オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

死ぬなら一人で死んでください、と言われる自分

以前も言いましたが、人のSNSをこっそり盗み見するのが趣味です。品性のない嗜好だと思うのですが、やめられません。仲がいい人よりも、相手に対して、ちょっと違和感があるなって人をつい見ます。 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

中学校時代のクラスメイトが今更新しているツイッターを盗み見しています。彼女のmixiのプロフィールに書いてあったブログからたどりここ数年見続けている。本人とはまったく連絡をとっていないんだけど。彼女は結婚して主婦になり、旦那さんの不満をツイッターにあげ続けます。モラハラと言われるようなひどい言葉も浴びせられることもある。「いじめっ子ってわたしの周りにはいなかったけど、きっとこんな人のようなことを言うんだろうな」と投げやりな投稿をしていました。ああ、そうか、彼女は、自分の周りはすべていい人だったんだ。

わたしは中学一年生の頃、陰口を言われたり、無視をされたり、ちょっとしたいじめみたいなものをされました。暴力をうけたり、身の危険を感じるものではなかったけれど、学校に行くの嫌だな、行くのをやめようかなとは思った。教室の端で、わたしの悪口を言っている人たちの姿は、ツイッターの彼女の目には入らなかったんだろうな。自分事にならないと、視界に入らない、自分が苦しまないと、痛みは分からない。そんなものなのかもしれない。

 

 ◆死ぬなら一人で死んでくれの議論

川崎市で起きた殺傷事件の犯人に対して、あるコメンテーターが「死ぬなら一人で死んでくれ」と言い問題になっていました。

www.j-cast.com

 

悲惨な事件であること、残された人たちがとても重い不幸せを背負ってしまったこと、そんなことを考えると、言いようのない悲しい気持ちになる。だけど、死ぬなら一人で死んでくれ、と言うことに違和感があります。

わたしは、中学時代に嫌なことを言われたこともあったけど、たまたま学校に居座り続けて、悪口を言われる時期も終わって、高校に行って、大学に行って、社会人になれた。だけど、もし、どこかで、躓いてしまったら、社会にうまく溶け込めなくて、恨みをため込んでいたのかもしれない。「あの時耐えられなかったら」と思うことが、わたしの今迄の人生でいくつかある。だから、ルートから外れてしまった人に対して、批難の言葉を浴びせていいのか、もしかしたら、自分だったのかもしれないのか、と思った。

 

 ◆親の居ないいじめっこ

中学生のとき、わたしの陰口を言って、無視して、笑っていた子は何人かいたけれど、その中の一人に、施設から通っていると大人から言われていた子がいた。児童養護施設のことだと思う。彼女とは、掃除当番が一緒だった。たくさん人のいるときは、わたしを馬鹿にして笑うくせに、二人っきりになった途端に親しい人のように話す彼女が嫌いだった。手のひら返しやがってと思っていた。

二人っきりで渡り廊下を掃除しているとき、彼女のところに、ほかのクラスの子がやってきた、すごく楽しそうに話していた。話し終わって二人きりになったとき、わたしは「施設の友達?」と聞いた。彼女が一番触れられたくないだろうな、と思うことは想像できた。それでも私は、彼女が嫌いで、言わなくてはいられなかった。

「違うよ」と彼女は慌てた。その後、彼女はなにかあるごとに「お母さん」を話題に出した。「お母さんが夜中にラーメンを作ってくれたんだよ」。「お母さんとテレビを観たよ」。わたしは、彼女の慌てた様子が忘れられなくて、悪いことをしたなと苦しくなって、いないはずの「お母さん」の話を真に受けたふりをしていた。もう10年以上前の話。大人になればなるほど悪いことしたよなって寂しい気持ちになる。もし、彼女が私の言葉で傷ついて、その怒りが今、彼女の周りにいる人に向かったとして、なにも悪くなかったとは言い切れないかもしれない。

みんなどこかで、加害者になる可能性も、加害に加担してしまう可能性も持っている。普通の生活なんて、すごくすごく簡単に崩れてしまう。だから、だからね、道を踏み間違えた人だったとしても、勝手に死んでくれと言っていいようにはわたしは思えなかった。

 

エロい女の子になる必要はないよ。

この前、プログラマーのDaiさん(@never_be_a_pm)のツイッターに返信する形で、「覚悟なく性的な姿を公する人はあまりよく思えない」と書いたんです。なんか、この世界にいると、感覚が鈍くなるけど、そんなふうに自分をエロく見せる必要ないよなあ、と女の子に対して思うことがある。

 

  

  

◆アブノーマルが偉い、人と違うが偉いという風潮は怖い

昔、雨宮処凛さんがあるサイトで、サブカルと言われるジャンルでは、アブノーマルなセックスをすることが偉い、普通の人のしないことをするのがセンスがいいとみられると語っていました。

maga9.jp

「ああいうの観てたから、普通のセックスじゃダメだと思ってた。変態じゃないといけないと思ってた」

 ああ、わかる…と遠い目になった。別に変態にならなきゃとは思ってなかったけど、とにかく自分には価値がないと思ってた。それは当時のAVでは女優があらゆる「変態」と言われる行為に応じていて、「こんだけ可愛い子でも脱いでただセックスするだけじゃ商品価値がないんだから、お前らなんて徹底的に無価値なんだからな!」と言われている気がしたのだ。

 

  アブノーマルな方が偉い、他の人がオープンにできないことをオープンにできるのは素敵、人と違う自分はセンスがいい。今アダルトの世界にいると、そんな空気を感じる。性を公にできるのはかっこいいと言う人が多いけど、わたしはよく考えて、と言いたい。人と違うことをしちゃいけないとは言わない。それをすることで、良い面もあると思う。だけど、デメリットもちゃんと考えてね、と思うのです。

人と違うことを、自分が覚悟をもって主張をするなら素晴らしいと思う。人から批判されれもいいから、言いたい、主張したい、そんな気持ちであれば主張はしてもいいし、嫌な思いを覚悟できるのは素晴らしい。だけど、覚悟がないのに、無理に人と違うことをする必要はないと思うんだよな。自分が本心で言いたいこと、悪口言われてもいいたいこと、アピールしたいこと、それ以外は傷ついてまで表現しなくていいよ。普通に無難に生きることはなにも恥ずかしくない。AV女優の戸田真琴ちゃんも書いていたけど、特別になる必要なんかない。

note.mu

 

◆エロビデオの営業をするデメリット

わたしはエロビデオの営業をしているので、エロいこと聞かれるだろうという想定はあります。だいたいは無視するけど、相手によっては死んだ魚の目でキモいっすよって言うし、ひどい場合は警察にいくだろう(わたしのまわりのみなさんは節度のある方ばかりなので、そんなことしようとしたことはないですが)。

だけどね、そう言いたくなる気持ちも分からなくはない。人のプライベートな部分を詮索したいとか、バカにして面白がりたいという汚い気持ちはわたしもある。そんなの下品だと思うし、自分のためにならないと分かるから、やらないけど、そういった感情が人間に存在するのは分かる。人の性生活を詮索したい人は存在するだろう、そんな人にとってアダルト業界の人間はちょうどいいだろうと予想できる。相手を品性のない人だと思うけどね。

わたしは危ないよなと思うのは、エロいことを言われるというデメリットを予想せず、エロビデオの営業になってしまうことだと思う。そうなったとき、「わたしは被害者だ!!」って怒りがわいてしまう。もちろん、エロいこと詮索してくる人が一番悪い。だけどね、自分が、その予想外の嫌な思いを避け方法はなかったのか。キモいことを言われてもいい、嫌な気持ちしてもいいと覚悟した人以外は、エロビデオの営業という人のやらない仕事に就かないほうがいいんじゃないかなと思う。もっと偏見のない仕事を選んだほうが良い。

 

◆セクハラの加害者が100%悪いのか

ちょっと前にある女の子の友達が、共通の知り合いにセクハラされているって相談してきた。セクハラをしたと言われた人は何回かあったけれど、わたしは悪い人には見えなかった。だけど、人に色んな顔があるのかもしれないね。わたしは、彼女の力になりたいと思って、相談できる機関の情報とか教えてあげた。なんとかおさまったようでよかった。

その女の子は、セクシーな自分の写真をSNSにあげて、自分のセックスのこともあけすけに話す。ボディタッチも多い。トラブルになった知り合いにも、自分のセックスや性の好みも話していて、そばで見ていて大丈夫かなって思った。セックスしたい人以外にそんな話をしたら勘違いされてしまうかもしれな、と思いながらもお節介だと思って黙っていた。

最近ね、その女の子の話を、別の男性経由で聞いた。「あの子エロいんだよ」って言われていた。わたしは、そのあと、エロい話ばかりしてはよくないと思うよって言ったんだけど、上手く伝えられなかったようで、いまいちピンときていないようだった。きっと、また嫌な思いをしてしまうんじゃないかなと心配している。

もちろん、加害者が悪い。相手の嫌がることをしたらよくない。でも、勘違いさせないように距離を保ってあげる、近すぎるなと思ったら距離をとる。これも思いやりなんじゃないかなって感じたの。人間だれでも相手に好かれたいと思うし、異性に好かれる方法として、エッチな女の子と思われるのは有効だとも思う。セックスできそうな女の子にはみんな優しい。だけど、そんな安易な好意を得るために、相手を悪い人にしてしまっていいのか、少し考えてしまう。

 

オナホールを使わないオナホ営業

「商品使ったことあります?」

営業先の担当者さんが、これはセクハラとかじゃないですからね、と前置きをしてわたしに話した。「この仕事していて言っていいかわからないですけど、アダルトグッズ使ったことないんですよね。それなのに、自分が売っていていいのかなって疑問に思うんですよ。カタログに載っている情報しか伝えられなくていいのかなって」。

商品のことを勉強していれば、申し訳なく思わなくて大丈夫ですよ。そんなふうに言った。だけど、仕事としてセックスに関わる人に対して「プライベートでも性的なことをしろ」って圧はあるような気がするなって思った。

この業界に勤める人と話していたとき「この業界にいるなら、商品使わないとだめだよね」と言っていた。その人は仕事に一生懸命だし、わたしにも親切に接してくれる素敵な方だと思う。だけど、その言葉には肯定できなかった。自分で使わない人が業界にいたっていい。性の多様性を謳っているメーカーや販売店が、自分の嗜好を無視して商品を使えというのは矛盾しているきがした。使いたくないなら使わなくていい自由があるはず。

 

◆女性用生理用品を作ったパッドマン

ちょっと前にパッドマンというインド映画を観た。女性用生理用品を作った実在の男性をモデルにした話。主人公は妻が月経の際に汚い布を使う姿をみて、安くて清潔な生理用品を作ることを決意する。主人公は生理用品を使う女性の意見や、大学教授の専門知識を集め、自身が使わないにも関わらず生理用品を安く作る仕組みを作る。

この映画のような話はどんな業界だってありえるんじゃなか。月経のこない人が生理用品を売ったっていいように、自分で使わない商品を仕事として売るのは不自然じゃない。罪悪感を持つ必要だってない。別にアダルトグッズを使うことが、アダルトグッズを売る人の必須条件じゃない。

jisin.jp

自分で使って意見を上げるというのも、無駄ではないと思います。でも、それは、たくさんの意見のうちのひとつということを忘れてはいけないように私は思います。メーカーや店舗、売る側の目的はたくさんの人に商品を買ってもらうこと。多数派の意見が大切。だから、売れ筋のデータや市場の同行、数字や多数派の意見をチェックしないといけない。それプラスアルファとして、自分でも使って意見を言う、ということだと思うんです。

最初に話した店舗の方は「カタログのデータしか」と言っていたけれど、セールスをする人は、客観的なデータを伝えることが一番だとわたしは思う。アダルトグッズは人それぞれ、感じ方も違うので、自分の感性がすべての人に当てはまるとは限らない。「自分はこれ使って気持ち良かったです」という理由で商品を勧めるのはミスマッチが起こるかもしれない。「あなた個人の意見じゃん」と言われるかもしれない。だけど、「こんな機能がついていますよ」「この作りがほかと違いますよ」と客観的な利点を説明されれば、買った後に「思ったのと違う」ミスマッチするのが少ないよう思うんです。商品を理解すること、それがやらなくてはいけない仕事だと思う。

 

◆有名レビュアーとメーカーの相違

ただ、アダルトグッズを使い意見を発信することが、売れ筋を左右しないかというとそうでもなくて、アダルトグッズに詳しい方が、レビューをして、それが売り上げにつながるというのはあると思います。たとえば、わたしは、オナホールは使わないけれど、売れ筋の商品を確認する手段として「オナホ動画.com」は参考になるし、そこによく書かれた商品が売れるという話も聞く。

しかし、そのレビューは、メーカーではないという形でやるからこそ、信頼が増すように思います。売り手が、いかにいい商品だと話しても、それは宣伝であり、見ている側は、「会社の利益のために伝えてる」としか映ってしまう。一方、レビューサイトのような第三者の意見は客観的意見として聞くことができる。

そして、レビューサイトならばなんでもいいかというとそんなこともない。アダルトグッズのレビューサイトも、有名なもの、無名なもの、どちらもある。使って意見を言う側が、そのジャンルを極めなければ購入者の望む情報は伝えにくい。「オナホ動画.com」は2011年から続くサイトで、ほぼ毎日記事を更新し、記事の数は2000記事以上。そこまで続いているだけに、発信者側への信頼が見る側からあります。そういった発信者だから、アダルトグッズを使い、レビューする意味があるように思うんです。

使用者として商品を極めている人が会社の外側にいるのに、売り手側がまでも「よさを伝えるのは使うのが一番」というのはもうちょっと他にあるんじゃないかなって思う。売り手にしかできない伝え方がある。地味だし、すごい普通なことだけど、自分たちが扱う商品の客観的な長所であり、カタログを補足する機能面の特徴を伝えること、勉強すること。すごくすごく普通だけど、それが売り手がしなくてはいけないことだと思う。わたしもまだまだ勉強不足だし、できていないけれどね。

 

使ってよさを伝える、それも手段のひとつではある。だけどそれは、ひとつの方法でしかなくて絶対必要なことではない。ほかの商品のセールスと同じように商品の勉強やデータの収集が売り手には必須。それプラスでできる人だけ使えばいい。そんなふうに思ったの。

杉田水脈が許せないならデモに行くより選挙に行こう  

マック赤坂先生がついに政治家になったようです。すごい!!!わたし、マック先生のキャラクターが好きです。ファンです。マック先生を取材したドキュメンタリー映画「立候補」も観に行きました。マック先生の当選に、わたしまで小躍りました。頑張ってほしい。

www.nikkansports.com

 

◆泡まつ候補マック赤坂の当選

「泡まつ候補」と呼ばれ、数々の選挙で落選してきたマック赤坂先生が当選するってどんな選挙なの?と思い港区議選を調べてみたら、1089票で当選している候補者がいるんですね。わたしのツィッターのフォロワーより少ない!

今まで意識したことがなかったのですが、地方議会って1000票程度でも当選する場所が多く、市区町村によっては1000票未満でも当選しているんです。意外に少ない。自分の意見が反映しやすい選挙だなと思いました。しかし、一方で、投票率は低く、港区議選では39%程度。自分の意志が反映しやすいのに、なんかもったいないな。

 

杉田水脈の応援演説とデモ

今回の地方統一選挙でもうひとつ話題になったのが杉並区議選。LGBTに対する差別的な記事で批判された杉田水脈衆議院議員が応援演説にいったところ、彼女の考えに反対する人がデモを起こしたというニュースがありました。

www.excite.co.jp

 

しかし、杉田議員が応援した候補者は今回の選挙で当選しています。「杉田水脈のような人を応援演説に呼ぶ候補者を落選させよう」という意図がこのデモにはあったと推測するのですが、候補者は当選している。そして、これだけ話題になっているのに、杉並区議選の投票率は前回と比較して下がっています。「選挙に行って、この人以外に入れよう」と思わせるだけの影響力はなかった。今回のデモに対して、わたしは「一部の極端な人が行っている」と思いました。わたしが思った感想を杉並区の人たちも抱いていたのかなと感じます。

 

◆選挙で杉田水脈に反対する

わたしは杉田議員の意見に対して賛同はしません。LGBTが、生産性がないなんて、国会議員が言ってはいけないことだと思います。だけど、今回のデモのやり方も賛成できません。そして、日本で行うデモ活動にはあまり意味がないと思っています。今までもたくさんのデモがあったけれど、それによって世の中が変わったようには思えません。「一部の極端な人が行っていること」としか認識されないよう思うんです。

日本は民主主義で国民の投票の結果がきちんと反映されます。だから、投票と言う形で意見を言う方法が一番自分の意見を通すことに繋がるよう思うんです。杉田水脈議員は自民党所属の議員です。杉田水脈議員のような議員を許す自民党という組織に投票しないこと。それが一番の意思表示になる。自分はもちろん、周りの知り合い、一人ひとりに呼びかけたら、大きな動きになる。

たとえば、デモに集まった人が100人だとして、その人たちが10人の知り合いに、支持する候補者に投票するように説得します。そうすれば1000票。今回の地方議会の選挙なら当選できる。自分たちの意見の代弁者が選ばれる。極端な例かもしれません。しかし、自分の意見をまわりに伝えること、そして、投票に行ってもらうこと。そういう地道な活動のほうが、デモよりも、ずっと、ずっと、現実的だとわたしは思います。

そういった小さくてめんどくさいことを繰り返していくうちに、世の中は変わっていくように思っています。派手で、にぎやかなことは、やった気になるかもしれないけれど、やった気になるだけで、きっとなにも変わらない。静かに考えて、地道にうごくことが大切ですよね。

上野千鶴子先生、男性の生きにくさも語ってください。

東大生強制わいせつ事件をモデルにして、姫野カオルコさんが書いた小説「彼女は頭が悪いから」を読みました。「気持ち悪い」と何度も思いました。作品に出てくる加害者学生たちが人を見下す描写や、残酷な犯行に関して書いた箇所も、ですが、一番、気持ち悪いと思ったのは、主人公の女の子自身に関する記述です。

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

のちに暴行事件を起こす、東大生の彼に主人公の女の子が会いに行くシーン。急な呼び出しに慌てて出てきた主人公が、東大生の彼によく見られるために、電車で化粧をしようとするのですが、通っている女子大の教授が、電車内で化粧をするのをよくないと言っていたことを思い出します。結局、彼女は電車で化粧はせずに、駅構内の鏡の前でマスカラを塗りなおします。それを見つけた東大生は彼女に幻滅する。

わたしはこのシーンがとても気持ち悪かった。世間、学校の先生、親、友だち、恋人、すべてによく思われるようとして、結果みっともない姿を彼に見せることになる主人公を嫌だなあと思った。マナーを無視して電車内の化粧をすることも、急に呼び出しておいてバッチリメイクを期待するなんておかしいと、彼に対して開き直ることもしない。誰にでも嫌われないようにして、自分が傷ついてしまう女の子。無難にふるまって、結局、自分のほしいものが手に入らない女の子。そんなふうに、私には見えました。でも、きっと、この小説に書かれた女の子だけでなくて、そういった女の子は現実の世界にもたくさんいる。

 

上野千鶴子東京大学で話したこと

上野千鶴子さんが東京大学の入学式で話した講和の中にも、この作品の名前が出てきました。

www.u-tokyo.ac.jp

 

東大に頑張って進学した男女学生を待っているのは、どんな環境でしょうか。他大学との合コン(合同コンパ)で東大の男子学生はもてます。東大の女子学生からはこんな話を聞きました。「キミ、どこの大学?」と訊かれたら、「東京、の、大学...」と答えるのだそうです。なぜかといえば「東大」といえば、退かれるから、だそうです。なぜ男子学生は東大生であることに誇りが持てるのに、女子学生は答えに躊躇するのでしょうか。なぜなら、男性の価値と成績のよさは一致しているのに、女性の価値と成績のよさとのあいだには、ねじれがあるからです。女子は子どものときから「かわいい」ことを期待されます。ところで「かわいい」とはどんな価値でしょうか?愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手を絶対におびやかさないという保証が含まれています。だから女子は、自分が成績がいいことや、東大生であることを隠そうとするのです。

東大工学部と大学院の男子学生5人が、私大の女子学生を集団で性的に凌辱した事件がありました。加害者の男子学生は3人が退学、2人が停学処分を受けました。この事件をモデルにして姫野カオルコさんという作家が『彼女は頭が悪いから』という小説を書き、昨年それをテーマに学内でシンポジウムが開かれました。「彼女は頭が悪いから」というのは、取り調べの過程で、実際に加害者の男子学生が口にしたコトバだそうです。この作品を読めば、東大の男子学生が社会からどんな目で見られているかがわかります。

 

引用部分の前にあった「女子受験生の偏差値の方が男子受験生より高いことを証明しています 」 などデータがないため、疑わしく思う主張もありますが 、全体を通してみるとわたしは好きな内容です。女の子たちを 勇気づける前向きな話。

一方でこの講和に対し批判もあります。東大男子だからと言っていい思いをしているわけではない、という方もいます。しかし、恋愛や結婚に関しては、学歴が男性にとってアドバンテージになっている側面はあると思います。

国立社会保障・人口問題研究所が発表した「第15回出生動向基本調査(結婚と出産に関する全国調査)」によると、結婚相手の条件として、学歴や経済力を選ぶ女性は男性に比べて多い。もちろん、東大卒だからすべてに人がモテるわけではありません。しかし、「東大卒」の学歴が男性にとって、武器のひとつになるのは事実でしょう。だから、「東大卒」という武器を悪用し、「東大生強制わいせつ事件」のような悲惨な事件が起きた。

www.ipss.go.jp

こんな残忍な事件、もう起きてはならないと思います。だけど、それを防ぐためには、女の子側の意識の改善も必要だと思うんです。高学歴な人格者もいます。経済的に豊かで優しい人もいます。だけど、それだけをみて、相手を選んだらいけない。学歴や経済力はたくさんある長所のひとつ。それだけで選ぶと、失敗する可能性が高いって、女の子が分かったほうが良いように思う。

 

◆王子様という虚像を求める弊害

「彼女は頭が悪いから」では、主人公の女の子が東大生の彼を王子様のようだと思う描写がでてきます。わたしはこれも好きじゃなかった。遊びに行く場所や食事をする店もすべて彼が決めた通り。リードされることを求める姿勢が嫌だなって思った。会いたいなら自分から誘ったっていいし、行く場所だって自分で決めていい。主人公の女の子は、東大生の彼に従来の男性らしさを求めているようだった。自分を導いてほしい、決めてほしい、言われるままついていきたい。だけど、そういった男性に従来もとめていた「男性らしさ」を期待する以上、事件を起こした男子学生のような考えを持つ人は減らないように私は思います。期待する男性像を提供するかわりに、従来の男尊女卑の概念を求められる。

 

最近読んだ「わたしがオバさんになったよ」という本の中で、ライターのジェーン・スーさんが、大正大学准教授の田中俊之さんと対談していました。田中さんは、男性の生きにくさについて、研究しているそうです。現在、日本の自殺者の7割が男性。その背景には、男性は一生懸命はたらくのがあたりまえ、働いて疲れているのがあたりまえという考えがあり、男性を追いつめていると、田中さんは話します。

 今、日本で生きる女性が差別されている、認められないという声はよく聞かれます。医学部入試の件もそうですし、#metooでセクハラ被害を訴える動きもあります。女性が苦しんでいる。それは事実です。だけど、女性とは違った理由で男性も苦しんでいる。女性らしさを押し付けられた女性が苦しいように、男性らしさを押し付けられた男性も苦しい。女性には女性の辛さがあり、男性には男性の辛さがある。

上野先生は講和の終盤このようなことをおっしゃっています。

フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

弱者が弱者のまま、尊重される。それは決して女性だけの問題ではないと思います。男性にある、弱い側面についてもやっぱり問題提起しないといけないよね

ポリアモリーを取材した伊藤詩織にモヤモヤ

なにもかも嫌になり、お酒が飲みたくて、偶然入った飲み屋で、立たないちんこは、罪なのか、と初対面の女性と激論を交わしました。ちんこは、時と場合によっては立たないこともあるよ、立たないちんこを許すことで私たちはみんな幸せになれるよ、きっと。セックスなんて、娯楽のひとつであって、わたしたちにはそれ以外にも楽しいことがある。そんな話をして楽しかった。

 

子供を作る目的があれば別ですが、そうでなければ、セックスは娯楽やコミュニケーションのひとつでしかない。セックスしたい人はやればいいし、やってもやらなくてもいい。やり方だって、自分と相手さえよければ、刑法にひっかからない範囲で、つまらないセックスも、いびつなセックスも受け入れられていい。そう思います。同性愛もいいし、変わったプレーもいい。ポリアモリーという複数人を好きになる人もいるようですが、それも、当人同士がいいのであれば、良いと思います。

ただ、それは、当人同士がよければ、ということで、誰かが傷つくセックスは、どんなものであってもよくないと思っています。先日、ジャーナリストの伊藤詩織さんがポリアモリーを取材した動画を拝見しましたが、取材対象者がポリアモリーのパートナーによって傷ついているようにわたしは見えました。

 

 

◆セックスで人を傷つけないための理性

動画の中に、以前ポリアモリーの人と交際していたてるさんという女性が登場します。彼女はパートナーの恋愛観やセックス観を受け入れられず、苦しみ、別れたと話します。彼女は以前の恋人との関係に関して、もっと嫉妬心をなくして付き合えたのではないか、と話します。

わたしは彼女のインタビューを聞き、てるさんは、辛かったとき、パートナーに複数人との交際やセックスを辞めるように伝えたほうがいいように思いました。だって、相手を傷つけていい、恋愛やセックスなんてないのだから。自分が傷つくことを無理に受け入れる必要はない。

誰かと触れ合いたい・セックスしたい、という欲求は多くの人にあるものです。だけど、セックスしたら、誰かが傷つくという場面であれば、それをセーブするのが人間の理性だと思います。理性のない人間によって、痴漢や、レイプなどの性犯罪が、起こり被害者が出る(痴漢やレイプなどは加害者自身が依存症などの病気であることによって引き起こされる場合もあります。本人だけの問題ではないケースもある。その場合は治療が必要です)。

伊藤詩織さんは、以前、レイプ被害にあい、それを告発し、書籍も発売しました。伊藤さんは自分の書籍のなかで、「告発したら、ジャーナリストの仕事ができなくなる」と言われたと語っていました。それでも、言わずにはいられないくらい、彼女は大きなショックを受けたのでしょう。セックスによって、傷ついたはずの彼女だから「自分が辛くなってまで、セックスをしなくていい」と言ってあげたらよかったのに。

Black Box

Black Box

 

 

◆嫌なことは辞めてと言っていいはず

さっきも書きましたが、わたしは、どんなセックスをしてもいいと思っています。ポリアモリーでもお互いが無理なく楽しめるならいい。だけど、セックスによって人を傷つけてしまうのはよくないと思っています。レイプや痴漢は、実際に望まない性行為をさせられることで傷つく。信頼関係のあるカップルの一方が他の人と性行為をして、それによって一方が傷つくのであれば、それは不貞行為です。自分が嫌なのであれば、はっきり嫌だと言っていいと思う。セックスや恋愛だけがすべてではないし、パートナーに自分が傷つくことをしないでほしいというのは、ワガママではない。嫌なことを辞めてと言っていいはず。

セックスで傷ついたと発信することは、勇気のいることかもしれない。だけど、それは主張していいことです。してほしくないセックスを主張していい。仕事がなくなると言われても、「わたしは傷ついた」と言えた伊藤さんは間違ってないと思っています。でも、なんで、自分自身が被害者になった人が、痛みが分かる人が、傷ついた人の気持ちを理解できないんだろうな。少しだけ悲しくなった。

 

追記。痴漢加害者を治療をしているお医者様の書籍を以前読みました。こういった治療がもっと広まって、誰かを傷つけるセックスがなくなったらいいのにな。

男が痴漢になる理由

男が痴漢になる理由

 

 

人は見た目は1~2割くらい

美容院に行くとヘアカタログを見る。ショートカット、ボブ、セミロング、長さごとに女の人の顔がバーッて並んでいる雑誌。パラパラめくっていて、ふと「みんな可愛くないな」と思った。いや、もちろん、同級生にいたら可愛い方だし、合コンに連れて行けば喜ばれるだろう。今のわたしよりは、飲み会で男の子に「かわいいね」と言われる顔、みんな。それでも「かわいくないな」と最初に思った。ああ、そっか、AV女優をいつも見ているからか、と次に思った。比較対照がAV女優になれば、かわいくないように見える。目が肥えるという感覚はこの世界にいると感じることなんだと思う。業界で働いていた人が、町を歩いていても誰もかわいいって思えないんだよね、と言っていた。そりゃそうだ。S1やムーディーズの商品棚と比べたらどれも見劣りする。

 

わたしはこの世界に入るまでかわいいか、可愛くないかに無関心だった。そもそも、その人の顔が美しいいか判断できなかった。顔の善し悪しは数値化できない。具体的な判断基準がないぶん、よく見なければ悪いところが分からない。わたし自身、人の顔面に興味がなかったんだと思う。芸能人の顔も判別できなかったし、それなりに化粧をして、みなりを整えていればみんな、かわいい分類だと思った。

最近、暇つぶしに同級生のSNSを見ていた。仕事でうまくいったとか、結婚したとかそんな内容ばかり。同窓会の写真には、中学高校の同級生の今が載っていた。「みんなかわいくないな」。ヘアカタログを見たときの同じ感想が浮かんだ。卒業して何年もたって、年をとってかわいくなくなったんじゃない。みんな変わらないけどかわいくない。あの頃、クラスの中心にいた同級生も、彼氏と放課後手をつないで帰っていった同級生もみんな可愛くない。可愛くなかったけど、それなりに化粧して、制服を着崩して、友だちに囲まれていたら、かわいいような気がしていた。

 

この仕事をして、とびぬけてかわいい女の子たちをたくさん見てきた。AVの世界では、きれいで、かわいくて、男性の性や恋愛の対象となる女性が、毎月たくさんリリースされる。とびぬけて可愛い一握りの女の子がリリースされる。だけど、かわいくて、きれいな女の子たちであっても、出演本数を重ねるうちに、売れなくなることがある。彼女たちの容姿が劣ったわけでない。中には、「劣化」なんて下品なことを言う人もいるけれど、劣化したところでとびぬけてかわいい。多少の劣化が効かないくらい可愛い女の子たちです。でも、それでも売れなくなる。きれいやかわいいといった容姿の価値が、飽きられて、価値がなくなる。「かわいさ」とか「若さ」とか、女性として価値のあると言われる特徴に、大きな価値はないんじゃないか。

一方で、とびぬけて可愛いわけではない同級生でも彼氏は出来るし、結婚もするし、仕事をしてお金を稼ぎ、家族との時間をそれなりに楽しそうにすごす。そんなのを見ていると、「かわいい」「きれい」によってもたらされる利益は少ないかもしれないと、思うようになってきた。容姿の美しさは一時的な付加価値としては機能する。とびぬけて可愛い人じゃないと有名AV女優にはなれない。だけど、「かわいい」「きれい」だけで生きていけるほど、単純なわけではない。きれいだけで何年もお金は稼げない。「かわいい」「きれい」だけでずっと幸せで居続けられない。

だから、美醜を問われないスキルを身に着けたいなと思った。かわいいは飽きられるし、劣化もする。だけど、目先の楽しさを我慢しながら地道に身に着けたものは、目減りしないのかなって。一生懸命働きましょうね。