オナホ売りOLの平日

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映画「ルックバック」が刺さらなかった

ルックバックが流行っている。

藤本タツキ原作の読み切り漫画で、6月には映画が公開された。絵を描くことが好きで、学年新聞で4コマ漫画を連載している藤野と、圧倒的な画力をもつ不登校の同級生・京本の物語だ。藤野は、小学校の卒業証書を京本に届けたことがきっかけで、京本と交流をはじめ、一緒に漫画を描くようになる。

lookback-anime.com

 

 

何人もの友人知人が「ルックバック」よかったと言う。最初から泣いた。2回、3回見に行った。夢中で60分過ごした。映画を観た人は誰もかれもルックバックが素晴らしいと言う。私も原作は読んでいた。けれど、無料公開中に流し読みしただけで、そこまで細かく読み込んではいない。原作の大ファンではないけれど、みんな良いって言うし、面白いだろうと、期待して映画を観に行った。結果的に私には刺さらなかった。プロットは分かりやすいし、感動したという気持ちも理解ができるけれど、薄く感じてしまった。

 

◆京本の喪失にあの表現は必要だったのか

「ルックバック」は面白い。夢中になって観ることはできる。とくに、藤野と京本、ともに漫画家を目指し奮闘する序盤、中盤までは、楽しめた。なにかに夢中になる少年時代を描いた清々しい作品だった。ただ、引っかかったのは、突然訪れた京本の喪失だ。

京本の死は、あまりに突然、訪れる。親しい人の喪失は突然訪れるものという意図があったのだろう。だが、あの描き方がよかったのか、と私は思ってしまった。

物語の終盤、京本は、藤野と共作でマンガを描くこと辞め、美術大学に進学する。雪の降る冬の日、京本の大学に、突如、通り魔が現れ、学生たちを次々に殺めていく。犯人は、ネットにあげた自分の作品が真似されたと怒り、「パクリやがって」「見下しているんだろ」と叫び京本に凶器を振り上げる。

私から見て、京本の最後は、実在する事件を連想させる表現だった。京本の喪失をこの描き方にする必要はあったのかと、映画館を出た後にぼんやりと考えていた。

 

◆奪われた日常の表現不足

大切な友人の喪失、それはこの作品で伝わる。京本がマンガを辞めることにより、藤野と京本、ふたりは仲たがいしたまま、一生の別れとなってしまった。京本の死を悔やむ藤野の感情を丁寧に描いている。卒業証書を届けた日、あのとき、違う選択をしていれば。藤野は過去を、ルックバック――振り返り、悔やみ続ける。

しかし、突如訪れる大切な友人の喪失に、実在の事件を連想させるような、あの表現は必要だったのだろうか。突如現れ、刃物を振り上げる狂人のような犯人、それにおびえる京本の描写、それだけ、たったそれだけの失う瞬間の表現に、私は、軽薄さを感じた。

藤野にとっては「大切な友人の喪失」だが、京本にとっては、取り返しの付かない人生が奪われることだ。藤野と漫画を描く日常を失っても、学びたかった芸術が京本にはあった。そこでの日常、夢があったはずだ。目指すものもあったはずだ。作中には京本の奪われた日常がない。そして、犯人が京本の作品と出会う瞬間もあった。そこで一方的な、被害者意識を募られるなにかがあった。それをすべて飛ばして、「友人京本の喪失」という事実だけを見せられた私は、取り残されたような気持ちになった。

 

◆原作に忠実が正しいのか

「ルックバック」は原作に忠実でよかったという意見をSNSで見た。映画「ルックバック」は原作と大きく変えた箇所はない。原作に忠実というのはその通りだ。だが、わたしは、この作品は原作に忠実である必要はなかったように思う。映画というメディアになったのだから、ふさわしい改変があってもよかった。

読み切りマンガ「ルックバック」読んだ際、映画を観たときの違和感は持たなかった。いつどこであの作品を見たか覚えてないけれど、短い合間の時間で、スマートフォンで読む物語としては、違和感を抱かせない表現なのだろう。

しかし、映画館で集中して観たとき、物語終盤の表現が引っかかった。映画になるならば、京本の人生が奪われることを掘り下げてほしかった。「納得いかないな」という気持ちが映画館を出た後に浮かんだ。

この作品に限らず、原作に忠実であることが評価されがちだが、媒体にあった表現というものがある。実在の事件を想像させる表現を使うのであれば、分かりにくくなったとしても、複雑な側面と向き合ってほしかった。