オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

無関心でいることで保たれる平穏

「わたし、そういう人に意地悪なこと言っちゃいそうですね」

「意地悪なことってなんですか?」

「周りの人が嫌がってないか、とか」

「その位ならいいんじゃないですか」

 

本当はもっと、陰湿な言葉が浮かんだけれど、伏せておいた。こんなことを言ったら、多分、わたしへの評価が下がるだろうから。この会話をしたのは、喫茶店で友人と話しているときだった。最近、あったことを報告しあっていた。彼は、久しぶりに会った知人を話題した。その人は、結婚しながらも、伴侶以外の異性と性的関係がある。性行為をお互いに容認するという内容の婚前契約書も作ったようだ。

わたしはそれを聞き、うっすらとした嫌悪感を、会ったこともない、友人の知人に抱いた。別にお互いの合意のもとなら、夫婦が伴侶以外の人間とセックスしてもいいはずだ。それは、そうだと思う。

だけど、いいと分かっていても、嫌悪感を抱いてしまう。まず、お互い、それはどこまで本心なのだろう。恋愛や婚姻関係であれば、まったく力関係のない関係ばかりではない。離れないために、相手の言うことを従ってしまう場合だってある。それでも、お互いの合意だから許されてしまうのだろうか。

もし、するにしたって、そうやって、第三者に言うのはどうなんだろう。相手の不貞に意見できない弱い人として他人に映ることまでも許しているのだろうか。せめて、「伏せた方が良いこと」「分からないようにすること」として、公には隠していた方がいいのではないか。

そうやって一方的に思うのは、自分に置き換えたときに嫌だからだ。パートナーから、不特定多数の異性とセックスしたいと言われたら嫌だ。相手への好意が大きければ、それを認めるか、否かで、悩むだろうし、仕方なしに認めて、辛くなるかもしれない。自分に置き換えて想像を巡らし、話の中だけの存在を、一方的に、身勝手な人だなと思ってしまった。自分の持ち合わせている倫理観に置き換え考えると、その人は倫理を逸脱している。伝え聞いたその人に「おかしいですよ、それ」とも言いたくなった。会ったこともないのに。

 

◆「おかしい」側の気持ち

だけど、だからといって「おかしいよ」と言われる側の気持ちが分からないわけでもない。わたしは割と、廃墟を見るのが好きだ。日常の一部だったものが、荒廃し、朽ちていく景色に、惹かれてしまう。随分前に実家の車でドライブしていたとき、近所のショッピングモールが閉店し、その後テナントが入らないという話をしていた。「嫌よね」という母に、「ミステリアスでいいじゃん」となんてことなく返すと、母はあからさまな嫌悪感を示し「なに言っているの、おかしいよ」と言った。後になっても、「世間を知らないからそんなこと言って」と蒸し返される。防犯の面でよくないことは分かるが、私は、自分が過ごした一部が、荒廃していく姿を想像して、ちょっと見てみたいな、と思ってしまっていた。それは道徳的なことではないけれど、想像するくらい、考えるくらい認めてほしかった。

反対意見であっても、悪い人が屯するかもしれないとか、ケンカの場所に使われるかもとか、そんなデメリットを説明する言葉であってほしかった。「おかしい」「世間知らず」という言葉に、漠然と、わたしの価値観とか、美意識とか、そんなものまで扱き下ろされたような気がして、ゴワゴワっとした思いを抱いた。廃墟を美しいと思うことが、彼女の倫理感に反していたのかもしれない。

 

◆理解されることの放棄

賛否の別れる価値観、好み、そんなものを持ったとき……理解への期待を放棄する選択もあるのではないか。多様性への理解という言葉が取り立たされる。だけど、わたしは、自分の倫理観に反する価値観を、認めることはできても、理解することはできないと思っている。存在してもいいよ、そういう人もいるよね、わたしは違うけど。そう言えたとしても、やっぱりごわっとした違和感を取り除くことはできない。心の底では「ちょっとおかしいよね」と思ってしまっている。その「ちょっとおかしいよね」を表に出さないために、無関心と距離感が大切だと思う。わたしは「伴侶以外とのセックスを認めた婚前契約書を持ち歩く人」とは仲良くならない方が良いし、廃墟に惹かれることを「世間知らず」と言う母には、自分の好みを語らない方が良い。「おかしいよ」と口に出さないための距離がきっと必要なのだと思う。