オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

封を切られずに中古品になるAV

1年くらい前だと思う。売上が伸び悩む店が多い中で、秋葉原のその店舗だけ調子がよいと話を聞いた。営業のとき、なんとなく思い出して「売り上げがいいって話題になってましたよ」と向けると、いつも愛想のいい店長はいつも以上にニコニコして話してくれた。「オマケをつけているんですよ、モデルさんのサインを入れたチェキやスマホケース。ほかにない物があると売れますよ」
希少性。たしかに、モデルの手書きのサインの入った商品は他では手に入らない。売るために賢い店舗の経営だなって思った。だけど、なんか、わたしはつっかかりがあった。来た商品を売る小売り業にとって、それは最善策だと思う。売れる事が正義だし、その中で店舗の方は色々な工夫されている。自分で商品を観てくれる担当者さんもいる、毎月商品ごとの宣伝POPを書いてくれている店舗もある。メーカーとしてすごくありがたい事だし、オマケを付けて売れるなら、出来る限り協力したい。
 
だけど、私たち作り手側が売る方法としてそれが一番だと思うのは違うと思った。私たちの売っているものはチェキやスマホケースに劣る物だと思いたくはない。
 
ここ半年はAVのリリースイベントの数が増えている。新作の発売に合わせて出演女優が来店し、サインや撮影に応じる。
参加するとすごく楽しい。わたしは一度、ほかのメーカーさんにお客さんで参加させてもらったけど、パッケージで見た女の子にあると感動するし、握手すると嬉しい。モデルさんは会うと好きになってしまう。
 
イベント自体はとても魅力的。だけど、イベントを積極的に行うようになった背景には各社DVDソフトが売れなくなるなかで唯一収益を出せるのが発売イベントだからという側面もある。
 
発売イベントが行った後は、イベント参加の対象になった商品が買取りを行う店舗になだれ込む。ある店舗に聞くと、イベント販売された商品のうち3割ほどが、封を開けられることなく買取にくると話していた。わたしたちの売っていた物は封を切る価値すらなかった。
 
宇野常寛は、「母性のディストピア」で、20世紀を映像の世紀、21世紀をネットワークの世紀と呼んでいる。ネットワークによって情報が媒体なく接続される。映像情報を消費していた時代は終わり、それ自体の価値は低くなる。
母性のディストピア

母性のディストピア

 

 

現代は紛れもなく、『現実』の時代だ。いや、より正確に言えばかつて虚構と呼ばれていたものはほぼ、現実の一部に回収されている。
レコードの売り上げが低迷するその一方で、握手会と音楽フェスの動員数は伸び続けている。もはや、情報を摂取するだけではエンターテイメントとして物足りなくなってきているのだ。逆に言うと20世紀の、特に後半に情報を摂取するパッケージソフトとして所有するだけでエンターテイメントとして成り立っていたのは、それが貴重だったからに他ならない。情報放送で不特定多数のユーザと同時に消費したり、ソフトパッケージとして所有したりすると言う体験自体が非常に珍しく、貴重な体験だったからに他ならない。
しかし現代において情報テキストを、音声を、画像を、映像を、摂取し、所有する事は驚くほど容易であり、また、そのコストには限りなくゼロは近づいている。事実上ゼロコストの情報がネットワーク上に溢れかえり、供給過剰が常態化した現在、私たちは単に情報を摂取することだけには価値を感じなくなっている。では何に価値を感じるのか。それは自分だけの固有の体験だ。もはや情報は、体験を補強するためのものでしかない。
宇野は「母性のディストピア」で、情報を「体験を補強するためのもの」と言った。だけど、封を切られず売られたソフトたちは補強するものにすらなっていない。サイン会で会った可愛い女の子でオナニーしよう、とすらなったもらえない。モデルは可愛いけど、お前らの売るものに見る価値はない、それを突き付けられている。
 
わたしたちは、封をあけずにDVDを売るユーザーを責めることはできない。見たくないAVを観ろとは言えない。決めるのはユーザーだ。だけど、わたしは、プロデューサーや監督やモデルや、たくさんの人がたくさんのお金と労力を払ってAVを作っているのを知っている。だから、価値がない物だと判断されているのは少し悲しいと思った。
 
売れることが正義だ。お金を払ってもらう価値を提供しないといけない。私たちは営業じゃなくてイベントスタッフになるし、モデルさんたちはAV女優じゃなくて、撮影モデルになる。生き残るために私たちは仕事や職種をかえるしかない。
 
イベントスタッフの、その仕事は、充実感もあるし、お客さんが満足そうにしているところを見ると、素直に嬉しい。だけど、贅沢かもしれないけど、アダルトビデオというメディアが衰退していくのを目の当りにするようで悲しくもなる。