オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

めんどくさくて、可哀想な人たち

第二次世界大戦終結後、強制収容所へのユダヤ人大量移送の責任者だったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンに逃亡し、リカルド・クレメントと名前を変えてドイツから呼び寄せた家族と共に生活していた。イスラエル諜報機関であるモサド工作員たちはクレメントを看視していたが、アイヒマンであるとの確証がどうしても摑めない。ところがある日、仕事帰りにクレメントは花屋に寄った。妻の好きなアスターの花を買うために。尾行していた工作員たちはその瞬間に、その男がアイヒマンであることを確信した。なぜならその日は、アイヒマン夫妻の結婚記念日だったのだ。

 子供を愛し、結婚記念日に妻に花を買う男は、同時にユダヤ人大量虐殺に手を染めていた男でもあった。

 

 

小野一光「冷酷 座間9人殺害事件」
森達也による解説

 

最近、読んだ本で、大嫌いな親戚のおばさんのことを思い出した。彼女はヒステリックで、ちょっとしたことですぐに激昂し、誰それ構わず怒鳴りつける。わたしは彼女といるとき、いつ怒り出すかドキドキしていたし、周りの大人たちが腫れ物に触るように接しているのも分かった。わたしの母はよく、そのおばさんの悪口をわたしに言っていた。悪口の中には、その通りだと思うものもあったし、そうじゃないものもあった。例えば、焼きそばの話。そのおばさんは、夫の両親と同居していた。彼女の義理の父親が、おばさんの作った焼きそばが麺が千切れボロボロだと言っていたようで、母は嫌そうな顔をして嬉しそうに「焼きそばも作れないんだよ」とわたしに言った。

当時小学生だったわたしは、一緒に悪口を言う気になれなかった。たぶん一番の理由は「わたしも作れないしな」という後ろめたさ。だけど、今思うと、それだけじゃない。「アイツは料理も作れない」という悪口を家族が外の人に言っていたら嫌だろうなと思った。

その義父は、焼きそばを作ったことがおそらくない。自分作ったことないにどうして非難するのだろう。女だから、嫁だから、作って当然という考えがあるように思えてしまう。

もし、作れたとしても、家族が自分のために作った料理を悪口の材料にするのはひどいんじゃないだろうか。年齢を重ねて、当時のおばさんと同じ年になって、やっとこの違和感の正体を言葉にできるようになった。

こんな風に書くと、おばさんの義父は嫌な奴に読み取られてしまいそうだけど、わたしにとっては全然そんなことはない。沢山、良い思い出がある大好きなおじいさんだった。わたしにとっては嫌なところなんてなかった。だけど、わたしにとっての嫌なところがない人が、違う人にとっては嫌な奴になる場合もある――座間9人殺害事件のルポタージュ「冷酷」の巻末に書かれた映画監督森達也による解説で、そんなことを思い知らされた。家族思いの夫、父親が、一方では、ユダヤ人を殺していた。規模は小さくても、似たことはよく起きている。

 

◆冷酷な白石隆浩が反省した罪

昔、ツイッターかなにかで、凶悪犯で甘やかされて育った人はいない、と書かれていた。そんなことはないだろう。どんな人間でも犯罪に落ちる可能性は秘めている。「冷酷」では、座間9人殺害事件の犯人、白石隆浩の母親が、白石のことを、どれだけ思い、心配ししていたかを書いた手紙を紹介している。裁判中、一切感情の動きを見せなかった白石だったが、この手紙が読み上げられた際は、落ち着きをなくしている。著者との面会では、被害者への贖罪を語らぬ一方で、自分の家族には迷惑をかけられないと話してもいる。この本に書かれた情報を信じるならば、彼は母親に愛されていた。けれども、罪を犯した。育て方で蛮行を止めることはできない。

ただ……甘やかされる――わたしは愛されると言い換えよう、愛された経験が、人を傷つける抑止として機能することもある。わたしはそう思っている。白石は、裁判中、殺した被害者への思いはあるかと問われても何人かに対しては、「思うところはない」と答えている。殺してさらに、遺族の心をまでも貶めていく。ただ、その中で、お子さんのいる20代の女性Eさんに関しては「申し訳なかった」と言う。

白石「出会って短時間で殺害してしまっているので、申し訳ありませんでした。お子さんがいらっしゃる方でしょうか?」

検察官「はい。当時六歳の娘さんがいた二十六歳の人です」

白石「お子さんのこれからを思うと、正直、申し訳ないことをしたと思ってます」

検察官「夫や母親が証言しています」

白石「お子さんのお母さんを奪ってしまったことについて、申し訳なく思っています」

お母さんを奪ってしまって申し訳ない。この言葉は白石自身が母親に愛された記憶があるから、出てきた言葉だと私は思う。自身の愛された記憶があるから、被害者やその子どもに申し訳なく思うことができた。白石は、犯行時に、Eさんに子どもがいることを知っていたか、書かれていない。もし知っていたとしても、Eさんが子どもに対して抱いていた愛情や、子どもがEさんに感じた愛着までは思いめぐらすことができていなかっただろう。その関係性まで垣間見ることができていたとして、それでも、母親を奪う罪を犯していただろうか。

 

◆可哀想な大嫌いな人

大嫌いな親戚のおばさんの話に戻ろう。わたしは彼女に一生会いたくないぐらい嫌いだ。嫌いだけど、環境や周りの人に恵まれない、可哀想な部分があったのだろうと今になって思っている。わたしのことを可愛がっていた人たちは、わたしに向ける愛着を、めんどうな彼女には向けなかった。

もしも、ボロボロの焼きそばでも「美味しい」と笑って食べてくれる家族だったら、料理なんかできなくても、こんな良いところがあると気が付いてくれる家族だったら……ヒステリックな怒りを周囲にぶつけ、「面倒くさい人」と言われるようにまではならなかったのかもしれない。白石が母親を奪って申し訳ないと語ったように、自分の行為を自省したかもしれない。それなら、きっと、わたしの子ども時代は、もっと幸せなものになっていただろうに。