オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

堀江もちこ 過去のメディア掲載一覧

過去の実績がまとまっていた方が分かりやすいかと思い、メディア関連の活動をまとめておきます。

◆堀江もちこ プロフィール

アダルトビデオ、アダルトグッズの営業。広告ライター、AVメーカー広報職を経て、株式会社トータル・メディア・エージェンシーに営業職として勤務。会社員と並行して、ライターとしても活動する。

プロフィール用に撮影してもらった写真です。

 

◆著作

「オナホ売りOLの日常」という本を菅原県さんとの共著で出版しています。

◎台湾翻訳版

「オナホ売りOLの日常」は翻訳されて台湾でも販売されています。

www.books.com.tw

◆執筆記事

文春オンラインさんで記事を執筆しました。アダルトグッズやショップに関する記事です。

bunshun.jp

bunshun.jp

Youtube出演

作家、家田荘子さんのYouTubeに出演しました。アダルトグッズ紹介をさせていただきました

 

 


www.youtube.com

 

 

そのほか、日刊ゲンダイさんや、サンスポさん等紙媒体にもインタビューしてもらいました。出演依頼などの問い合わせは、所属会社(株式会社トータル・メディア・エージェンシー)のお問合せページに送ってください。

大好きだったヤリマン悪女について

よくある悪口を聞いた。

離婚した翌月に別の男と旅行に行った女性の話。本人は婚姻時に二股はしてないと言っているが、次の恋人にはあまりに早すぎるのではないか。

「結婚しているときに付き合ってないって言っていたけど」

悪口の主はそんなことを言っていた。節操がない、貞操観念がない。そんな風に写るのは分かる。私自身に関係のないことだと分かりながらも、「わざわざ周りに言わなくてもいいことだよねー」と返した。

幸せを自慢したい、魅力的で、引く手数多だと思われたい。でも不貞をしているとは思われなくはない。そういった気持ちなのだろう。だが、自分の幸福をひけらかすことで自分のイメージを下げる。聞かれたとしても適当な嘘をついておけばいいのに、と思っていた。

 

◆清純で控えめなお嬢様を嘘で作った富小路公子

テレビドラマ化もされた有吉和佐子の小説「悪女について」の主人公、富小路公子は平気で嘘をつく。それも自分が魅力あると言うのではない。「モテない」と嘯く。

 

 

「あなた、若いのに、今から何を言っているの。結婚すればいいでしょう。あなたみたいに若くて綺麗ならプロポーズする人が、いくらでもいるでしょう」

「それが奥さま、全然ないんですよ。私って魅力がないんじゃないかしら」

「そんなことあるものですか。戦争で若い男が大勢戦死したから、結婚難だって新聞には書いてあるけれど」

「ええ、男一人に女はトラック一杯の割合ですって。私きっとオールドミスになってしまうんですわ。そんな予感がしますの」

 

その八 沢山夫人の話

 

そりゃ私、一緒に麻雀もしたし、旅行もしたし、サウナにも二人で裸になって入ったことありますよ。十年近い交際期間がありますよ。おいしいもの食べたり、夜中に長電話でお喋りしてましたよ。私自身もあの人とは大の仲良しだと思っていましたよ。

「私、めったに人に心を開くことのできない損な性格なんですけれど、あなたの前では気持ちがほぐれてしまうのね。不思議だわ。どうしてかしら」

と、よく言ってました。

(中略)

だけどさあ、私はあの子が死んで、週刊誌を読むまで、あの子が二度も結婚していてさ、しかも子供が二人いたなんてこと知らなかったんだよ。そんな親友ってある?

 

その十五 鳥丸瑤子の話

彼女の純朴さを信じているのは女だけでない。むしろ異性の方がその清純さを信じて疑わない。二人目の夫、富本寛一は、天涯孤独の孤児だと偽った公子に、実の母親と自身の子供がいると知って取り乱す。公子が処女ではないことが分かり、気が狂いそうになっている。

彼女に母親がいた。彼女は一度結婚して、二人の子供を産んでいた。それが分かったとき、僕は取乱しました。ぼくより前に、あの声を聞いた男がいたのかと思うと気が狂いそうになったのです。

 

その十四 富本寛一の話

 

上品で世間擦れしてないお嬢様という虚像を、嘘をつきながら固めていく。「舐められたくない」「下に見られたくない」という自分の虚栄心のための発言はなく、方々に「あなただけが頼りです」という顔をして、相手の警戒心を緩めていく。

鳥丸瑤子が「そんな親友ってある?」と憤ったように、彼女がいなくなって初めて、自分の思い込みに気が付く。

「悪女」と言われているが、彼女に罵られた人も、横柄な態度をされた人も、自慢話を聞かされた人もいない。部下にはキビキビと働く姿を見せていたが、それ以外の人には、物静かでおっとりした人と映っていた。困った顔で「まああ」と言う彼女のペースに乗せられ、結果的に不都合を押し付けられただけだ。

 

◆自由でハッピーなヤリマン女友達

わたしの周りに公子はいるか?そんな女がいたら怖くて仕方ない。だけどもしかして、公子だったのかもしれない子はいる。なっちゃんというわたし至上最強のヤリマン友達だ。

彼女と私は、クラブのテキーラガールのバイトで知り合った。わたしより一つ下のフリーター。郊外の実家に住んで、イベントのキャンペーンガールのアルバイトをしていた。

なっちゃんとはよく飲み行ったり、クラブに遊び行ったりしていた。彼女はよくナンパされて、すぐ持ち帰られる。だいたい帰ろうとする頃にはいない。ヤリマンだけど、早稲田だが、慶応だか、頭のいい大学の堅実な本命の彼氏がいて、自分は大学に行ってないのに、異性の大学名に厳しかった。

女の子数人で飲んでいるときに、ナンパしてきた男を「地味なのにチャラそう!●●大学ぽい!」とバカにしていたことがあった。彼女の言う●●大学は、当時わたしの通っていた大学で、そのことを告げると、見えないね!と笑い飛ばされた。わたしが男だったら、きっと相手にされない。

なっちゃんは本能のまま生きていた。いつも楽しそうで、ハッピーで、無敵だった。彼氏は高学歴がいい、でも、イケメンともヤりたい。自分の貞操とか、周りのイメージとか、気にせず、楽しい方を目指して生きていた。真面目な子が「そんなことして大丈夫?」と聞いてもヘラヘラ笑っていた。小心者のわたしがなりたくても、できない人生を生きているようで大好きだった。

大学を出て、バイトも辞めて、1年ぐらい経ったころ、なっちゃんは突然すべてのSNSから消えた。バイトの友達は、みんな、なっちゃんと音信不通になった。

なっちゃんがわたしに、彼氏とか、友達とか、バイト以外の知り合いを紹介したことはない。それどこか、自宅の最寄り駅も、源氏名だったから本名も教えてもらえなかった。わたしは彼女のことを何も知らなかった。

地に足着いた生活と、わたしたちを切り離して、ヤリマンであけすけな女として振舞っていた。

 

富小路公子の悪女の部分

「悪女について」の終盤、長男の義彦が公子を語る場面で、公子の虚像は崩れる。公子は、義彦の恋人の実家に乗り込み、義彦は名門のお嬢さまと婚約していると捲し立てる。さらに義彦がいかに優秀であるかを語る。

婚姻届をする前後から、母の猛烈な嫌がらせが始まっていました。まず耀子の実家に乗り込んで、「富小路公子でございます。鈴木義彦の母でございます。お宅のお嬢さまが私の長男と結婚なさりたいようですが、義彦は学習院におりました頃から、名門のお嬢さまと仲良くなっておりまして、先方さまでは、ご両親とも大乗気で、東大に入る前に婚約でもということで、教会で婚約式をいたしました。(中略)折角ここまで女手一つで育て上げましたのに。東大でも何十年来の秀才と言われて、教授たちから嘱目されていましたから、義彦は学者にするつもりでおりましたのに、それが勝手に就職口を探して、お宅のお嬢さまと将来は共稼ぎするだなんて」

 

その二十四 長男義彦の話

 

耀子の両親も、耀子自身も、最高に頭にきたのは「お宅のお嬢さまが私の長男と結婚なさりたがっておいでのようですが」とか「まさか、お宅のお嬢さまが、私の財力をあてになさったとは思いませんけれども」という、母のやんわりした言い方のようです。

 

その二十四 長男義彦の話

 

自分の思い通りにするために、一方的に、自分の息子の優秀さを語り、財産目当てではないかとねちっこく遠まわしに言う公子は、それまでにはない姿だった。貞淑で物静かで控えめなお嬢様ではない姿を公子は持っていた。

これより前にも、公子がこんな姿を晒す場があったかもしれない。だけどきっと、晒された人物がいたとしても、公子の生活から切り離されたどこかだ。だからこそ、物語終盤までその姿が見えなかった。

もしも、なっちゃんが今、不慮の死を遂げても、なっちゃんを調べる人は、わたしにはたどり着けない。「悪女について」の物語に書かれなかった、公子が本心を預けた人のことを考えている。

 

 

ダサくて、つまんなくて、キラキラしてない未来が欲しかった

やや先を見るように手を翳せば、三島が自決した年齢が僕も見えている。現在の僕は、この年齢からくる人生への「自棄」の感覚は親しい。だけれども、三島は死ぬべきではなかった、と言いたい。自決の場に向かった三島と同様、青く、今から自意識から離れ三島に呼びかけたく思うのだが、僕はあなたのファンだと言っていい。僕はあなたが「人生の中点の危機」を乗り越えた作品を読みたかった。様々なことを抱えながら、しかし最後まで人生を生ききったあなたの作品を読みたかった。その方が格好いいではないか。そうだろう? 作家のくせに、あなたは逃げたのだ。人生の本当の苦しみから。

 

仮面の告白』と三島由紀夫 中村文則

 

三島由紀夫仮面の告白」文庫本の巻末、作家の中村文則は、生ききった三島の作品を読みたかったと書いた。わたしはそれを読んで救われる気持ちになった。三島は、あの日、自害などすべきではなかった。若さを失ったまま生きて、書くべきだった。

中村文則の解説文を読んでいたほぼ同時期、ある作家が、三島由紀夫には五十まで生きて欲しくなかったと語っていたのを見た。あの結果になり、三島としてはよかったんじゃないかと、彼女は語る。クソだ。四十五歳で、自ら命を終わらせた青年を、それで良かったと言うのは絶対おかしい。彼が世界的な作家だったことは関係ない。どんな背景があったとしても、青年が自ら命を絶つのは不幸せなことだ。そんなことも分からない作家に名作など書けるはずがない。わたしは彼女の書いたものはもう読まない。

五十を過ぎて、六十を過ぎて、おじいさんになった三島の書いた物をわたしは読みたかった。駄作しか書けなかったとしてしも、それを含めて三島由紀夫だと思いたかった。中村文則の言う「人生の中点の危機」を通り超していく三島を見たかった。三島に生きて欲しかった。

 

◆快楽に誠実だった雨宮まみ

三島が彼なりの美学を遂行するために、死を選んであろうことは、わたしにも想像できる。だが、自死しなくては達成できない美学など、取るに足らないものだ。7年前に亡くなったライター雨宮まみに対しても、わたしはそう思っている。美学に背いても生きて欲しかった。雨宮まみの著作が発売された。恐らくこれが遺作になるのだろう。雨宮まみとは直接の面識はない。イチ読者、イチファンから見た雨宮まみは、都会的で、洗練されていて、キレイで、だけど横柄や高飛車ではなくて、嫌みにはならない美しさがあった。憧れてもいた。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

だけどその美しさは、彼女が色んなものを犠牲にして手に入れたものでもあった。彼女の書く文章を見ていると、節々に戦った跡をみることができる。今回発売された「40歳がくる!」の中にもそれはある。

 

だからこそ、そこから逃げるように楽しいことを追いかけ続けた。父のようになりたくない。ならない。エロ本の編集者をしたり、AVライターになったりしたのも、その中のひとつだろう。父にとってそれは歓迎すべき展開ではなかっただろうが、この頃からだんだん「もう、そういう子だから仕方ないのかもしれない」という諦めたような需要の態度を見せるようになってきた。

真面目に生きることこそ正しいと考え、地元の大学を出て、堅実に働くように勧めた父。そこから逃げるように、雨宮まみは東京に出てきた。いや、逃げたのではない、彼女は、彼女の正しさに正直に生きた。楽しいことを追いかけることは正しい、という美学を彼女は追求したかった。甘い方に流れ、結果的に快楽的なものにありついたのではなく、楽しいこと、快楽的なことを求めることは正しいことだと証明したかったように、わたしは読み取れる。父から否定されてきた自分の好きなものを、悪いものではない、素晴らしいものだと証明したかったのだ。

 

雨宮まみが最後に書いた文章

「40歳がくる!」は雨宮まみの生前の連載コラムをまとめた書籍だが、掲載されたなかった未公開の作品がひとつ含まれている。「だんだん狂っていく」と題された、その作品は、雨宮まみが「いつまでに死にたい」という気持ちをもって生活していた様子が綴られている。

軽く「死にたい」と思う程度の落ち込みのときは何も手につかなくなったりするのだけど、わりと本気で「いつまでに死にたい」という感じのときは、自分でも意外なほど、表面上はなにも変わらない。死にたいなんて気持ちは、奥の奥のほうにあるもので、表側の自分は普通に日常をやってのけている。不思議なことだが、強く重い気持ちが胸の中にあっても、それを抱えながら過ごした毎日は、これまでにないくらい楽しい毎日だった。

自分自身で決めた余命宣告。その日までの日々が書かれている。もう死ぬんだからと、好きな服やアクセサリーを買い、日々を満喫する。その一方で、身辺を整理するかのように、調味料や食器を捨て、NetflixWOWOWの有料会員を解約する。そして、楽しみにしている数日後のパーティー、その後に死のうと、彼女は思う。

雨宮まみの死因は事故だったけれど、彼女は自ら死に向かっていた。それが、生々しく分かって、読むに堪えない気持ちになる。我慢せず、欲望に正直に生きよう。それは、彼女にとっての美学だっただけでなく、死に向かう故の刹那的な行動でもあったのだとしたら、わたしは残念に思う。快楽的なものをよしとする、楽しさを良しとする。そんな雨宮まみをかっこくよく、素敵だと思っていた。憧れてもいた。だけど、その美学が、いつまでに死のう、という「期限付きの生」故だったとしたら、そんな美学はかっこ悪い。

様々な事情で、楽しいことを我慢しなくていけなかったとしても、無難で、堅実で、ダサくみえても、たとえ、父親のようになってしまったとしても、生きていたほうが素敵だった。都会的でキラキラした雨宮まみではいられなくなったとしても、その四十歳の雨宮まみをわたしに見せてほしかった。

 

◆ダサく、つまんなくて、キラキラしてない人生

「40歳がくる」を読み終わった翌日、あるAV女優の死を知った。そのAV女優とは直接の面識はなかったけれど、わたしの会社は彼女の作品を撮影していて、彼女の印刷されたDVDジャケットを見せながら、彼女の魅力を語っていたことを思い出した。ああそっか、あの子は死んでしまったのか。あの作品について、営業先で話してたな。一緒にイベントでもやりたかったな。彼女について考えていたことが蘇る。わたしは彼女と一度も会えなかったし、営業資料とDVDジャケットの中でしか見れなかったけれど、生きててほしかった。

若くてかわいい彼女はきっと、年をとれば、大人の見た目になるだろう。劣化したなんて下品な言葉をかけられるかもしれない。それでも、生きててほしかった。AV女優の仕事は辞めてしまうかもしれない。ファンの前にでることもなくなるかもしれない。二十代を通り過ぎて、AV女優じゃなくなって、表に出る仕事をしない普通の三十代、四十代になって、わたしは十年後とか、二十年後とかに、あの時売ったあの子何しているだろうって思い出す。そんな未来がほしかった。そんな将来は、ダサいかもしれない、つまんなくて、キラキラしてないかもしれない。それでも、そんな未来が欲しかった。ダサく、つまんなくて、キラキラしてない人生でも、生きていてほしかった。

2月2日歌舞伎町ガールズバーviviに出勤します

どうも、どうも。

再びガールズバーのガールズになります。

2024年2月2日(金曜)に歌舞伎町のガールズバーViviに出勤します!

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

ガールズバーviviとは?って人はViviのサイトを見てね。

girlsbar-vivi.jp

 

 

Vivi出勤は去年の5月に働いて以来です。思いのほか楽しくて、もう一回やりたいなってことで働きます。大人数の飲み会は得意ではないのですが、ガールズバーのガールズは、1~2人対1でお喋りできるから楽しいですね。一人ひとりとお話を楽しめる感じが楽しいです。あとはviviの女の子もみんなフレンドリーで働きやすかったです。来てくれる人も、友達と飲むぐらいの感覚で気軽に来てもらえたらうれしいです。

今回もオープンから23時ぐらいまでゆるゆると働きます。前回来た人も、来れなかった人も、ぜひぜひ来てね。

 

システムは以下です。

飲み放題 60分 ¥4,000 ※¥4,400 tax in(女性半額)

自動延長 30分 ¥2,000 ※¥2,200 tax in(女性半額)

 

住所とか。

〒160-0021
東京都新宿区歌舞伎町2-38-2
第二メトロビル2F

 

歌舞伎町ど真ん中、ゴジラの裏です。新宿ですけど、怖い店じゃないので、初めての方も緊張せず来てください!女性のお客さんも歓迎です!女の子は半額で飲めます!ガールズバー初めてって方にはシステムをしっかり説明するので気負わずきてね。

 

2月2日、寒波で乾杯しましょうぜ

女の子の寂しさを埋めるための「推し」

中上健次の岬を読んだ。作中の男女は、つがいになっては子供を産み、すぐに別れ、家族の中には幾人もの異母兄弟、異父兄弟がいる。歪な人間関係だが、文化も、貞操も、ない人間たちはこのようなコミュニティを築くものなのかもしれない。一昔前の日本の地方ではよくある光景で、人間の根本のような社会なのだろう。

 

 

主人公、竹原秋幸の異父姉の夫、実弘の妹に光子という女がいる。光子の夫、安雄は、光子の恨みに加担する形で、実弘の兄、古市を刺殺する。逮捕される安雄に光子は待っていると約束する。だが、話の最後、別の男とつがいになる。誰かと一緒にいないではいられなかった。男が誰かとセックスしたい欲求、自分を受け入れられたい欲求に振り回されるように、女は寂しさを埋めたい欲求、だれかとつがいたい欲、特定の誰かの特別になりたい欲に振り回される。寂しさを自制できない女は、自分の大切なもの、今の生活や家族や堅実な日々を捨て、安易につがいになれる誰かを探す。岬の光子がそうであったように。女の人は寂しさに振り回される。その欲求を埋めるために、作られた商売が今の時代多い。

先日飲みに行った際、知人の親戚女性がメンズ地下アイドルにハマっていてと話していた。「適度にハマるならいいんじゃないですか」とわたしは言った。それが楽しみのひとつになるなら、いいと思う。だが、適量ではないらしい。当該の彼女は20代半ば。医療系の仕事をしていて、安定した収入はあるがそれでは足りなくて、副業でキャバクラのバイトを始めた。明け方に帰る日々が続き、同居する家族も心配している。家族はアイドルへの過度な支出をやめてほしいと思っているが、本人には伝わらない。アイドルに認識される、覚えてもらえる、それ以上にもなれる。お金をかければかけるほど、対象との距離は縮まる。それが中毒になり辞められない。

 

◆女の子こそ推し活は適量に

わたしは、AVの営業で、推しコンテンツを提供する側の人間だが、それでも、推し活は適量で、と思っている。自分の経済の範囲を超えて、応援してはいけない。AV女優のファンの中でも、過剰に思いを注いで、恨みを持ってしまい、女優を傷つけようとした事件もあった。そこまで行く前にブレーキをかけなくてはいけない。

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推し活は適量に。それは男女ともに言えることだけれど、わたしは、特に女性に伝えたい。理由は二つあって、ひとつは、女性は、仕事を変えることで、大金を手に入れやすいからだ。前述の知人の親族もそうだろう。キャバクラという水商売をして普段以上の金が手に入ってしまう。水商売だけでなく、性サービス業であればもっと短時間で、大きな金を稼げる。わたしは、この業界に入り、性を提供する対価を具体的に知った。吉原の高級店で、1回のサービスで7万円する店もあると聞いたことがある。1人2時間だとして、1日4人相手して28万円、働く女性に入る金額が半分だったとしても14万円。1日、14万円。それは、わたしの大卒最初の手取りとほぼ一緒だ。リーマンショックでロクな働き口もなく、仕方なしについた広告制作のアルバイト、そのひと月分の給料を1日で稼ぐ。1日14万円を20日続ければ一カ月280万円。男性で、月収を280万円増やす転職は滅多にない。これは女性だからできる収入の増やし方だ。

だが、安易に性を提供することを良いと、わたしは思えない。今AVの仕事をしていて、AVを辞めた後に後悔する女性を幾人も見ている。それは、他者から強要されたなど、どうしようもない理由で出演した人だけでない。自分の意思で出演し、出演した当時は苦痛なく仕事していた人であってもである。人生の変化にともなって、過去に性を提供したことを、やらなければよかったと思う。仕事として性行為をすることは、10年後、20年後に、自分の人生の足枷になるかもしれない。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

◆寂しさに支配されて自制心を失う

そして、女性に、推し活は適量に、と言いたい二つ目の理由は、女性は寂しさに支配されてしまいやすいからだ。中上健次の岬にあったように、女性は、誰かの特別になりたい欲求に振り回される。刑務所に入り一緒にいられなくなった夫を待てず、別のつがいの相手を選んだ光子のように、自分にとっての特別を探してしまう。

男性の多くは、自分を受け入れてもらえたと思えた段階で、欲求にブレーキがかかる(だからこそ、推しの側は、受け入れてもらえそうで、もらえない状況を維持する)。対照的に、女性は、常に特別であり続けたいし、認めてもらい続けたい。相手の特別で居続けるために、対価を払い続ける。関係を維持する対価を支払ってくれるから、「推し活」という商売が延々に成り立つ。関係性の維持のため、特別でいるために対価を払い続ける。

昨今、ホストに規制をかける動きが進んでいる。規制の方法に議論の余地はあるだろうが、わたしは、これ自体はよい動きだと思っている。

www.yomiuri.co.jp

 

キャバクラなど男性をターゲットにした商売も同様に規制をという意見もあるが、やはり、これは別に考えたほうがいいと思っている。女性は、お金を作りやすくて、かつ、無尽蔵に対価を払い続けられる。愛し続けられる。だから何か、せき止めるためのものが必要だ。

そして、同時に、推しにハマる女の子たちに、自制心を持って賢くなって、と老婆心ながら思ってしまう。寂しいという気持ちに振り回され、他のすべてを放り出してしまう彼女たちの行っていることは根源的欲求に振り回される動物のようだ。

文芸批評家の江藤淳は、中上健次の岬に関して「ここに描かれているのは、ほとんどけものじみた世界である」と評した。誰かの特別になりたい、つがいたい、認められたい、そんな欲求に振り回されて、生活をダメにしてしまうのは獣じみた行動だ。周囲の助けの手を借りながら、彼女たちが人間らしさを得てほしいとわたしは思う。

ヘイトを売れと言われたとき

2010年代半ば、ヘイト本と言われる本が流行していた。ヘイト本とは、ヘイトスピーチが書かれた本。国籍や思想、信条、セクシャリティなど人々の内面を差別する内容が書かれた本だ。

ヘイトスピーチとは何か、国連では以下のように定義している。「ヘイトスピーチに関する国連戦略・行動計画」は、ヘイトスピーチを次のように定義している。

ある個人や集団について、その人が何者であるか、すなわち宗教、民族、国籍、人種、肌の色、血統、ジェンダー、または他のアイデンティティー要素を基に、それらを攻撃する、または軽蔑的もしくは差別的な言葉を使用する、発話、文章、または行動上のあらゆる種類のコミュニケーション

www.unic.or.jp

 

編集者の友人が、昔勤めていた会社で、ヘイト本を売っていたと話していた。ヘイト本に書かれた内容は彼自身の信条ではない。むしろ彼自身は他人を軽く見たり、バカにしたりもしない、差別を嫌う人間性だ。だからだと思う。当時は、仕事が嫌だったと言った。嫌だったけれど、仕事だから売らないといけない。結果的に彼はその会社を辞めた。

仕事として、商業活動の一旦として言論を扱うことは、自分の倫理観にそぐわないものを扱わなくてはいけない。わたしは、ジャーナリストや編集者を目指していたこともあったけれど、ならなくてよかった。たとえ、仕事であっても、だれかを馬鹿にしたり、差別したりする読み物を作りたくないし、売りたくない。わたしはAVでよかったなと思った。

AVの中には、犯罪をモチーフにしたものや、現実に行うと罰せられる行為を演じさせる作品ある。だけど、そこはフィクションの世界という線引きがある。特定の誰か個人や団体を貶めることはない。現実から分離された中での出来事として扱っている。だからよかったと思っていた。思っていたけれど、それがひっくり返る出来事があった。ヘイトスピーチみたいなAVを見つけた。

 

◆批判するときこそ誠実に

作家の内田樹さんは、批判するときこそ、相手の尊厳を傷つけないように気を付けると言っていた。わたしもその通りだと思う。たとえ、自分と異なる考えや思想だとしても、その考えに至った背景や生き方がそれぞれにある。そこに敬意を払わず、馬鹿にしたり、茶華したり、下に見たりしながら、違うと言っても伝わらない。誠実に、真摯に、相手個人を否定せず「違う」と言わなくてはいけない。

そのように誠実に批判する媒体として、AVは不向きだ。多くの人がAVを買う目的は、性欲だ。あとは面白さとか、エンターテイメントとして買う人もいるかもしれない。誠実な気持ち、学びたい気持ちでAVを見る人はいないだろう。AVは教科書にも、哲学書にもならない。AVの中での他者への批判は、性欲の一旦になり、面白さを加速する道具になる。エンタメや性欲の一旦として消費される文脈で「間違っている」を言われたとして、言われた相手はどう思うだろう。誠実に受け入れることなどできないはずだ。わたしなら受け入れられない。批判した人へ怒りを持つ。

 

◆ヘイトを扱わなくてはいけない人々

同時に考える。わたしから見れば、ヘイトのように見えるAVを、作らなくてはいけない人、売らなくてはいけない人も存在している。可哀相だと思う。本心から、これが素晴らしい作品と思っている人もいるかもしれないけれど、だけど、きっとわたしのように、これは好きになれない作品だなと思っている作り手側もいると思いたい。

今わたしのいる会社はヘイト本のような作品は作っていない。だけど、もし万が一企画が上がったら、ちょっと良くないですよ、批判されますよと、何か機会を見つけて言う。それでも販売することになったら、本心では嫌だけど、営業してしまうと思う。仲のいい店には、あんまりよくないですよ、とこっそり言うかもしれないけれど、仕事だから、やっぱり売ってしまう。ヘイトの一旦に加担してしまうだろう。嫌だなと思いながら仕事をする。ヘイト本を売った彼のように。

そんな売り手がわたしと同じ業界にいるかもしれない。それを悲しいことだとわたしは思う。わたしはその人に辛いねって言ってあげたいけれど、そんな言葉、届かない。

AV女優が子供をもってはいけないのか

Twitterを眺めていたら、元AV女優かさいあみさんのツイートが目に入った。

 

 

かさいさんはお子さんがいることを公表している。大半のファンは快く受け入れているけれど、一部批判的な人もいる。コメントの主もそうだったのだろう(だとしても言い方が攻撃だけど)。

AV女優に限らず、特殊な仕事や立場の人が子供を持つことに対して、批判的な意見はある。例えば、少し前に、タレントのりゅうちぇるさんも、親としてふさわしくないと批判が相次いだ。SNS上で彼が子供の世話をしていないように見えること(見えるだけで実際にしていないか分からない)なども理由だが、それだけでなく、性的マイノリティーである人物が子供持つことへの批判もある。特異な親がいることで子供が苦労する可能性があるという意見だ。


◆子供を持つことを禁ずることはできるのか

AV女優にしろ、性的マイノリティーにしろ、特異な親がいることで子供が苦労する可能性があるか、と問われれば、あるだろう。可能性はある。そして、防ぐ手段もある。子どもを持たない選択をすればいい。

けれど、子供を持たない選択肢を選ぶ義務や責務があるかと問われたら、そこまでの責任はない。それに、本人の内面的な問題を理由に、子供を持つことを禁ずるのは、人間性を逸脱した意見だと、わたしは思う。一部の障害を持つ人を、強制的に堕胎させてきた優生保護法ようではないか。

そもそも特異な環境に生まれた子供たちを苦しめるのは、親ではなく、その周り人間の、偏見に満ちた眼差しだ。「子どもが可哀想」「子どものことを考えろ」とヤジを飛ばす周りの人間が一番、子供の気持ちを無視して、攻撃していることを、理解してほしい。子どものためというならば、できることはひとつ、明確な児童虐待があったとき、もしくは本人が、助けてと言うとき、以外は黙ってみていることだ。

www.mhlw.go.jp

 

萩原朔太郎の娘は不幸だったのか

詩人萩原朔太郎の娘、萩原葉子の生涯を書かれた本を最近読んだ。

 

萩原朔太郎は、裕福な医者の家庭に生まれながら、学校も卒業できず、酒を飲んで、詩を書いて生活していた。朔太郎のもとに生まれた葉子は堕落した父のせいで大変苦労した。母は出ていき、葉子自身は父方の祖母に育てられるが、息子を捨てた女の子どもである葉子は祖母に疎まれる。今でいうネグレクトに近い環境で育ちながらも、葉子は父と同じ文学の道を目指し、父朔太郎について書き続ける。身内の恥をさらすと親族から詰られながらも文学を続けた。葉子が書くことができたのは、父への愛憎がまじった感情があったからだ。

酷な幼少期を過ごして可哀想だったと、なにも知らない私たちが、哀れみで言い切ることはできる。だけど、本当に本人にとって可哀想だったか、選びたくない人生だったかどうか、分からない。


作中、葉子が詩人室生犀星から受け取った手紙が紹介される。

「文学というものは書かない前はうじむしで、書けば蝶々(ちょうちょう)になる」

他人から見れば悲惨なうじむしのような生活だったが、後に筆をとり、自ら蝶々のように飛び立った。その人生が、幸福か、不幸か、それは他人わたしたちが決められることではない。

 

AV女優の子供だって、性的マイノリティーの子供だってそうではないか。決められるのは、蝶になって飛び立ったときの、彼、彼女自身だけだ。この父、この母がいることが可哀想だと、他者が決めつけること自体が、その親のするどの行為よりも、もっとも残忍な行為だと、理解してほしい。「可哀想」と言う前に、自分が惨いことをしている自覚をもってほしい。惨いこと、人間のすることでないようなことをしているのは、他でもない自分自身なのだと。

わたしたちはルールの中で戦わなくてはいけない。

憤った様子だった。こちら側の状況が何も分かってないですよ、と彼は言う。

その日会った友人は子供たちを支援するボランティアをしている。ボランティアとして、子どもたちと接する際、大人が思い通りにしようとすると、見破られる。こちらがしたい支援をしようとすると逃げられる。上から常識を押し付けるようなことは駄目で、彼らの望むものを差し出さないといけない。だから、子供たちが居心地のいい場所を作って支援してあげなくてはいけないと、彼は語る。

その言葉に、そうだねと、頷いた。大人が助けたい形で手を差し伸べても子供は拒絶するだろう。ある日、女子高校生たちに、コスパいいと言われ嬉しかったと言う。コスパがいい、それは取り繕ってない子どもたちの本心から出た言葉だと、わたしも聞いていて思う。

「だから……」と彼が続けた話に、わたしはどうしてもうなずけなかった。子供食堂の主催者が逮捕されたニュースのこと。理由は未成年の飲酒と喫煙が原因だ。逮捕する側はこちらの事情を分かってないと彼は憤る。

帰ってからニュースを調べた。たぶんこのことかな、と思う記事を見つけた。

www.otv.co.jp

大人のルールを押し付ける組織に子供は馴染まない。離れていく。だからこそ、飲酒や喫煙を厳しくしかれば、離れていってしまう、子どもたちの居心地のよさを守るためにそうせざるを負えなかった。そういうことだろう。

 

◆ルールを変えないならば従うしかない

だけど、それでも、わたしは思う。やっぱり、子供たちの飲酒や喫煙を容認する組織はよくない。わたしたちは決められたルールの中で戦わなくてはいけない。

ルールが誤っている場合もある。この国では過去たくさんの間違ったルールがあった。78年前までは、国家総動員法治安維持法なんてルールがあったような国だ。ルールそれ自体に疑問を持つこと自体はあって当然だと思う。しかし、彼は未成年の飲酒や喫煙を合法にしろと言っているわけではない。心身ともに未発達で、判断力が弱く害が及びやすい未成年の飲酒や喫煙を禁ずること、それ自体に反論はしていない。ルール自体がおかしいとは言わないけれど、この場では見逃してくれよ、ということ。その主張にわたしは賛同できなかった。どんなに善良なことをしていても、ルール違反をしている人にペナルティがあるのは間違いではない。

 

ルール自体に異論はない。だが、ルール違反をしてしまう。ルール違反の誘惑も目の前にしたとき、できることは、リスクを自覚したうえでそれを行うか、しないか、どちらかしかない。問題になった施設で、飲酒や喫煙をしていた子供たちは、子供食堂で飲酒や喫煙をするリスクをどこまで分かっていたのだろうか。摘発されるかもしれない、ここがなくなるかもしれない、そこまで分かってやっていたのか。だとしたら、その程度の居場所でしかない。利用者たちに、なくなってもいいと思われている組織だった。

 

◆都合の悪いことを隠して作られた居心地のよさ

もしかしたら、利用者たちにリスクを説明していなかったのではないか。子どもたちは事実を――つまり、「みんなの居心地のために飲酒や喫煙を強く言わないけれど、もしかしたら摘発される可能性があるよ、あなたたちも警察や行政から注意をうけるよ」と説明されていたのだろうか。説明してなかったとしたら、子供たちが可哀想に見える。都合の悪いことを言わずに、隠して、ここにいてくれというのは、子供たちを思い通りに動かそうとしている気すらしている。それは、上から目線の支援とは別の形で、自分たちの望みを押し付けていることだろう。その場で子供たちに喜ばれたいがために、後に受ける不利益を伝えない。それは子供のためになってはいない。助ける側が、子供たちに受け入れられる大人という像になりたいだけではないかと、わたしは疑う。

そして、もし、飲酒喫煙より罪の重い犯罪がそこで行われたとき、監督者たちはきちんと指導ができないのではないか、とも思わせる。そうなったら、それは子どもの居場所ではなく、犯罪の温床だ。飲酒喫煙が、ゲートウェイドラックのように、もっと重い非行の入り口とならないよう、やはり取り締まって然るべきだったとわたしは思う。

未成年の飲酒や喫煙はよくあること、と言うかもしれない。でも、だとしても、それがルールであるなら、線を引かれて、ペナルティを下されるのはしかるべきだ。ルールを分かったうえで、それを破り、ペナルティが下されることに異論を述べるのは、わたしも含め、大多数の外側の人間に受け入れられない。だからこそ、こうやって問題になったのだろう。

 

◆危ない方にいかないでと言いたかった

そして、この話を聞いたとき、わたしは、彼に、あなたは同じことをしてはいけない、と言いたかった。たとえ子供たちに受け入れるために、そうせざるを得ないと思ってしまっても、運営者が逮捕されるような組織に関わってはいけないし、法に触れることをしてはいけない。どんなに善良な活動であっても、自分が法に触れてまで行うことではない。善意を理由にルール違反するなんて、矛盾している。それは善意でなくて、自分の主義主張の押し付けだ。

だけど、わたしは、そんなことを言ったら嫌われるような気がして言えなかった。もしかしたら、子供たちに強く言えない監督者たちも一緒の気持ちだったのかもしれない。嫌われたくはない、でも相手の言動を正しいと思えない。そう思ったときどうしたらいいのだろうね。子供たちのためと言いながら、自分の身を滅ぼすようなことはしないでほしいとだけ、わたしは思っている。