オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

最終学歴が変わらなかったとしても、中学受験したかった

ちょっと前、友達とのお喋りで、わたしの著作の話になった。
「母校に置いてもらえないんですかねー、高校の図書室に、卒業生の著書のコーナーあったじゃないですか」と彼は言う。「タイトルにオナホって入っているから無理ですよー」って笑って済ませた。
ただ、わたしは、「卒業生の著作コーナー」が学校の図書室にあることが結構ショックだった。卒業生が本を書くのが頻繁にあるってことですよね?それすごくないですか?わたしの卒業した高校のwikipediaを見たら、卒業生に作家やジャーナリストは一人もいなかった。直木賞候補になったある作家が卒業生では?と地元で噂されているけれど、本人は公表してない。直木賞候補が母校だと公表したくない学校みたいです。
だから、「卒業生の著書コーナー」をつくっても「オナホ売りOLの日常」が並ぶしかない。ここの学校をでても、オナホールを売る人生しかないと物語っているようだ。悲壮感が眩しい。


お喋りしていた彼は、地方都市のミッション系の中高一貫校出身で、喋るたびにカルチャーショックを受ける。音楽の授業では、和音の仕組みを学び、思春期の時期にヘルマンヘッセの「車輪の下」やサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、ミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだ。恐らく、周りも、似た文化圏で生きてきた友人たちなのだろう。「アダルト業界の人と始めて知り合いました」、と言われ、興味深くわたしの話を聞いてくれる。オナホ売っている人どころか、オナホ使っている人も周りにいないだろうな。

 

お喋りの最中、何かの会話の拍子に「学歴コンプレックス」の話になって「学歴コンプレックスありますか?」って聞かれて、「うーん、そんなないですね」って答えた。通っていた大学は悪くも良くもない、第一志望じゃなかったけれど、自分に相応のところだろうな。思い入れも、あんまりなくて、まあ、行って悪くはなかったなとか、その程度。面白い授業もあったし、東京出るきっかけになったしよかったなー、ぐらい。だから、そのときは、コンプレックスはないって言った。

だけど、大学以前の学歴、とくに中学、高校あたりの学歴に対して劣等感がわたしはあるな、と後々思った。わたしも中学受験して、「卒業生の著書コーナー」のある学校に行きたかった。


10代後半以降の人生――大学進学とか、就職とか、それはある程度は自分でコントロールできる。学費だったり、上京費用だったり、親族に頼らざる負えない部分もあるけれど、周りを説得する話力も、資金をどうにか調達する情報収集の力も、その年齢なら得ることができる。けれど、それ以前の、幼少期の環境は自分ではどうすることもできない。通っている学校を変えることも、文化圏を変えることもできない。

わたしの周りには、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」や「モモ」が面白いと教えてくれる友人はいなかった。先生を殴って警察呼ばれる人もいたし、放課後に学校でセックスしている人もいた。生まれ育った家庭に幼少期の読み聞かせなんて文化はなくて、本を読むようになったのは、小学校高学年になってからだ。勉強して、東京の大学に進学して、なんとか、ちょっとマシな場所にいったけれど、もっと早く、心地のいい場所に行きたかった。

 

勉強して、東大や京大や一橋大学など偏差値の高い大学を出た人でも、好きになれないなって思う人もいる。物を知らない人を下に見たり、お金を稼げない人を馬鹿にしたり、自分と違う生き方をした人をあざ笑ったり、話していて嫌な気持ちになる。

そういった冷笑する人で、思春期の思い出を楽しく語る人は少なかった。そして、わたしと似た環境だった人も多い。地方出身で、地元の公立の中学、高校を出ている。きっと、同級生に混じらないように真面目に頑張ったのだと思う。努力の結果、偏差値の高い言われる大学に行って、同級生のような人たちをバカにする。オナホ売っているわたしも、そういった、卑下する対象に含まれるのだろうなと思って、そういった人にはあまり近づかないようになった。

 

同じように、偏差値の高い大学に行っても、そうならない人もいる。そういった人たちからは、幼少期の楽しそうな思い出が垣間見える。小さい時から本を読み、音楽を楽しみ、友達もたくさんいて、そのうえで勉強もできる。素行の悪い同級生を視界の端にとらえ、「あいつ等とは違う」と思いながら、教科書に向かわなくてすんだ人たち。汚い感情を抱かずにすんだ人たち。「卒業生の著書コーナー」のある学校に通っていた彼もそうだろう。だから、「アダルト業界の人と初めて知り合いました」と含みなくフラットに言える。


だけど、ここまで書いてきて、どこまで頑張っても格差は消えないんだなって思って悲しくなってきちゃったよね。悪い環境に置かれて、そこから抜け出すために、勉強してきた人たちは、どんなに良い大学にいけても、「嫌な奴だな」って思って嫌煙されてしまう。わたしがそうするように、付き合わないようにしようと思われる。だけど、これはきっと、彼らが、努力した裏返しでもある。成績を上げて大学に入るための負荷が大きかったし、10代の時間を勉強だけに突っ込んできた。ヘルマンヘッセやサリンジャーも受験勉強以外の目的では読まなかったかもしれない。そんな時間的余裕はなかった。そして、その余裕のなさが、人を遠ざけてしまう。

 

一方で、理解ある人々に囲まれた人は、いい大学でていても、人柄もよく支持される。
でも、それって、すごく恵まれた環境にいる、昔の言葉を使えば、ブルジョアな人なんだよな。

あいつ等とは違うと思わないで済んだ彼らが、わたしはちょっと羨ましい。ずるいと思ってしまうときもある。けれど、小説「モモ」で、素直に、楽しそうに、人の話を聞いてくれるモモの元にみんなが集うように、少しの劣等感を抱えながらも、フラットに耳を傾けてくれる人の元に人々は集う。モモのような人のところに、みんな行ってしまうんだ。
モモと喋る人々がそうであるように、素直に育った人たちと話すのは楽しいから。
どんなに努力しても、育った環境から逃げられないってことか。

 

 

<紹介した本たち>

モモは大人になってから読んでもいい本でした。思春期に読めなかった方もぜひ。
「成功してお金を稼げれば、友情も愛情も手に入る」。時間泥棒の灰色の男たちは、モモにそう言い丸め込もうとする。そんなことない、と明言できる大人になりたかったな。

 

卒業生の著作コーナーには置けないであろうわたしも本も読んでください。レビューに子供の目に届くところに置くなと嫁に怒られました、と書かれていました。

 

最強の綿パンはサルートに勝てない

一緒に着替えているとき、「こんな綿パンみたいなのわたし着れないよ」と彼女は言った。

そのサルート(もどき)がそんなに偉いか。

 

そして、こんな綿パンと言われたが、厳密に言うと綿ではない。ポリエステルだ。クシャクシャしたポリエステルの一枚布の下着だ。総レースで刺繍してないと、全て綿パンか認定か、おかしいだろ、この女。新宿小田急で、上下13000円くらいした下着だ。

そもそも、一緒の場で着替えているからって、人の下着盗み見てとやかく言うな。ダセエ下着を着た女は、盗み見て、文句言っていいって思っているのか、クソが。

雑誌で見て、ほしくなって小田急にわざわざ行って買った下着だった。あたかもダセエ下着みたいに扱われたのがムカついた。お前の履いているサルートもどきより高けえよ、きっと。

ただ、そこは小心者のわたくしなので、ああ、そうかな、えへへと、ちいかわのごとくヘコヘコ笑うしかなかった。美意識高く生きて、サルートもどきのTバック履くのがそんな偉いかと殴りたかったが、わたしはそのとき、まだ、ボクシングをやってなかったし、範馬勇次郎風の体系でもない。左フックも、右ストレートも存在すら知らない。ちいかわになるしかない。美意識高く生きることが、彼女にとっての正義だったのかもしれない。だがな、お前にとっての正義であっても、わたしに押し付けるな、人の好きな物に対してとやかく言うな、うんこ、とちいかわの笑顔で思っていた。


さて、そんな、サルートっぽい下着をつけた女性にバカにされてから、7、8年経った。
今、わたしは、綿パンみたいとバカにされた上下13000円の下着は残念ながらつけてない。お金持ちではないので、下着まで、お金が回らなくなった。

下着に回していたお金はボクシングジムの月謝に突っ込み、週3でボクシングジムに行っている。練習中は、スポーツブラ一択になった。まるで中学生だ。

サルートはおろか、サルートもどきですらない。美意識を一切無視した商品を着ている最中、ふと、オシャレな欲がでてこれでいいのかと思う。そして、7年前の記憶がよぎる。綿パンなんて履けない女に、スポーツブラを着ていると言ったら、「わたし着れないー」と謙遜を装いつつ、美意識の権化みたいな言葉を羅列させ、ダセえを意味する空気を醸し出すことだろう。バカにしろよ勝手に。俺は、もう左フックも前蹴りもできる。

それでも、記憶にこびりついた綿パン履けねえ女を圧倒するために、すげえお洒落だけど、ダセえ下着を欲しくなった。俺のダセえこだわりと、おしゃれが両立したなにか。

 

そして見つけた。カルバンクラインのスポーツブラ。

スポーツブラなのに、7000円以上する。たけえ。パンツも4000円近くする。正真正銘の綿パンで4000円だった。上下合わせると、1万2000円もする。小田急で買った下着ぐらいたけえ。これで、サルートに勝てる。これならサルート以上だ。

そう思ったが、


サルートはブラだけで、13000円だった。

最強の綿パンはサルートには勝てない。

ストリップという世界

エッセイストでストリッパーの新井見枝香さんのnoteで、「新井モーニング」なるイベントの案内を見かけました。

note.com

 

ストリップに行ってみたいけれど勇気が出ない。

ストリップに興味はあるけれどルールがよくわからない。

ストリップに行くのは久々でちょっと不安だ。

 

そんなあなたに、新井モーニングのご提案です。

上野の純喫茶で朝食を食べながら、システムやルールのご説明、

可能な限りご質問にもお答えし、その後、劇場に向かいます。

 

朝10時に喫茶店に集合。コーヒーを飲みながら、新井さんにストリップの説明を受ける企画です。

ストリップ劇場に行ったのは、7年前、上原亜衣ちゃん公演に浅草ロック座に行っただけ。それも、会社の人と一緒だったからただついていっただけでした(新井さんには、初めてですと言ってしまいました。すいません)

 

ロック座に一度行ったから、なんとなくのイメージはあったけれど、それでも、後ろの席で、観ていただけなので、そこまで覚えてない。

一度ちゃんと見てみたいなって思っていたときに、新井見枝香さんが、ストリップデビューしたと聞き、見に行きたいと思い、企画に参加しました。参加してよかったし、ストリップとても楽しめた。

 

◆女性一人でも全然OK、だがとても狭い

ストリップのイメージって、あまりよくなかった。まな板ショーがあるんじゃないかとか、酔っ払いばかりなんじゃないか、とか、怖いイメージがもともとはありました。浅草ロック座に行ったので、そこまで無秩序な場所ではないとは知っていましたが、それでも、なんとなく一人で行くのは怖そうって思っていました。

行ってみたら、一人で、全然大丈夫で、早い時間だったせいが酔っ払っている人もおらず、みなさん静かに、鑑賞されていました。きれいな女性の身体を見るという目的の場所だと分かりました。

 

今回行ったのは、池袋のミカドというストリップ劇場でした。浅草ロック座が大きな劇場だったので、池袋のミカドに入って、最初に思ったのは、思ったより狭いなということ。入って前方にはステージ、その真ん中に、デベソのようなでっぱりがあります。デベソの両脇に、病院の待合室にあるような三人掛けの長椅子が、4脚ずつ左右に配置され、後方には立ち見用の柵。椅子が8脚しかないので、もちろん座れない人もいて、平日でも後ろで立ち見している方もいました。土日はもっと混雑するようなので、早めに行って席を確保するのが、いいみたいですね。

 

◆踊り子さんたちは年功序列社会

ストリップ劇場は、系列店舗があって、ロック座の系列、TS(もともと新宿にあったTSミュージック)の系列など系列があり、デビューした系列の劇場にしか、基本は出演できないという決まりがあります。新井さんもいつか浅草ロック座に出演するのかな~と、わたしは思っていたのですが、それは難しいらしいです。

そして、これはAV業界にはないルールですが、踊り子さんは先輩後輩の関係が厳しい。デビューが先の人を敬う文化があるようです。差し入れも、デビューが早い人から食べる。体育会系の文化。

そして、若いから売れるというわけでもないようです。AVの場合、デビュー作が一番売れて、その後、売れなくなっていくことが多いですが、ストリップは、デビュー10年、15年の踊り子さんが、新人より売れているなんてこともある。

売れっ子ストリッパーは、ファンがついて、長く活躍している人が多いようです。入れ替わりが少なく、キャリアが長いほうがいいというのは、AVの世界にいるわたしは新鮮でした。

 

◆セックス不在の裸体の美しさ

これはわたしがAVの世界にいるからかもしれませんが、セックスはなく、ただただ女の人の裸を見るというのは、不思議でした。AVの世界にいると、仕事で脱ぐというのは、セックスするために裸になるという認識になってしまいます。しかし、ストリップはそうではない。美しい裸を見せて終わる。

美しい裸を見せる目的で脱いでいるから、踊り子さんはすべて、均一の美しい基準を保っています。AVならば、剛毛でも、ちょっとぽっちゃりしていてもそれがセールスポイントになります。しかし、ストリップでは、そういった人はいません。ショーのためという側面もあるとは思います。毛が多いと身体が見えにくいし、太っていると筋肉のしなやかな動きが見えない。だけど、彼女たちの裸体が与えるのは、そういった実利だけでなく、美という感情的な側面もあります。保守的な「美しさ」の基準を厳格に守った身体は、見惚れてしまうくらい美しい。

劇場には、女性のお客さんもいました。性的な興奮ではなくて、美しい身体をみたいという欲求を持ち、ここに来る人がいるとことは、わたしも理解できました。

 

◆好きな人だけが楽しむ秘められた世界

ストリップでは、スマホでの撮影が一切禁止。ショーの最中は、スマホを取り出すこともマナー違反です。

写真を撮りたい方は、1枚500円でポラロイドの撮影をします。踊り子さんが持参したデジカメで撮影し、後で印刷し、お客さんに渡されます。その際も踊り子さんのカメラ以外では撮影禁止です。

ポラロイドも踊り子さんの許可がなければ、ネットにアップしてはダメみたいです。そこまで厳格に外にもれないようにしているのは、ストリップがグレーな世界だから。公然わいせつに問われることもあります。一昨年には上野の劇場に警察が入り、営業停止になりました。

motion-gallery.net

 

グレーな世界だから、みんなで公に出しすぎず、守っていこうという雰囲気があるようです。

わたしはこの、公にせず、好きな人だけで楽しめるように守っていこうという姿勢がちょっと羨ましかった。AVの世界は、「性をオープンにしよう」「クリーンだとアピールしよう」と進み、公にでてバッシングされた。

賛否のある世界だから、好きな人だけが楽しめるようにファンたちも含め、整えていこうとする姿勢は羨ましい。そのせいで、一言さんが入りにくいという欠点はあるのだろうけど、それを克服しようと、「新井モーニング」という企画を新井さんが企画し、この世界に触れることができてとてもよかったなと思う。

 

新井さんからOKが出たので、ポラロイドをアップします。ストラップと周年記念ボールペンももらいました。写真は載せてないですが、ショーの最後、新井さんの着用済みパンツも貰いました。

またストリップに行きたいな。パンツ大切にする。

 

裸になる誘惑に抗う

「女の人のおっぱいをいつもシュレッターにかけています。どうして自分がかけられる側じゃないか考えています」

 

映画「グッドバイ、バッドマガジン」の劇中、主人公のエロ本編集者、詩織は、仕事で扱う女の裸が、どうして自分のものではないのかと、自問する。そして、なぜ人はセックスするのかを考える。

www.gbbm-movie.com

 

劇中、詩織に「なんで人はセックスするのか分からない」と打ち明けられた、元AV女優でライターのハルは、答える。「分からないのは、詩織ちゃんが服を着ているからじゃない」

セックスをする理由が分からないのは、自分自身が、服を脱がないからだ。服を脱げば、裸になれば、分かることがある、見える世界がある。そういった、「脱いだら分かる」「脱いだ方が良い」「脱いだ方が偉い」というイデオロギーが裸を売る世界にはある。

 

◆裸になる側とならない側の間にある壁

2015年から、エロを仕事にしている。もう7年も経った。7年この世界にいて、脱ぐ側とそうでない側には大きな壁があると、わたしは感じている。そういった隔たりを感じているのは、脱がない側にいる私だけではない。AV男優の森林原人さんは著書「セックス幸福論」で語っている。

 

セックスを人前でしてしまうという価値観は、どの時代、いかなるコミュニティでも常識外れです。AV業界内ですら、出演者というのはどこかしら特別視されていて、パンツを脱ぐ人と脱がない人の間には一線が引かれています。裸産業ということで一緒くたにされているAVと風俗ですが、厳密なことを言えば、セックスを見せてお金をもらう出演者と、セックスをサービスとして提供しお金をもらうサービス業ではセックスの意味合いも違います。しかし、傍から見れば、どちらもセックスを通してお金を得ているわけで、どちらも身体を売っていると言われてしまう行為です。自分の子供が、その体を不特定多数の人間に提供したり裸を晒す仕事に就くことを喜ぶ親はなかなかいないでしょう。体を売るということは、その体を粗末にしているようだし、できる限り大切にしてほしいと思うのが親として当たり前です。

 

セックスを人前でするという価値観は常識外れである、そして、親であれば、それをして欲しくないと思うのは当たり前。実際に、人前で裸になり、セックスをするAV男優であっても、そう考えている。一般の倫理感では「やってはいけない」とされる行為。人々がやりたがらない行為。だからこそ、「裸になれば偉い」「裸になれば見えるものがある」と言われる。それはそれ相応のリスクや負担があるという側面でもある。

 

森林さんのように、相応のリスクを理解し、分かった上で裸になるのであれば、素晴らしいと思う。しかし、そうではない人も中にはいる。ここ数年AVを出演した演者が作品の販売を辞めるように依頼する「取り下げ請求」ができるようになった。元々は、AV出演強要問題の被害者になった方を救済する目的であったが、取り下げを求める人は、それ以外にもいる。自分の意思で出演したが、5年、10年後、AVに出たことが人生の足かせになり、出演作の販売を停止するように依頼する。自らの意思で裸になったことを、後悔する人もいる。

 

◆本当に後悔しないのだろうか

「あの人、男優もはじめたんですか?」

わたしは思わず、聞き返した。何度か会ったアダルト動画の関係者の知人が、男優業も始めた人づてに聞いた。わたしは少しショックだった。彼に特別な感情があったわけではない。そこまで親しい側ではなかった。ただ脱がない側で戦う人だと思っていた。

出演強要など、AV業界の問題が露呈したこともあり、女性がAVに出て、セックスをすることに対してのマイナスイメージは強くなっている。悪く思われている分、出演を決める際に、本当にやっていいのかと、考える時間ができる。AV女優になる際のストッパーは強くなる。一方で、AV女優として以外の手段で裸になる際のストッパーは少ない。

AV男優の場合、制作者が男優も兼任していることもある。制作費はどんどん削られ、利益は少なくなる。その中で削れる費用としての男優ギャラを選び、自ら裸になることもある。

AV以外でも、裸になる人たちはいる。同人AVと言われるジャンルで、セックス動画をネット上で販売しているカップルが話題になっていた。彼らはどこまで「裸になるリスク」を認識しているのであろうか。5年後、10年後、後悔しないと言い切れるのだろうか。AVの取り下げ請求ができるようになった今でも、違法にアップロードした動画など消えない映像はある。一度、公に晒した裸体を全て消すことなどできない。それでも、裸を晒す仕事をしたいのか。

 

「脱いだら分かる」という考えの背景には、森林さんの言うように「常識外れ」とされて、他の人がやらないからという側面がある。他の人がやらないからこそ、普通の、一般の人が見えない世界が見える。だけど、そのメリットの反面、リスクや負荷も大きい。それでも裸になりたいか、ということを問い、裸になったときに得られるメリット、裸になる誘惑と、天秤にかけなくてはならない。

ブレイキングダウンはなぜ格闘家に受け入れられないのか

「いいですね、殺気出てますね」

ボクシングジムのレッスン。ミットを打つ練習の最中、インストラクターに笑われた。

アラームが鳴り、2分間のミットインターバルが終わる。それぞれが、ミットと、グローブを下す。それを見ると、現役のプロキックボクサーとしても活動している彼はこう言った。

「試合のとき、殺気でていると強くなぐるぞって警戒されちゃうんですよね。

警戒されてないうちに殴れば向こうに効果あるんですよ」

殺気を出さず、感情を出さず、相手が消耗し、自分が消耗しない、最短ルートで勝てる攻撃をするのがボクシングのようだ。

ボクシングを習い始める前、格闘技と暴力は同義のように思っていた。やみくもに強い攻撃を当て合って、相手をボコボコにする競技だ、と。だけど、実際に習ううちにそうでもないと気が付いていった。テクニックを使い、自分がダウンせずに試合が終わるよう、慎重に、熟考して振舞う競技だった。

 

◆既存の格闘技を壊す「ブレイキングダウン」

「ブレイキングダウン出たらいいじゃないですか!」

ボクシングを習い始めたと、友達に言うと、「ブレイキングダウン」という競技の話を出した。彼は「ブレイキングダウン」の試合動画やオーディション動画が面白いと話す。

「ブレイキングダウン」をプロデュースする「レディオブック株式会社」のサイトには、以下のような文面がある。

 

「Breaking Down」は、格闘技や格闘家のありきたりなイメージを

『壊し続ける』という意味が込められています。

成り上がりを狙うアマチュア選手と

「1分1ラウンド」の超短期決戦の掛け算。

瞬き厳禁の誰も予想できない展開から、

一夜にして第2の「朝倉未来」が生まれる可能性を秘めます。

radiobook.co.jp

 

また、ブレイキングダウンの公式サイトでは以下の様に説明している。

『BreakingDown』は、ボクシング、空手、空道、柔道、日本拳法、相撲、システマなど、様々なバックボーンをもった格闘家が出場し、「1分1ラウンド」で最強を決める新しい総合格闘技エンターテインメントです。

格闘技や格闘家のありきたりなイメージを“壊し続ける”という意味をこめた『BreakingDown』の大会名のとおり、成り上がりを狙う選手が1分間という超短期決戦に全力をかけて戦う、誰も予想できない展開が魅力です。

breakingdown.jp

 

出場者の募集要項を見ると年齢、性別だけでなく、格闘技の経験すら不問で、「アマチュア選手」が出場する格闘技トーナメントと言えるのだろう。

prtimes.jp

格闘技経験のない友人すら夢中にさせる「ブレイキングダウン」だが、プロの格闘家からは批判的な意見もある。

武尊はブレイキングダウンという名前は出さなかったが、否定的なコメントをSNSで行っている。

www.sponichi.co.jp

武尊は「子供達が見る影響を考えて欲しい。 何も分からない子供達からしたらあれも格闘技だと思ってしまうし それがメディアで放送されることで正しいものだと感じる」

それに対して、格闘家の平本蓮は、ブレイキングダウンの名前をだして批判する。

このツイートを引用した平本は「6月に武尊さんと天心のあんな素晴らしい試合があったのにブレイキングダウンが格闘技として一般層が認識してしまうのは正直納得いきません」とつづり始め、「ブレイキングダウンはいつか必ず重傷者や死者が出る危険な企画だと思います。大会ではなく企画。あんな危険なただの人の喧嘩は今すぐ終わらせるべきだと思います」とブレイキングダウンを批判した。

ブレイキングダウンに限らず、世界各地で「格闘バラエティ」というジャンルが台頭している。オランダのキックボクサーのアーネスト・ホーストは、素人も出場する格闘バラエティに対して、インタビューで答えている。

「ほとんどストリートファイトですからね(笑)。条件がよければ考えるけど、私はスポーツとして認知されるキックボクシングを実践するアスリートだった。そんな自分から見ると、あれはスポーツではない。個人的には好きではないですね」

number.bunshun.jp

 

訓練を受けてないアマチュアたちを選手として受け入れ、試合をさせる。もちろん、試合までの間に訓練は積むとは思うが、それでも、アマチュアから試合を重ね、試験や試合結果によって、プロになった人たちとは訓練の量が違う。技術の未熟なアマチュアたちを格闘技という舞台に立たせ、エンターテイメントとして試合を見せることへの批判はある。

 

◆格闘技は単なる「殴り合い」なのか?

ボクシングを始める前のわたしもそうだったが、「格闘技=暴力」だと思われている。殴り合って、相手を暴力でボコボコにすると思われる。だが、これは全く違う。

ボクシングが野蛮な殴り合いではなく、自分が勝つために体系立てられた技術を学ぶ「甘美な科学」であることを、証明したのがシカゴ大学社会学者ロイック・ヴァカンの書いた「ボディ&ソウル ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー」だ。

www.shin-yo-sha.co.jp

社会学者である著者は、シカゴのスラム街の中にあるボクシングジムに通い、ボクサーとして、ボクシングの技術を学び、その中での、公になっていない、ボクサーだけのわかる「甘美な科学」と言われるボクシング独自のルールを学んでいく。

ボクシングには、ボクシングをする人間だけが分かるルールが多数ある。たとえば、スパーリング。スパーリングとは、選手同士が実際に殴り合う、実戦形式の練習のことを言う。試合形式だが、全力で挑んではいけない。ときには、相手に合わせて力を弱めることを求められる。

 

スパーリング・セッションにおいては、暴力のレベルは挑戦と応答の弁証法にしたがってあがったり下がったり変動する。(中略)

リングのなかの暴力レベルを暗黙のうちに統制する互換性の原則は、強いボクサーが自分の優越性を利用してはならないと規定するのみならず、弱い方のボクサーがパートナーの意思による自己抑制を不当に利用してはならないと規定してもいる。それは、私がアシャンテとの激しいスパーリング・セッションの終わりに発見したことだ。一九八九年六月二九日、私は、アシャンテがディーディー(ボクシングトレーナー)に私が強く打ちすぎるために彼が顔面に強い打撃を打ち返して応えるほかないと文句を言ったことを知って呆然とする。

「アシャンテのやつは俺に、お前が強く打ちすぎるから、お前と楽しんでスパーリングできないと言った。お前はもう十分に進歩したんだから、やつはお前のパンチがあたらないように注意しなきゃならねえ。さもなきゃ、お前はあいつにケガをさせちまう。クリーンヒットを当てりゃ、ノックダウンできるだろう。やつは文句を言っていたさ、お前が後ろに下がらないし、パンチを打ち続けるし、やつがロープに追いつめられているときも強いパンチを打ち続けるってな。お前はやつを右で釘付けにしただろう、もうひとつパンチでフォローアップしてたら、やつをマットに沈めただろうよ。あのな、お前が練習を始めた頃は、やつはなんの心配もなくお前と遊ぶことができたけど、今じゃお前が強くなったから、やつは注意しなけりゃならねえんだ」。私はとても驚き、アシャンテが実際に私について言ったことを確かめるために、彼に言ったことをもう一度繰り返させた。

「そうだ、俺はやつに、お前にパンチを抑えるように言ってくれって頼まれた……お前はどうやってパンチを打つか、今じゃよく知っている。だから、やつは時々きついのでお前を痛めつけなけりゃならねえんだ。やつはお前にケガをさせたいわけじゃじゃねえ、ただ、お前にパンチを抑えてもらいてえってことを本気で言おうとしているだけなんだ。お前がもうちょっと自分をコントロールできるようにするために、こっちだってお返しをしなけりゃならねえってことをな」

ボクシングという殴り合いを、できる限り安全に、極力ケガや傷を少なく、終わらせるための、公になっていないルールだ。ボクシングは人間同士が殴り合う競技だ。だから、ボクサーの多くは試合で、相手をボコボコにしたい、殴り殺したいと思っているだろうか? 全く違う。著者が、仲間のボクサーに、対戦相手がノックアウトしたときの気分を問うと、以下のような答えが返ってくる。

 

■「対戦相手がノックアウトするのを見るのはどんな気分ですか?」

スミシ― やったぞって感じだね。ああ、相手をノックダウンさせるとね。成し遂げたって感覚で――でも、もちろん[彼の陽気な声が暗くなる]誰かをノックアウトするのが良い気分だとは言えないさ。だけど、対戦相手を倒すのはいい気分だよ、わかるかい? 一人の男をぶっ倒すことで良かったって感じるのは、ただ自分が倒されたのが自分じゃなかったってことさ。自分から入ったリングの上で風を切り抜けたってことさ。

 

トニー 相手がダウンしていくのを見て俺が感じることは、心の中で「相手がダウンしている」って考えながらダウンするのを見てるってことさ。俺はやつが大丈夫なことを願うさ。それでボクサーを離れさせ、相手が起き上がることをね。俺は言うんだ、[ほっとしたように息をして]「ヘイ、このボクサーは大丈夫だぜ、俺は彼に怪我させてない」ってね。そうすると俺はほっと自分が楽になるんだ、相手を実際にダメージをあたえてまでして成し遂げたんだって感じなくていいからね。

 

カーティス 自分自身に言い聞かせることは、この男は大丈夫かってことさ、俺の言っていることがわかるか? 誰も怪我させたくねえんだよ、だけど試合には勝ちたいだろ、できるだけ相手を傷つけないやり方でね。判定で決められるのは嫌だろ、だってジャッジたちは選手への好き嫌いを入れちまうからな、俺の言っていることがわかるか?

ボクシングという競技で、怪我が皆無ということはあり得ない。皆無にはならないが、お互いできるだけ、怪我なく、力を出し切れるのが最善だというのが、選手の共通認識だ。

 

◆「ブレイキングダウン」が嫌悪を向け合う暴力の受け皿になってはいけない

格闘技は野蛮な殴り合いではなく、ルール化され厳粛に統制された暴力だ。統制するために、プレイヤーには厳しい訓練が必要だ。「ボディ&ソウル ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー」の著者はそれを「宗教のようだ」とも呼んでいる。教祖をあがめ経典を守るように、練習に挑み、食事や性交など私生活のルールを決めて、節制した生活を行う。

一方で、「ブレイキングダウン」では、試合前のオーディション最中ですらケガ人がでているという。

toyokeizai.net

技術、テクニックを見せるためのエンターテイメントではなく、相手への嫌悪をあてつける格闘技をエンターテイメントにしてしまう心配は「甘美な科学」を学んだ多くの者が感じることなのだろう。大きな怪我や事故が起きないこと、格闘技が嫌悪の受け皿にならないことを願う。

2022年 読んで良かった小説

年末年始、2022年に買ってよかったものというテーマで、紹介しているブログが結構あった。わたしもやりたいと思いつつも、良かったもの●選と大々的に紹介できるものもなく。あえて言うならば、耳掃除用のオイルはよかった。

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メンソール風の清涼感で、ベタつく耳垢がすっきりします。一度オイルをつけて耳に入れた後、乾燥した綿棒でもう一度掃除するのがおすすめ。

耳垢掃除のオイルではなくて、もっとかっこいいガジェット的なグッズを紹介したいけど、これといってないので、2022年読んだ小説でお勧めを紹介します。といっても、年が明けて半月以上経っているんですが。今更ですが、紹介します。

 

太陽の季節

石原慎太郎のデビュー作「太陽の季節」を含め、五話の短編を掲載した短編集。あらすじだけを追っていくと、暴力や支配、今だったら倫理的に問題になるであろう作品が多い。しかし、ここに書かれている登場人物の感情は、偏ったフィクションではなく、ともすれば、若者が持ってしまう恐れがある感情だと私は思う。無邪気な子供の中で残忍ないじめが起きるように、理性を備えてない若者は、ときに衝動を抑えずに人を傷つける。

この小説を読んで、残忍な犯罪を描いていることに対して嫌悪感を感じ、表現として許せない人もいるだろう。そう言った意見があるのも分かるのだけど、許せないといくら言っても、暴力を振るいたい欲求、支配したい欲求を持ってしまう人間は必ずいる。そして、その大半は、世間から許されないと言われる負の感情に苦しめられる。読みながら、著者自身も攻撃的な感情の手綱を握ってきたのではないかと思った。それくらい、破滅的な人間の再現性の高かい

現実世界で暴力は絶対、許されない。だけど、許されない欲求に蓋をして、見ないふりして終わりでは、どこかで、その感情が溢れでる瞬間がくる。ここ数年、起きている拡大自殺と言われる事件も、押さえつけられた攻撃性の暴発のようにわたしは見ている。一般社会では許されない負の感情に向き合い、フィクションの中だけでも自由に解放させる、そうして、現実ではどう折り合いをつけるか、どうやって共存していくかを探ることも、小説の役割だろう。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

◆ののはな通信

夏ごろから、読んだことない作家縛りで、図書館で本を借りはじめた。三浦しをんさんも、お名前は知っていたけど、恥ずかしながら、読んだことのない作家の一人だった。野々宮茜(のの)と、牧野はな(はな)、ふたりの女性の手紙だけで綴られる小説。同じミッション系の女子校の同級生ではあるけれど、ののとはなは全く違う性格。中流家庭に生まれ、勉強ができて真面目なののと、外交官の娘でお嬢様はな。それぞれに嫉妬し、納得できない思いをかかえながらも、二人は思いを内に秘めず伝え、ときには仲違いをし、途中途絶えながらも、手紙や電子メールのやり取りを伝える。シスターフット、女の連帯なんて言葉が流行っているけれど、見習うべきは、こんな関係性なのかもしれない。分かり合えることが難しくても、それでも伝えあえる関係。そして、仲違いしても、どちらともなく歩み寄れる関係。自分の正しさを押しつけ、相手を変えることで連帯しようという人間も多いなかで、このフラットな関係性は読んでいて居心地がよかった。三浦しおんさんは、女性の内面の描写がとてもうまくて、嫌な部分--他人を詮索したり、下に見たり、そんなところも素直に描いていて、美談だけではない女の子同士の友情を伝えているのがよかった。

 

◆青木きららのちょっとした冒険

2022年「幸せそうな女が許せなかった」と供述した傷害事件があった。電車の中で刃物を振り回し、周囲の人間を傷つけた。幸せそうな女が許せないならば、東大の合格発表で感極まる女や、オリンピック出場が決まって祝福される女を許さなければいい。そうではなくて、電車にいる、なんか可愛いっぽい、幸せっぽい女を狙うのは、圧倒的な努力や力で、現実をねじ伏せてきたような適わない女ではなく、大したことなさそうに見える女だからだろう。大したことない相手が、思い通りの人生を生きているように見えるとき、反発がおきる。藤野可織さんの短編集「青木きららのちょっとした冒険」の中のひとつ「スカートデンター」では、ある日、突然、スカートに歯が生えて、チカンの手を食いちぎるようになる。やったところで、大したことないから、チカンをする。大概はばれないし、騒がれない。だけど、スカートに腕を食いちぎられるようになったとき、世間、とくにチカンをする側の人間は、反発する。スカート排除しろと怒る。大層なことになったのだから、チカンをしなければいい、という発想にはならない。

幸せな女が許せないのならば、その女の何が許せないか、考えるべきだ。綺麗なカッコするのが許せない?かわいいって言われてそうだから?幸せで羨ましいならば、「その羨ましい」を掘り下げて、自分も近いところを目指してみたらいい。小ぎれいにして羨ましいなら、自分も見た目を整えるように努力して、容姿を褒められる、チヤホヤされるように努力したらいい。おそらく「そんな無駄なことしても……」と言うだろう。「大したことないのに幸せそう」の裏側には、「そんなことしても?」と思うような細々した手間があったりする。そしてその細々した自分へのケアを楽しそうにやっていたりする。その細々した手間をやっているのが、幸せそうな女だったりするんだ。「幸せそう」の裏側には、他人から見たら面倒くさそうな手間で溢れている。

「青木きららのちょっとした冒険」の中には、「幸せな女たち」という短編もある。結婚式に刃物をもった男が表れ、新婦を殺害する事件が連続する。犯人たちは「幸せな女が許せなかった」と言う。そんな世界で、ウェディングフォトグラファーだった青木きららがはじめたサービスが「ハッピリーエバーアフター」だ。特別な日も、最悪な日も、何でもない日も、主役になれる写真を撮る。子供と川で遊んでいるところ、ビールを飲んでいるところ、なかには、家族のDVによる傷が残っている日に撮影する人もいる。そうやって、どんな日でも自分を見つめること、自分が何をしたいか、何が幸せか考えること、そういう自分へのケアが「幸せそうな女たち」はできているのだろう。「幸せそうな女」が羨ましいのであれば、まずは幸せになれるよう、自分で自分をケアしてみるのがいいように思う。

 

三作、どれもよかったので、よかったら読んでみてください。

読んだら、感想を教えてね。

 

めんどくさくて、可哀想な人たち

第二次世界大戦終結後、強制収容所へのユダヤ人大量移送の責任者だったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンに逃亡し、リカルド・クレメントと名前を変えてドイツから呼び寄せた家族と共に生活していた。イスラエル諜報機関であるモサド工作員たちはクレメントを看視していたが、アイヒマンであるとの確証がどうしても摑めない。ところがある日、仕事帰りにクレメントは花屋に寄った。妻の好きなアスターの花を買うために。尾行していた工作員たちはその瞬間に、その男がアイヒマンであることを確信した。なぜならその日は、アイヒマン夫妻の結婚記念日だったのだ。

 子供を愛し、結婚記念日に妻に花を買う男は、同時にユダヤ人大量虐殺に手を染めていた男でもあった。

 

 

小野一光「冷酷 座間9人殺害事件」
森達也による解説

 

最近、読んだ本で、大嫌いな親戚のおばさんのことを思い出した。彼女はヒステリックで、ちょっとしたことですぐに激昂し、誰それ構わず怒鳴りつける。わたしは彼女といるとき、いつ怒り出すかドキドキしていたし、周りの大人たちが腫れ物に触るように接しているのも分かった。わたしの母はよく、そのおばさんの悪口をわたしに言っていた。悪口の中には、その通りだと思うものもあったし、そうじゃないものもあった。例えば、焼きそばの話。そのおばさんは、夫の両親と同居していた。彼女の義理の父親が、おばさんの作った焼きそばが麺が千切れボロボロだと言っていたようで、母は嫌そうな顔をして嬉しそうに「焼きそばも作れないんだよ」とわたしに言った。

当時小学生だったわたしは、一緒に悪口を言う気になれなかった。たぶん一番の理由は「わたしも作れないしな」という後ろめたさ。だけど、今思うと、それだけじゃない。「アイツは料理も作れない」という悪口を家族が外の人に言っていたら嫌だろうなと思った。

その義父は、焼きそばを作ったことがおそらくない。自分作ったことないにどうして非難するのだろう。女だから、嫁だから、作って当然という考えがあるように思えてしまう。

もし、作れたとしても、家族が自分のために作った料理を悪口の材料にするのはひどいんじゃないだろうか。年齢を重ねて、当時のおばさんと同じ年になって、やっとこの違和感の正体を言葉にできるようになった。

こんな風に書くと、おばさんの義父は嫌な奴に読み取られてしまいそうだけど、わたしにとっては全然そんなことはない。沢山、良い思い出がある大好きなおじいさんだった。わたしにとっては嫌なところなんてなかった。だけど、わたしにとっての嫌なところがない人が、違う人にとっては嫌な奴になる場合もある――座間9人殺害事件のルポタージュ「冷酷」の巻末に書かれた映画監督森達也による解説で、そんなことを思い知らされた。家族思いの夫、父親が、一方では、ユダヤ人を殺していた。規模は小さくても、似たことはよく起きている。

 

◆冷酷な白石隆浩が反省した罪

昔、ツイッターかなにかで、凶悪犯で甘やかされて育った人はいない、と書かれていた。そんなことはないだろう。どんな人間でも犯罪に落ちる可能性は秘めている。「冷酷」では、座間9人殺害事件の犯人、白石隆浩の母親が、白石のことを、どれだけ思い、心配ししていたかを書いた手紙を紹介している。裁判中、一切感情の動きを見せなかった白石だったが、この手紙が読み上げられた際は、落ち着きをなくしている。著者との面会では、被害者への贖罪を語らぬ一方で、自分の家族には迷惑をかけられないと話してもいる。この本に書かれた情報を信じるならば、彼は母親に愛されていた。けれども、罪を犯した。育て方で蛮行を止めることはできない。

ただ……甘やかされる――わたしは愛されると言い換えよう、愛された経験が、人を傷つける抑止として機能することもある。わたしはそう思っている。白石は、裁判中、殺した被害者への思いはあるかと問われても何人かに対しては、「思うところはない」と答えている。殺してさらに、遺族の心をまでも貶めていく。ただ、その中で、お子さんのいる20代の女性Eさんに関しては「申し訳なかった」と言う。

白石「出会って短時間で殺害してしまっているので、申し訳ありませんでした。お子さんがいらっしゃる方でしょうか?」

検察官「はい。当時六歳の娘さんがいた二十六歳の人です」

白石「お子さんのこれからを思うと、正直、申し訳ないことをしたと思ってます」

検察官「夫や母親が証言しています」

白石「お子さんのお母さんを奪ってしまったことについて、申し訳なく思っています」

お母さんを奪ってしまって申し訳ない。この言葉は白石自身が母親に愛された記憶があるから、出てきた言葉だと私は思う。自身の愛された記憶があるから、被害者やその子どもに申し訳なく思うことができた。白石は、犯行時に、Eさんに子どもがいることを知っていたか、書かれていない。もし知っていたとしても、Eさんが子どもに対して抱いていた愛情や、子どもがEさんに感じた愛着までは思いめぐらすことができていなかっただろう。その関係性まで垣間見ることができていたとして、それでも、母親を奪う罪を犯していただろうか。

 

◆可哀想な大嫌いな人

大嫌いな親戚のおばさんの話に戻ろう。わたしは彼女に一生会いたくないぐらい嫌いだ。嫌いだけど、環境や周りの人に恵まれない、可哀想な部分があったのだろうと今になって思っている。わたしのことを可愛がっていた人たちは、わたしに向ける愛着を、めんどうな彼女には向けなかった。

もしも、ボロボロの焼きそばでも「美味しい」と笑って食べてくれる家族だったら、料理なんかできなくても、こんな良いところがあると気が付いてくれる家族だったら……ヒステリックな怒りを周囲にぶつけ、「面倒くさい人」と言われるようにまではならなかったのかもしれない。白石が母親を奪って申し訳ないと語ったように、自分の行為を自省したかもしれない。それなら、きっと、わたしの子ども時代は、もっと幸せなものになっていただろうに。