「俺は発達障害だからさ~」
よく行く飲み屋で隣に座った若い男がそう言っていた。お互いに常連で、たまに会うし、話もするけれど、自分語りばかりするところがちょっと苦手だなと思っていた。『発達障害だから』その言葉をどの文脈で語ったのか覚えてないけれど、自分の失敗を茶化して語る場面だった気がする。
『発達障害だから』。その言葉を言い訳のように語る人が苦手だ。こう語る人の大半は、発達障害を克服しようとしている様子はない。発達障害だからこんな治療を受けている、こんなカウンセリングを受けている、こうやって工夫している。そんな話は聞かない。ただただ自虐話の一環で語られる、『発達障害だから』という言葉に辟易としていた。
◆WAISで明らかになった特性
先日わたしはWAISを受けた。成人の知能を図る臨床検査で、言語理解、知覚推理、ワーキングメモリー、処理速度の四項目に分かれたテストだ。各項目の数値の差が大きいと発達障害の傾向があると言われ、発達障害の診断にも使われている。
わたしがWAISを受けようと思ったのは、通っていた心療内科の主治医に勧められたからだった。そもそも、その医院には強迫観念症の治療で通い始めた。元々心配性の性格だったけれど、ある時から、出かける際に戸締りや火の元が気になって仕方なくなった。一度心配ごとが頭によぎると不安で仕方なくなる。何度も玄関やガスコンロを確認し、20分が経っていたこともある。これでは生活が維持できない。仕方なく通院をした。
強迫観念症の治療で主治医と話すうちに、発達障害の傾向があるかもしれないと判断され、WAISを受けた。結果は、言語理解が高く、ワーキングメモリーが低い、知覚推理と処理速度はふたつの間ぐらいだった。ワーキングメモリーは極端に低かった。主治医はワーキングメモリーを机に例えて説明した。
「仕事をする作業机をイメージしてください。これが広い人は同時にいくつもノートや本を広げ作業ができるけれど、狭いといくつもの作業ができない」
いくつもの作業を同時に行うマルチタスクが得意ではない。言われてみれば、同時に複数の作業をしていると忘れてしまうことが今までもあった。
ただ、私は明確な診断はでていない。主治医には「傾向はあります」と言われたけれど、診断ではない。工夫しながらでも日常生活が送れていて困りごとがないなら、診断をださなくてもいいのではいか、と医者は言った。環境に恵まれていることもあり、今、大きく困ったことはない。自分の苦手なことを理解して、工夫しながら、このまま生活をすればいいと私も思っている。
◆「アスペだよね」という嘲笑
発達障害を、自虐のように語る人が苦手だ。だけど、同時に、発達障害を、他者を揶揄するために使う人も苦手だ。SNS流れてきた発達障害の特徴に「こんな人と関わりたくない」とコメントする人がいた、苦手な誰かを「アスペだよね」とバカにする人もいた、片付けられない、容量が悪いなどの特性を持つ人の人格まで悪く言う人もいた。わたしは、わたしの周りでそんな光景を見て嫌だなと思ってきた。
発達障害やそれに近い特性を持つ人を、嘲笑したり、馬鹿にしたりする。それは、私の周りだけでなく社会全体で起こっている。発達障害を差別しているとして、ある本が非難を受けていた。発達障害を持つ人を『困った人』と呼び、猿やナマケモノのイラストを使い、動物に例えて説明している。発達障害を持つ人の行動で困ることはあるかもしれない。だけどそれは、困った行動であって、その人の人間性自体が「困った人」のわけではない。動物のような自分たちとは違う物、人間ではないも物として扱っていいわけでない。
わたしの周囲の人にも『困った人』として、誰かの話をする人はいる。「あの人はアスペだから」「片付けすらできない人だから」。そうやって発せられた揶揄や蔑みをわたしは笑って受け流す。彼らは言う。「でも、あなたはそうじゃないからいいよね」。
わたしは『そうじゃなく』見えるようにその人の前で振舞っているだけで、本質は彼らの悪く言っている人と変わらない。わたしもその人たちと変わらないよ。部屋は散らかっているし、自分の話ばかりしたいし、思ったことをそのまま言いたい。言いたい衝動に駆られる。だけど、そんなことをしたら、嫌な顔をされるから抑えているだけだ。この人たちは自分の不寛容さ、想像力のなさに、どうして気が付かないのだろう。
言いたいことを言ったら、嫌な顔をされることが分かるから言わないで、聴き手に回って笑って話を聞く。取り繕って振舞った私に、彼らは言う。「今日は楽しかったよ、また会おう」。
◆自虐と嘲笑とかかわらず生きたい
発達障害という言葉などなくなったらいい。発達障害の当事者たちは、自分の苦手を理解する、そして、それが害をなさないようにできるだけ工夫する。悪い癖がでそうな場面を避けて生活する。そして、それでも出てしまった困った行動は、周りの人に説明して、助けてもらいながら生きていく。当事者以外の人たちは説明された困った行動を揶揄したり、馬鹿にしたりしない。発達障害ではなくて、不得意なことがある人として、寛容になっていければいいのに、と思う。
だけど、きっとそんなことは難しくて、自虐する人と、馬鹿にする人に分かれるしかない。わたしは、できるだけ、そういう枠組みと離れて、欠点が欠点にならないように、工夫して、もくもくと生きていきたいと思っている。