オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

裸になる誘惑に抗う

「女の人のおっぱいをいつもシュレッターにかけています。どうして自分がかけられる側じゃないか考えています」

 

映画「グッドバイ、バッドマガジン」の劇中、主人公のエロ本編集者、詩織は、仕事で扱う女の裸が、どうして自分のものではないのかと、自問する。そして、なぜ人はセックスするのかを考える。

www.gbbm-movie.com

 

劇中、詩織に「なんで人はセックスするのか分からない」と打ち明けられた、元AV女優でライターのハルは、答える。「分からないのは、詩織ちゃんが服を着ているからじゃない」

セックスをする理由が分からないのは、自分自身が、服を脱がないからだ。服を脱げば、裸になれば、分かることがある、見える世界がある。そういった、「脱いだら分かる」「脱いだ方が良い」「脱いだ方が偉い」というイデオロギーが裸を売る世界にはある。

 

◆裸になる側とならない側の間にある壁

2015年から、エロを仕事にしている。もう7年も経った。7年この世界にいて、脱ぐ側とそうでない側には大きな壁があると、わたしは感じている。そういった隔たりを感じているのは、脱がない側にいる私だけではない。AV男優の森林原人さんは著書「セックス幸福論」で語っている。

 

セックスを人前でしてしまうという価値観は、どの時代、いかなるコミュニティでも常識外れです。AV業界内ですら、出演者というのはどこかしら特別視されていて、パンツを脱ぐ人と脱がない人の間には一線が引かれています。裸産業ということで一緒くたにされているAVと風俗ですが、厳密なことを言えば、セックスを見せてお金をもらう出演者と、セックスをサービスとして提供しお金をもらうサービス業ではセックスの意味合いも違います。しかし、傍から見れば、どちらもセックスを通してお金を得ているわけで、どちらも身体を売っていると言われてしまう行為です。自分の子供が、その体を不特定多数の人間に提供したり裸を晒す仕事に就くことを喜ぶ親はなかなかいないでしょう。体を売るということは、その体を粗末にしているようだし、できる限り大切にしてほしいと思うのが親として当たり前です。

 

セックスを人前でするという価値観は常識外れである、そして、親であれば、それをして欲しくないと思うのは当たり前。実際に、人前で裸になり、セックスをするAV男優であっても、そう考えている。一般の倫理感では「やってはいけない」とされる行為。人々がやりたがらない行為。だからこそ、「裸になれば偉い」「裸になれば見えるものがある」と言われる。それはそれ相応のリスクや負担があるという側面でもある。

 

森林さんのように、相応のリスクを理解し、分かった上で裸になるのであれば、素晴らしいと思う。しかし、そうではない人も中にはいる。ここ数年AVを出演した演者が作品の販売を辞めるように依頼する「取り下げ請求」ができるようになった。元々は、AV出演強要問題の被害者になった方を救済する目的であったが、取り下げを求める人は、それ以外にもいる。自分の意思で出演したが、5年、10年後、AVに出たことが人生の足かせになり、出演作の販売を停止するように依頼する。自らの意思で裸になったことを、後悔する人もいる。

 

◆本当に後悔しないのだろうか

「あの人、男優もはじめたんですか?」

わたしは思わず、聞き返した。何度か会ったアダルト動画の関係者の知人が、男優業も始めた人づてに聞いた。わたしは少しショックだった。彼に特別な感情があったわけではない。そこまで親しい側ではなかった。ただ脱がない側で戦う人だと思っていた。

出演強要など、AV業界の問題が露呈したこともあり、女性がAVに出て、セックスをすることに対してのマイナスイメージは強くなっている。悪く思われている分、出演を決める際に、本当にやっていいのかと、考える時間ができる。AV女優になる際のストッパーは強くなる。一方で、AV女優として以外の手段で裸になる際のストッパーは少ない。

AV男優の場合、制作者が男優も兼任していることもある。制作費はどんどん削られ、利益は少なくなる。その中で削れる費用としての男優ギャラを選び、自ら裸になることもある。

AV以外でも、裸になる人たちはいる。同人AVと言われるジャンルで、セックス動画をネット上で販売しているカップルが話題になっていた。彼らはどこまで「裸になるリスク」を認識しているのであろうか。5年後、10年後、後悔しないと言い切れるのだろうか。AVの取り下げ請求ができるようになった今でも、違法にアップロードした動画など消えない映像はある。一度、公に晒した裸体を全て消すことなどできない。それでも、裸を晒す仕事をしたいのか。

 

「脱いだら分かる」という考えの背景には、森林さんの言うように「常識外れ」とされて、他の人がやらないからという側面がある。他の人がやらないからこそ、普通の、一般の人が見えない世界が見える。だけど、そのメリットの反面、リスクや負荷も大きい。それでも裸になりたいか、ということを問い、裸になったときに得られるメリット、裸になる誘惑と、天秤にかけなくてはならない。

ブレイキングダウンはなぜ格闘家に受け入れられないのか

「いいですね、殺気出てますね」

ボクシングジムのレッスン。ミットを打つ練習の最中、インストラクターに笑われた。

アラームが鳴り、2分間のミットインターバルが終わる。それぞれが、ミットと、グローブを下す。それを見ると、現役のプロキックボクサーとしても活動している彼はこう言った。

「試合のとき、殺気でていると強くなぐるぞって警戒されちゃうんですよね。

警戒されてないうちに殴れば向こうに効果あるんですよ」

殺気を出さず、感情を出さず、相手が消耗し、自分が消耗しない、最短ルートで勝てる攻撃をするのがボクシングのようだ。

ボクシングを習い始める前、格闘技と暴力は同義のように思っていた。やみくもに強い攻撃を当て合って、相手をボコボコにする競技だ、と。だけど、実際に習ううちにそうでもないと気が付いていった。テクニックを使い、自分がダウンせずに試合が終わるよう、慎重に、熟考して振舞う競技だった。

 

◆既存の格闘技を壊す「ブレイキングダウン」

「ブレイキングダウン出たらいいじゃないですか!」

ボクシングを習い始めたと、友達に言うと、「ブレイキングダウン」という競技の話を出した。彼は「ブレイキングダウン」の試合動画やオーディション動画が面白いと話す。

「ブレイキングダウン」をプロデュースする「レディオブック株式会社」のサイトには、以下のような文面がある。

 

「Breaking Down」は、格闘技や格闘家のありきたりなイメージを

『壊し続ける』という意味が込められています。

成り上がりを狙うアマチュア選手と

「1分1ラウンド」の超短期決戦の掛け算。

瞬き厳禁の誰も予想できない展開から、

一夜にして第2の「朝倉未来」が生まれる可能性を秘めます。

radiobook.co.jp

 

また、ブレイキングダウンの公式サイトでは以下の様に説明している。

『BreakingDown』は、ボクシング、空手、空道、柔道、日本拳法、相撲、システマなど、様々なバックボーンをもった格闘家が出場し、「1分1ラウンド」で最強を決める新しい総合格闘技エンターテインメントです。

格闘技や格闘家のありきたりなイメージを“壊し続ける”という意味をこめた『BreakingDown』の大会名のとおり、成り上がりを狙う選手が1分間という超短期決戦に全力をかけて戦う、誰も予想できない展開が魅力です。

breakingdown.jp

 

出場者の募集要項を見ると年齢、性別だけでなく、格闘技の経験すら不問で、「アマチュア選手」が出場する格闘技トーナメントと言えるのだろう。

prtimes.jp

格闘技経験のない友人すら夢中にさせる「ブレイキングダウン」だが、プロの格闘家からは批判的な意見もある。

武尊はブレイキングダウンという名前は出さなかったが、否定的なコメントをSNSで行っている。

www.sponichi.co.jp

武尊は「子供達が見る影響を考えて欲しい。 何も分からない子供達からしたらあれも格闘技だと思ってしまうし それがメディアで放送されることで正しいものだと感じる」

それに対して、格闘家の平本蓮は、ブレイキングダウンの名前をだして批判する。

このツイートを引用した平本は「6月に武尊さんと天心のあんな素晴らしい試合があったのにブレイキングダウンが格闘技として一般層が認識してしまうのは正直納得いきません」とつづり始め、「ブレイキングダウンはいつか必ず重傷者や死者が出る危険な企画だと思います。大会ではなく企画。あんな危険なただの人の喧嘩は今すぐ終わらせるべきだと思います」とブレイキングダウンを批判した。

ブレイキングダウンに限らず、世界各地で「格闘バラエティ」というジャンルが台頭している。オランダのキックボクサーのアーネスト・ホーストは、素人も出場する格闘バラエティに対して、インタビューで答えている。

「ほとんどストリートファイトですからね(笑)。条件がよければ考えるけど、私はスポーツとして認知されるキックボクシングを実践するアスリートだった。そんな自分から見ると、あれはスポーツではない。個人的には好きではないですね」

number.bunshun.jp

 

訓練を受けてないアマチュアたちを選手として受け入れ、試合をさせる。もちろん、試合までの間に訓練は積むとは思うが、それでも、アマチュアから試合を重ね、試験や試合結果によって、プロになった人たちとは訓練の量が違う。技術の未熟なアマチュアたちを格闘技という舞台に立たせ、エンターテイメントとして試合を見せることへの批判はある。

 

◆格闘技は単なる「殴り合い」なのか?

ボクシングを始める前のわたしもそうだったが、「格闘技=暴力」だと思われている。殴り合って、相手を暴力でボコボコにすると思われる。だが、これは全く違う。

ボクシングが野蛮な殴り合いではなく、自分が勝つために体系立てられた技術を学ぶ「甘美な科学」であることを、証明したのがシカゴ大学社会学者ロイック・ヴァカンの書いた「ボディ&ソウル ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー」だ。

www.shin-yo-sha.co.jp

社会学者である著者は、シカゴのスラム街の中にあるボクシングジムに通い、ボクサーとして、ボクシングの技術を学び、その中での、公になっていない、ボクサーだけのわかる「甘美な科学」と言われるボクシング独自のルールを学んでいく。

ボクシングには、ボクシングをする人間だけが分かるルールが多数ある。たとえば、スパーリング。スパーリングとは、選手同士が実際に殴り合う、実戦形式の練習のことを言う。試合形式だが、全力で挑んではいけない。ときには、相手に合わせて力を弱めることを求められる。

 

スパーリング・セッションにおいては、暴力のレベルは挑戦と応答の弁証法にしたがってあがったり下がったり変動する。(中略)

リングのなかの暴力レベルを暗黙のうちに統制する互換性の原則は、強いボクサーが自分の優越性を利用してはならないと規定するのみならず、弱い方のボクサーがパートナーの意思による自己抑制を不当に利用してはならないと規定してもいる。それは、私がアシャンテとの激しいスパーリング・セッションの終わりに発見したことだ。一九八九年六月二九日、私は、アシャンテがディーディー(ボクシングトレーナー)に私が強く打ちすぎるために彼が顔面に強い打撃を打ち返して応えるほかないと文句を言ったことを知って呆然とする。

「アシャンテのやつは俺に、お前が強く打ちすぎるから、お前と楽しんでスパーリングできないと言った。お前はもう十分に進歩したんだから、やつはお前のパンチがあたらないように注意しなきゃならねえ。さもなきゃ、お前はあいつにケガをさせちまう。クリーンヒットを当てりゃ、ノックダウンできるだろう。やつは文句を言っていたさ、お前が後ろに下がらないし、パンチを打ち続けるし、やつがロープに追いつめられているときも強いパンチを打ち続けるってな。お前はやつを右で釘付けにしただろう、もうひとつパンチでフォローアップしてたら、やつをマットに沈めただろうよ。あのな、お前が練習を始めた頃は、やつはなんの心配もなくお前と遊ぶことができたけど、今じゃお前が強くなったから、やつは注意しなけりゃならねえんだ」。私はとても驚き、アシャンテが実際に私について言ったことを確かめるために、彼に言ったことをもう一度繰り返させた。

「そうだ、俺はやつに、お前にパンチを抑えるように言ってくれって頼まれた……お前はどうやってパンチを打つか、今じゃよく知っている。だから、やつは時々きついのでお前を痛めつけなけりゃならねえんだ。やつはお前にケガをさせたいわけじゃじゃねえ、ただ、お前にパンチを抑えてもらいてえってことを本気で言おうとしているだけなんだ。お前がもうちょっと自分をコントロールできるようにするために、こっちだってお返しをしなけりゃならねえってことをな」

ボクシングという殴り合いを、できる限り安全に、極力ケガや傷を少なく、終わらせるための、公になっていないルールだ。ボクシングは人間同士が殴り合う競技だ。だから、ボクサーの多くは試合で、相手をボコボコにしたい、殴り殺したいと思っているだろうか? 全く違う。著者が、仲間のボクサーに、対戦相手がノックアウトしたときの気分を問うと、以下のような答えが返ってくる。

 

■「対戦相手がノックアウトするのを見るのはどんな気分ですか?」

スミシ― やったぞって感じだね。ああ、相手をノックダウンさせるとね。成し遂げたって感覚で――でも、もちろん[彼の陽気な声が暗くなる]誰かをノックアウトするのが良い気分だとは言えないさ。だけど、対戦相手を倒すのはいい気分だよ、わかるかい? 一人の男をぶっ倒すことで良かったって感じるのは、ただ自分が倒されたのが自分じゃなかったってことさ。自分から入ったリングの上で風を切り抜けたってことさ。

 

トニー 相手がダウンしていくのを見て俺が感じることは、心の中で「相手がダウンしている」って考えながらダウンするのを見てるってことさ。俺はやつが大丈夫なことを願うさ。それでボクサーを離れさせ、相手が起き上がることをね。俺は言うんだ、[ほっとしたように息をして]「ヘイ、このボクサーは大丈夫だぜ、俺は彼に怪我させてない」ってね。そうすると俺はほっと自分が楽になるんだ、相手を実際にダメージをあたえてまでして成し遂げたんだって感じなくていいからね。

 

カーティス 自分自身に言い聞かせることは、この男は大丈夫かってことさ、俺の言っていることがわかるか? 誰も怪我させたくねえんだよ、だけど試合には勝ちたいだろ、できるだけ相手を傷つけないやり方でね。判定で決められるのは嫌だろ、だってジャッジたちは選手への好き嫌いを入れちまうからな、俺の言っていることがわかるか?

ボクシングという競技で、怪我が皆無ということはあり得ない。皆無にはならないが、お互いできるだけ、怪我なく、力を出し切れるのが最善だというのが、選手の共通認識だ。

 

◆「ブレイキングダウン」が嫌悪を向け合う暴力の受け皿になってはいけない

格闘技は野蛮な殴り合いではなく、ルール化され厳粛に統制された暴力だ。統制するために、プレイヤーには厳しい訓練が必要だ。「ボディ&ソウル ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー」の著者はそれを「宗教のようだ」とも呼んでいる。教祖をあがめ経典を守るように、練習に挑み、食事や性交など私生活のルールを決めて、節制した生活を行う。

一方で、「ブレイキングダウン」では、試合前のオーディション最中ですらケガ人がでているという。

toyokeizai.net

技術、テクニックを見せるためのエンターテイメントではなく、相手への嫌悪をあてつける格闘技をエンターテイメントにしてしまう心配は「甘美な科学」を学んだ多くの者が感じることなのだろう。大きな怪我や事故が起きないこと、格闘技が嫌悪の受け皿にならないことを願う。

2022年 読んで良かった小説

年末年始、2022年に買ってよかったものというテーマで、紹介しているブログが結構あった。わたしもやりたいと思いつつも、良かったもの●選と大々的に紹介できるものもなく。あえて言うならば、耳掃除用のオイルはよかった。

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メンソール風の清涼感で、ベタつく耳垢がすっきりします。一度オイルをつけて耳に入れた後、乾燥した綿棒でもう一度掃除するのがおすすめ。

耳垢掃除のオイルではなくて、もっとかっこいいガジェット的なグッズを紹介したいけど、これといってないので、2022年読んだ小説でお勧めを紹介します。といっても、年が明けて半月以上経っているんですが。今更ですが、紹介します。

 

太陽の季節

石原慎太郎のデビュー作「太陽の季節」を含め、五話の短編を掲載した短編集。あらすじだけを追っていくと、暴力や支配、今だったら倫理的に問題になるであろう作品が多い。しかし、ここに書かれている登場人物の感情は、偏ったフィクションではなく、ともすれば、若者が持ってしまう恐れがある感情だと私は思う。無邪気な子供の中で残忍ないじめが起きるように、理性を備えてない若者は、ときに衝動を抑えずに人を傷つける。

この小説を読んで、残忍な犯罪を描いていることに対して嫌悪感を感じ、表現として許せない人もいるだろう。そう言った意見があるのも分かるのだけど、許せないといくら言っても、暴力を振るいたい欲求、支配したい欲求を持ってしまう人間は必ずいる。そして、その大半は、世間から許されないと言われる負の感情に苦しめられる。読みながら、著者自身も攻撃的な感情の手綱を握ってきたのではないかと思った。それくらい、破滅的な人間の再現性の高かい

現実世界で暴力は絶対、許されない。だけど、許されない欲求に蓋をして、見ないふりして終わりでは、どこかで、その感情が溢れでる瞬間がくる。ここ数年、起きている拡大自殺と言われる事件も、押さえつけられた攻撃性の暴発のようにわたしは見ている。一般社会では許されない負の感情に向き合い、フィクションの中だけでも自由に解放させる、そうして、現実ではどう折り合いをつけるか、どうやって共存していくかを探ることも、小説の役割だろう。

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

◆ののはな通信

夏ごろから、読んだことない作家縛りで、図書館で本を借りはじめた。三浦しをんさんも、お名前は知っていたけど、恥ずかしながら、読んだことのない作家の一人だった。野々宮茜(のの)と、牧野はな(はな)、ふたりの女性の手紙だけで綴られる小説。同じミッション系の女子校の同級生ではあるけれど、ののとはなは全く違う性格。中流家庭に生まれ、勉強ができて真面目なののと、外交官の娘でお嬢様はな。それぞれに嫉妬し、納得できない思いをかかえながらも、二人は思いを内に秘めず伝え、ときには仲違いをし、途中途絶えながらも、手紙や電子メールのやり取りを伝える。シスターフット、女の連帯なんて言葉が流行っているけれど、見習うべきは、こんな関係性なのかもしれない。分かり合えることが難しくても、それでも伝えあえる関係。そして、仲違いしても、どちらともなく歩み寄れる関係。自分の正しさを押しつけ、相手を変えることで連帯しようという人間も多いなかで、このフラットな関係性は読んでいて居心地がよかった。三浦しおんさんは、女性の内面の描写がとてもうまくて、嫌な部分--他人を詮索したり、下に見たり、そんなところも素直に描いていて、美談だけではない女の子同士の友情を伝えているのがよかった。

 

◆青木きららのちょっとした冒険

2022年「幸せそうな女が許せなかった」と供述した傷害事件があった。電車の中で刃物を振り回し、周囲の人間を傷つけた。幸せそうな女が許せないならば、東大の合格発表で感極まる女や、オリンピック出場が決まって祝福される女を許さなければいい。そうではなくて、電車にいる、なんか可愛いっぽい、幸せっぽい女を狙うのは、圧倒的な努力や力で、現実をねじ伏せてきたような適わない女ではなく、大したことなさそうに見える女だからだろう。大したことない相手が、思い通りの人生を生きているように見えるとき、反発がおきる。藤野可織さんの短編集「青木きららのちょっとした冒険」の中のひとつ「スカートデンター」では、ある日、突然、スカートに歯が生えて、チカンの手を食いちぎるようになる。やったところで、大したことないから、チカンをする。大概はばれないし、騒がれない。だけど、スカートに腕を食いちぎられるようになったとき、世間、とくにチカンをする側の人間は、反発する。スカート排除しろと怒る。大層なことになったのだから、チカンをしなければいい、という発想にはならない。

幸せな女が許せないのならば、その女の何が許せないか、考えるべきだ。綺麗なカッコするのが許せない?かわいいって言われてそうだから?幸せで羨ましいならば、「その羨ましい」を掘り下げて、自分も近いところを目指してみたらいい。小ぎれいにして羨ましいなら、自分も見た目を整えるように努力して、容姿を褒められる、チヤホヤされるように努力したらいい。おそらく「そんな無駄なことしても……」と言うだろう。「大したことないのに幸せそう」の裏側には、「そんなことしても?」と思うような細々した手間があったりする。そしてその細々した自分へのケアを楽しそうにやっていたりする。その細々した手間をやっているのが、幸せそうな女だったりするんだ。「幸せそう」の裏側には、他人から見たら面倒くさそうな手間で溢れている。

「青木きららのちょっとした冒険」の中には、「幸せな女たち」という短編もある。結婚式に刃物をもった男が表れ、新婦を殺害する事件が連続する。犯人たちは「幸せな女が許せなかった」と言う。そんな世界で、ウェディングフォトグラファーだった青木きららがはじめたサービスが「ハッピリーエバーアフター」だ。特別な日も、最悪な日も、何でもない日も、主役になれる写真を撮る。子供と川で遊んでいるところ、ビールを飲んでいるところ、なかには、家族のDVによる傷が残っている日に撮影する人もいる。そうやって、どんな日でも自分を見つめること、自分が何をしたいか、何が幸せか考えること、そういう自分へのケアが「幸せそうな女たち」はできているのだろう。「幸せそうな女」が羨ましいのであれば、まずは幸せになれるよう、自分で自分をケアしてみるのがいいように思う。

 

三作、どれもよかったので、よかったら読んでみてください。

読んだら、感想を教えてね。

 

めんどくさくて、可哀想な人たち

第二次世界大戦終結後、強制収容所へのユダヤ人大量移送の責任者だったアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンに逃亡し、リカルド・クレメントと名前を変えてドイツから呼び寄せた家族と共に生活していた。イスラエル諜報機関であるモサド工作員たちはクレメントを看視していたが、アイヒマンであるとの確証がどうしても摑めない。ところがある日、仕事帰りにクレメントは花屋に寄った。妻の好きなアスターの花を買うために。尾行していた工作員たちはその瞬間に、その男がアイヒマンであることを確信した。なぜならその日は、アイヒマン夫妻の結婚記念日だったのだ。

 子供を愛し、結婚記念日に妻に花を買う男は、同時にユダヤ人大量虐殺に手を染めていた男でもあった。

 

 

小野一光「冷酷 座間9人殺害事件」
森達也による解説

 

最近、読んだ本で、大嫌いな親戚のおばさんのことを思い出した。彼女はヒステリックで、ちょっとしたことですぐに激昂し、誰それ構わず怒鳴りつける。わたしは彼女といるとき、いつ怒り出すかドキドキしていたし、周りの大人たちが腫れ物に触るように接しているのも分かった。わたしの母はよく、そのおばさんの悪口をわたしに言っていた。悪口の中には、その通りだと思うものもあったし、そうじゃないものもあった。例えば、焼きそばの話。そのおばさんは、夫の両親と同居していた。彼女の義理の父親が、おばさんの作った焼きそばが麺が千切れボロボロだと言っていたようで、母は嫌そうな顔をして嬉しそうに「焼きそばも作れないんだよ」とわたしに言った。

当時小学生だったわたしは、一緒に悪口を言う気になれなかった。たぶん一番の理由は「わたしも作れないしな」という後ろめたさ。だけど、今思うと、それだけじゃない。「アイツは料理も作れない」という悪口を家族が外の人に言っていたら嫌だろうなと思った。

その義父は、焼きそばを作ったことがおそらくない。自分作ったことないにどうして非難するのだろう。女だから、嫁だから、作って当然という考えがあるように思えてしまう。

もし、作れたとしても、家族が自分のために作った料理を悪口の材料にするのはひどいんじゃないだろうか。年齢を重ねて、当時のおばさんと同じ年になって、やっとこの違和感の正体を言葉にできるようになった。

こんな風に書くと、おばさんの義父は嫌な奴に読み取られてしまいそうだけど、わたしにとっては全然そんなことはない。沢山、良い思い出がある大好きなおじいさんだった。わたしにとっては嫌なところなんてなかった。だけど、わたしにとっての嫌なところがない人が、違う人にとっては嫌な奴になる場合もある――座間9人殺害事件のルポタージュ「冷酷」の巻末に書かれた映画監督森達也による解説で、そんなことを思い知らされた。家族思いの夫、父親が、一方では、ユダヤ人を殺していた。規模は小さくても、似たことはよく起きている。

 

◆冷酷な白石隆浩が反省した罪

昔、ツイッターかなにかで、凶悪犯で甘やかされて育った人はいない、と書かれていた。そんなことはないだろう。どんな人間でも犯罪に落ちる可能性は秘めている。「冷酷」では、座間9人殺害事件の犯人、白石隆浩の母親が、白石のことを、どれだけ思い、心配ししていたかを書いた手紙を紹介している。裁判中、一切感情の動きを見せなかった白石だったが、この手紙が読み上げられた際は、落ち着きをなくしている。著者との面会では、被害者への贖罪を語らぬ一方で、自分の家族には迷惑をかけられないと話してもいる。この本に書かれた情報を信じるならば、彼は母親に愛されていた。けれども、罪を犯した。育て方で蛮行を止めることはできない。

ただ……甘やかされる――わたしは愛されると言い換えよう、愛された経験が、人を傷つける抑止として機能することもある。わたしはそう思っている。白石は、裁判中、殺した被害者への思いはあるかと問われても何人かに対しては、「思うところはない」と答えている。殺してさらに、遺族の心をまでも貶めていく。ただ、その中で、お子さんのいる20代の女性Eさんに関しては「申し訳なかった」と言う。

白石「出会って短時間で殺害してしまっているので、申し訳ありませんでした。お子さんがいらっしゃる方でしょうか?」

検察官「はい。当時六歳の娘さんがいた二十六歳の人です」

白石「お子さんのこれからを思うと、正直、申し訳ないことをしたと思ってます」

検察官「夫や母親が証言しています」

白石「お子さんのお母さんを奪ってしまったことについて、申し訳なく思っています」

お母さんを奪ってしまって申し訳ない。この言葉は白石自身が母親に愛された記憶があるから、出てきた言葉だと私は思う。自身の愛された記憶があるから、被害者やその子どもに申し訳なく思うことができた。白石は、犯行時に、Eさんに子どもがいることを知っていたか、書かれていない。もし知っていたとしても、Eさんが子どもに対して抱いていた愛情や、子どもがEさんに感じた愛着までは思いめぐらすことができていなかっただろう。その関係性まで垣間見ることができていたとして、それでも、母親を奪う罪を犯していただろうか。

 

◆可哀想な大嫌いな人

大嫌いな親戚のおばさんの話に戻ろう。わたしは彼女に一生会いたくないぐらい嫌いだ。嫌いだけど、環境や周りの人に恵まれない、可哀想な部分があったのだろうと今になって思っている。わたしのことを可愛がっていた人たちは、わたしに向ける愛着を、めんどうな彼女には向けなかった。

もしも、ボロボロの焼きそばでも「美味しい」と笑って食べてくれる家族だったら、料理なんかできなくても、こんな良いところがあると気が付いてくれる家族だったら……ヒステリックな怒りを周囲にぶつけ、「面倒くさい人」と言われるようにまではならなかったのかもしれない。白石が母親を奪って申し訳ないと語ったように、自分の行為を自省したかもしれない。それなら、きっと、わたしの子ども時代は、もっと幸せなものになっていただろうに。

無関心でいることで保たれる平穏

「わたし、そういう人に意地悪なこと言っちゃいそうですね」

「意地悪なことってなんですか?」

「周りの人が嫌がってないか、とか」

「その位ならいいんじゃないですか」

 

本当はもっと、陰湿な言葉が浮かんだけれど、伏せておいた。こんなことを言ったら、多分、わたしへの評価が下がるだろうから。この会話をしたのは、喫茶店で友人と話しているときだった。最近、あったことを報告しあっていた。彼は、久しぶりに会った知人を話題した。その人は、結婚しながらも、伴侶以外の異性と性的関係がある。性行為をお互いに容認するという内容の婚前契約書も作ったようだ。

わたしはそれを聞き、うっすらとした嫌悪感を、会ったこともない、友人の知人に抱いた。別にお互いの合意のもとなら、夫婦が伴侶以外の人間とセックスしてもいいはずだ。それは、そうだと思う。

だけど、いいと分かっていても、嫌悪感を抱いてしまう。まず、お互い、それはどこまで本心なのだろう。恋愛や婚姻関係であれば、まったく力関係のない関係ばかりではない。離れないために、相手の言うことを従ってしまう場合だってある。それでも、お互いの合意だから許されてしまうのだろうか。

もし、するにしたって、そうやって、第三者に言うのはどうなんだろう。相手の不貞に意見できない弱い人として他人に映ることまでも許しているのだろうか。せめて、「伏せた方が良いこと」「分からないようにすること」として、公には隠していた方がいいのではないか。

そうやって一方的に思うのは、自分に置き換えたときに嫌だからだ。パートナーから、不特定多数の異性とセックスしたいと言われたら嫌だ。相手への好意が大きければ、それを認めるか、否かで、悩むだろうし、仕方なしに認めて、辛くなるかもしれない。自分に置き換えて想像を巡らし、話の中だけの存在を、一方的に、身勝手な人だなと思ってしまった。自分の持ち合わせている倫理観に置き換え考えると、その人は倫理を逸脱している。伝え聞いたその人に「おかしいですよ、それ」とも言いたくなった。会ったこともないのに。

 

◆「おかしい」側の気持ち

だけど、だからといって「おかしいよ」と言われる側の気持ちが分からないわけでもない。わたしは割と、廃墟を見るのが好きだ。日常の一部だったものが、荒廃し、朽ちていく景色に、惹かれてしまう。随分前に実家の車でドライブしていたとき、近所のショッピングモールが閉店し、その後テナントが入らないという話をしていた。「嫌よね」という母に、「ミステリアスでいいじゃん」となんてことなく返すと、母はあからさまな嫌悪感を示し「なに言っているの、おかしいよ」と言った。後になっても、「世間を知らないからそんなこと言って」と蒸し返される。防犯の面でよくないことは分かるが、私は、自分が過ごした一部が、荒廃していく姿を想像して、ちょっと見てみたいな、と思ってしまっていた。それは道徳的なことではないけれど、想像するくらい、考えるくらい認めてほしかった。

反対意見であっても、悪い人が屯するかもしれないとか、ケンカの場所に使われるかもとか、そんなデメリットを説明する言葉であってほしかった。「おかしい」「世間知らず」という言葉に、漠然と、わたしの価値観とか、美意識とか、そんなものまで扱き下ろされたような気がして、ゴワゴワっとした思いを抱いた。廃墟を美しいと思うことが、彼女の倫理感に反していたのかもしれない。

 

◆理解されることの放棄

賛否の別れる価値観、好み、そんなものを持ったとき……理解への期待を放棄する選択もあるのではないか。多様性への理解という言葉が取り立たされる。だけど、わたしは、自分の倫理観に反する価値観を、認めることはできても、理解することはできないと思っている。存在してもいいよ、そういう人もいるよね、わたしは違うけど。そう言えたとしても、やっぱりごわっとした違和感を取り除くことはできない。心の底では「ちょっとおかしいよね」と思ってしまっている。その「ちょっとおかしいよね」を表に出さないために、無関心と距離感が大切だと思う。わたしは「伴侶以外とのセックスを認めた婚前契約書を持ち歩く人」とは仲良くならない方が良いし、廃墟に惹かれることを「世間知らず」と言う母には、自分の好みを語らない方が良い。「おかしいよ」と口に出さないための距離がきっと必要なのだと思う。

堀江もちこ 過去のメディア掲載一覧

過去の実績がまとまっていた方が分かりやすいかと思い、メディア関連の活動をまとめておきます。

◆堀江もちこ プロフィール

アダルトビデオ、アダルトグッズの営業。広告ライター、AVメーカー広報職を経て、株式会社トータル・メディア・エージェンシーに営業職として勤務。会社員と並行して、ライターとしても活動する。

プロフィール用に撮影してもらった写真です。

 

◆著作

「オナホ売りOLの日常」という本を菅原県さんとの共著で出版しています。

◎台湾翻訳版

「オナホ売りOLの日常」は翻訳されて台湾でも販売されています。

www.books.com.tw

◆執筆記事

文春オンラインさんで記事を執筆しました。アダルトグッズやショップに関する記事です。

bunshun.jp

bunshun.jp

Youtube出演

作家、家田荘子さんのYouTubeに出演しました。アダルトグッズ紹介をさせていただきました

 

 


www.youtube.com

 

 

そのほか、日刊ゲンダイさんや、サンスポさん等紙媒体にもインタビューしてもらいました。出演依頼などの問い合わせは、所属会社(株式会社トータル・メディア・エージェンシー)のお問合せページに送ってください。

誉め言葉であり、侮蔑でもある「エロい」

ソニックマニアに行った。Sparks最高だった。
そもそもソニマニに行った目的はカサビアンだった。いや、もっと言うと、そこまで明確にこれが見たいという目的はなく、コロナで中止されていたフェスが復活しつつあるし、何か行ってみたいなーというその程度の綿埃のごとく軽すぎる動機だった。フジロックライジングサンは遠いし、サマソニは東京公演が7月の時点で売り切れている。カサビアンサカナクションや一時期よく聴いていたバンドも出るし、ソニマニがいいかなーぐらいの具合だ。半ば消去法で選び、ライブ好きの友人に連絡を入れた。チケットを買った後になって、深夜だし、体力的に持つかなーなんて心配したりもした。盆休み中に出勤した代休が余っていたので、それをフェス当日に当てて、昼間寝ればなんとかなるかーなんてゆるい気持ちだった。
なんとなくで行ったソニマニだったが、最高だった。カサビアンもよかったし、プライマル・スクリームもよかったし、色々良かったけれど、超絶よかったのはSparksだ。歪で不安定な音楽なのに、ポップで明るい。サーカスか見世物小屋かミュージカルか、なんと形容したらいいか分からない、明るさと暗さが瞬間ごとに切り替わるような様な演出。狂っていて、変態で、リズムカルで、ポップで、飛び跳ねたくなって、最高だった。なんでもっと早く興味持たなかったんだと、酷く後悔している。わたしが生まれる前から活動しているのに気がつくのが遅すぎる。夜、寝る前に、「this town ain't big enough for the both of us」の演奏を思い出して、ワクワクしながら、この感情を半世紀前の誰かも持っていたんだよなーとか思って眠れなくなった。

 

Kimono My House [12 inch Analog]

Kimono My House [12 inch Analog]

  • アーティスト:Sparks
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REDISCOVER Sparks

 

Sparksが最高すぎて東京の単独も行こうと思ったけれど、すでに完売。ソニマニ翌々日のサマソニ大阪ならまだチケット余っている。大阪行こうか考えたが、一旦冷静になり我慢した。大人になるのは冷静になることだ。Sparks熱に浮かれ、サマソニ中はネットサーフィンしまくった。みんなSparks最高って思っているよね、サマソニ最高だよね、そうだよね、そんな気持ちでサマソニ来場者のツイートを見まくっていたけれど、みんながみんなそうではなくて、ちょっと、きな臭い、嫌な話題も目に入ったりしてきた。

 

◆マネスキンのニップレスをどう見るのか

Sparksと同じ時間、大阪サマソニの別ステージで演奏していた「マネスキン」。メンバーの一人である女性ベーシストが表現としてニップレスをつけ演奏したことを別のバンドが揶揄をしたと問題になっていた。
彼女がニップレスを付けることは性的なアピールではなく、むしろ逆で、女性の裸すべてが性的対象物なわけではないとのアピールだ。このベーシストは、彼女の裸で欲情しないで欲しいと主張している。それに対して、彼女を模してニップレスを付けて出演した別の男性出演者に対して非難が集まった。
女性が、自分の身体で欲情するなと主張し、裸になる。それは今まで前例のないことなので、異質に写るが、わたしは理解は出来る。感情の伴わない欲情への嫌悪感。つまり、相手が好きだから欲情するのではなく、ただただ、記号としての裸、胸、性器に欲情し、ひとりの人間を記号として消費することへの嫌悪。欲情により物のように見られている感覚を想像できる。その感情の伴わない欲情へのアンチテーゼとしてのニップレスであり、裸であり、だから、それを笑いにしてはいけないと、大衆が思った。
 
本人が性的に見ないで欲しいと、主張しているのに、性的眼差しを向けるのは失礼だ。ただこの被害者は女性だけではなくて、男性にもあるかもしれない。ちょっと前に、格闘家の那須川天心に対して、編集者の中瀬ゆかりさんが、抱かれたい、フェロモンがでていると、テレビで言っていた。それに対して、那須川天心はあからさまな嫌悪感を出していて、不寛容な人だなー、とわたしは思ってしまった。けれど、那須川天心の裸は、格闘技をするための裸、強さを誇示するための裸、戦うための裸であって、女の人に性的に見られる目的での裸ではない。そういった目的の裸体を、性的に見てしまうことはもしかしたらマナー違反の行為だったのかもしれない。裸という極めてプライベートな部分を晒しているからこそ、受け手側が言っていけない線引きを考えてあげることが優しさだろう。
 

◆褒め言葉にもけなし言葉にもなる「エロい」「ヌける」

以前、性は凶器にも救いにもなると書いた。

mochi-mochi.hateblo.jp

楽しいものにもなるが、加虐性もあるのが「性」。それは言葉も一緒で「エロい」「抱かれたい」など性的魅力を評価する表現は、人によっては侮蔑にもなり得る。AV女優の方で、ファンから「(あなたで)ヌいた」「エロい」と言われて嬉しいと言っていた人がいた。だけど一方で、同じ言葉を違う場面で使ったら、侮蔑されたと思うだろう。性的であるという前提で表現している人と、そうでない人とで褒め言葉が違う。同じ言葉が、褒め言葉にも侮辱の言葉にもなり得る。AV作品の出演者に「エロい」「抜いた」ということは、その作品の演出や出演者の演技を評価するもので、作り手の目指している表現が受け手に正しく届いたことの証明だ。しかし、エロい表現、演出を目指していない相手に「エロい」「抜いた」ということは、作り手の目指している表現が正しく届いていないことの証明であり、かつ、その人の主張を無視して、その人の身体を部分的な記号で消費していることである。その人を人格のある人ではなく、物のように消費することだ。そこへの憤りは理解できる。「エロい」という言葉は最高の褒め言葉にも最悪の侮蔑の言葉にもなる。そこを理解せず「エロい」を使ってしまうのは、言葉を使う側として配慮が足りない。

 

◆見習うべきは『ナマモノは鍵アカ』のイデオロギー

だからといって、エロいと思うべきものを決めて、それ以外をエロいと思うなというのも不寛容で狭量だ。そもそも人の思考を制限などできない。そこで、思うのは、思っても本人に聞こえないように言おうよ、ということだ。腐女子界隈の考えて、ナマモノは鍵アカで言おうという考えがある。ナマモノ……つまり実在する人物について、同性愛の描写をするときは、鍵付きの見えないアカウントでしよう、という主張だ。これは、本人を不快にさせないための配慮であって、本人に嫌な気持ちをさせない気遣いと、自分の表現をしたい表現欲をギリギリラインでの両立だとわたしは思う。
もちろん、ナマモノを公にするなという主義主張が過激になり、不適切な発言をした人を過度に攻撃してしまうのもよくない。以前、あるテレビ番組で、共演者を同性愛的に見ていると発言した吉木りささんに誹謗中傷が集まっていたが、そこまで過度に攻撃してしまうのはよくない。そもそもわたしも安倍晋三麻生太郎でBLを書こうとしているし、それによって麻生太郎が嫌な思いしたらとか言われたら、すいません、みたいな気持ちになる。大きなこと言えない。麻生さん、ごめんね。
 
だけど、腐女子たちの「ナマモノは見えないところで」という考えは共感していて、愛すべき対象を大切にしながら、自分のやりたい方法で応援するという姿勢はとても素敵だと思う。とりわけ性的な眼差しについては、持っていけないことはないが、本人はそれを聞くと嫌だと思うという前提を忘れずにしたほうがいい。
 

◆ファンに疲弊していく表現者たち

最近、男性Vtuberの「アクシア・クローネ」がファンからの過激なコメントを理由に活動を休止した。
本人の求めない方法での応援や褒め言葉が、当人を追い詰めてしまうというのはあることだ。とりわけ、性的魅力を評価する意見は凶器にもなり得る。見て欲しいのは、表現やパフォーマンス、訓練や努力の結果として身体であって、代替可能な消費対象としての本人ではない。それはきっと性表現をする人、しない人共通だ。この音楽、この試合、この漫画、このAVがいいと言って欲しい。
もちろん、求めない意見であっても、表現をする以上覚悟をするべきと言う意見は理解できる。的確な批判が表現に役立つことだってある。だが、批判にすらならないような、相手を消費するような眼差しによって、疲弊し表現自体がなくなることもある。わたしたち表現の受け手は、自分たちの反応によって表現自体がなくなることを覚悟して、その意見をいわなくてはいけない。わたしたちが求めるのは、すばらしい表現物、素晴らしいパフォーマンスであって、ファンへの従順さや無抵抗さではないはずだ。それならば、無益に相手を傷つけるだけ言葉を相手に届ける必要はないのではないだろうか。