オナホ売りOLの平日

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キズナアイ騒動から見えた女の子を追いつめるフェミニストたち

少し前にバーチャルYoutuberキズナアイが話題になった。キズナアイノーベル賞に関して解説するWebサイトに掲載された際、弁護士の太田啓子さんや武蔵大学教授の千田有紀さんなどに「性的だ」「女性蔑視だ」という理由で批判された。

 

www.huffingtonpost.jp

news.yahoo.co.jp

news.nicovideo.jp

 

今回キズナアイを批判した有識者は「フェミニスト」と世間からみられている人が多かった。一方で、女性の権利を守る活動している弁護士の伊藤和子さんは今回のキズナアイ騒動に関して、女性らしい服装を理由に批判されていいのかと、ブログに書いている。

worldhumanrights.cocolog-nifty.com

 

女性が女性であること、女性が好きな服装をすることが性的だとか問題だと言われて公の場から排除されたり差別されること、見下されることに対して、怒りを感じていました。

 

エマ・ワトソンが胸を見せたのは、反フェミニストなのか、という論争も起きましたが、女性があるがままにあることを批判されるべきではないと私は思います。

わたしは今回の出来事に関しては、伊藤さんの意見に共感する。女性を蔑視しないこと、女性の権利を守ることは大切だ。だけど、女性自身が、自分の意思で、自分の好みの服を着て、それがたとえ、ピンクやヒラヒラや胸を強調するものであっても、それを批判してはいけないよう私は思う。

保守的な女性性に近い物や好みであっても、女性自身が、それが好きならばそれでいい。もちろん、保守的な女性性が嫌いな人にそれを強要するのはよくないけれど、保守的な女性性が好きな人に嫌いになるように強要するのも違うように思う。女性的なものが好きな人も、そうでない人も同じように本人の意思を優遇したほうがいい。女性的だからという理由で批判されたり、蔑視されたりすることに違和感を持つ。

 

◆統合型と分離型のフェミニズム

男性型の社会において女性は「統合型」もしくは「分離型」で定義された。上野千鶴子さんの書籍「ナショナリズムジェンダー」には以下のように記載がある。

ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

 

 

これは「国民化」と「ジェンダー」の「境界の定義」をめぐる問い、すなわち「国民」が男性性をもとに定義されているとき、「総動員体制」と「性別領域指定」のジレンマをどう解決するか、をめぐっての二通りの解の可能性を暗示する。結論を先取りすれば「統合型」と「分離型」と言っていいかもしれない。いずれも女性の戦争参加の下位類型には違いなく、「統合型」は「男なみの参加」、「分離型」は「女性らしい参加」と言い換えることもできる。

 戦時下、徴兵制を動員しなかった日本やドイツは分離型、女性であっても兵士として徴兵していたアメリカやイギリスは統合型と説明している。そして、書籍ではこのように続ける。

 

(戦前のフェミニズムを語るとき)その中でしばしば取り上げられるのが市川房江、平塚らいてう高群逸枝の三人である。私はこの3人を取り上げるのは、彼女たちが戦前のフェミニズムを語るのに欠かせない著名な人物であるからではない。市川が婦人参政権論者、平塚が母性主義として、それぞれ「統合型」と「分離型」のフェミニスト戦略を徹底的に代表しているからである

 

平塚らいてうは婦選運動のような「参加の思想」には消極的だったが、母子保護法や、国民優生法、妊産婦手帳の交付といった国家による母性保護、母性管理には貢献した。 平塚らいてうが行ったような、女性が、従来女性としての役割とされてきたことをより行いやすく安全にできるように努めることも女性の権利を守る活動だ。しかし、分離型の視点から女性の権利を主張できるフェミニスト、分離型で女性が幸せになることを許容できるフェミニストはもしかしたら少ないのかもしれない。

 

北原みのりに「話していると辛い」と言った女友達

北川みのりさんも女性の権利を主張する書き手の一人のように思う。彼女の意見や主張は賛同できないことが多いけれど、彼女の書いたエッセイ「メロスのようには走らない」は面白く、共感もできた。わたしが女の子に対していだくモヤモヤした腑に落ちない感情を代弁してくれている。

メロスのようには走らない。~女の友情論~

メロスのようには走らない。~女の友情論~

 

 

そのなかに、夫の浮気を相談してきた友人タナカさんとのエピソードある。離婚し、シングルマザーになる道を一緒に模索していたけれど、結局、彼女は夫との関係を続けることを選ぶ。それに対して著者はよいと思えなかった。

明らかに意気消沈している私に、タナカはさらに追い打ちをかけた。

「正直に言えば、みのりと話していると、男と別れられない自分が、だめな女に思えてきて辛かった。話聞いてくれて助かったけど、みのりの話を聞いているのが辛い時もあった…」

 北原さんは、浮気男と別れ、一人で自立し、強く生きるタナカさんを望んでいた。だけど、タナカさんにとって、それは最善ではなかった。本人の考える幸せと、北原さんの考える幸せが違った。

フェミニストと言われる人たちが、上野千鶴子さんのいう「統合型」以外の女の幸せを認められない。北原さんのこのエピソードもそれに近いように感じる。女性の自立、男性と同等の権利を望むけれど、そうでない女性もいる。専業主婦になって、旦那さんの生活を支えることを最善と思う人もいる。そういう女性に対して、女性の味方であるフェミニストが追いつめてしまうシーンがあるように思う。

 

◆優しいフェミニストを求めている

わたし自身も同性の女の子に強く幸せに生きてほしいと思う。だけど、女の子は、一緒くたにはできなくて、仕事に邁進することを幸せと思う人も、家庭で家族につくすことを幸せと思う人もいる。一人ひとり、その人と向き合って、小さな主語で意見を述べるほかない。どちらの幸せも認められる、優しい寛容なフェミニストが増えるともっと女の子が生きやすくなれるのかな。怒りではなく、相手への優しさで動くフェミニストがきっと必要だ。