オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

ダサいバンドを好きになってくれる男の子と恋がしたかった

困ったな。途方にくれながらラインの画面を眺める。彼の表示に一瞬止まって、またスクロールした。ART-SCHOOLを教えてくれた昔の友人だった。

ART-SCHOOL結成25周年記念トリビュートアルバム『Dreams Never End』のライブ。

MONOEYES、PEDROとの共演。同伴する予定だった友人から、親族の結婚式で行けなくなったと連絡がくる。冠婚葬祭ならば仕方ない。行く予定だったチケットと、予定がなくなったチケット、2枚が手元にある。どうしよう。

 

ART-SCHOOLが好きな友人は何人か浮かぶ。でも、せっかくだから、対バンの出演者も好きな人の方がいい。MONOEYESはわたしも見たかったバンドだった。

ボーカルの細美武士が組んでいるバンドELLEGARDENが学生の頃から好きだった。ART-SCHOOLを教えてくれた古い友人を誘おうと思って、手を留めたのは、MONOEYESが彼の好みではないだろうなと思ったから。

ELLEGARDENのことを「少年が叫ぶ、みたいなバンド」と昔彼は言っていた。その言葉には嘲笑が含まれていた。悪い奴じゃない。いい音楽も教えてくれたし、親しい人には優しかった。ただ、なんというか、自分の好きじゃないものへの冷さが目についた。それに耐えきれなくて距離ができていった。結局、ライブにはELLEGARDENが好きだった別の友人を誘った。わたしのメッセージに「細美さんのバンド見られるの楽しみ」と返信をくれた。

 

金原ひとみ「YABUNONAKA」に描かれた文化的教養があると思い込む人々

理解できないものを嘲笑する人が、苦手だった。たとえ、わたしには優しくしてくれても、話していると居心地が悪くなる。わたしの周りにいる理解できない文化やコンテンツを嘲笑する人たちは、自分のことを『その文化に詳しい』『知識がある』『見る目がある』と思っているように見える。一方で、理解できないものを咀嚼しようとする寛容さはない。

金原ひとみの小説「YABUNONAKA」の登場人物のひとり五松武夫は文芸編集者故に文学に対して知識がある。その自負もある。そして、自分を”分かっている側”に置きながら、そうでない人を嘲笑したり、うっすらと見下して、無知を決めつけたりする男性だ。物語のなかで五松が語る章がある。そこで五松の内面を垣間見ることができる。

 

文学的素養のない人と日常会話をすることはよくある。美容師や、家族や親戚、大学時代からの親友の行人もそうだ。俺は逆張りでもなんでもなく、こういう人たちを見ると「いいなあ」と思う。反知性主義とすら言えない、知性を嫌悪することすら考えない、ただ何も考えない人、例えばジャンプとかを読んで皆と「まじ泣けるよな!」と騒いだり、イエニスト茂吉のYouTubeを見て「ためになるから見てみ!」と本気で友達に勧めたりできるような人だ。一ミリたりともなりたいとは思えないが、「いいなあ」と思う。憧れとも違う。ただ漠然と「いいなあ」なのだ。もしかしたら単に、他に感想が浮かばないだけかもしれない。

五松には、優美という定期的に会うセックスフレンドがいる。五松は優美のことを何でも話せるちょうどいい相手として付き合う。

優美とは、四年ぐらい前にマチアプで知り合った。会って割とすぐにホテルに行くようになり、付き合う気があるかないか聞くタイミングを逃し続けた挙げくアプリで知り合った別の子と付き合い始めてしまい、彼女ができたと正直に報告したらじゃあ後腐れのない関係で、と一方的にセフレ認定されたのだ。

 

なぜか馬が合って、彼女にだけは木戸さんや他の同僚、作家の愚痴も包み隠さず話せる。考えてみれば、元カノよりも、元々カノよりもなんでも話せる相手だったし、途切れ途切れではあるものの、優美より長い彼女もセフレもいたことがなかった。

五松にとって優美は話しやすいセフレ、話の通じるセフレで、個人的な内面も吐露している。マッチングアプリで会った女の愚痴も優美には話す。

「この間マッチした子がイニエスト茂吉がすごいって言ってたんだよ。それでなんか萎えちゃってさ。それ以来ちらほら連絡くれるんだけど、返事する気になれなくて」

 うんざりした声で言うと、優美はくだらね、と笑った。くだらね、が俺にかかってるのか、イニエスト茂吉にかかっているのか、マッチした子あるいは俺とマッチした子の関係にかかっているのか、微妙なニュアンスだった。もしかしたら全部かもしれなかった。

 

◆スケベな言葉を知的に使っている優越感

五松は、自らが知性がないと思う人を下に見る。それは、低俗だと思うものを好きな人だけなく、文学インポと作家にバカにされていた上司もそうだ。

「文学インポ、てどゆこと?」

 もやもやした性欲バック長めの激しいセックスで晴らした直後、文学インポというパワーワードが頭から離れず、つい今日の木戸さんの話をしてしまった俺に、優美はクスクス笑いながら聞く。なんていうか、まあ文学でもう勃たない、勃っても中折れしちゃう、てことだよ。と適当なことを言うと、武夫は文学で勃起して射精してんの? とむき出しの性器の睾丸の方からがしっと鷲掴みにして優美は俺を上目遣いに見つめる。

「してるよ」

「キモ」

「や、象徴的な意味での射精だからね」

物語序盤、五松の“分かっている側”の振る舞いにイライラした。射精という言葉の選び方も含めて気に障る。『スケベな言葉すら意味のある表現にしてしまう知性ある自分』に見せようとしている下心をこのセリフに感じてしまう。

わたしも性的な言葉を、性的な意味以外で使われた場に遭遇したことがある。それは、飲み屋のカウンター席で、隣に座った若い男の二人組みは、文学の話をしていた。面倒にそうな語り口に、話に入る気になれず、わたしは黙って酒を飲んでいた。

谷崎を評論する彼らが『精神の勃起』と言ったのが聞こえる。キモち悪いと思った。勃起という下品な言葉を、高尚な文脈に仕立てようとしているところが耐えられなかった。

その背景には、スケベなものは蔑んでよくて、その蔑む対象を知識のある文脈で語ることで、あえて、下品な話もできる知的な自分たちの演出を感じてしまったからだ。

少したってから、会話を聞いていた飲み屋のママに「ボッキーズ」という不名誉なあだ名をつけられ追い出されていった。精神の勃起とか言う奴はボッキーズというコミカルでアホくさいニックネームが似合う。

しかし、この“分かっている側”にいたい人たちは、「ボッキーズたち」と笑ってくれる飲み屋のママに遭遇することなく、その自意識だけを募られていき、ともすればしっぺ返しを食らうかもしれない。「YABUNONAYA」の五松は酷いしっぺ返しを喰らった。

 

◆現実には起きないであろう大きなしっぺ返し

何でも話せる、気の置けないセックスフレンドだと思っていた優美は、五松が話した内容をSNSで暴露する。五松の画像と共に、会話の内容やメッセージアプリのスクリーンショットを晒しあげる。最終的には、マッチングアプリに登録した女の子と組んで、五松が強引に望まない性行為を迫る動画まで撮影し、ネットに晒す。

 

「YABUNONAYA」は、ある部分でわたしたちの願望をかなえてくれた物語だ。理解できないものを嘲笑する人、自分が知識があると思っている人を、心の中でよく思えない。痛い思いしてほしいと思っている。だけど、この物語の展開はフィクション故の過剰さがある。

わたしも、優美と似た気持ちを抱くことはある。あるけれど、彼女のほどの強い嫌悪感もない。物語の終盤、優美は逮捕された。自分の人生を引換にするほどの強い気持ちはわたしにはない。

だからこそ、理解できないものを嘲笑する人たちはいなくならない。物語のなかのような大きな代償を食らうことなく、なんとなく、避けられるだけだから。

 

◆異なる文化を受け入れるいい父ちゃん

MONOEYESを一緒に見た彼は、結婚したこと、娘がいることを告げて、ここに来るために、妻に小言を言われたと笑っていた。

ごめんね、と謝るわたしに、代わりに明日公園連れてくから、と言い、娘の写真を見せてくれた。目元が彼に似た女の子の動画を「これがいい」「こっちもいい」といくつも見せてくれた。

ART-SCHOOLはあんまり聞いてないんだよねと、開場前に話していた彼だったけれど、

終わった後は「ART-SCHOOLいいね」「帰りに聴くよ」と飛び跳ね、後日「ART-SCHOOL聞いているよ」とメッセージをくれた。

誘ったのがこの人でよかったな、とわたしは思う。そして娘が羨ましくもなった。

接したことのないものも受け入れる、素敵な父ちゃんがいて、このかわいい娘は幸せだね。

理解できないものを嘲笑する人たちは、娘がつまらない音楽を聞いて、つまらない本を読んで、つまらない文化を摂取したとしたら、馬鹿にして笑うのだろうか。そんな父ちゃん、いやだな、わたしは。