オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

民主主義の破綻と独裁者を選ぶ人々

「もうすぐ価格下がるじゃないですかー。マンションでも買おうかなって思っちゃいますよねー」都内のエロビデオ屋のスタッフルーム。一折りの商談が終わって、雑談のついで、そんなことを話すわたしに「独身のうちはやめたほうがいいよ」と仲のいい担当者さんは苦笑いした。「独身で家買った男友達が周りにいるけれどね、結婚相手にとっては、ただ借金抱えているだけだから」。そうですよね、自分で選んだわけでもない家住みたくないですよね、と笑いながら、散らかった資料を片付けた。

 

そんな話をした数日あとに、ちょうど中国語のレッスンで、「租房子」という単語が出た。「家を借りる」という意味のその単語の説明の後、先生は「日本の人は家を買わないですよね」と話した。そして「中国人にとっては、とても不思議なんです」と付け加えた。先生が言うには、中国人の男性は、家と車をもっていないと結婚できないらしい。自分が住む家だけじゃなくて、人に貸して所得を得るための家も持っている。先生も、日本と中国、それぞれに家を買ったと言った。「わたしの中国人の友達は、人に貸すための家を日本にも持っていますよ」とも。中国の人が、そうやって日本のマンションを買うことを日本人は怖いと思ってますよ、とは言わなかった。

中国は、株式投資も盛んだという。借金してでも投資をしろ、金を稼ぐために金を使えという国民性。「借金を持つの嫌じゃないの?」とわたしが聞くと、「だからみんな一生懸命働くんです」と返した。リスクを負うことを不安に思わない。たぶん、それが、中国の強みであり、一部の日本人が中国に漠然とした恐怖や嫌悪感を抱いてしまう理由なのかもしれない。

わたしは今の中国語の先生が好きだ。彼女はわたしのやり方を重視して、丁寧に授業をしてくれる。いつも聞き手に回ってくれて、わたしのペースで話してくれる。「中国人」というと、押しが強いイメージをもっていたけれど、彼女はそんなことはない。日本人の知人のように自然に話せる、いや、もしかしたら、日本人の知人よりもずっとずっと話しやすい。だけど、たまに、彼女を通して、日本人と中国人は違うということを実感する。友人のように思う彼女から垣間見える「日本人との違い」にたまに、とてもショックを受ける。

 

◆分断を引き起こす「社会観」の近い

「中国人」でひとくくりにできない。中国人にもいろんな考え、思考の人がいるだろう。しかし、中国の多数派と、日本の多数派の人間性……生活において優先順位、日々の思考、人との付き合い方……そんな個人の言動を形づくる要素は違う。日本人と中国人は違う。少し前に日経新聞におもしろい記事が上がっていた。8月5日朝刊に掲載された寺西重郎一橋大学教授による寄稿だ。

r.nikkei.com

 

 

寺西教授は、米中の対立は単純な政治的な対立ではなく文化や社会規範の対立と説く。

コロナ対策でも香港政策でも、自由や人権といった普遍的とみられる価値に対する中国の否定は、単なる共産党の独裁体制維持行動によるものではなく、中国国民の基本的な社会観によるものだと考えるべきだ。

 

西欧の自由・人権・民主主義といった思想の背景には、キリスト教の下で神の創造した人類や公共を重視する観念の影響があり、公共概念を基本とする集団的意図性が組み込まれている。ルールや法制度など公共の目的のために、人々の行動を制約する際には、自律した個人という前提のもと、自由・人権・民主主の尊重が不可欠となる。西欧では、公共概念をもち自律した個人という前提があり、それが秩序を維持している。しかし、一方で、善や倫理の争いを回避し、一見中立的に社会秩序を構築・運営しようという傾向が近年欧米、とくに米国で強まっている。

寺西教授は明記していなかったが、トランプ大統領の当選などが、善や倫理を無視した一見中立に見える社会秩序の構築なのだろうと、わたしは感じた。

一方で中国の価値観は違う。記事では以下のように本文には記載している。

中国での社会と市場の秩序付けの方法は「士庶論」とも呼ぶべき、社会をエリートと非エリートからなる二重構造としてみる社会構造から生まれた人治による秩序付けとして要約できる。

 

士庶論の重要性は(中略)すなわち本然たる性たる天の理を会得した人は聖人になり、その他の多くの人は気質性にとどまり、未完成な道徳的修養のままの状態に生きるという人間観だ。

 

聖人として天の理を体得した集団が社会のリーダーとなる。一方、非エリート層はエリートの判断下で自由や人権の制限を含む罰則を前提に許容されるのだ。

 

その地域の気候、地形、歩んできた歴史をもってして、国の考え方が決まる。日本に住んでいるわたしたちは、民主主義が素晴らしいし、正しいと思ってしまう。だけど、それが違う地域にとっても正義なのかといったらそうではないかもしれない。民主主義によってえらばれたドナルド・トランプと、共産党一党独裁の中で頂点に立った習近平、どちらが優秀な政治家か問われたとしても、わたしはどちらがいいか言い切ることができない。

選挙によって、習近平を選んだらいいと民主主義国家に生きるわたしたちは思うけれど、その時々の時世に流されてしまう大衆が、最善の政治家を選べないことなど明らかだ。民主主義の国々は、自分たちが多数決で選んだ代表の批判を絶えずしている。当時、もっとも民主的と言われたワイマール憲法のもと、独裁者ヒットラーは大多数の国民に支持され選ばれた。民主主義が最善の選択をするとは限らない。哲学者プラトン哲人政治を説いたように、一部の有能な哲人が国民を導くほうがいいという主張も、賛成はしないけれど、理解はできる。中国の士庶論もそれに近いものなのだろう。一部の優秀なものが最善を決めていく。

中国に限らず、民主主義はすべての国にとっての最善ではない。国によっては機能するどころか、制度すら受け入れらない。イラク戦争後のアメリカによる占領は失敗した。アメリカ的な平和で民主的な文化は、そうでない世界で生きている人からは、恐ろしいものなのかもしれない。民主主義を望んでないのは、支配者だけでなく、国民全体なのかもしれない。

 

◆見直しの時期に来た日本の民主主義

民主主義は決して万全の政治手法ではない。それは、中国やイラクや外国の話だけでなくて、日本においてもそうだ。わたしは日本においても民主主義を見直す必要があるように思う。もちろん、独裁がいいとか、共産主義がいいとは絶対に言わないし、日本がそんな風になってしまってはだめだ。だけど、一方で、民主主義の主権者「民衆」が力を持ちすぎてしまうこともよくない。民主主義国家の政治は、「選挙」という人質を取られているがために、大衆迎合ばかりしてしまう。

同様のことを言う人は、わたし以外にもいて、たとえば、宇野常寛さんは著作「遅いインターネット」のなかで「民主主義を半分諦めることで、守る」と題した章で以下のように記載している。

遅いインターネット (NewsPicks Book)

遅いインターネット (NewsPicks Book)

 

 

 

まず第一の提案は民主主義と立憲主義のパワーバランスを、後者に傾けることだ。

立憲主義とは統治権力を憲法によって制御するという思想で、そのために民主主義としばしば対立関係に陥る。なぜならばたとえそれがどれほど民主的に設定されたものであったとしても、過去に定められた憲法を現在の民意が支持するとは限らないからだ。したがってあらゆる民主主義は憲法改正の手続きを憲法自体に組み込むことになる。言い換えればそれが民主的な憲法の条件で、ここで民主主義と立憲主義のパワーバランスが設定されることになる。そしてポピュリズムによる民主主義の暴走リスクを高く見積もらざるを得ない今日においては、このパワーバランスを立憲主義側に傾ける必要がある。もはや僕たちは民主主義で決定できる範囲をもつと狭くするべきなのだ。これから民主主義は、もたざる者の負の感情の発散装置になるしかないことを前提として、運用するしかない。民主主義を守るために、の決定権を狭めること。これしかない。これからは基本的人権など民主主義の根幹る部分は立憲主義的な立場を強化することで、(奇妙な表現になるが)民主主義の暴走から守る他ないのだ。

 

「僕たちは民主主義で決定できる範囲をもつと狭くするべきなのだ」という宇野さんの意見には、わたしは賛成していて、民主主義の暴走さけるために、民衆のもつ力を軽減させたほうがいいと思っている。

たとえば、わたしは、もう一度、中選挙区制に戻すなどの方法をとってもいいのではないかと考えている。政治家個人ではなくて、政党に投票する。塊で政治をみる。小選挙区では、大衆に好かれる政治家が有利になる。政治家個人は大衆に好かれるように寄せざるを負えない。容姿が優れた人や知名度がある人が有利になっていく。政治家個人の人間性や性格やパーソナリティなどは政策に関係はないにも関わらず。政治家は腹の底でどんなに悪いことを思っていたとしても、十年後、二十年後にいい国にできるならそれでいいはずだ。だけど、大衆は十年後、二十年後までの政策を見て政治家を選べない。

一人の政治家個人でなにかを動かすことはできない。会社でもそうだ。いろんな人が協力しあって政策をすすめていくしかない。だから、個人がなにをするかよりも、政党全体でなにができるかが重要だ。個人で選ぶ今の制度では、どうしても本質的な話にはなりにくいのは、その人ひとりの判断で決められないからなのだろう。

 

◆行き過ぎた国民主権からの脱却

また、世論調査やインターネットの意見のような大衆の意見を重視する風潮も変えていく必要があるようにわたしは思う。類似した意見は、西部邁さんの「そろそろ子供と「本当の話」をしよう」にも記載がある。

そろそろ子供と「本当の話」をしよう (Big birdのbest books)
 

 

民主主義は、なんといっても民衆が絶対権力を持つのがよいとされているのですから、ダイレクト,デモクラシー(直援民衆政)に傾きます。つまり、レファレンダム(国民投票)にせよパプリック・オピニオン(世論)への追随にせよ、民衆の意向が直接的に政策を左右することになるのです。それにたいしインダイレクト・デモクラシー(間接民衆政)としてのパーラメンタル・デモクラシー(議会制民衆政)は、世論の動向に注意を払いながらも、議員たちの独自かつ自発の意見で討論と採決を通じ政策が決まります。それを逆にいうと、民衆は議員の選出に票を投じるものの、政策についてまで直接に関与することはない(もしくは少ない)、それが間接型の民衆政治なのです。

しかし、民衆を主権者としてほめそやせば、主権者は偉大な能力の持ち主に違いないとみなされます。で、政策の決定に主権者の声を直接的に反映させよ、ということになります。政策への贅否を問う世論調査なるものが年に一〇回、二〇回と行なわれ、その結果に政治家たちが一喜一憂するのはそのためです。――この世論調査については、あとの節でもっと詳しくみることにします――。歴史上のディクテーター(独裁者)、デスポット(専制者)、タイラント(暴君)のほとんどすべてが、直接民衆政から生まれ、直接民衆政を使っておりました。その典型が、二十世紀についていうと、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーソ連スターリン、そして中国の毛(沢東)ということになります。

そこまでいかなくとも、政治が世論のポピュラリティ(人気)によって動かされるいわゆるポピュリズム(人気政治)は、この日本列島をはじめとして、世界を包み込みつつあるといってもよいでしょう。それはすべて、「民衆に主権あり」という概念が単純もしくは誇大に受け取られた結果です。

 

 民衆は議員の選出に票を投じるものの、政策についてまで直接に関与することはないーー民主が力を行使できるのは、票を入れるところまで。わたしは西部さんの意見に賛成する。民衆は自分たちの国の運営を任せたい人を決め、あとは彼・彼女たちを信用し、黙視するのみ。許せないであれば、次の選挙で票をいれない。それ以上の力を持たせた結果が、西部さんのいうように、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーソ連スターリン、中国の毛沢東だ。これは歴史上の話ではない。事実、米国では起き始めているし、独裁者の再来は日本だって容易に起こりうる。

民主主義、国民主権、それは日本においては正しい政治手法である。学校教育でも正しいと教えられる。だけど、それが行き過ぎてしまってはだめだ。民衆が無知なら政治も破綻する制度が、万全だとは言えない。選ぶのは民衆であっても、選んだあとはまかせた人を信用する。政治を行うのは民衆ではなく、政治家たちでなくてはならない。政治家は政治のプロであり、大衆よりも良い道を選ぶことができるのだから。横暴になりすぎた主権者、民衆による悪政を見直す段階に来ている。

小池百合子の再選を理解できない人たちへ

「わたしの周りに小池百合子支持者なんか一人もいないのに、当選してしまった」
ぼんやりと流していたラジオで、ある社会学者がそんなことを言っていた。
わたしは、ここ数週間で同じセリフをわたしは何度も何度も何度も聞いている。「小池百合子を支持する人なんて一人もいなかったのに」と。小池百合子の当選を不思議がる人々の多くは、東京に住んで、大学をでて、立派な仕事についている人だ。作家、ジャーナリスト、ライター、編集者、新聞記者……この仕事について、本を書く機会をもらわなかったらおそらく知り合うことはなかっただろう人たち。
彼らは口々に「なぜ小池百合子が?」という。だけど、わたしは、小池百合子の再選を不思議がる彼らの方を不思議に思う。彼らはなぜわからないのだろう。

小池百合子が当選した。そして、宇都宮健児山本太郎も当選しなかった。それは、わたしにとって、腑に落ちることだけれど、彼らにとって不思議で仕方ないことのようだ。


◆ラストベルトの労働者とシリコンバレーのIT起業家

少し前に、宇野常寛さんの「遅いインターネット」を読んだ。

遅いインターネット (NewsPicks Book)

遅いインターネット (NewsPicks Book)

 

 その中では、トランプが当選していた日の様子を以下のように描いている。

講義が終わっても帰らない学生たちは僕に尋ねた。なぜ、ヒラリーはトランプに敗れたのか、と。
僕は答えた。それはグローバリゼーションへのアレルギー反応なのだ、と。この四半世紀でアメリカとベトナムの格差は圧倒的に縮まっているが、シリコンバレーの起業家とラストベルトの自動車工の格差は逆に広がっている。だから、ラストベルトの自動車工は「壁を作れ」と反グローバリゼーションを掲げるナショナリストを、つまりトランプを支持したのだ、と。


国同士の格差、いや、国の上澄み同士の格差は狭まっている。アメリカにいても、イギリスにいても、日本にいても、ベトナムにいても、裕福な人たちの生活に格差なんてない。お金がある人たちはどこにいったって、自分たちの望む生活ができる。アメリカの政治がクソならイギリスに、シンガポールに、ベトナムに行こう。どこかできっと望む生活ができる。そうやって、望む生き方、幸福な生き方ができる。

 

一方で、それをできない人々はいる。国と国の格差、国籍や人種間の格差が狭まる一方で、同じ国、同じ肌の色の人同士での格差が広がっている。格差の下方に追いやられたラストベルトの労働者たちに支持されるのがトランプだと宇野さんは書く。

トランプを支持しない人たちは、支持者たちに教えてあげようと試みる。トランプを支持するのは愚かなことなのだと。だけど、それは意味をなさない。トランプの言っていることのデメリットをどんなに説いたとしても、それをわかったうえで、彼は彼らにとって都合のいい物語であるトランプ大統領を消費したいのだ。

 

わたしは「遅いインターネット」を読んで、これは日本でも起きている現象だろうなと思った。なぜトランプが支持されるのかを理解しない限りは、小池百合子も当選するし、自民党も与党でい続けるだろう。一部の賢い人たちがどんなに疑問を呈したとしても変わらない。

 

◆見落とされている理由なき弱者

小池百合子に次いで、次点で落選したは宇都宮健児氏だ。宇都宮氏の主張を支持する人の考えも、わたしは理解できる。宇都宮氏の公式ウェブサイトの政策のページには以下の文言が並ぶ。

utsunomiyakenji.com

 

・女性の貧困をなくし、ジェンダー平等社会を推進する。
視覚障害者の転落防止のためのホームドアの設置、障害者差別のないバリアフリーのまちづくり
ヘイトスピーチ対策の強化、朝鮮学校への補助金支給の再開、関東大震災朝鮮人犠牲者の追悼式への都知事の参加、同性カップルのパートナーシップ制度の導入など

 

 

端に追いやられた人、マイノリティーである人、弱い立場の人たちを救いたい。そんな思いをわたしは読み取った。

だけど、宇都宮氏はひとつの弱者を見落としている。正社員、日本国籍、男性、だけど、安い賃金――手取り20万円に満たないような給料で生活している人たち。
そういった弱者に見えない弱者、理由なき弱者を見落としているのだ。おそらくそれは、アメリカではラストベルトの自動車工がそれにあたるのだろう。日本だと、サービス業の従事者、工場や建築現場で肉体労働をする働く人々……安いながらも、定期的な収入はあり、かろうじて生活は安定はしている、そんなギリギリで生活を維持できている人たち。彼らに対しての支援は見えてこない。
彼らは分かりやすい弱い点はない。性別、国籍、障害の有無、そんな分かりやすい弱いポイントはない。だけど、貧しい。そんな人たちはどうしたらいいのだろうか。

宇都宮健児氏たちは、弱者に弱者であるポイントを求める。「女性だから」「外国籍だから」「障害があるから」だから端に追いやられる、だから助けないといけない。では、理由なき弱者は放っておいていいのだろうか。

 

◆映画「グリーンブック」の天才黒人ピアニストと貧しい白人男性

天才的な黒人音楽家ドクター・シャーリーと、その運転手として働く白人男性トニー・リップの物語、映画「グリーンブック」には、トニーが、恵まれてないのは自分のほうだとドクター・シャーリーに怒りをぶつけるシーンがある。

gaga.ne.jp


映画の中で、ドクター・シャーリーは、黒人でありながら、高い教育を受け、音楽や語学を学び、成功する。一方、貧しい家に生まれたはトニーは手紙すら満足に書くことができない。
一見すると、黒人であるドクター・シャーリーのほうが弱い立場の人に見える。だけど、白人であり、強者に見えるトニーであっても、「貧しい家に生まれた」という点において、ドクター・シャーリーよりも弱者なのだ。この視点は日本にもあって、教育を受ける機会に恵まれた女性や外国籍の人よりも、その機会がなかった日本人男性のほうが弱い立場になる場面はある。

 

◆不勉強は本人だけの問題なのか

「勉強をしなかったのは本人が悪い、努力不足だ」と言い切ることもできる。
だけど、わたしは「努力不足」と言い切ることが、トランプ大統領を生み、小池都知事を生んだように思う。

わたしの個人的な話になるが、わたしは地方の街で高校しかでてない両親のもとに生まれた。高校時代、わたしの母は「大学はお金がかかるから行かないていい」と言った。
母のそれに悪気がないのは分かる。もしかしたら、同じように言われてきたのかもしれないとも思う。大学に行かないのが当たり前の社会だったから、そこにわざわざ行くメリットが分からなかった、と今になれば思う。

わたしは、母の反対を押し切って大学に進学した。だけど、それができない人もいる。わたしの知っているそういう人たちは、親のいうことを聞くいい子たちだった。「お金がかかるから」と、家庭を気遣い進学をあきらめた人たちだった。親の言う通り、学ばなかった人たちを、不真面目で怠惰な人と言っていいのだろうか。そして聞き分けのいい、優しい人たちが貧しくなってしまうことが正解なのだろうか。そんな現状をわたしは不公平だと思うけれど、それを切り捨ててしまうのが正しいのか。


勉強はしてこなかったけれど、周りの気持ちを考え、真面目に日常を生きる人。そんな人たちが貧しくなっているのが今の日本だ。貧しさの再生産、無教育の再生産、そんなものを断ち切るには大きな力がいる。それを断ち切るのが政治があってほしい。そして、もっと欲を言うと、そのままでいたい人はそのままでいさせてくれる世の中であってもほしい。ラストベルトの自動車工のままでいたい人は、そのままで豊かに生きられる世の中であってほしい。


「弱い人たちのために」と訴える人たちは、弱者に見えない弱者を無視してしまっている。きっと、この問題に目を向けない限り、世の中が変わることなんてできないだろう。

罪悪と向き合わない不幸せ

島崎雅彦の自伝的小説「君が異端だった頃」には、著者の思春期の描写も描かれている。そのなかに、著者を殴った暴力的な教師に報復しようとした逸話があった。著者は、教師の靴に塩酸を仕込もうとするが、その靴があまりに古くボロボロで、教師を惨めに思い思いとどまった。塩酸の小瓶をポケットにいれ、職員用の下駄箱に向かった著者は、なにもせずそのまま引き返した。

君が異端だった頃

君が異端だった頃

  • 作者:島田 雅彦
  • 発売日: 2019/08/05
  • メディア: 単行本
 

 

だけど、もし、本当に塩酸を仕込んでいたら――もっと恐ろしい想像もできる。塩酸の小瓶をポケットに仕込んでいると知らず、以前のように感情的に教員が中学生に殴りかかり、それに憤慨した中学生が塩酸の小瓶を手に取り教師にめがけたら……。悲劇というのは、偶然起きる。新聞をめくると、「一瞬タイミングが違っていたら」と殺人事件の遺族がインタビューに答えていた。それは、起きなかった方にも言える。芥川賞の選考委員になるほどの著名な作家であっても、一瞬、ほんの一瞬なにかが違っていたら、人生は変わっていたのかもしれない。

 

◆来ないでほしかった「もし」

運良く変わるならばいい。しかし、表にでる「違っていたら」の大半は、不運なほうに転がった事象だ。映画「許された子どもたち」の加害者もほんの、ほんの些細なきっかけで、同級生を殺した。気が弱くて同級生の言いなりになっていた倉持樹、彼が一瞬とった反抗的な姿勢を許せず、主人公の市川絆星は、樹の首に割り箸で作ったボーガンの矢を向けた。もし、絆星が思いとどまったら、もし、ほんの数センチ矢の当たる場所がずれていたら――そんな「もし」は叶うことがなく樹は死んでしまう。同級生を殺した少年。しかし、絆星の不幸はそれだけでは収まらなかった。両親や弁護士の行動により、不処分となった。絆星の母は言い続ける「絆星はなにもやっていない」と。それにより、世間や社会から膨大なバッシングを受けることとなる。

www.yurusaretakodomotachi.com

 

◆遺族給付金と民事訴訟

少し前に、新聞記者の知人と被害者遺族の話をした。事件で家族を亡くした遺族には、遺族給付金が支給される。だけど、その給付金は十分とはいえない。リンク先の朝日新聞の記事によると、19年度、遺族給付金の1件あたり613万円だという。もちろんそれは平均金額で、もっと安い場合もある。「人が一人殺されても、300万円しかもらえない」。彼は取材先の遺族の話を少し聞かせてくれた。葬儀費用も、訴訟費用も、出さなくてはいけない。大切な家族が死んで、精神的に弱くなってしまう人もいる。精神科の通院費用もださなくてはいけない。精神が病んでしまい仕事ができなくなり収入が途絶えてしまうこともある。

民事訴訟で加害者に賠償金を請求することはできるけれど、払わない人も多くいる。住所が変わればより難しくなる、と記者の知人は教えてくれた。 

www.asahi.com

その話を聞いた後、「許された子どもたち」のシーンを思い出した。樹の家族は、民事で訴訟を起こす。しかし、絆星一家は引っ越しを繰り返し、樹の家族たちから逃げ続ける。「本当のことを知りたい」という樹の両親の思いは叶うことはない。

樹の両親が民事訴訟を起こした目的は、「真実」だった。もし、絆星が自分の行いを正直に告白し、罪を素直に認めていたら、樹の両親はここまでの怒りを抱くことはなかったのか。人を殺すという罪、それ自体も残酷で重い行為だ。だけど、この映画で責められるのは、罪を認めないこと、隠そうとすること、だったように思えた。

 

個人的な話になるけれど、父に、実家の杏の木の枝を折って叱られた記憶がある。木登りをした際に、父が育てた木の枝を折った。父は枝を折ったことそれ自体ではなく、折ったことを言わなかったことを怒っていた。罪を犯すこと、それ自体も悪い。だけど、それ以上に犯した罪を隠そうとする、そちらのほうが大きな罪なのではないか。残念なことだけれど、「もし違っていたら」という出来事はきっと起きてしまう。罪を犯したその後を考えることが重要ではないか。

自分の罪悪と向き合わない不幸は時がたつにつれて、不安な意識を大きくさせることだろう。「やっていない」「悪くない」とずっと言い聞かせながら、自分を正当化して生きることが本当に幸せなのか、わたしは幸せには見えない。「許された子どもたち」にはモデルになった事件があると聞く、その少年たちが罪と向き合わない不幸にどこかで気がついてくれたらいい――不幸からより深い不幸に落ちて行かないことを願うばかり。

アダルトショップの新規出店は岩手県に!!都道府県アダルトショップ数ランキング

最近まで訪問営業を控えていたので、店舗への電話営業をコツコツやっていました。普段なかなかいけない北海道、東北、九州、沖縄を中心に電話していたのですが、九州、沖縄はずいぶんセル店が少ない気が……いや、東京と比べて少ないのは仕方ないのですが、他の地域とも比べても少ない……。そもそもセル店の多い店ってどこだ。店舗数だけだったら、絶対東京や大阪など大都市圏なのですが、人口のわりに、セル店が多い店、少ない店をちょっと調べてみました。アダルトショップ1店舗あたり人口を調べていました。

 

都道県の人口で参考にしたのは総務省のデータ。平成29年のデータなのでちょっと前の数ですが、これを使います。

www.stat.go.jp

 

セル店の数はイベルトさんを参考にしました。

www.av-event.jp

こちらのデータだと、グッズだけ扱いのある店(鑑定団さんとかお宝中古市場さんとか)は入ってないので、純粋なAVショップのデータになります。グッズのお店も含めると少し変わってくるかもしれない。参考程度に見てください。

f:id:mo_mochi_mochi:20200707192955j:plain

人口当たりのセルショップ数 ※2020年7月1日のデータです。

 

◆人口あたりのアダルトショップが多い都道府県

1位.鳥取県(約62000人に1店舗)

2位.島根県(約68000人に1店舗)

3位.茨城県(約74000人に1店舗)

4位.香川県(約74000人に1店舗)

5位.愛媛県(約80000人に1店舗)

 

その後は、6位栃木県、7位高知県  、8位群馬県、9位静岡県  、10位岡山県……と続きます。首都圏近郊と中国四国が上位でした。

やっぱり上位に九州の店舗は入っていません。ちなみに九州は女性比率が高い県が多いようです。人口当たりのセル店が少ないのはメインの客層である男性が少ないからということも予想できます。

www.start-point.net

 

◆人口あたりのアダルトショップが少ない都道府県

AVショップの少ない都道府県は以下です。

 

1位. 岩手県(約418000人に1店舗)

2位. 石川県(約287000人に1店舗)

3位.奈良県(約269000人に1店舗)

4位.京都県(約259000人に1店舗)

5位.沖縄県(約240000人に1店舗)

 

岩手県以外はすべて西日本。沖縄、京都、奈良など観光地は、アダルトショップのニーズはあまり多くないのかもしれませんね。DMMの創業地の石川県がすくなかったのが、ちょっと意外だなとか思いました。セル店の出店は岩手県ブルーオーシャンかもしれないぞ。

十字架の上の正しさか過誤か

6月26日は松岡洋右の命日だ。

外交官、満州鉄道総裁を経て、第二次近衛文麿内閣では外務大臣を務めた。アメリカへの留学経験もあり流暢に英語を話す。

 

松岡を有名にしたのは、1932年のジュネーブ総会の演説だろう。満州においての振る舞いを欧米から糾弾された日本をキリストにたとえ熱弁した。

日本は今、十字架の上にいるキリストのごとく罪に問われている。キリストの正しさが後の世で明らかになったように、日本の正しさは後の世で分かることだろう。

「十字架の上の日本」とも呼ばれたその演説は、松岡の流暢な英語もあり、欧米諸国の出席者からも絶賛された。これを機に、日本は国際連盟を脱退する。

 

しかし、松岡の言う日本の正しさは証明されることなく日本は敗戦。この演説から14年後の1946年6月26日、松岡はA級戦犯として病死することとなる。松岡の言う正しさなど証明できなかったけれど、高校でこの演説を知ったわたしは、その言葉にひきつけられた。高校卒業から10年以上経った今でもこの演説を思い出す瞬間はある。蔑ろにされているその正しさは、後世の世が証明する。その言葉の力強さは、今、この瞬間、蔑ろにされているわたしを何度も救った。

松岡の行動への非難は多くある。日本を戦争に導き、国内外の多くの人を死に追いやった。その罪はある。だけど、それでも、わたしは歴史上の人物として、松岡洋右を嫌いにはなれない。松岡の留学中、下宿先のアメリカ人婦人は、実の息子のように彼を可愛がり、優しく接した。松岡は後に、アメリカを第二の母国だと話したという。その母国アメリカとの戦争を推し進めたのも松岡自身だ。

親しみのある国でありながら、日本の政治家の立場として、アメリカと戦争をしなくてはいけないと判断した。その判断は間違いだったのだけれど、良いか、悪いか、好きか、嫌いか、善か、悪か、単純な二元論で判断しない、深く知り、情が沸き、それでも戦うとした松岡の割り切らない判断にわたしはひかれてしまう。結果的にその判断が誤りだったとしても。すべてにおいて、善か悪か、味方か敵かの判断を迫る世の中で、極端に割り切らない判断をする人は気になってしまう。

 

◆名誉棄損か、表現の自由

最近、伊藤詩織さんが漫画家のはすみとしこさんを提訴したニュースを見た。わたしはこれに対して、伊藤さんに賛同するか、否か、善いか、悪いか、判断を出せずにいる。

news.yahoo.co.jp

 

ジャーナリストの伊藤詩織さんは6月8日、自身の訴える性被害について「枕営業」などと揶揄するTwitterの投稿に名誉を傷つけられたとして、漫画家のはすみとしこさんら3人に計770万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。

 

リアリティショー『テラスハウス』出演中にSNSで誹謗中傷を浴びていた木村花さんの死去に言及し、「私もアクションを起こさなければと思い、急ぎ足で訴訟をスタートすることにした」と語った。

  

私個人の好みとしては、はすみとしこ氏の漫画は嫌いだ。わたしは、下劣な表現だと思う。だけど、この下劣に見える表現を罪としてしまっていいのか、そのこまでの判断を下していいか、わたしにはわからない。

記事によると、伊藤さんは、先日亡くなった木村花さんを例に挙げ、自身の意見を述べた。木村花さんの死をきっかけに、政府も誹謗中傷の規制に動き始めている。 

一方で、ネット上での表現の規制に関して、慎重になるべきという意見もある。

 

有田氏、政府のネット規制の動きは「容認できない」

www.nikkansports.com

 

ネット中傷対策 自民が厳罰化検討 「表現の自由」規制に懸念 

www.tokyo-np.co.jp

 

この提訴により、インターネット上の表現が、損害賠償を支払う対象となるという前例ができる可能性がある。それによって、どのようないい点、悪い点があるのだろうか――それはその状況になってみないとわからない。ただ、前例ができたとき、それは、政府やそれを支持する人に対しての誹謗中傷もその対象になる可能性があるようにわたしは思う。言論の委縮につながってしまわないか。

 

わたしは以前、日本テレビ記者、清水潔さんのSNSでの投稿が、政治家や特定の思想を持つ人の名誉を傷つける目的の発信に見えると書いたけれど、これも対象になってしまうのだろうか。

mochi-mochi.hateblo.jp

 

わたしは清水さんをジャーナリストとして憧れていたので、そういった発信をすることを残念に思ったけれど、その発信を、規制や制限する必要があると問われると、わたしは、はっきりとは答えを出すことができない。わたしの好みではないけれど、許されていい表現のような気もしている。わからない。

伊藤さんの受けた被害はあまりに大きい。彼女の受けた性的暴行は残酷極まりないし、その後、伊藤さんを中傷する人の言葉もあまりにひどい。だけど、それでも、損害賠償を払うものだと判断してしまっていいか、悪いか、わたしにはわからない。伊藤さんのこの提訴は、伊藤さんだけの問題にとどまらず、いろんなところに影響がでるように、わたしは思えてしまう。

 

◆匿名の個人から直接向けられる暴力 

わたしの意見だけれど、伊藤さんは、木村花さんのように傷つく人をなくしたいというのであれば、伊藤さんを直接攻撃してきた人を提訴したらよいのではないかと思う。記事によると、伊藤さんは、匿名の人物からひどいメッセージや画像を直接送られてきた。

www.businessinsider.jp

嫌がらせや誹謗中傷はエスカレートした。

自分が行った場所の写真と性器の写真が同時に送りつけられたこともあり、身の危険を感じたという。

  

news.yahoo.co.jp

「死ね」などの暴力的な言葉や、家族や友人に向けられた誹謗中傷もあったといい、伊藤さんは「道を歩いているどれくらいの人が、こういう言葉を発しているのか怖くなり、外出できなくなった」と振り返る。

 

性器の画像を送ることも、「死ね」とメッセージも送ることも、彼女に直接向けられた攻撃だ。名もなき匿名の個人からの攻撃。「誰がやったのかバレない」と思っているから発することができた暴言だろう。

木村花さんも名もなき個人からの攻撃に苦しめられた。そういった、彼女に直接向けられた攻撃を罪に問うのであれば、わたしは彼女に賛同できる。名前のない個人だからといって言葉の暴力を投げていいはずない。

伊藤さんのアカウントに向けて「死ね」などの暴言を送ったり、メールアドレスに性器の画像を送ったりしたら罪に問われるようにわたしは思う。だけど、風刺画という、人によっては、作品ともとらえられるこのできるものを、公に向けて発表するということが罪に問われるのか、わたしにはわからない。

 

当該のイラストは、個人的に嫌いだし、品性のないもののようにわたしは感じる。けれど、それでもわたしは善悪の二元論で片付けられないでいる。そして、もし、名誉棄損が認められなかったとき、イラストがより過激な表現になってしまうことも、わたしは心配している。一度、司法によって、認められた前例があれば、より過激な表現になっても認められるかもしれない。そのとき、伊藤さんは、きっと、もっと苦しめられる。

 

十字にかけられたそれが、正しさなのか、過誤なのかは、それは後の世にならなければ分からない。この結果は、後の世が明らかにすることだろう。

箕輪厚介の不幸

少し前、幻冬舎の編集者、箕輪厚介さんがニュースになっていた。

bunshun.jp

 

記事によると、箕輪さんは、女性ライターAさんと交わした書籍出版の約束を反故にした。さらに彼女に対して、セクシャルハラスメントもした。

わたしにとって箕輪さんはあべみかこちゃんのYoutubeにでて、あべみかこTシャツをテレビで着るといったのに着なかった人という認識だ。わたしはYoutube公開後の二週間、箕輪氏がでるテレビ番組をすべて録画し、チェックした。だが、あべみかこTシャツを着ている様子はなかった。その後もしかしたら着ていたのかもしれないが、ツイッターSNSをチェックする限り着ていないようだ。あべみかこファンとしては裏切られた気持ちだ。

 


コンプライアンス大丈夫?NG無しノーカット対談

 

でも、それ以外の箕輪さんの言動に関してはとくに興味はない。面白いなと思った前田裕二さんの著作「人生の勝算」を、箕輪さん編集したと知って、わたしが興味をもてる本も作っているんだなと思ったぐらい。ただ、それでも、あべみかこちゃんの一件から、いい加減な部分もある人なんだろうなと、わたしは認識している。 

人生の勝算 (NewsPicks Book) (幻冬舎文庫)

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  • 作者:前田 裕二
  • 発売日: 2019/06/11
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◆箕輪厚介はセクハラと認識していたのか

上記した記事によると、箕輪さんは既婚者であるにも関わらず、仕事をふった女性ライターに対して「家に行きたい」「キスをしたい」というメッセージを送った。記事を読む限りひどいハラスメントだと思う。ただ、箕輪さんの著作を読み、箕輪さんの性格を想像する限り、箕輪さんに悪気はなかったように、わたしは感じる(もちろん悪意がないからといって罪が軽くなることはないが)

箕輪氏の「死ぬこと以外かすり傷」には、「言ってはいけないことを言ってしまえ」と題された章がある。そのなかに新入社員時代の新人研修のエピソードがある。

死ぬこと以外かすり傷

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  • 作者:箕輪 厚介
  • 発売日: 2018/08/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

マナー研修を受けたあとには、日報を書いて会社に提出しなければならない。正直な感想こそが誠意である。僕は「マナー研修という名の茶番劇」というタイトルで、この研修会がいかにくだらないか、気が狂ったかのように全力で感想を綴った。「マナー研修というのは名ばかりのただの茶番劇だった。内容を事前に確認してから受講するか決めるべきだ。高い参加費を払い、大勢の社員を丸一日拘束することにはまったく意味がない。こんな無駄なことは来年からやめたほうがいい」

 

素直に生きる、常識を疑う、空気を読まない、そんな考えをもった人なのだろう。素直に生きていい、とわたしも思う。だけど、それをやった結果どうなるかは考えなくてはいけない。とくに、「人を傷つけてしまわないか」という視点を放棄してはいけないようにわたしは感じている。

今回も、「家に行きたい」「キスをしたい」というメッセージを送れば、好意のない相手は不快に思うだろうとか、仕事相手だから誘いを断りにくいし、困らせてしまうかもしれないとか、既婚者である自分と恋愛関係を結ぶのは、不貞行為と問われるリスクが相手にはあるとか、そういった相手の立場にたって、気持ちやリスクを考えていれば、やってはいけないことだと分かっただろう。

空気を読まなくていい。当たり前をしなくてもいい。非常識でいい。だけど、それをやった結果どうなるかは考えなくてはいけない。そして、その考えるなかに、人を傷つけてしまわないか、という視点はきっと必要になる。人にセクシャルハラスメントをして、後々まで残る傷を負わせていいなんてことはない。誰だって素直に自由に生きていいけれど、他人を傷つけない範囲でしかない。

こんな当たり前のことを箕輪さんに教えてくれる人はきっといなかったのだろう。たとえば、もし、男子大学生が同じ大学の同級生の女の子を好きになって「家に行きたい」「キスをしたい」とメッセージを送ったとする。たしかにセクシャルハラスメントにはなるけれど、「仕事をふる立場から迫られて断りにくい」とか「既婚者と関係をもって相手のパートナーから訴えられるかもしれないと不安になる」とかそういった要素はない。どちらもセクハラには変わりないけれど、プラスアルファの精神的負担はなくなる。そういった立場も責任もないうちに、「それはセクハラになるからやめなさい」と言ってくれる人がいたとしたら、こうやって有名編集者になってから問題になることはなかった。ある部分で成長しないまま、仕事や立場だけ得てしまったからこそ、問題が大きくなってしまったようにわたしは思う。

もちろん、箕輪さんに悪意がなかったからといって、Aさんに行った行為が軽くなるわけじゃない。悪いことだ。彼女の気持ちに寄り添い、謝罪し、できるだけの彼女の要望を聞き、同じことをもう一度起こさないように考えてほしいとわたしは思う。

だけど、同時に、悪いことを悪いとわからないまま年だけとってしまった男性たちを、そのままにしてしまうことも罪なように思う。自分はなにも悪いことをしていないと思っていたのに、ある日突然、たくさんの批判を浴びる。だれにも注意されず、立場だけ高くなってしまった裸の王様。

 

 

◆「もし自分ならば」と考える

少し前にソフトオンデマンドの田口さんのツイッターですごく共感できる発信があった。

 

悪いのは性欲に操られた男性ではない、被害を受ける女性でももちろんない、そのまま放置している私たち全員です。

 

そうなんだよな。でも被害者の立場にたつとそう言い切りにくいと思うこともある。怒りや悲しみを被害者は抱いている。だけど、一方で、ハラスメントをした個人を断罪して、問題の根本が解決できるようには、わたしは思えない。「そういうことは言わないほうがいいですよ」と言いたいけれど、怒りを持たずに伝えることができない。距離を置いて終わってしまうことばかりだ。(だからこそ、怒らずに諭すことのできる田口さんのような人が貴重だとも思う)

そして、セクハラの基準も人によって違う。ある人にいいことがある人には悪いことになる。それはすごく難しいと思う。これはわたしの考えだけど、セクハラを言わないようにするためには、まず、「自分が性的関係を持ちたくない人に言われて嫌じゃないか」という視点が必要なのかなと思う。

どんな人にも性的関係を持ちたくない相手はいると思う。同性愛者ならば異性、異性愛者ならば同性がそうだろう。年齢18歳から90歳までどんな人とでもセックスできるだろうか。体系も、BWI18.5未満のやせ形の人、40以上の肥満の人、どんな人とでもできるのか。自分と肌の色が違う人とでもセックスできるだろうか。老若男女、全人類とセックスしたい、だれでもいいからやりたい、という人は、おそらくすごく少ない。性別、年齢、体系、性格、人種、すべての項目において性的対象にならない、性的関係をもちたいと思わない人、それが、相手にとっての自分だと考えて、話してみると失敗しにくいかもしれないな、と思う。

わたしもつい、性的なことを聞きそうになるけれど、逆の立場にたって、自分が聞かれたらと思うと、不快な思いを避けやすいかなとは思う。もちろん、自分はよくても相手はダメな場合はあるし、万全じゃないけれど。

そして、言いにくいけれど、自分が言われる立場に立ったら、「あなたが恋愛対象じゃない人に言われらた嫌じゃないですか?」と聞いてあげるのが、やさしさなのかもしれない。「それセクハラですよ」って怒るんじゃなくてね、「どう思う?」って聞いてあげるのが、理想だなとわたしは思うけれど、すごくめんどくさいよなあ。近しい人にはできるだけ言えるようにがんばろう……

 

◆殺して忘れることで第二、第三の広河隆一が生まれていく

箕浦さんの件もそうだけど、ハラスメントをした人に怒り断罪して、彼、彼女が表にでないようして……そうやって社会的に誰かを殺して忘れるというサイクルを繰り返すことを、わたしはいいとは思えない。再び同じ問題が起きないように是正していくことが必要だ。そして、わたしが一番怖いなと思うのは、裏表の使い分けがうまい人だけが残っていってしまうことだと思う。

東大生集団わいせつ事件をモデルした小説「彼女は頭がわるいから」の中で主人公の東大生は、無名な女子大の大学生に横柄な態度をとる一方で、祖母に紹介された有名女子大に通う歯科医師の娘には優しい好青年として接した。

彼女は頭が悪いから (文春e-book)

彼女は頭が悪いから (文春e-book)

 

 

ある場所では、気を配る優しい人ようにふるまいながら、ある場所ではひどい扱いをする。そういった本音と、建前を使い分ける、ずる賢い男性だけが残っていってしまうのではないか。常に女性にたいして、ハラスメントまがいな発言をしている人は目立つし叩かれやすい、一方で限られた個人だけにしているハラスメントは明るみにでにくくなる。普段紳士的ならばなおさらだ。

少し前にカメラマンの広河隆一さんが女性に性暴力をふるったことがニュースになった。

bunshun.jp

 

広河さんは人権を無視したような発信する人ではなかった。リンクの記事には、「パレスチナチェルノブイリの子どもたちの救援活動を展開し、3・11以降は福島の子どもたちの保養事業に力を入れ、彼に感謝する声も多い」とある。さらに、『人権』や『知る権利』を守り、援助を必要としている人々へつながる情報等を提供する目的の団体も立ち上げていた。

news.nifty.com

 

人のために動く人、弱い立場や、不幸な境遇に寄り添う人、人権に配慮した人、という見られ方をしていながら、一方で、2004年から2017年まで13年もの間、明るみにでることなくひどい性的暴行を働いていた。

「セクハラをしたら即退場」という風潮が強まれば、強まるほど、下に、下に、もぐり、こういった使い分けができる人――見えないところで、性暴力のような残忍なことを行う人が増えていくのではないかと感じている。悪い事だとわかりながらバレないように行う人だけが残っていく。

セクシャルハラスメントはよくない、そして、被害者の痛みは絶対忘れてはいけない。その罪は償わなくてはいけない。だけど、加害者に怒りをぶつけていいのは被害者だけだとわたしは思っている。ひどいことをされて許せない気持ちは本人にしか分からない。それを感情的に言うことを、第三者咎めることはできない。被害を受けた当事者にしか分からない痛みがきっとある。その辛さ、惨さは本人にしかわからない。当事者以外の人たちが「大げさだ」なんていうことはできない。

しかし、被害者以外の人が強く怒ることを、わたしはあまりよいとは思えない。大多数の第三者が怒り、数の力によって加害者に私刑を下すことで、人々の本心が変わらないままに、「あれをやったら怒られる」という認識だけが伝わる。空気を読み、使い分けだけがうまくなる。悪い事が下にもぐってしまわないように、めんどくさかったとしても誠実に真摯に「違うよ」と言わないといけない。

 

殺して忘れる社会---ゼロ年代「高度情報化」のジレンマ
 

 

 

あなたは桃太郎じゃないし、鬼なんかいない。

とても嫌な事件のニュースを見てしまった。

mainichi.jp

 

www.47news.jp

 

岐阜県で、大学生たちがホームレスの男性を殺したニュースだった。わたしは、記事を読むだけでも嫌な気持ちになった。

路上生活者が襲われる事件は、たまに起こっていて、そのたびに嫌だなと思っている。大学一年生のとき、受講していた社会学の授業で、ホームレスの襲撃事件をとりあげたことがあった。ちょうど、同じような大学生がホームレスを襲う事件が起こったときだった。講義を担当した講師によると、なぜ罪に問われるのか分からない加害者もいるという。「社会悪である浮浪者を成敗したんだ、世直しだ」と、まるで、鬼退治する桃太郎にでもなったように話す。昔ながらの童話を例に挙げて講師は説明してくれた。

だけど、成敗したのは鬼じゃなくて、人間だ。感情もある血の通った人を殺して、なにが成敗だ。それはただの暴力で殺人だ。調べてみると、ホームレス襲撃事件では、自分たちが社会悪を退治したかのような供述をする人はいるようだ。

www1.odn.ne.jp

 

ちなみに、路上生活者で、障害や病気を抱える人は三割に上る。健康な人よりも不利な状況で路上生活に追い込まれていく。本人の努力不足だということはできるけれど、わたしは単純に本人だけの問題で納めてしまっていけないようにも思っている。

yomidr.yomiuri.co.jp

 

 

◆遠くの子供はかわいそうで、近くのおじさんは汚い

わたしの大学には短期留学をする人なんかもいて、海外の恵まれない子供に向けたボランティア活動をしたり、海外の貧困について勉強をしたりする人もいた。わたしは、お金もないし、そこまでの行動力もないので、ボランティアどころか、21歳までパスポートすらもっていなかった。

海外の貧しい人たちに手を差し伸べるといっている同級生たちが、一方で、繁華街で寝ているホームレスに怪訝な顔をすることがあった。同じ困っている人であっても、外国の子供たちには優しくできるけれど、東京で座り込むおじさんには優しくできない。わたしはそれを差別のように感じてしまった。同じように生活が立ち行かなくなっているのに、どうして、相手によって手を差し伸べるかどうかを分けるのだろう。自分のそばで苦しんでいる人だけを助けられないのはどうしてなのだろう。

 

◆救いの選別が許せなかった

わたしがホームレスの炊き出しを手伝ったのは、そういったものへの反発心だったのだと思う。自分の救いたいものだけ、助けて、自分の醜いと思うものは排除する。救いの選別。外国ばかり見ている同級生が、助けるものを選別しているように見えて、嫌悪感をもった。もっと身近に、わたしが生活しているすぐそばで、苦しい思いをしている人はいる。救いたい人、かわいそうと思える人だけ救うのは自分勝手だ。

わたしは、そういった同級生への反発で、路上生活者の炊き出しに参加した。そういった理由で誰かを救おうとしたわたしは、自分勝手なのかもしれない。わたしはどこかで、汚いとか、ダメな人だとか、思われる彼らが、そうとは限らない、偏見が正しいばかりじゃないと、思いたかった。だから、それを自分で確かめるために、ホームレスの人たちの近くに行った。それはそれで、海外に行く彼、彼女たちとは別のベクトルで利己的だったと思う。

 

◆外側から見た像が正しいわけじゃない

ホームレスにおにぎりを何度か配って、偏見は正しいわけではないことが分かった。お風呂入れず体臭のある人や、汚れた衣類を身に着けた人もいた。だけど、彼らが暴れたり、暴力を振るったり、誰かに危害を加えるようなことはしなかった。自分の話しばかりしてしまう人はいたけれど、そこは相手を不快にさせようとしているのではないことも分かった。コミュニケーションがうまくないとか、人との関係づくりがうまくないとか、そういったことはあったかもしれないけれど、誰かを傷つけたり、いやな思いをさせたりするような人はいなかった。少なくとも「世直しだ」などといい、人に襲い掛かるような、そこまで他人の気持ちを推し量れないような人はいなかった。

たぶん、アダルトの世界にいるのも、このときの経験があるように思う。この世界も、外側から見たら偏見がある。少なくとも、わたしはこの業界に入る前は、怖い世界ではないか、とか、違法な方法で金を稼いでいるではないか、とか思っていた。だけど、永沢光雄さんの書籍「AV女優」に書かれていたそれは、わたしのイメージとは違う。大学時代にエロ本ライターをしていたときに出会った人たちも、わたしの抱えた先入観とは遠く、地味に、真摯に日々を生きていた。もしかしたら外側の見方と内側とが、違うんじゃないかと気になっていたりした。

そんな好奇心で人生を決めてしまうのも安易かと思うけれど、世の中から悪く言われているものたちが、本当に悪いとは限らないかもしれない、それを確かめたくてエロ業界に入ったところはある。20代の女性だったわたしが、4年働き続けるくらいには、問題のない会社だった。すくなくとも、大学生のころ、思っていたイメージとは全然違った。

アダルト業界に入る前、わたしは業界ではない企業で会社員として働いていたけれど、そのときの会社と遜色ない生活だった。毎日決まった時間に出社して、資料をつくったり、営業をしたりして、定時かそれよりちょっと遅い時間に退社して、月々の給料をもらう。

 

◆強い言葉で語られる正義が正しいのか

強い言葉や強い気持ちをもったとき、一歩、下がって考えたいとわたしは思う。世の中で悪いイメージを持たれているものが、本当に悪いとは限らない。一方で、対外的にあたかも正しさを語っているかのように見える人が、自分の嫉妬心や野心や虚栄心やいびつな気持ちを満たすために、正しく見えることを言っていることだってある。

誰が言うかが大切だし、影響力のある人の意見に、影響されてしまいそうになる。だけど、すこし待ってほしい。なにかを「悪い」と思う気持ちが、本当に自分の頭で考え至った結論なのか。偏見ではないのか、本当にそれが悪いものである理由はあるのか。少し立ち止まって考えてほしい。物理的にでも、精神的にでも、なにかや、誰かを攻撃する前、相手を傷つける前に、考えてほしい。「世直し」と思ったことが、他人を追い詰める暴力になっていないか。誰かを傷つける目的の正義ならば、そんな正義ふるってはいけない。あなたは桃太郎じゃないし、鬼なんかいないのだから。