オナホ売りOLの平日

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罪悪と向き合わない不幸せ

島崎雅彦の自伝的小説「君が異端だった頃」には、著者の思春期の描写も描かれている。そのなかに、著者を殴った暴力的な教師に報復しようとした逸話があった。著者は、教師の靴に塩酸を仕込もうとするが、その靴があまりに古くボロボロで、教師を惨めに思い思いとどまった。塩酸の小瓶をポケットにいれ、職員用の下駄箱に向かった著者は、なにもせずそのまま引き返した。

君が異端だった頃

君が異端だった頃

  • 作者:島田 雅彦
  • 発売日: 2019/08/05
  • メディア: 単行本
 

 

だけど、もし、本当に塩酸を仕込んでいたら――もっと恐ろしい想像もできる。塩酸の小瓶をポケットに仕込んでいると知らず、以前のように感情的に教員が中学生に殴りかかり、それに憤慨した中学生が塩酸の小瓶を手に取り教師にめがけたら……。悲劇というのは、偶然起きる。新聞をめくると、「一瞬タイミングが違っていたら」と殺人事件の遺族がインタビューに答えていた。それは、起きなかった方にも言える。芥川賞の選考委員になるほどの著名な作家であっても、一瞬、ほんの一瞬なにかが違っていたら、人生は変わっていたのかもしれない。

 

◆来ないでほしかった「もし」

運良く変わるならばいい。しかし、表にでる「違っていたら」の大半は、不運なほうに転がった事象だ。映画「許された子どもたち」の加害者もほんの、ほんの些細なきっかけで、同級生を殺した。気が弱くて同級生の言いなりになっていた倉持樹、彼が一瞬とった反抗的な姿勢を許せず、主人公の市川絆星は、樹の首に割り箸で作ったボーガンの矢を向けた。もし、絆星が思いとどまったら、もし、ほんの数センチ矢の当たる場所がずれていたら――そんな「もし」は叶うことがなく樹は死んでしまう。同級生を殺した少年。しかし、絆星の不幸はそれだけでは収まらなかった。両親や弁護士の行動により、不処分となった。絆星の母は言い続ける「絆星はなにもやっていない」と。それにより、世間や社会から膨大なバッシングを受けることとなる。

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◆遺族給付金と民事訴訟

少し前に、新聞記者の知人と被害者遺族の話をした。事件で家族を亡くした遺族には、遺族給付金が支給される。だけど、その給付金は十分とはいえない。リンク先の朝日新聞の記事によると、19年度、遺族給付金の1件あたり613万円だという。もちろんそれは平均金額で、もっと安い場合もある。「人が一人殺されても、300万円しかもらえない」。彼は取材先の遺族の話を少し聞かせてくれた。葬儀費用も、訴訟費用も、出さなくてはいけない。大切な家族が死んで、精神的に弱くなってしまう人もいる。精神科の通院費用もださなくてはいけない。精神が病んでしまい仕事ができなくなり収入が途絶えてしまうこともある。

民事訴訟で加害者に賠償金を請求することはできるけれど、払わない人も多くいる。住所が変わればより難しくなる、と記者の知人は教えてくれた。 

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その話を聞いた後、「許された子どもたち」のシーンを思い出した。樹の家族は、民事で訴訟を起こす。しかし、絆星一家は引っ越しを繰り返し、樹の家族たちから逃げ続ける。「本当のことを知りたい」という樹の両親の思いは叶うことはない。

樹の両親が民事訴訟を起こした目的は、「真実」だった。もし、絆星が自分の行いを正直に告白し、罪を素直に認めていたら、樹の両親はここまでの怒りを抱くことはなかったのか。人を殺すという罪、それ自体も残酷で重い行為だ。だけど、この映画で責められるのは、罪を認めないこと、隠そうとすること、だったように思えた。

 

個人的な話になるけれど、父に、実家の杏の木の枝を折って叱られた記憶がある。木登りをした際に、父が育てた木の枝を折った。父は枝を折ったことそれ自体ではなく、折ったことを言わなかったことを怒っていた。罪を犯すこと、それ自体も悪い。だけど、それ以上に犯した罪を隠そうとする、そちらのほうが大きな罪なのではないか。残念なことだけれど、「もし違っていたら」という出来事はきっと起きてしまう。罪を犯したその後を考えることが重要ではないか。

自分の罪悪と向き合わない不幸は時がたつにつれて、不安な意識を大きくさせることだろう。「やっていない」「悪くない」とずっと言い聞かせながら、自分を正当化して生きることが本当に幸せなのか、わたしは幸せには見えない。「許された子どもたち」にはモデルになった事件があると聞く、その少年たちが罪と向き合わない不幸にどこかで気がついてくれたらいい――不幸からより深い不幸に落ちて行かないことを願うばかり。