オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

中国語検定3級に受かるまでに使ったテキスト

中国語検定3級に受かりました。

よかったね、よかったね。
2016年9月ごろから中国を勉強し始めたので、おおよそ4年半。長い。せっかく合格したので参考に今迄使ったテキストや勉強方法をお伝えしようと思います。

中国語を勉強中の方、これから勉強しようかなと思っている方はぜひご参照ください。

 

◆勉強方法・勉強時間

基本的に週1でネイティブの先生と一対一レッスンを行っています(年末年始やお盆などはお休みしてますが)。勉強の習慣は、レッスンの予習・復習を、一週間かけて行っています。だいたい1日20分くらい。忙しくてできない日もありますが、週4~5日は家庭学習をしています。ひとつのテキストは、一回一通り勉強したら、もう一度最初に戻って勉強していました。一周だけだと忘れていることも多いので、二回勉強して内容が定着したような気がします。


◆中国を歩こう―中国語初級テキスト

 

中国をはじめたとき、まず最初に使ったテキストです。ピンイン表にカタカナのフリガナがふってあります。中国はまったく分からない方でも、このテキストからなら始められます。大学の授業とかでちょっと中国を勉強したよって人は下に書いてある「汉语口语速成(入门篇)」の上から始めてもいいかもしれません。このテキストはCDもついているので、これ一冊で勉強できます。

 

◆汉语口语速成(入门篇)

 

上下巻に分かれています。上下巻合わせて、全部で30章あって、ひとつの章に、長文、単語、文章の解説、練習問題が掲載されています。
タイトルは中国語ですが、単語の翻訳と、文章の解説文はちゃんと日本語です。汉语口语速成の上は「中国を歩こう」にも重複しているような基本的なな中国語学習の内容です。下になると急に文章の難易度があがります(下のほうは可能補語とか使役構文とかしっかり学びます)。汉语口语速成の下の内容は、普段のレッスンの予習・復習とは別に章ごとに構文をまとめて学習していました。


あ、ひとつ注意点があって、「汉语口语速成」はCDは別売りなので、そちらは気を付けてください。中国の出版社が作っているせいか、日本では購入できる場所が少ないのでちょっとそこはめんどくさいです。amazonでは付属のCDは売ってなかったかな。上が終わったタイミングで中検準四級、下の途中くらいで中検四級にうかりました。


◆語ろう日中暮らしの文化

汉语口语速成の下よりも少し難しい内容です。とくに、新しい単語の数が多くて、覚えるのが大変でした。各章で「新出単語」を紹介していますが、そこに載ってないけど、長文に載っていて分からない単語というのが結構あったきがします。これをしっかりやると、中検3級の単語もだいぶカバーできるかな。CDもついています。

「語ろう日中暮らしの文化」の1週目が終わったタイミングで中国検定三級を受験して合格しました。基礎の総まとめな内容だと思います。
上記3冊は、普段のレッスンで使ったテキストです。翻訳や文章作成等の練習問題がどのテキストにもありますが、答えが記載されていないので、教えてくれる先生がいないと使いにくいかも。長文や単語のページもあるので、独学の方はそちらを中心に学んでいくといいと思います。

その他単語学習用に別のテキストも使っていたので紹介します。こちらは上記テキストよりは使っていないです。

 

◆単語勉強

単語の勉強はそこまで時間を割いてないのですが、パラパラテキストを見るみたいなことはしていました。

 

 ・キクタ

 基本的な単語が載っている単語集。一問一答のような形で、同じページに、日本語と中国語が並んでいました。最初のこと、これで単語カード作ったりしていたような気がしますが、あまり読んでなかったです。単語単体だけを覚えるのは苦手なので、使わなくなりました。

 

・聴読中国語

 

どちらかというとこちら方がみていました。高校時代「速読英単語」という英語の参考書を愛用していたのですが、それの中国語版です。長文が載っていて、その長文にでてくる単語の解説が次のページに掲載されています。わたしは文章で単語を覚える方が覚えやすいので、このテキストはたまにパラパラ見ています。
単語だけで覚えられる人は「キクタン」、文章を読みながらがいい人は「聴読中国語」がいいかと思います。


◆そのほか使った物

・辞書アプリ

そのほかスマホのアプリで中国語辞書をダウンロードして使っていました。無料の辞書アプリもありますが、掲載されている単語が少なかったり、発音機能がなかったりちょっと使い勝手が悪かったので有料の辞書のほうがおすすめです。わたしは三省堂の「超級クラウン中日・クラウン日中辞典」を使っています。多分3000円くらいでした。検索履歴も残るので結構便利です。


・スマート単語帳ノート

単語を覚えるために一瞬使っていました。書いた単語帳をすべてアプリ上に取り込めて単語カードを持っていないときも勉強ができます。前述したようにわたしは単語を一問一答で覚えるのが苦手だったので使わなくなりましたが、そういった暗記が得意な方はいいのかもしれません。

 

国語学習、最初はまったくの外国語で難しかったけれど、基礎ができて、ピンインが読めるようになったころからちょっとずつ分かって楽しくなりました。ぜひ勉強がんばってください。 

 

【告知】もちこ氏、YouTberになるよ

Twitterには書いたのですが、AV男優ゴローさんのYouTubeに主演します。

15日19時半からです。普通に店舗に営業行った後に出演します。夕方アポイント入っているので、ちょっと遅れたりしたらごめんなさい。

 

Youtubeに出演することになった経緯ですが、わたしから、社内のYoutubeの担当している人に企画をあげたんですよね。エロいニュースを紹介するYoutubeの配信をやりたいなーって思って企画をまとめて送りました。そしたら、ゴローさんのYoutubeがいいんじゃないって、決まった感じです。
わたしがYouTubeに出たところで、売り上げになるわけでもないし、企画を通すのは難しいかなと思ったのですが、取り合ってくれて、企画を送った翌週に話が決まってて。柔軟な社風を実感します。

 

これを企画したのは、この状況下で、イベントもなくなって、直接商品を買う層、AVを見る層の方々との直接会えなくなったからなんですよね。先日、ブログにも書いたけれど、直接会う機会がなくなって、とりとめのないくだらない話ができなくなっている。それは、対お客さんに対してもそうなのかなと思います。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

だから、「無駄な話」をする時間を作りたいなと思い企画しました。

Youtubeの機能としてリアルタイムでコメントを寄せられるようじゃないですか。生放送中もコメントも拾えるみたいなので、観ている人どんどんコメント書いてほしいです。「ニュースを紹介」とか言っているけれど、取り上げるのは、取り留めのない話題ばっかりです。
できるだけ、笑えるようなネットニュースを探して、引用しようかなと思っています。真面目な話とかじゃなくて、くだらない話。どうしようもないことを言い合えるような場にできたらいいな。夜の配信なので、お酒でも飲みながら、聞いてくれたらうれしいです。

アバターとして、わたしの書籍「オナホ売りOLの日常」に使われたイラストを使わせてもらいます。

 まだ読んでない方はそちらも読んでね!

とりあえず、一回きりの企画ですが、視聴者数が伸びたら、2回、3回目があるかもしれないので、みんな見てくれたらうれしいよ。

では7月15日の夜にね。

勝者なき都議会議員選にかき消されるヒトラーの足音

7月5日、朝刊の並ぶコンビニの新聞ラックを覗くと「勝者なき」という文字が見えた。投げ置かれたどの紙面も前日の東京都議選を伝えている。

 

www.nikkei.com

www.asahi.com

 

www.yomiuri.co.jp

勝者なきあいまいな状況。新聞たちは悲壮感をもって報じていた。状況の定まらない、先の見えない、まさに今、この現状を映し出したかのような選挙の結果。選挙のことを「風」に例えることがあるが、今回はどこの党はにも追い風はなかった。無風のなかの選挙。つまらなく平穏な選挙。状況をドラマチックに書き連ねたいジャーナリストたちにとっては、結果が明確にならない今回はつまらないものだったのかもしれない。

だが、わたしは、この宙ぶらりんでつまらない選挙結果に至極安心した。極論に陥ることなく、どっちつかずの状況が本当に安心した。

 

 

ヒトラーの時代と酷似する今

選挙において、支持したい候補者が見つからないとき、わたしは、次点で落ちそうな候補者に入れるようにしている。選挙で支持者がいないとき、白紙表を投じてもいいのだろう。しかし、わたしは、わずかな差で落ちる人を予想して投じることにする。

この行動は「極論に陥らないように」という政治的主張の表明だ。当選した人に、あなたの意見を支持しない人も大きな数いるということを認識してほしい。受かった人が絶対的な正義ではない、「そうではない意見」も存在している。どんなイデオロギーにおいても。

今回の都議選も、すべての政策に賛成できる候補者は見つからず、次点の予測をした。わたしの入れた候補者は数千票差で落選し、わたしのつたない選挙予想は当たった。

「極論に陥らないように」

今回の選挙はとくに、強く思った。わたしたちを取り巻く環境に、極端な方に陥りそうな空気、流れを特に強く感じている。先日、偶然見た新聞に、今の状況が1930年代のドイツに酷似していると書かれていた。

www.nikkei.com

 

ヒトラーが独首相に就く2年前の1931年、世界の79%の国で1人あたり国内総生産GDP)が前年より減った。1929年の米国発の大恐慌が世界に及び、第1次大戦の戦地だった欧州経済に追い打ちとなった。

世界不平等データベースによると、30年代前半のドイツとフランスでは国民所得全体の4割を所得上位1割の人が占めた。広がる格差と募る不満が、隣国との摩擦の導火線となった。

格差と不平等が常態となり、富を再配分する機能が弱まった社会はもろい。ゆとりがなくなった人々から公共心や他者への寛容さが失われ、異質なものを安易に排斥するムードが漂う。

 

 富の偏りが起き、差別や格差が広がる社会。格差の下側に押しやられた人々は、自分たちより弱く見える階層を差別し、追いやっていく。アメリカで起きているアジア人や黒人への暴行も、白人至上主義の主張で、「弱く」見える有色人種に攻撃が向かっている。

それは、ユダヤ人を迫害した、アーリア人とよく似ている。経済的な富や、人間的な豊かな生活、自分の誇れるもの、確固たる自己を奪われ、人種や性別という生まれ持った自己の特徴にしかアイデンティティを見出せなくなる。歴史上だけの話ではないだろう。ヒトラーの足音は確実に近づいてきている。

 

◆独裁の芽を見抜くインテリ層たち

極論を述べる独裁者たち、彼らは時折現れる。それは、ヒトラーであり、毛沢東であり、ムッソリーニでもある。ヒトラーが台頭していた第二次世界大戦下、日本において総理大臣だった東条英機。彼もまた「独裁者」と呼ばれている。

ヒトラー同様、選挙において選ばれた東條も国民に支持されているように見えた。しかし、ごくごく一部の国民は東條を支持しなかった。それは、知識階層――インテリと呼ばれる人達だ。埼玉大学教養学部教授 一ノ瀬 俊也が東条英機の身辺を調べ、彼の実像に迫った書籍「東條英機 「独裁者」を演じた男」では、東条英機がインテリ層に支持されていない点を昭和天皇が懸念していたと書かれている。

 

昭和天皇は東條について「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」、「彼は万事、事務的には良いが、民意を知り、特に「インテリ」の意向を察する事ができなかった」とも述べている。後段は東條が民意、特にインテリの心をつかむことができなかったという批判である。だが、逆に言うと非インテリの「民意」はある程度はつかめていた、ともいえる。

極論を述べて、国を全体主義にもっていこうとする流れ、空気。そういった世間の雰囲気も、インテリ層の持つ知識をもってすれば、事前に批判することができる。平時であれば、知識層の批評に大衆も耳を貸すことができるだろう。

しかし、今はどうだろうか。経済的に貧しくなっている人がいる一方で、豊かな人も存在している。そして、経済的に豊かな人と、知識を持つインテリ層は、多くの場合重複もしている。持っている人は、金も知識も、すべて持っている。

インテリ層が独裁者の目を批判したとしても、それはつまり「金持ちが自分たちを脅かす存在を批判しているだけ」と映る。大衆が貧しくなればなるほど、富裕層と、大衆の格差が大きくなればなるほど、この傾向は強くなるだろう。

だからこそ、今、この格差の広がる状況で、勝者がいてはいけない。その勝者は、おそらく、独裁者の芽だ。

ヒトラーの著書「我が闘争」には「世界は不寛容たるべし」という章が存在している。

 

 

 

わがドイツ民族をこの現在の状態から解放しようとする人々は、あれやこれやがなかったならばどんなによいだろうということに、頭を悩ます必要はない。むしろいまあるものをどう除去するかということを、決定するようにしなければならない。

 

今ある多様な価値観をどうまとめるか--そんなことはどうでもいい。異論をどう除去するか、それが必要だ……そんな声がどこからか聞こえてきそうになる。ヒトラーの台頭は遠い過去の話ではないかもしれない。

「有能な人材」と「やりがい搾取」の間

「キネーシスとエネルゲイアって知っていますか?」

彼はコーヒーカップを置いて尋ねた。わたしは聴きなれない言葉に「知らないですね」と答えた。

時世の影響でなかなか会えずにいた友人と食事にいった。転職が決まったと報告を受け、新しい職場の話を聞きたいと、わたしがメッセージを返したきりになっていた。会うのは半年ぶり。新しい職場はリモートワークで人と会うのは久々だと彼は言った。最近は家でギターを弾いて、オリーブを育てているらしい。演奏動画を投稿したらどうかというわたしに、彼は、さっきの聞きなれない言葉を知っているか尋ねたのだ。

「どちらも哲学者のアリストテレスが提唱した言葉なんです。キネーシスが目的を達成するための行為、エネルゲイアはその行為自体が目的の行為。ギターを弾くは、目的それ自体が楽しいからやっているエネルゲイアです。もし、ネットに投稿したら、投稿数を気にしたり、観た人の反応を気にしたり、それ自体が楽しい行為ではなくなりそうだと思って控えているんです」

ギターの演奏は投稿したとたんに、アクセス数を増やすという目的を達成するためのキネーシスに変わってしまう。ギリシャ哲学を専攻していた彼は、エネルゲイアとキネーシスの概念をわたしに伝えてくれた。

今はエネルゲイア的なものが減っている。ただ集まってお酒を飲む行為、それはエネルゲイアの最たる例だ。遊園地に行くのも、映画に行くのも、何かを達成するための行為ではない。それそのものが楽しいから行く。それが今はできない。エネルゲイアは抑制されている。

エネルゲイアがなくなったから、世の中がピリピリしてしまうのかもしれませんよね」と彼は続けた。たしかにそうかもしれないな、とわたしは考える。感染症が流行する以前は、同僚との飲み会や、友達との雑談で言えた言葉たち。それを発する場所がない。意味を持たない言葉たちを発する機会をわたしたちは失った。雑談的なコミュニケーションというエネルゲイアを失い、みんな沢山の言葉をため込んでいる。

 

エネルゲイアがなくなれば頑張れなくなる

「寝る間も惜しんで」という手垢のついた表現がある。何かを成し遂げた人は、それ以外の時間を惜しんで、対象に打ち込んできた人が多い。飲み会の時間は無駄、なれ合いの人間関係は無駄――努力の対象以外に時間をかけることを否定する。そうやって能力を身に着けた有能な人材だけが生き残れる。対象にかけられる労力と時間が増えれば、目標を達成する可能性はあがる。効率的でコスパの良い行動。

ここ一年半、できることが限られるようになった。人と会うこと、出かけることは「不要不急」とラベリングされた。無駄を排除した社会。飲み会の誘いも、遊びの誘いも、なくなった。無駄な誘惑はなくなった。なれ合いの人間関係がなくなり、意識の高い成功者が提言していたことが実行できるようになった。

……そして、夢が近くなったのだろうか。「無駄」と言われたものがなくなって、対象に打ち込めるようになったか、努力できるようになったか……多くの人がそうではないだろう。苦しい日々が増え、新たに努力するどころではなくなった。エネルゲイアを排除する考え方――つまり「目的のために他を犠牲にする」という考え方は人間の精神を無視している。「寝る間も惜しんで」の努力と、精神の健康の両立を多く人はできなかったのだ。目標達成だけを追い求める行動ができる人は少ない。やはりただただ楽しい時間「エネルゲイア」を獲得して心を自由にすることが必要だ。

 

◆キネーシスをさせることは「やりがい搾取」なのか

一方でわたしは、キネーシス――目的のための行為を否定する風潮もよくはないような気がしている。たとえば「仕事」の目的は対価を得ること、キネーシスに近い行為だ。なので、対価を得るだけのために、最小限の時間と労力に絞ったほうがいいと主張をする人がいる。残業は悪だし、生産性を重視して短い時間で仕事をこなすことが正義。こちらの人たちも「コスパ」を重視する。ただし、彼らの言うコスパは、エネルゲイア――やりたい行為に時間を費やすためのコスパだ。

「楽しいエネルゲイア」と「苦痛に耐えるキネーシス」に分けて、キネーシスは目的の最短ルートを目指し、極力、時間を減らしていく。キネーシスは少なければ少ないほどいいという考え方。「ただ働き」「やりがい搾取」のような表現で、キネーシスの行為に、エネルゲイア的な側面を持たせようとすることを否定する。

わたしはこの考えをあまりいいとは思えない。キネーシスであっても、エネルゲイア的な側面――行為自体をやりたいと思える時はある。「やりがい搾取」なんて言葉があるけれど、「やりがい」が皆無の仕事をわざわざ選ぶのはどうしてなのだろう。たとえ仕事であっても、自らやりたいと思える瞬間が一切ない作業を、わたしはしたくはない。

多少、コスパが悪くても、効率的でなくても、世間から無駄に思えても、ちょっとやってみたくなるそういったエネルゲイア的な側面が、仕事をしていて時折現れる。わたしは仕事をしていてワクワクする瞬間がある。

前述した人たちのように「寝る間も惜しむ」必要はない。無理をして、一部の人の提示する「有能な人材」になる必要なんてない。ただ、心身の健康を保つという前提をもったうえで、キネーシスは必要だと思う。

 

エネルゲイアVSキネーシスではない

目的のないこと(エネルゲイア)に時間を使う人を批判する風潮も、対価のためだけに自分の時間を犠牲にする(キネーシス)を批判する風潮もあるように思う。とくに感染症が流行った、ここ1年半くらいは、どちらの主張も聞く。だけど、一人の人間に「キネーシス」も「エネルゲイア」も必要だし、ひとつの行為においても「キネーシス的な側面」と「エネルゲイア的な側面」がある場合が多い。

アリストテレスの話をしながら、食べたガレットはとてもおいしかった。この時間はエネルゲイアだったと思ったけれど、こうやってブログのアクセス数を上げるという目標に貢献している点を考えてみると、キネーシスでもあるように思う。

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アリストテレスの話をしながら食べたイワシのガレット

 

彼と別れた後、お礼のメッセージの最後に一言を添えることにした。

「今年中にエネルエゲイア的な行為を見つけたいと思います」

人と会えなくなって生活にエネルゲイアが不足している。それはわたしも一緒だ。一人でただただ楽しめる行為がわたしはあまりに少ない。とりあえず、スイッチで遊べるぷよぷよのゲームソフトを買った。ぷよぷよを消していく行為はただただ楽しい。

 

  

 

自分にとっての青春が相手にとっての青春にならないこと

SODの田口桃子さんのコラムが好き。単純に「そうそう、分かる、分かる」という共感だけではなくて、「そんなこと思っていなかった」という発見もあり面白い。

当たり前だけど、田口さんは私の体験しないことを体験して、わたしの考えていないことを考えている。わたしと正反対の立場になっていることもある。

先日アップされたコラムでは、田口さんの昔の同僚たちの話が書かれたいた。今はSODを辞めて、違う仕事をしている彼・彼女たち。わたしは5回も転職していて、どちらかというと「辞めていく側」だったので、田口さんと真逆の立場だ。

www.tokyoheadline.com

 

コラムの中で、後輩だったSさんという女性について書かれている。Sさんの立場は私と似ている。

わたしはSとは同じ部署だった時期があり、思い入れのある後輩だったので、もう一度出社してほしかったが、Sはそのまま退職した。

 

同じ部署だった頃、細かい注意や厳しい指導をしてしまったという自覚はあるが、それらは愛情の裏返しだったつもりだった。

でも彼女にとっては、私のような存在はただの負担だったのだろう。いや、負担というよりもただのウザイ人でしかなかったかもしれない。

辞めてから上司づてに「田口さんには会いたくない」と言っていると聞いた。

 

◆Sさんの立場であったわたし

田口さんがSさんに「会いたくない」と言われたように、わたしにも「会いたくない」という元同僚や元上司がいる。正確には「会いたくない」ではなくて、もっとドロドロした感情――わたしをこんなに苦しめたんだから、不幸になってほしい、ぐらい思っている。

もし可能であるならば、会って、相手の現状の愚痴でも聞かせてほしい。表面上「可哀想ですね」「大変ですね」と言いつつ、内心、彼らの不幸を喜んでいたい。逆恨みにも近い感情を抱いている。

昔の同僚たちに広告ライターとしてのキャリアを潰された、と今のわたしは思っている。この感情は、客観的に見たら、一方的な思い込みに見えるだろう。ライターを続けられなかったのは、自分自身の能力不足や仕事に対しての熱意の不足が一番の原因だ。

しかし、外的な要因が皆無だったわけではない。「あんなこと言われなかったら、心が折れなくて済んだのに」と思うような言葉をいくつも受けた。「あなたは書くことが好きじゃない」という昔の上司の言葉は今になっても呪いのように私の中に残っている。「才能がないからライターを辞めたほうがいい」という言葉も残っている。ほかにもたくさん、書ききれないぐらい、呪いの言葉がある。

相手はそこまで重い気持ちで言っていないと思う。努力しない後輩に苛立っただけかもしれない。だけど、彼らの言った言葉は、何年も経過した今も、じわじわとわたしを苦しめる。わたしは、何かを書く度に、書く作業が好きではないような気がするし、自分に才能がないような気がする。常に劣等感を抱いている。物を書く作業を続ける限り、この呪いを解くことができないような気もする。

 

◆誰かにとっての苦痛が誰かにとっての青春

田口さんと、わたしの昔の上司や同僚は別人だ。Sさんと私も別だ。「会いたくない」としか言わなかったSさんは、私のような歪な感情は抱いていないのだろう。ただ、田口さんのコラムを読んで、昔の同僚や上司の立場で、ものが見えたような気がした。田口さんはSさんのエピソードの後、こう書いている。

 

彼女にも自分と同じ青春を体験してほしかったという気持ちもあった。

 

ある人にとっては「苦痛」であった体験が、それを無事に通り過ぎた人にとっては、「青春の時間」になる。しんどい仕事を乗り越えた達成感は確かにある。今はそれを理解できる。それを青春と呼ぶ気持ちもわかる。

ただ、わたしがその達成感を味わったのは、今の、営業の仕事に就いてからだ。今の仕事をするまでは、分からなかった。辛い仕事は辛いだけで終わりだったし、だから、苦痛なんか味わいたくなった。

ライター時代にしんどさを乗り越えた体験をしていたら、きっと人生が違っていたのかもしれない。わたしには、乗り越えることができなかったけれど。

わたしにはなかった「青春」が彼らにはあって、わたしにも体験してほしかったのだろう。きっと、その気持ちに悪意はない。彼らにとって、善意であり、わたしのためであり、正しいことだった。でも、彼らに悪意がないからこそ、それが手加減のない刃になって、私を苦しめていたのも事実だ。わたしは彼らの善意が辛かった。

 

◆後悔してくれていることが救いになる

辛辣に感じた昔の同僚や上司の言葉、それらに悪意はなかったかもしれない。だけど、悪意がないと分かっても、やっぱり私は、彼らが許せない。そして、思い出しては辛くなっている。コラムの最後、田口さんはこう綴っている。

あの頃感じた矛盾も不条理も、青春などではなかった。本当は、向き合わなければいけない目の前の現実だった。

昔の同僚や上司たちがそう思ってくれたらうれしいと私は思う。

矛盾や不条理はある。それは仕方ないかもしれない。だけど、一緒に向き合ってほしかったし、同じ方向を向いて戦いたかった。田口さんのような気持ちを抱いてほしい……抱いていてくれているだろうと、思い込んで生きていくしか、わたしが楽になる方法はないのかもしれないね。

花束みたいな恋をしたを見いて抱いた感情は、菅田将暉とセックスしたいという熱望だった

 全く本を読まないわけでも、映画を見ないわけでもない。ただ、見たり読んだりする物はノンフィクションやルポタージュや評論が多い。いわゆるサブカルと言われるカルチャーは通らないで来てしまった。サブカルな人たちがいたことは分かるし、存在を認識はしている。映画「花束みたいな恋をした」にでてくる固有名詞のなかでも分かるものは結構あったけれど、興味をもてなかったんだよなと思ったものばかりだった。ジャーナリストを目指していたので、記者たちの書いた事件のルポを読み、深夜のドキュメンタリー見る方が、サブカルな表現を消費するより、地に足ついてて立派だという自分の自意識もあったのかもしれない。そこは自分の好みとは違うなと思い、通らないで来てしまった。「花束みたいな恋をした」がまったく自分に刺さらなかった。

hana-koi.jp

 

ノベライズ 花束みたいな恋をした

ノベライズ 花束みたいな恋をした

  • 作者:坂元 裕二
  • 発売日: 2021/01/04
  • メディア: 単行本
 

  この映画をしったのはTwitterでの投稿が、目に入ったことがきっかけだ。雨宮まみさんを連想させる人物がでてくるという投稿を偶然みた。Twitterの評判はいい。「素晴らしい映画だった」なんて言っている。雨宮まみ菅田将暉も好きだし、自分の本にも書いたけれど、昔長く付き合って別れた恋人もいた。自分とも合うかなと思い映画館にいったが、あまりいいと思えないし、好みではないし、うーん……わからないなとモヤモヤとしている。

オナホ売りOLの日常

オナホ売りOLの日常

 

 

女子をこじらせて

女子をこじらせて

 

 

 

ステレオタイプなイメージにキャラクターたちを押し込める

 ネタバレになりますが、簡単にあらすじを説明すると、きのこ帝国を聞き、今村夏子を読むような、所謂サブカルと言われる文化が好きな男女、麦と絹が、趣味があうことで惹かれ合い、同棲する。彼氏の麦のほうが絵を描き、イラストレーターを目指すけれど、なかなか仕事ない。仕方なくお互い就職。絹のほうは就職しても変わらず、カルチャーが好きだけど、麦のほうは興味が薄れ、お互いすれ違っていく……という話。

 まず、夢を追う若者が社会人になり、義務感や社会人としての責任で働き、どんどんつまらなくなるという描き方に憤りを覚える。会社員ならば怒られることも頭を下げ怒られることもある。だけど、惰性でやり過ごすことをせず、麦があんなに一生懸命やっているのは、言語化してない仕事への熱意のようなものがあったからだろう。映画の中で、麦の同僚は仕事中、めんどくさそうにしている。惰性でやっていても許される、なんとかなる職場で、それでもリソースを裂いていくのは、麦が何かしら良さを見いだしていたからではないか。物語終盤デートで行った本屋で麦はビジネス本を立ち読みするのもそれで、今居るところで上にいきたいという、何かがあったからではないか(そんな本読んでいることに絹はがっかりするのだけど)。そういった彼を、社会人になってカルチャーを捨てたつまらない男みたいな描き方をするのが、憤りを覚えた。わたしも会社員で、営業職なので余計。言うほど、つまらない仕事じゃないよ。

 近年は、副業が認められたり、表現の仕事自体の単価が安くなったり、クリエイティブ側の人も、表現者以外の面を持つようになってきている。有名フェスに出演するバンドですら、会社員の傍らで活動しているような今の時代に、「つまらない会社員」か「魅力的なクリエイター」みたいな二者一択で描くのはちょっと古いような気がわたしはした。別にそこまで窮屈ではないよなあ。

 

◆「〇〇が好きな自分が好き」という自意識にあふれている

 この作品が刺さらなかった理由は、主人公の言っていることが腑に落ちなかったというのもある。端的にいうと、カルチャーに執着しているけど、こいつら、そんな好きじゃないだろと見てて感じた。主人公のカップルふたりが、音楽とか、絵とか、漫画とか、本当に好きというよりも「好きといっている自分が好き」という印象を受ける。

 麦はイラストレイターになりたいという夢を持つのだけど、紹介された挿絵の仕事と、自分のスケッチブック以外、描く活動をしている描写がない。部屋の本だって、絵やイラストを勉強するための参考書や勉強するための道具であふれているということもない。映画撮ったり、別のことに時間を割いていたりもする。もっとできることあるだろ!!!と思ってしまった。ネットで表現するでもいいし、仕事がないかツテをたどるでもいいし、もがいてない感がある。

 でも、麦のような人、好きと言いながら、行動しない人は現実にいる。わたしは、以前ライターの仕事をしていたけれど、先輩や上司たちは「書くことが好き」「書くことにプライドを持っている」と言う割に、仕事以外で書かない。公募に応募したり、同人誌を作ったりする人は、わたしの知る限りいない。稀にブログを書き始める人はいたが、みな数投稿書いて止まってしまった。金もらわないと一切書かない。物書きの仕事をしている、書くことが好き、とアピールしたいだけだったのだろうなと、わたしは思っている。わたしはというと、「書きたい物書くとき以外は楽しくもないしな」と思い仕事していたので、「あなたは書くことが好きじゃない」と糾弾されたりした。「これが好きなの」とわざわざアピールする人はちょっと苦手だ。

 

◆売れない表現者だけがリアル

 ただ、一点だけ「分かる」と思った箇所があって、それは、カメラマンの先輩のシーン。麦の先輩で売れないカメラマンをしている男がいる。彼は「社会性とか協調性とか敵だから」と言いながら、自分の恋人に男性相手の水商売と言われる仕事をさせ、それで生活をしているであろうと思わせる描写もある。

 いやなヤツだなと思いつつ、どこかで聞いた話だなも思う。ライターや編集者がいる集まりにいくと、フリーのライターやジャーナリストに対して「あの人は奥さんが大企業で安定しているから」「実家が太いから」なんて下世話な話を聞いたりする。経済的な基盤が仕事以外に必要なんだ。パートナーに稼がせて、自分は金にならない仕事や下積みをするというのは、たまに聞く。そして、作品終盤、カメラマンの先輩は酒に酔って風呂に入り亡くなってしまうのだけど、それも、昔、某映像クリエイターの人が、忘年会の後、入浴中に亡くなったよなと思い出したりした。不遇なフリークリエイターの箇所だけ妙にリアルで苦しくなった。

 だけど、この作品の書かれ方だと、「退屈でつまらないサラリーマン」と「周りも自分も不幸にするクリエイティブな人」の対比であまりに救いがない。見終わった後、前の席に座っていた高校生たちが「わかんなかったね」と口々に話していたけれど、分からなくていい。君たちにもっと華々しい人生があるよ、と言ってあげたくなった。

 

ただ、この作品で唯一、よかった点をあげるとしたら、それは菅田将暉のセックスシーンがあったことだ。乳首が写らなかったのは残念だが、まあよかった。終わった直後は、最初に抱いた感情は、菅田将暉セックスしたいという熱望だ。菅田将暉のセックスをみるために映画館にいってもいいとは思う。菅田将暉とセックスしたい。

 

ひけらしよくない。過度な攻撃もよくない。

「ひけらかしをする人は変な人わきますよね、ツイッターって」

「ひけらかし?」

「自慢っていうか。自慢とも限らないけど。いいもの買ったとか、どこにいったとか、何食べたとか、どういう生活しているとか見せる発信する人は嫌なコメントつくっていうか」

先日、SODの田口桃子さん(@taguchimomoko)と配信したクラブハウスで、ツイッターでの「ひけらかし」の話題になった。すごく簡単に言うと自慢なんだけど、単純に「いいでしょ?うらやましいでしょ?」と自慢するのではなく、高額な美容グッズを普段使いと自称し写真に写したり、普段つかっているちょっと高めのブランド品を何気なく写したり、結婚やら出産やらそんな幸せな私生活を自ら発表したり……。人によっては「素敵だね」「よかったね」「おめでとう」と褒めたり、肯定的な意見を言えること。でも、それを手に入れられない人にとっては「自慢?」と受け取り兼ねないような発信。一対一、個人間で言うのであれば、補足もできるし、相手への配慮もできる。だけど、大多数に発信することによって、人によっては「自慢」と受け取られかねない発信。

たとえば、婚約破棄したばかりで傷心の人に「結婚しました」と満面笑顔のウェンディング写真を見せつけるのは、配慮のかける行為だけど、それすらも起こしかねないのが、ひけらかし行為。発信する側は「嫌ならみるな」なのだろうけれど、世界につながるインターネットではそうはいかず、ひけらかし行為によるくそリプってあるあるだよね、という話を田口さんともしていた。「ひけらかし」という言葉言い得て妙だ。田口さんはうまいことを言う。

わたしの見解では、ひけらかし行為は「こう見られたい」という自分像の表現手段だと思っている。美意識の高い私像、家族や旦那さんから愛されている自分像、おしゃれでかわいい自分像……自分はこう見られたいという虚像を直接的でなく発信しているのが「ひけらかし」。でも、別に、どう見るかは相手次第だし、わたしなんかは嫌なヤツだから、幸せだ、満たされているんだと、わざわざ発信しないと、それを実感できないほどの空虚な現実を生きているあなた像として受け取っている。そしてクソリプーー心無い言葉や嫌な言葉を返信すること、は我慢する。ちょっとうらやましいときもある。

 

◆現実世界にあるクソリプ

ひけらかしに限らず、ネット上のクソリプについて、「つきそうな発信だったよね」と思う瞬間がある。その一方で、わたしは現実世界でのクソリプ――心無い言葉や態度に悩むことがある。「ひけらかし」はしていないけど、言われる原因のようなものが、わたし側に皆無だったわけではない。自分の話ばかりしてしまうとか、相手の気持ちを考えられない(相手の気持ちを無視するのではなく、本当に嫌であったことがわからない)とか、仕事だったら、細かなミスや不都合が多いとか。わたし側にも問題はあった。それは、今振り返れば分かる。だけど、わたしの配慮のなさに対して、その仕打ちはひどくはないだろうか、と思うことがあった。

昔の職場の同僚で、わたしのミスが多くて、そのたびに迷惑をかけてしまった人がいる。たしかに、資料の間違いがあり、見直して「間違えています」と言われ、謝ることは何度もあった。たしかにわたしは作業が雑だった。だから、彼女がわたし注意したり、ミスの直後に高圧的になったり、それは仕方ないと思う。しかし、彼女の圧はそれだけではなかった。彼女のデスクにあった資料に袖がかすり資料が落ちてしまった。「すいません」と拾うわたしに対して、舌打ちをされ、資料を奪いとられる。挨拶は返されず、話しかけると、他の人よりワントーン低いこえで「え?」と聞き返され。ひたすら怖かった。たしかにわたしが悪い。だけど、そこまでするかなーと思うし、怖かった。今でも怖い。

今、思えば、あれは、だれかに相談してもよかった。上司ではなかったけれど、パワハラと言ってもよかった。だけど、わたしは彼女と関わらないようにすることしかできなかった。丁寧に仕事をしてミスをなくすという方法以外に防ぐ方法がわからない。もっというと、他の人が同じように資料のミスをしても、そこまでキツくあたってないところも何度かみた。彼女のなかの「駄目な人認定」があって、それに合致した人には、何をしてもいい人になるのだろうな、とわたしは感じている。

わたしは「駄目な人認定」をされても覆すことができない。舌打ちされても、挨拶を無視されても、本人に直接やめてといえない。反論しない人はきっと、攻撃するのに都合がよかったのだろう。

前述のクラブハウスで、クソリプをつく人には、何度もくそリプがつくよね、と田口さんと話していた。多分それも、ツイッター上で不配慮な発言や、ひけらかしによって「駄目な人認定」されたら、何を言ってもよいとなってしまうのかなと思う。クソリプがついた人に対して、ほかの人が言ってもクソリプがつかなかっただろうにと感じるときもある。

 

◆悪いに対して、攻撃が対等だったか

ネットでも、現実世界でも、なにか間違いを犯した人に対して、その報復が対等なのか、という視点が常に大切なような気がしている。わたしは、仕事の上のミスに対して、無視をしたり、舌打ちしたりすることは、対等な報いではないと思っている。それと同じで、どんな批判も、反対意見も、活動も、それがいきすぎてないかチェックすることが大切ではないか。悪い意見、賛同できないという意見であっても、それを理由に過剰な攻撃をしてしまってはいけない。

先日、東京五輪パラリンピック大会組織委員会森喜朗会長が女性を蔑視する発言をした。たしかに、森会長の発言はわたしも賛同できないし、ひどい意見だと思う。だけど、だからといって、攻撃的な言葉や人格を否定するような意見を述べていけない。たしかに彼は間違いを犯した。しかし、彼の人間性そのものを悪くいっていいわけではない。悪いのは彼の発した発言だ。ネット上にあがる、森氏の発言以外、彼自身の名誉を傷つけるかのような意見をみて私もつらくなった。そこまで言う必要はあるのだろうか。その罰は、間違いに対して釣り合っているのだろうかということを常にかんがえなくてはいけない。

そんなことを言いながらも、ひけらかしを見つけては、ぐぬぬと恨めしくなりつつも、クソリプを我慢している。他人への寛容さはないが、小心者だから、悪く言えないだけなんだ。