オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

死ぬなら一人で死んでください、と言われる自分

以前も言いましたが、人のSNSをこっそり盗み見するのが趣味です。品性のない嗜好だと思うのですが、やめられません。仲がいい人よりも、相手に対して、ちょっと違和感があるなって人をつい見ます。 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

中学校時代のクラスメイトが今更新しているツイッターを盗み見しています。彼女のmixiのプロフィールに書いてあったブログからたどりここ数年見続けている。本人とはまったく連絡をとっていないんだけど。彼女は結婚して主婦になり、旦那さんの不満をツイッターにあげ続けます。モラハラと言われるようなひどい言葉も浴びせられることもある。「いじめっ子ってわたしの周りにはいなかったけど、きっとこんな人のようなことを言うんだろうな」と投げやりな投稿をしていました。ああ、そうか、彼女は、自分の周りはすべていい人だったんだ。

わたしは中学一年生の頃、陰口を言われたり、無視をされたり、ちょっとしたいじめみたいなものをされました。暴力をうけたり、身の危険を感じるものではなかったけれど、学校に行くの嫌だな、行くのをやめようかなとは思った。教室の端で、わたしの悪口を言っている人たちの姿は、ツイッターの彼女の目には入らなかったんだろうな。自分事にならないと、視界に入らない、自分が苦しまないと、痛みは分からない。そんなものなのかもしれない。

 

 ◆死ぬなら一人で死んでくれの議論

川崎市で起きた殺傷事件の犯人に対して、あるコメンテーターが「死ぬなら一人で死んでくれ」と言い問題になっていました。

www.j-cast.com

 

悲惨な事件であること、残された人たちがとても重い不幸せを背負ってしまったこと、そんなことを考えると、言いようのない悲しい気持ちになる。だけど、死ぬなら一人で死んでくれ、と言うことに違和感があります。

わたしは、中学時代に嫌なことを言われたこともあったけど、たまたま学校に居座り続けて、悪口を言われる時期も終わって、高校に行って、大学に行って、社会人になれた。だけど、もし、どこかで、躓いてしまったら、社会にうまく溶け込めなくて、恨みをため込んでいたのかもしれない。「あの時耐えられなかったら」と思うことが、わたしの今迄の人生でいくつかある。だから、ルートから外れてしまった人に対して、批難の言葉を浴びせていいのか、もしかしたら、自分だったのかもしれないのか、と思った。

 

 ◆親の居ないいじめっこ

中学生のとき、わたしの陰口を言って、無視して、笑っていた子は何人かいたけれど、その中の一人に、施設から通っていると大人から言われていた子がいた。児童養護施設のことだと思う。彼女とは、掃除当番が一緒だった。たくさん人のいるときは、わたしを馬鹿にして笑うくせに、二人っきりになった途端に親しい人のように話す彼女が嫌いだった。手のひら返しやがってと思っていた。

二人っきりで渡り廊下を掃除しているとき、彼女のところに、ほかのクラスの子がやってきた、すごく楽しそうに話していた。話し終わって二人きりになったとき、わたしは「施設の友達?」と聞いた。彼女が一番触れられたくないだろうな、と思うことは想像できた。それでも私は、彼女が嫌いで、言わなくてはいられなかった。

「違うよ」と彼女は慌てた。その後、彼女はなにかあるごとに「お母さん」を話題に出した。「お母さんが夜中にラーメンを作ってくれたんだよ」。「お母さんとテレビを観たよ」。わたしは、彼女の慌てた様子が忘れられなくて、悪いことをしたなと苦しくなって、いないはずの「お母さん」の話を真に受けたふりをしていた。もう10年以上前の話。大人になればなるほど悪いことしたよなって寂しい気持ちになる。もし、彼女が私の言葉で傷ついて、その怒りが今、彼女の周りにいる人に向かったとして、なにも悪くなかったとは言い切れないかもしれない。

みんなどこかで、加害者になる可能性も、加害に加担してしまう可能性も持っている。普通の生活なんて、すごくすごく簡単に崩れてしまう。だから、だからね、道を踏み間違えた人だったとしても、勝手に死んでくれと言っていいようにはわたしは思えなかった。