ借金抱えているだけだから」。そうですよね、自分で選んだわけでもない家住みたくないですよね、と笑いながら、散らかった資料を片付けた。

 

そんな話をした数日あとに、ちょうど中国語のレッスンで、「租房子」という単語が出た。「家を借りる」という意味のその単語の説明の後、先生は「日本の人は家を買わないですよね」と話した。そして「中国人にとっては、とても不思議なんです」と付け加えた。先生が言うには、中国人の男性は、家と車をもっていないと結婚できないらしい。自分が住む家だけじゃなくて、人に貸して所得を得るための家も持っている。先生も、日本と中国、それぞれに家を買ったと言った。「わたしの中国人の友達は、人に貸すための家を日本にも持っていますよ」とも。中国の人が、そうやって日本のマンションを買うことを日本人は怖いと思ってますよ、とは言わなかった。

中国は、株式投資も盛んだという。借金してでも投資をしろ、金を稼ぐために金を使えという国民性。「借金を持つの嫌じゃないの?」とわたしが聞くと、「だからみんな一生懸命働くんです」と返した。リスクを負うことを不安に思わない。たぶん、それが、中国の強みであり、一部の日本人が中国に漠然とした恐怖や嫌悪感を抱いてしまう理由なのかもしれない。

わたしは今の中国語の先生が好きだ。彼女はわたしのやり方を重視して、丁寧に授業をしてくれる。いつも聞き手に回ってくれて、わたしのペースで話してくれる。「中国人」というと、押しが強いイメージをもっていたけれど、彼女はそんなことはない。日本人の知人のように自然に話せる、いや、もしかしたら、日本人の知人よりもずっとずっと話しやすい。だけど、たまに、彼女を通して、日本人と中国人は違うということを実感する。友人のように思う彼女から垣間見える「日本人との違い」にたまに、とてもショックを受ける。

 

◆分断を引き起こす「社会観」の近い

「中国人」でひとくくりにできない。中国人にもいろんな考え、思考の人がいるだろう。しかし、中国の多数派と、日本の多数派の人間性……生活において優先順位、日々の思考、人との付き合い方……そんな個人の言動を形づくる要素は違う。日本人と中国人は違う。少し前に日経新聞におもしろい記事が上がっていた。8月5日朝刊に掲載された寺西重郎一橋大学教授による寄稿だ。

r.nikkei.com

 

 

寺西教授は、米中の対立は単純な政治的な対立ではなく文化や社会規範の対立と説く。

コロナ対策でも香港政策でも、自由や人権といった普遍的とみられる価値に対する中国の否定は、単なる共産党の独裁体制維持行動によるものではなく、中国国民の基本的な社会観によるものだと考えるべきだ。

 

西欧の自由・人権・民主主義といった思想の背景には、キリスト教の下で神の創造した人類や公共を重視する観念の影響があり、公共概念を基本とする集団的意図性が組み込まれている。ルールや法制度など公共の目的のために、人々の行動を制約する際には、自律した個人という前提のもと、自由・人権・民主主の尊重が不可欠となる。西欧では、公共概念をもち自律した個人という前提があり、それが秩序を維持している。しかし、一方で、善や倫理の争いを回避し、一見中立的に社会秩序を構築・運営しようという傾向が近年欧米、とくに米国で強まっている。

寺西教授は明記していなかったが、トランプ大統領の当選などが、善や倫理を無視した一見中立に見える社会秩序の構築なのだろうと、わたしは感じた。

一方で中国の価値観は違う。記事では以下のように本文には記載している。

中国での社会と市場の秩序付けの方法は「士庶論」とも呼ぶべき、社会をエリートと非エリートからなる二重構造としてみる社会構造から生まれた人治による秩序付けとして要約できる。

 

士庶論の重要性は(中略)すなわち本然たる性たる天の理を会得した人は聖人になり、その他の多くの人は気質性にとどまり、未完成な道徳的修養のままの状態に生きるという人間観だ。

 

聖人として天の理を体得した集団が社会のリーダーとなる。一方、非エリート層はエリートの判断下で自由や人権の制限を含む罰則を前提に許容されるのだ。

 

その地域の気候、地形、歩んできた歴史をもってして、国の考え方が決まる。日本に住んでいるわたしたちは、民主主義が素晴らしいし、正しいと思ってしまう。だけど、それが違う地域にとっても正義なのかといったらそうではないかもしれない。民主主義によってえらばれたドナルド・トランプと、共産党一党独裁の中で頂点に立った習近平、どちらが優秀な政治家か問われたとしても、わたしはどちらがいいか言い切ることができない。

選挙によって、習近平を選んだらいいと民主主義国家に生きるわたしたちは思うけれど、その時々の時世に流されてしまう大衆が、最善の政治家を選べないことなど明らかだ。民主主義の国々は、自分たちが多数決で選んだ代表の批判を絶えずしている。当時、もっとも民主的と言われたワイマール憲法のもと、独裁者ヒットラーは大多数の国民に支持され選ばれた。民主主義が最善の選択をするとは限らない。哲学者プラトン哲人政治を説いたように、一部の有能な哲人が国民を導くほうがいいという主張も、賛成はしないけれど、理解はできる。中国の士庶論もそれに近いものなのだろう。一部の優秀なものが最善を決めていく。

中国に限らず、民主主義はすべての国にとっての最善ではない。国によっては機能するどころか、制度すら受け入れらない。イラク戦争後のアメリカによる占領は失敗した。アメリカ的な平和で民主的な文化は、そうでない世界で生きている人からは、恐ろしいものなのかもしれない。民主主義を望んでないのは、支配者だけでなく、国民全体なのかもしれない。

 

◆見直しの時期に来た日本の民主主義

民主主義は決して万全の政治手法ではない。それは、中国やイラクや外国の話だけでなくて、日本においてもそうだ。わたしは日本においても民主主義を見直す必要があるように思う。もちろん、独裁がいいとか、共産主義がいいとは絶対に言わないし、日本がそんな風になってしまってはだめだ。だけど、一方で、民主主義の主権者「民衆」が力を持ちすぎてしまうこともよくない。民主主義国家の政治は、「選挙」という人質を取られているがために、大衆迎合ばかりしてしまう。

同様のことを言う人は、わたし以外にもいて、たとえば、宇野常寛さんは著作「遅いインターネット」のなかで「民主主義を半分諦めることで、守る」と題した章で以下のように記載している。

遅いインターネット (NewsPicks Book)

遅いインターネット (NewsPicks Book)

 

 

 

まず第一の提案は民主主義と立憲主義のパワーバランスを、後者に傾けることだ。

立憲主義とは統治権力を憲法によって制御するという思想で、そのために民主主義としばしば対立関係に陥る。なぜならばたとえそれがどれほど民主的に設定されたものであったとしても、過去に定められた憲法を現在の民意が支持するとは限らないからだ。したがってあらゆる民主主義は憲法改正の手続きを憲法自体に組み込むことになる。言い換えればそれが民主的な憲法の条件で、ここで民主主義と立憲主義のパワーバランスが設定されることになる。そしてポピュリズムによる民主主義の暴走リスクを高く見積もらざるを得ない今日においては、このパワーバランスを立憲主義側に傾ける必要がある。もはや僕たちは民主主義で決定できる範囲をもつと狭くするべきなのだ。これから民主主義は、もたざる者の負の感情の発散装置になるしかないことを前提として、運用するしかない。民主主義を守るために、の決定権を狭めること。これしかない。これからは基本的人権など民主主義の根幹る部分は立憲主義的な立場を強化することで、(奇妙な表現になるが)民主主義の暴走から守る他ないのだ。

 

「僕たちは民主主義で決定できる範囲をもつと狭くするべきなのだ」という宇野さんの意見には、わたしは賛成していて、民主主義の暴走さけるために、民衆のもつ力を軽減させたほうがいいと思っている。

たとえば、わたしは、もう一度、中選挙区制に戻すなどの方法をとってもいいのではないかと考えている。政治家個人ではなくて、政党に投票する。塊で政治をみる。小選挙区では、大衆に好かれる政治家が有利になる。政治家個人は大衆に好かれるように寄せざるを負えない。容姿が優れた人や知名度がある人が有利になっていく。政治家個人の人間性や性格やパーソナリティなどは政策に関係はないにも関わらず。政治家は腹の底でどんなに悪いことを思っていたとしても、十年後、二十年後にいい国にできるならそれでいいはずだ。だけど、大衆は十年後、二十年後までの政策を見て政治家を選べない。

一人の政治家個人でなにかを動かすことはできない。会社でもそうだ。いろんな人が協力しあって政策をすすめていくしかない。だから、個人がなにをするかよりも、政党全体でなにができるかが重要だ。個人で選ぶ今の制度では、どうしても本質的な話にはなりにくいのは、その人ひとりの判断で決められないからなのだろう。

 

◆行き過ぎた国民主権からの脱却

また、世論調査やインターネットの意見のような大衆の意見を重視する風潮も変えていく必要があるようにわたしは思う。類似した意見は、西部邁さんの「そろそろ子供と「本当の話」をしよう」にも記載がある。

そろそろ子供と「本当の話」をしよう (Big birdのbest books)
 

 

民主主義は、なんといっても民衆が絶対権力を持つのがよいとされているのですから、ダイレクト,デモクラシー(直援民衆政)に傾きます。つまり、レファレンダム(国民投票)にせよパプリック・オピニオン(世論)への追随にせよ、民衆の意向が直接的に政策を左右することになるのです。それにたいしインダイレクト・デモクラシー(間接民衆政)としてのパーラメンタル・デモクラシー(議会制民衆政)は、世論の動向に注意を払いながらも、議員たちの独自かつ自発の意見で討論と採決を通じ政策が決まります。それを逆にいうと、民衆は議員の選出に票を投じるものの、政策についてまで直接に関与することはない(もしくは少ない)、それが間接型の民衆政治なのです。

しかし、民衆を主権者としてほめそやせば、主権者は偉大な能力の持ち主に違いないとみなされます。で、政策の決定に主権者の声を直接的に反映させよ、ということになります。政策への贅否を問う世論調査なるものが年に一〇回、二〇回と行なわれ、その結果に政治家たちが一喜一憂するのはそのためです。――この世論調査については、あとの節でもっと詳しくみることにします――。歴史上のディクテーター(独裁者)、デスポット(専制者)、タイラント(暴君)のほとんどすべてが、直接民衆政から生まれ、直接民衆政を使っておりました。その典型が、二十世紀についていうと、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーソ連スターリン、そして中国の毛(沢東)ということになります。

そこまでいかなくとも、政治が世論のポピュラリティ(人気)によって動かされるいわゆるポピュリズム(人気政治)は、この日本列島をはじめとして、世界を包み込みつつあるといってもよいでしょう。それはすべて、「民衆に主権あり」という概念が単純もしくは誇大に受け取られた結果です。

 

 民衆は議員の選出に票を投じるものの、政策についてまで直接に関与することはないーー民主が力を行使できるのは、票を入れるところまで。わたしは西部さんの意見に賛成する。民衆は自分たちの国の運営を任せたい人を決め、あとは彼・彼女たちを信用し、黙視するのみ。許せないであれば、次の選挙で票をいれない。それ以上の力を持たせた結果が、西部さんのいうように、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーソ連スターリン、中国の毛沢東だ。これは歴史上の話ではない。事実、米国では起き始めているし、独裁者の再来は日本だって容易に起こりうる。

民主主義、国民主権、それは日本においては正しい政治手法である。学校教育でも正しいと教えられる。だけど、それが行き過ぎてしまってはだめだ。民衆が無知なら政治も破綻する制度が、万全だとは言えない。選ぶのは民衆であっても、選んだあとはまかせた人を信用する。政治を行うのは民衆ではなく、政治家たちでなくてはならない。政治家は政治のプロであり、大衆よりも良い道を選ぶことができるのだから。横暴になりすぎた主権者、民衆による悪政を見直す段階に来ている。