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生産性がないから死んでください

雑誌「文學界」に掲載された古市憲寿氏と落合陽一氏の対談が話題になっている。終末医療費用が高額になることを指摘し、延命治療をやめる提言が問題視された。

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”古市:財務省の友だちと、社会保障費について細かく検討したことがあるんだけど、別に高齢者の医療費を全部削る必要はないらしい。お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ヶ月。だから、高齢者に「十年早く死んでくれ」と言うわけじゃなくて、「最後の一ヶ月の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど、なかなか話が前に進まない。安楽死の話もそう。

 

落合:終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですが。(『文學界』1月号より)”

 

 少し前に話題になった「LGBTは生産性がない」という発言と似ている。その人が生み出すもの、与える影響の、大きさ、多さ、広さ、そんなものだけでその人の価値が図られているようだ。「残り一ヶ月の余生では生きたところでなにも生み出さない。生きている時間が一ヶ月伸びだところでなにも変わらない」。そう言われているように感じた。

 

安楽死を認めるかどうか

安楽死の議論は昔からある。わたしは、安楽死自体を一概に否定はしない。難しい問題ではあるが、人間が、自分の意志で、合法的に命を終わらせる選択があってもいいと思う。評論家の西部邁さんは、昨年、自ら命をたった。命を絶つ選択をした彼の背景には病気で苦しみ、最期を迎えた妻の姿があった。「生と死、その非凡なる平凡」で西部さんは夫人の最期をこう書いている。

生と死、その非凡なる平凡

生と死、その非凡なる平凡

 

 

 

私の妻が 「死に瀕する 」段階において 、 「ペインクリニックを滞りなくやってほしい 、余計な延命治療はやらないでもらいたい 」というのが担当医にたいする私の唯一の依頼事項であったし 、妻の私にたいする唯一の事前の懇願事項もそれであった 。そして私は 、点滴でかすかに栄養を補給しつつモルヒネで鎮痛を図るという治療過程が 「薬剤による緩慢な殺人行為 」 、つまり放っておけば三か月の余命のあいだの激痛をモルヒネで抑えつつ 、命を二か月に短縮するという意味での殺人にほかならぬことをよく承知してもいた 。だから 、その治療が本格的な調子になったときに妻が次のようにいったのを聞いて 、びっくりはしなかったものの 、「彼女の判断能力もモルヒネでついに狂いはじめた 」との思いを深くせずにはおれなかったのである 。

このままいくと大変なことになる 、お願いだから殺してほしい 、あなたの手で殺して、ころして 、コロシテ 。

曖昧な文句でやりすごそうとしても噓の通る相手ではないので 、というよりそう構えて妻と付き合ってすでに五十有年であるからには 、私は次のように応じる以外になかった 。そんなに頼むんなら殺してやってもいいような気もするけど 、しかしなあ 、君を殺せば 、殺人罪で刑務所というのはよいとしても 、七十五になろうとする爺さんの妻殺しはどうも格好が悪すぎる 。

 「殺してほしい」と言う妻に「75近くになって妻殺しはかっこ悪いな」と言う夫。治療で苦しみ迎える最期と、夫の手によって終わらせる最期、どちらが不幸せなのだろうか。

 

西部さんの本をみて、わたしは、わたしの祖母を思い出した。脚が動かなくなり、寝たきりになった祖母は食べ物を食べられなくなり、腕に点滴をするようになった。

細くなった腕から血管は見つからず、何度も注射をし、そのたびに祖母は点滴を嫌がった。内出血で黒くなった腕。どんどん痩せていく体。丸くてしわしわで、わたしがなんども繋いだ柔らかい祖母の手のひらは、骨と皮だけの骸骨のような手になっていた。そして、うわごとのように「しにたい」と言った。そのしにたいがどこまで本心か分からない。分からないけど畑仕事が大好きだった働き者の祖母にとって、脚が動かなくなったことは、生きる希望を削いでいく出来事だったように思った。「ばあちゃん、もう無理しなくていいよ」と言えたら、彼女は幾分楽になれただろうか。分からない。

 

◆死のコストを問う

だけど、わたしは、安楽死の議論のなかに、「文學界」で落合さんと、古市さんが語ったようなコストの議論が入り込ることはいけないことだと思っている。死の時期を決めることできないし、もしできたとしても、本人の意思以外にはあってはならない。

昔、「ソイレントグリーン」というSF映画を観た。人口が増加し、食べ物が足りなくなる未来を描いたSF作品。食物が不足し、人々は、人工的に作られた「ソイレントグリーン」という食品で生をつなぐ。劇中、貧しい老人が、生きることを諦め安楽死の施設に行く描写がある。貧しさや年齢から生活を維持することが難しくなり、自ら選ぶ死。そんな死に方、現実の世界であってはいけないと思う。たとえ、一か月間の命の維持であっても、自分の命は、自分が生きたいか、生きたくないかの意志だけできめなくてはいけない。

ソイレントグリーンの設定は2022年。今から3年後の未来。なんだか、この議論を予測したみたいだなと思った。

ソイレント・グリーン (字幕版)
 

 

◆生産性がないから死んでください

LGBTは生産性がない」と発した女性議員は、今はもうブログを更新し、ツイッターを投稿し、以前と変わらず意見を主張している。雑誌に廃刊に追い込み、たくさんの書き手の表現の場を奪っても、嵐が過ぎれば元通り。たぶん、「文學界」に載ったこの対談も数か月たてば忘れられ、誰も話題にしなくてなく。愚かな大衆はすぐに忘れる。どんなに批判されても一時が過ぎれば元通り。議論になるのと、忘れるのを繰り返しながら、ゆっくりと確実に命に生産性をもとめられる世の中になってくよう。