オナホ売りOLの平日

大人のおもちゃメーカーで働くOLのブログ。

ミスター慶応大ようなモテる男が、女の子を一番、苦しめているということ

先日、「若草プロジェクト 設立3周年シンポジウム」を見学してきた。

若草プロジェクト|研修・催しものについて

瀬戸内寂聴さんの秘書、瀬尾まなほさんの本で、この活動を知った。物を書く人というのは、どこか自意識がでてしまうのだけど、かざらず、自分の欠点も素直に認めている瀬尾さんの文章はとても素敵で、瀬尾さんが関わっているという理由で若草プロジェクトにも興味をもった。

今回は、「若い女の子生きにくさ」というテーマを中心に有識者が講演していた。自殺を防止する活動をする「社会的包摂サポートセンター」の担当者の方は「電話で相談してくる人は半分以上が女性だ」と、データを見せながら説明した。そして、作家の桐野夏生さんは「自己評価の低い女の子は、認められることで、悪い道にそれてしまう」と話す。

そうか、そうだよね、女の子、とくに、自信のない女の子は、だれかに認められたいって思うのかもしれないね。自殺者全体では男性の比率の方が多い、それでも、自殺相談に電話してくるのが女性ばかりなのは、「誰かに認められたい」「評価してほしい」「励ましてほしい」と思うのかもしれない。誰かの優しさに飢え、寂しさを辛く感じるのは、女性が多いのかもしれない。そして、認めてほしい欲求は彼女たちを狂わしてしまうのかもしれない。

このシンポジウムでは、座間9遺体事件に関しても触れている。「死にたい」と呟きながらも、誰かに生きていいと認めてほしかった、もしかしたら、それが被害者の本心のようにも思った。

 

◆女の子を思い通りにする人たち

最近、AV女優さんで、ホストクラブの従業員にたくさんお金をだしたことをネット上に告白した人がいた。わたしは彼女の個人的な話は聞いていない。だけど、わたしは一緒に仕事をして、彼女が一生懸命お客さんを大切にする姿を見ていた、仕事熱心で、とてもいい子だと思った。綺麗で、可愛くて好きな女の子だった。だから、彼女が苦しそうにしているのがとてもつらかった。なんで、こんなにいい子を苦しめてしまうんだろう。

そのAV女優さんと付き合いがあった人がどんな人か分からない。だけど、女の子の心を上手につかんで、苦しいけど、抜け出せない、そんな状態にさせる男の人はいる。そういう男の人って一番、怖いように思う。

だけど、一方で、女の子の心をつかみ思い通りにさせる男の人は、女性の権利を守ろうとする人からは、あまり批判されない。シンポジウムでは、AKB48のようなアイドルブームが若い女の子を性的な目でみるきかっけになったと話していた。わたしはこれには賛同できなくて、女性的なものをアピールすること、それ自体は悪くはないと思っている。18歳未満の女の子に悪戯をしたり、成人していたとしても女性の意思を無視して性的な行為に及んだりしてはいけない。だけど、女性性をアピールしていたとしても、それ自体には罪はないと私は思っている。

それよりも、座間の事件の犯人のように、女の子の心をつかんで、思い通りにしていく人、一見、女の子に好かれるモテる人が一番怖いんだよなと思っている。女の子に好かれる見た目で、女の子が喜ぶことを言って、女の子に好かれる、そんな人が、実は悪意をもっていたという事態が一番怖いように思う。自分の犯罪行為をしたい欲求を隠しながら、女の子に近づき、向こうにも好かれ、そして、警戒心がなくなった頃に手のひらを返し、卑劣なことをする。そんな人が一番怖い。

 

◆「自分が嫌われるはずない」という傲慢さ

先日、慶応大学の学生が女性を暴行したというニュースが流れた。

www.sankei.com

 

彼は、大学のミスターコンテストに入賞するほどの丹精な容姿で、帰国子女で家もお金持ち、きっと女の子に好かれてきたんだと思う。だけど一方で、女性に乱暴をしたいという欲求も持っていて、それを実行した。

普通に考えたら、道であった人をレイプして、暴行してはいけないと思う。思うけれど、彼が実際にそれをしてしまったのは、「自分なら許される」という気持ちがあったように思う。女の子に近づく方法、好かれる方法をすべて知っていたから、「自分が女の子に嫌われるはずない」そんな傲慢さがあったよう思う。そして、これは憶測だけれども、今まで、卑劣な行為をしても罪をとがめない女の子がいたようにも思う。彼自身が、自分の異性としての魅力や立場で、女の子をうまく取り込んでしまっていたのではないか。

この事件を聞き、東大生強制わいせつ事件や、それをモデルにした小説「彼女は頭が悪いから」のようだなと思った。自分だったら許されるはずだという傲慢さがそこにあったように、わたしは見えた。

 

◆言葉の本当の意味を考える

女性性を強調した物や、それを好む男性は目につきやすい。キズナアイの騒動のように、女性の権利を訴える人々が、それを女性蔑視だと批判することもある。だけど、それよりもっと女性を苦しめているものはないだろうか。 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

これはわたしの個人的な意見だけど、「フェミニスト」「女性の味方」と自ら主張する男性は、異性として少し警戒する。「女性の味方だよ」「女性のことを大切にする」という言葉を額面通り受け取れば、恋人にする際にとても都合のいい人のように見える。だから、もしかして、女の子を取り込むための道具として、その言葉を使ってはいないか疑いをもってしまうこともある。対外的な意思表示と女性の好みは異なっていないか。

柚木麻子さんが「首都圏連続不審死事件」モデルに書いた小説「BUTTER」を先日、読んだ。殺人事件を取材する週刊誌記者の主人公は、犯人の女と面会を続け、ついには妹や母親に取材することとなる。洗練された父だと犯人は話していたが、母親からみた父は違っていた。

「私はもともと、家にいることがあっていないのよ。この街には何もなさすぎて飽きていたの。カルチャーセンターで働き始めてからは、講師仲間もできて、やっと息を吹き替えした。仕事帰りにテニスやバレー何かを楽しんだわ。こう見えて昔はスポーツ少女でね。でも、夫はいい顔しなかったわ。あの人、進んでいるふりをしていたけど、実のところ、新潟生まれのおぼっちゃんで、妻には家にいて欲しいタイプだったのよ、女性観がすごく保守的だった。あの世代の左翼の男によくいるタイプよ」

「あ、離婚して離れて暮らしていた私の父も、そのタイプでした。わかるなぁ。学生運動で知り合った、当時としては進歩的な夫婦のはず、だったんですけど」

 

これはフィクションであるけれど、その片鱗は今の社会にもあるように思う。革新的な男性であっても異性の好みが保守的であることは多くある。女性の権利をと叫ぶ男性のとなりには、綺麗な女性がいたりする。だからこそ、その人の言う言葉の本当の部分を確かめてから、判断しないといけないなとも思う。

 

◆「自分だったかもしれない」と話す瀬尾まなほ

前述のシンポジウムのはじめ、瀬尾まなほさんがこんなことを話していた。

「もしかしたら、その女の子たちって私だったかもしれない、わたしの妹だったかもしれない。女の子たちが悪いって決めつけがちだけど、人は環境によって変わる。わたしもその環境にいたらそうなるかもしれない」

そうだよな。もしかしたら自分だったかもしれない。そしてこれからも、そんな卑劣な被害に自分があうかもしれない。上手に、上手に、女の子を主通りにしようとする人はいるのだから。女の子たちを、分断をさせないためには、自分事にすることが大切だよな。わたしがどこまでできるか分からないけれど、なにかできたらいいな。

仙谷由人さんが亡くなってsengoku38を思い出す

仙谷由人さんが死んだ。

www.sankei.com

仙谷由人さんで思い出すのは、中国漁船衝突事件の瞬間を流出されたYoutubeの動画。sengoku38というアカウント名。当時海上保安官だった男が流出させた映像はメディアに取り上げられた。当時、わたしは大学生で、ジャーナリストになりたくて、就職予備校に通っていた。元新聞記者の講師が時事問題を解説してくれる。そこで、先生の娘が名探偵コナンが好きだという話になった。

「娘はね、マンガの推理も簡単に説いてしまうんだけどね、このsengoku38、3と8をかけ算すると24になるでしょ」

センゴクニシ。リベラルと言われた民主党政権。日本の海を守る覚悟で働いていた保安官が、領土を攻める諸外国に強気にでられない政権を歯がゆい気持ちで思っていたことは予想ができる。仙谷に死。本当の意味は今も分かっていないけれど先生の予想が当たったとするならば、アカウントの示した事柄は8年たった今起きてしまった。

調べてみたら、中国漁船衝突事件の映像が投稿されたのは2010年の11月。「震災前か」と、とっさに思ってしまった。民主党政権のイメージは大震災によってすべて上書きされている。普天間移設を声高に叫んだ鳩山由紀夫も、大臣になった福島みずほも、sengoku38もすべて薄まって、震災と原発で上書きされた。民主党政権は、震災の印象ばかりが残っているけれど、震災があった翌年に政権は自民党に移っている。リベラルな政党手放した大衆が反原発を声だかに叫んでいたのは少しおかしいなと、今になってみると思ってしまう。

 

◆反原発を訴える難しい本ばかり読む女の子

ちょうど、自民党に政権がうつったころ、反原発デモに参加している女の子がいた。彼女は大学には行ってない。専門学校を卒業したあとそのまま働いていた。インターネット上に難しい本の引用をたくさん投稿していた。意味ありげで意味のない引用文のあと、関係のない彼女の日常が続く。将来の子供に胸を張りたいと言ってデモに参加する彼女をわたしは少し距離を置いてみていた。

わたしは周囲の人がよく言わない物に興味を持つことが多い。学生時代は、ホールレスの炊き出しを手伝って、アルバイトではエロ本のAVの紹介分を書いた。多数派の人々は、顔をしかめるもの、悪くいうもの、そんなものが気になってしかたなかった。理由も言わず悪く言うのはなぜなのか、批判して終わりにしてしまっていいのか、臭い物に蓋をして終わりでいいのか。そんなことをずっと思っていたし、今でも思っている。当時は上手に言語化できなかったけど、反原発も、原発が悪いからなくせ、原発はすべての悪の元凶だ、で議論終わりにしていいのか、と思っていた。

 

原発に感謝していると話す福島出身の村西とおる

震災のずっとあと今から2年前くらいの話。テレビで、AV監督の村西とおるさんが、原発の話をしていた。2016年11月9日の東京MXのバラ色ダンディで以下のように語っている。

 わたしは、いわき市のあの地区の出身なんですよ。あれができた50数年前は、あの地区はとっても貧しい地区。わたしの地区なんですけどね。

わたしの同級生のお父さんなんかはね、みんな出稼ぎにいくわけ、東京に。それで、工事現場で死んだりするわけ。迎えに行くお金がないわけ、それで、骨で送ってもらうわけだ。それでもって、私の友達がね、うちの最後のおやじの体を見たかった、骨でかえってきちゃった、と号泣したことあるんです。

そういうように、あの阿武隈山地だから、土地もはっきりいって痩せている。海のほうは三陸と違っていい魚もとれないわけ。だから、東京に出稼ぎにいくしかないんです。その50数年前に原発ができたわけ。みんな喜んだ。出稼ぎに行かなくて済んだから。

今日50年後こうなったからって、あのへんの地区の人たちは、福島原発とか、東京電力に対する恨み辛みって、そんなにないですよ。感謝の気も、わたしもそうだけど、とても感謝の気持ち、原発に対する。自分たちの生活とか、家族離散とか防いでくれたんです、原発が。これで私たちは豊かになったって思いがあるから。

だから、今日においても東京電力の人たちはとっても一生けん命、親身になってあの地区でやってくれてますよ。そういう側面もぜひ室井さん(この日出演していた室井佑月さん)なんかにもご理解いただいて、決して、メディア騒ぐほど恩知らずでもないですし、原発この野郎じゃないんですよ。

 

村西さんは、「昔からあの辺に住んでいる人たちは原発東京電力に感謝しているんですよ」と言った。産業のない貧しい地域で暮らすため、出稼ぎにでて、ときには命すら落とす。悲しい過去を背負っているから、街に原発ができ、仕事ができ、みんな喜んだ。これで、家族そろって生活できる。

ああ、そうだよな。原発反対の陰ではお父さんの仕事がなくなって、お金がなくなって、学校にいけなくなる子供たちがいるかもしれないんだよな。原発があることで維持される世界。いつか壊れるかもしれない世界。だけど、じゃあ、ほかにふるさとで暮らす方法があるのか。田舎に仕事なんかない。そんなの、お金をかせぐだけの技術を習得しなかった人たちが悪いでしょ、と自己責任を地元の人に押しつけて苦しめて終わりでいいのだろうか。代替案のない状況で、いつか壊れるかもしれない幸せをむさぼること、それが一番マシな方法なんじゃないか、とわたしは思った。

過激なことを言う人、自分が正しいと思ったものを押しつけようとする人は一瞬立ち止まってほしい。過激な意見の後ろ側に、苦しむ人はいないだろうか。

福島のような事故はなくさなくてはいけない。家をなくし悲しい思いをする人を生み出さないでほしい。だけど、それは、今すぐ原発とめろという極論ではない。最善を考えていこうよ。こんな莫大な被害を被った国だ。そこで、たくさんの事象をみていたじゃないか。「こうしたら防げた」って後悔もきっとたくさんある。それを生かして、こんな事故が起こらない原発を目指したっていい。原発に変わる大きな発電所が作れて、同じくらいたくさんの人が雇えるならそれでもいい。できるだけ、不幸になる人が少なくなる方法を考えようよ。怒りではなく優しさで。

 

sengoku38がきてもなにも変わらない

原発デモに参加した彼女は数回だけ参加してデモ活動をやめてしまった。そもそも今は原発デモなど国会前で行われてない。今でも福島の作業は終わっていないのに。大衆はすぐに飽きてしまうんだ。

知的、賢い、人と違うと見られたい。自分のコンプレックスを埋めるために、過激な主張をアクセサリーのように身につける。誰かが傷つくことなど想像はしていないのだろう。原発デモに参加した彼女は、本の文面をいくつも投稿した。「自分には知性がある」「人と違うと認めてくれ」とアピールするかのように。過剰なアピールは自分が軽く見られているという自覚の裏返しだとわたしは思っている。だけど、想像力の欠如は、難しい言葉を並べても埋まらない。わたしは彼女のいまを詳しくは知らない。自分のなにかを埋めるために、誰かのささやかな生活を侮蔑し踏み殺していないことを願う。

sengoku38の動画から8年がたった。センゴクニシがきても、なにも変わらない。領土問題も原発普天間移設もなにも変わらない。変わらないものに怒りをぶつけエネルギーをそそいで、ぜんぶ無駄なことだった。極端な主張は、たとえそれが通ったとしても、世の中は改善されない。保守の主張も、リベラルの主張も怒りが原動力であるならば誰も幸せにできない。怒りはなにも解決できないんだ。みんなで一番マシな方法を考えようよ。

 
mochi-mochi.hateblo.jp

 

mochi-mochi.hateblo.jp

 

人から見られる自分と、人から見られたい自分の間でもがきながら生きる人はたくさんいる。今までもブログでも書いてきました。よかったらみてね。

 

キズナアイ騒動から見えた女の子を追いつめるフェミニストたち

少し前にバーチャルYoutuberキズナアイが話題になった。キズナアイノーベル賞に関して解説するWebサイトに掲載された際、弁護士の太田啓子さんや武蔵大学教授の千田有紀さんなどに「性的だ」「女性蔑視だ」という理由で批判された。

 

www.huffingtonpost.jp

news.yahoo.co.jp

news.nicovideo.jp

 

今回キズナアイを批判した有識者は「フェミニスト」と世間からみられている人が多かった。一方で、女性の権利を守る活動している弁護士の伊藤和子さんは今回のキズナアイ騒動に関して、女性らしい服装を理由に批判されていいのかと、ブログに書いている。

worldhumanrights.cocolog-nifty.com

 

女性が女性であること、女性が好きな服装をすることが性的だとか問題だと言われて公の場から排除されたり差別されること、見下されることに対して、怒りを感じていました。

 

エマ・ワトソンが胸を見せたのは、反フェミニストなのか、という論争も起きましたが、女性があるがままにあることを批判されるべきではないと私は思います。

わたしは今回の出来事に関しては、伊藤さんの意見に共感する。女性を蔑視しないこと、女性の権利を守ることは大切だ。だけど、女性自身が、自分の意思で、自分の好みの服を着て、それがたとえ、ピンクやヒラヒラや胸を強調するものであっても、それを批判してはいけないよう私は思う。

保守的な女性性に近い物や好みであっても、女性自身が、それが好きならばそれでいい。もちろん、保守的な女性性が嫌いな人にそれを強要するのはよくないけれど、保守的な女性性が好きな人に嫌いになるように強要するのも違うように思う。女性的なものが好きな人も、そうでない人も同じように本人の意思を優遇したほうがいい。女性的だからという理由で批判されたり、蔑視されたりすることに違和感を持つ。

 

◆統合型と分離型のフェミニズム

男性型の社会において女性は「統合型」もしくは「分離型」で定義された。上野千鶴子さんの書籍「ナショナリズムジェンダー」には以下のように記載がある。

ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

 

 

これは「国民化」と「ジェンダー」の「境界の定義」をめぐる問い、すなわち「国民」が男性性をもとに定義されているとき、「総動員体制」と「性別領域指定」のジレンマをどう解決するか、をめぐっての二通りの解の可能性を暗示する。結論を先取りすれば「統合型」と「分離型」と言っていいかもしれない。いずれも女性の戦争参加の下位類型には違いなく、「統合型」は「男なみの参加」、「分離型」は「女性らしい参加」と言い換えることもできる。

 戦時下、徴兵制を動員しなかった日本やドイツは分離型、女性であっても兵士として徴兵していたアメリカやイギリスは統合型と説明している。そして、書籍ではこのように続ける。

 

(戦前のフェミニズムを語るとき)その中でしばしば取り上げられるのが市川房江、平塚らいてう高群逸枝の三人である。私はこの3人を取り上げるのは、彼女たちが戦前のフェミニズムを語るのに欠かせない著名な人物であるからではない。市川が婦人参政権論者、平塚が母性主義として、それぞれ「統合型」と「分離型」のフェミニスト戦略を徹底的に代表しているからである

 

平塚らいてうは婦選運動のような「参加の思想」には消極的だったが、母子保護法や、国民優生法、妊産婦手帳の交付といった国家による母性保護、母性管理には貢献した。 平塚らいてうが行ったような、女性が、従来女性としての役割とされてきたことをより行いやすく安全にできるように努めることも女性の権利を守る活動だ。しかし、分離型の視点から女性の権利を主張できるフェミニスト、分離型で女性が幸せになることを許容できるフェミニストはもしかしたら少ないのかもしれない。

 

北原みのりに「話していると辛い」と言った女友達

北川みのりさんも女性の権利を主張する書き手の一人のように思う。彼女の意見や主張は賛同できないことが多いけれど、彼女の書いたエッセイ「メロスのようには走らない」は面白く、共感もできた。わたしが女の子に対していだくモヤモヤした腑に落ちない感情を代弁してくれている。

メロスのようには走らない。~女の友情論~

メロスのようには走らない。~女の友情論~

 

 

そのなかに、夫の浮気を相談してきた友人タナカさんとのエピソードある。離婚し、シングルマザーになる道を一緒に模索していたけれど、結局、彼女は夫との関係を続けることを選ぶ。それに対して著者はよいと思えなかった。

明らかに意気消沈している私に、タナカはさらに追い打ちをかけた。

「正直に言えば、みのりと話していると、男と別れられない自分が、だめな女に思えてきて辛かった。話聞いてくれて助かったけど、みのりの話を聞いているのが辛い時もあった…」

 北原さんは、浮気男と別れ、一人で自立し、強く生きるタナカさんを望んでいた。だけど、タナカさんにとって、それは最善ではなかった。本人の考える幸せと、北原さんの考える幸せが違った。

フェミニストと言われる人たちが、上野千鶴子さんのいう「統合型」以外の女の幸せを認められない。北原さんのこのエピソードもそれに近いように感じる。女性の自立、男性と同等の権利を望むけれど、そうでない女性もいる。専業主婦になって、旦那さんの生活を支えることを最善と思う人もいる。そういう女性に対して、女性の味方であるフェミニストが追いつめてしまうシーンがあるように思う。

 

◆優しいフェミニストを求めている

わたし自身も同性の女の子に強く幸せに生きてほしいと思う。だけど、女の子は、一緒くたにはできなくて、仕事に邁進することを幸せと思う人も、家庭で家族につくすことを幸せと思う人もいる。一人ひとり、その人と向き合って、小さな主語で意見を述べるほかない。どちらの幸せも認められる、優しい寛容なフェミニストが増えるともっと女の子が生きやすくなれるのかな。怒りではなく、相手への優しさで動くフェミニストがきっと必要だ。

偉くならないと不倫できない

たまに口説いてきた人が既婚者だったという事があるのですが、やめてほしいですよね。そこで、セックスしたら、奥さんから私が怒られるじゃないですか。なぜ好意をもった人に迷惑をかけるようなことするのでしょうかね。インフルエンザなのにセックスしようと言っているのと一緒です。こちらが迷惑を被るのですから、家で大人しく寝ていてください。

まあ、でも、もし、小野寺五典に出会ったら、こちらからチンコ触らせてくださいと頼む。小野寺五典がすきすぎる。わたしとセックスしたいなら、まずは、防衛大臣になってトマホークを撃てるようになっていただきたいですね。そんな小野寺五典が、防衛大臣ではなくなったことが悲しくて仕方ない。小野寺五典とセックスしたい。

www.iza.ne.jp

まあ、小野寺五典が好きだということは置いておいて、少し前に安部公房没後25周年フェアというのを書店でやっていて、そこで、「安部公房とわたし」という文庫本を買って積読になっていたのを最近読みました。これは、ノーベル賞候補にもなった作家、安部公房と不倫関係にあった女優山口果林が、安部公房と過ごした日々を書いたエッセイ。安部公房の本は好きで、高校時代、砂の女箱男も、カンガルーノートも読んだけれど、彼の人となりは知らないので買ってみたんだった。帯に若いころの山口果林さんの写真が載っているのですが、とてもきれいな人ですね。

安部公房とわたし

安部公房とわたし

 

 

 ◆安部公房山口果林の師弟関係

安部公房山口果林は、桐朋学園大学演劇科の講師と生徒として出会いました。学生時代、安部公房が学生相手に劇の演出をすることに対して著者はこう話します。

安部公房作品にやっと出演できるだけでなく、学生の中でも認められたことが誇らしく嬉しかった。

すでに著名な演出家でもあった安部公房と関わり、認められることが嬉しい。ひとりの学生であった山口さんにとって、安部公房と出会い、ともに劇を作っていくことは最初は、非現実的だったことは想像できます。そしてこうも話しています。

激しい恋愛感情の酔いは、二、三年で覚めると同期の友人から教えられていたし、まだ燃え尽きていないとしても、いずれ安部公房の情熱も覚めるのだろうと、冷静に分析する自分もいた。それまで安部公房から得られるものは、貪欲に吸収したい!自身のキャリアも高めたいというのが、当時の私の思いだった。

 

自分より実力のある人、力のある人のそばにいたい、その人のそばにいて自分を高めたい。そんな憧れにも似た感情が、不倫関係に落ちった山口さんにはあったように思います。だけど、「すごい人」「憧れの人」という感情が恋愛関係、とくに不倫関係に行くことはよくあること。ブロガーのぱぷりこさんも優等生と言われた人たちが、会社で年上の上司や先輩を頼り、不倫をすると書いています。

papuriko.hatenablog.com

 

相手への尊敬や憧れ、「こんな人と知り合えたのすごい」という感情が、恋愛感情に向かうことはある。逆にいうと、そう思われる男性でないと、既婚と言うハンデがありながら女の子を落とすのは難しい。

たとえば、独身同士の恋愛であれば、多少の打算が入ってくる。一緒に生活して上手にやっていけるだろうか、経済的に困窮してないだろうか、自分にとって都合の悪い部分はないかを確認する、そんな相手の人間性以外の部分をみて考える部分はある。だけど、不倫は、場合は打算的に考えたら、まずやらない。自分にとって、まず都合のいい相手ではない(だから、月50万あげてマンションも契約してあげるから愛人になってください、が成立するのだろうけど)。だから、その打算的な気持ちを覆すくらいの人間的な魅力、憧れや尊敬といった相手への好意が必要になる。それを成立させるには、安部公房と山口さんのような子弟であったり、ぱぷりこさんのブログのように上司と部下、先輩と後半であったり、男性に立場や人気があるほうがやりやすい。

 

◆“世間からの評価”が現代のたくましさ

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」によると、動物の雌は、「家庭第一の雄」、もしくは、「たくましい雄」を選ぶようです。本の中では、たくましい雄の基準として、生存能力の高さを表す長寿であること、食べ物を捉える能力の証となる強い筋肉、捕食者から逃げ切れるであろう長い脚など、みずからの子孫が生き延びるために有用である性質は、性的魅力となると書かれています。 

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

 

打算で選ぶのが「家庭第一の雄」であるならば、不倫を女の人たちが選ぶのが「たくましい雄」。食べ物をとる必要も、捕食者から逃げ切る必要もない人間が、「たくましさ」の基準として、自分よりも能力が高いこと、つまり、著名であることや組織や社会に評価されていること、自分の持っていないスキルをもっていることを選ぶのではないでしょうか。だって、それがあれば、資本主義で、お金がなくては生きていけない今を生きのびる可能性が高いから。

 

◆色恋に立場をなくすほどの価値はない

偉い人、すごい人になれば、既婚でもモテまくりなので、安部公房もきれいな女優を愛人にできたのでしょう。だけどそれは20年前の話で、最近は、倫理観がすごく問われている。実力があったとしても、反社会的な行動は批判される。これは不倫に限らないけれど、立場が下の人が、上の人とセックスしたとき「セクハラされました」と言われたとき、たちまち問題になる。不倫という相手へのデメリットがあるならなおさらそのリスクが高い。清廉潔白が求められる時代。関係が悪くなり相手に関係を露呈されたら、偉い人、すごい人であっても、立場が危うくなる。以前、本の感想を書いた青山和弘さんも女性関係が問題になり、出世の梯子を外されてしまった。どんなにおもしろいものを書いても色ボケおじさんのイメージで上塗りされて、チャンスを失うのはさびしいよね。

news.livedoor.com

mochi-mochi.hateblo.jp

そんなリスクを冒してまで、恋愛やセックスをする必要はあるのかという話になる。自分が必死になって積み上げてきた何かがあり、その結果、立派な立場を得たのであれば、恋愛にそれを崩すほどの価値はないでしょう。そんなもので人生を失うのは馬鹿らしい。

わたしの昔からの知り合いで、大手マスコミ勤務という立場を持ちながら、若い女の子のセックスフレンドをつくって楽しい生活をしているおじさんがいるけれど、彼は独身を貫きつつ、相手を選んでセックスしている。保守的な組織のなかで、独身でいるなんて変わった人と思われるだろうけど、そうしていないと、どこかで足をすくわれることを分かっているのでしょう。幸せな人はすぐに足をすくわれる世の中ですからね。 

杉田水脈でもなく、弱者至上主義でもなく

美容院にいったら、最近は雑誌ではなく、タブレットが渡されるんですね。SPA!を読んでいたら「真面目なもの読むんですね」と美容師さんに言われ、取り繕うつもりで「ぜんぜんそんなことないですよ、ナンパの方法とかですよ」って言ったらドン引きされました。困るね。

それで、美容院に行くたびに、男性週刊誌を読むんですが、最近は、小林よしのりが、SPA!でも、FLASHでも連載しているんですね。SAPIOの連載も続いていて、よしりん働きすぎじゃないか。過労死しないか心配ですよ。それで、FLASHの連載では、杉田水脈さんのLGBTは生産性がないという発言に対して、否定的な意見をのべつつも、ミッツ・マングローブさんの意見を紹介しながら、弱者至上主義になることも危うさも伝えていた。

FLASH (フラッシュ) 2018年 9/25 号 [雑誌]

FLASH (フラッシュ) 2018年 9/25 号 [雑誌]

 

ミッツ・マングローブ杉田水脈の発言について、「怒るとか傷つくとか通りこしてあきれちゃって、お粗末すぎて物が言えない」と批判する一方、「(LGBT)当事者たちもそこを常に冷静さを保ちつつ、あんまり“弱者至上主義”みたいなものに陥りすぎないようにしていなきゃいけない」と発言した。ミッツ・マングローブは「宿命」を受容する覚悟を持つ人だと感心した。

FLASH9月25日号「よしりん辻説法」

 

もちろん、杉田水脈さんの発言は差別であって、ミッツさんの言う通り、お粗末すぎる無知で、大人として言ってはいけない内容。だけど、一方で、「だから弱者はほかの人を差し置いても優遇されるべき」は違うように思う。マイノリティ本人が幸せになることは必要だけど、だからといって、他人に迷惑をかけていいわけではないし、マイノリティである自覚も必要にはなってくると思う。

 

◆マイナスイメージを受け入れるからクール

マイノリティ批判としては、最近はタトゥー批判に対する、否定的な意見もあると思う。タレントがタトゥーを入れたことに対して議論が起こっている。この前、アベマプライムを観ていたら、アメリカでは14%の人がタトゥーを入れていて、日本と比較しタトゥーを入れる人が多いとも紹介していた。海外ではメジャーであるという事実は理解できるし、わたしも周りにタトゥーを入れている人もいる。だけど、それでも、日本で入れるのではれば、タトゥーを入れる覚悟、マイノリティになる覚悟みたいな思いをなく入れるのはよくないよう思う。

headlines.yahoo.co.jp

 日本で生活していくのであれば、タトゥーを入れるのであれば、マイナスイメージをもたれることもあるし、それに伴うリスクもある。それを分かったうえで、入れたいのであれば入れてもいいと思うし、そのリスクを覚悟することも含めクールでかっこいいようにわたしは思う。お洒落だから入れたい、だけど普通の人と同じように幸せにもなりたい、というのは今の日本では多くを望みすぎているよう私は思う。普通じゃない覚悟、批判をされる覚悟があるからこそ、価値がある。

 

◆他人に迷惑をかける権利はあるのだろうか

小林よしのりさんは、前述したマンガのなかで、歌手のエルトン・ジョンがドルチェ&ガッパーナの不買を訴えた発言を紹介している。これは、ドルチェ&ガッパーナのデザイナーであり創業者でもあるドメニコ・ドルチェステファノ・ガッバーナが、エルトン・ジョンを批判したことが原因だ。エルトン・ジョンが同性のパートナーとの子供を代理母に依頼し、産んでもらったことを否定する意見を発した。ドメニコ・ドルチェステファノ・ガッバーナの二人もゲイカップルであるが、エルトン・ジョンの行動を肯定することはできなかった。

これは賛否の分かれる難しい問題だと思う。タトゥーに関して、自己の意思で入れるか、入れないかを判断できる。しかし、同性愛であることを、本人たちは選ぶことはできない。だから、本人たちが幸せであるならば、自由恋愛も、場合によっては結婚も認められていいと私は思う。だけど、子供に関しては、二人の問題ではなくなる。

同性愛の親が居るということはメジャーではない。社会生活の中で差別を受ける可能性も高くなる。おそらくほかの子供よりも傷つくことも多くなるだろう。その苦労や嫌な思いがどう将来に影響するか分からない。結果的に、子供たちの才能を伸ばすことになるかもしれない。だけど、それだけど、子供が苦労するであろうカップルが子供をもうけることに批判的な意見があることも理解はできる。

子供は親を選べない。だから、子供に対して「あなたは可哀相だね」というのはぜったいによくないと思うと以前ブログで書いた。 

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 けれど、選ぶことができる立場である両親が、子供を持たない選択をしたほうがいいという意見は理解できる。難しい問題だし、ドメニコ・ドルチェステファノ・ガッバーナの意見に賛成も反対もできないけど、理解できる。自分たちの問題であれば好きにしたらいいけど、他人を不幸にさせる可能性があるのであれば、考えた方がいいようにも思ってしまう。

 

◆普通でない生き方をする覚悟

リクルートの創業者の江副浩正は、家庭を顧みず働いたゆえに、妻に離婚され、家族に関係を断たれ、趣味のスキーの帰りに東京駅で一人倒れ最期を迎えた。リクルートという巨大な怪物企業を作った成り上がり経営者だったけれど、すべてを仕事に費やしたぶん、普通の人が手に入れる家族のあたたかさや幸せは手に入らなかった。人と違うことをするというのは、人のできない成功体験もできるかもしれない。でも一方で、ふつうの幸せや、ふつうの人間関係を得られないこともある。たぶんね、マイノリティで居続けるためにはその覚悟が求められるように思う。

発達障害じゃなくても生きにくい

「ライターの仕事に興味あるんだったら」と知り合いから紹介されて、渋井哲也さんのオフ会行ってきた。

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イベント自体を知ったのが開催の2日前で、なにも分からずとりあえず、飛び込んでいったけれど、ライターさんの内情を知れる面白い会だった。前半は、渋井さんが今までライターとして過ごした20年について話して、後半は同じくライターである姫野桂さんとの対談。

姫野桂さんは、直接会ったことはなかったけど、以前いたAVメーカーが取材を受けたことがあり、それで名前だけは存じ上げていた。知ったきっかけがアダルトビデオに関する記事だったから、アダルトを取材するライターさんってイメージあったけれど、最近は、発達障害をテーマに記事を書いている。

 

◆最近よく耳にする発達障害

姫野さんの著書「私たちは生きづらさを抱えている」を後から購入し拝読した。発達障害を抱えた人に取材しつつ、姫野さん自身のご自身の抱えた障害を語る内容。姫野さん自身もLD(学習障害)であり、それゆえに生活に支障をきたしていたと語っている。

 

発達障害に関して、姫野さんの著書では以下のように説明がある。

発達障害にはASD自閉スペクトラム症)、ADHD(注意欠如・多動性障害)、LD(学習障害)の3種類がある。発達障害の程度はグラデーション状になっており、“ここからが発達障害”、“ここからが定型発達”という線引きがない。

ASD自閉スペクトラム症

・独特なマイルールがある

・急な予定変更が苦手

・環境の変化が苦手

・目を合わせて話せない

・言葉をそのまま受け取ってしまう

 

ADHD(注意欠陥・多動性障害)

・忘れ物が多い

・衝動的な言動が多い

・落ち着きがなく、授業中に歩き回ってしまう

ケアレスミスが多い

 

LD(学習障害

・計算ができない

・かけ算九九が覚えられない

・文章が読めない

・漢字が書けない、覚えられない

 

 ◆みんななにかしら発達障害っぽい

姫野さんの書籍に発達障害の症例を紹介していたけれど、これらの項目どれかしらには、みんな当てはまるように思う。目を合わせて話しはできるけど、急な予定変更が苦手とか、忘れ物は多いけど順番は守れるとか、多くの人がどれかしら当てはまる事項はある。コミュニケーションに関して苦手なことは、発達障害の有無にかかわらずある。その程度が高いのが発達障害なのだろう。だけど、今は、発達障害でない人、単なるコミュニケーションに癖である人にとっても、生きていくうえで嫌な思いをしたり、人間関係がうまくいかなかったりしやすい世の中なようにも感じている。

対談のなかで渋井さんが、以下のような内容のことを話していました。

工場労働者が求められる高度経済成長期には身体障害者が注目されていたように、そのとき求められている業務に適応できない人というのは世間の注目が集まる。コミュニケーションを重視する仕事が多い今だから、それが難しい発達障害に注目があるまっているのではないか。

 多かれ少なかれ、コミュニケーションの癖はあって、苦手なこともある。だけど、仕事や社会生活の多くの場面で今、コミュニケーションを求める場面が多く、その場面の種類も多様であるから、適応できない人が現れている。

 

◆WAIS-Ⅲでは発達障害でなかったけれど生きにくい

姫野さんが著書の中で受験したと話した「WAIS-Ⅲ」をわたしも受けたことがある。言語性IQと動作性IQの差が15以上あると発達障害と言われているが、私は正常な範囲だった。「臨機応変な対応が苦手」「空気が読めない」と周りから言われることが多いので受験したけれど、発達障害と認められるものではなかった。

でも、たしかに、仕事中、ケアレスミスはあるけれど、処分を受けるほどの重大なミスはない。急な予定変更は苦手だけど、仕事が滞るほどではない。わたしは営業職で、人と接することが多いため、コミュニケーションで苦手分野があることに気が付いた。しかし、たとえば、工場労働のような、上からの指示を実直にこなす業務についていたら、「臨機応変な対応が苦手」という欠点にも気が付いていなかったかもしれない。前述した渋井さんが言ったように、コミュニケーションを使う場面が増えたからこそ、気が付いた欠点だ。

 

◆「失礼な人」と言われる人が多くなったこと

最近は、「ハラスメント」という言葉をよく聞くようになった。相手が不快に思うことをいうのは避けましょう、という風潮がいまはある。これは、いいことなんだけど、一方でコミュニケーションを難しくもしている。

今迄は、似た物同士で話すことが多かった。自分と似ているから、不快なことも、ふれない方がいいこともなんとなくわかる。コミュニティ内の暗黙の共通ルールがあって、それに従っていた。だけど、自分とは違う性別、年齢、バックボーン、体格、そのほか色々な特徴をもつ人が増えた時、コミュニケーションの難易度はあがる。相手のルールが分からないから、言っていいことと、失礼にあたることの差が分からない。

わたし自身の話になるけれど、仕事としてAVを扱っているから、AV女優やセックスに関して抵抗もなく話すけれど、相手によっては不快になることもあるとも思っている。その不快だよってサインを見落としてしまうことで「空気の読めない人」「デレカシーのない人」になる。AV業界の中だけで話していればそんなことはないのだろうけど、多様な人と接する事が増えているし、それをよしとする世の中になってきている。変化の激しい時代だから、自分の居る世界とは違う価値観にふれて、インプットを増やすことも重要だと私自身も思う。だけど、そのためには、ものすごく気を遣わなくてはいけない。相手の触れてはいけない物を考えてコミュニケーションをとるのはすごく難しい。

自分とは違う属性をもった人、コミュニケーションルールの違う人と接する際に「空気が読めない」「変な人」というような発達障害の人が良く言われる中傷を受けるようにも感じている。逆に、バックボーンの違う人と接して、相手に悪気はなかったとしても、自分が傷つくこともある。

 

◆「発達障害」で蓋をさせる議論の恐怖感

もちろん、発達障害を持つ人はいる。その人たちを助ける仕組みは必要。それを「言い訳だ」「甘えだ」と言ってはよくないと思う。だけど、一方で、現在、求められているコミュニケーションの難易度が上がっているのも事実だと思う。コミュニケーションがうまくいかない原因を「彼、もしくは彼女が発達障害だから仕方ない」で片づけるのは短絡的のように思う。発達障害の有無にかかわらず人間関係は難しくなっている。

相手から批判されたとき、もしくは、相手の言葉に傷ついたとき、おおざっぱに一括りにして「発達障害」と言うのは、危険なように感じている。よく悪口で「アスペだから」と言う人がいるけれど、そういわれた人のなかで、本当にアスペルガー症候群の人はどれだけいるだろう。

個別・個別で事情がある。ある人にとっては「空気が読めない人」でも、ある人にとっては普通の人だったりもする。何で不快だったのか、不快にさせたのか、原因を探っていく、そして、障害の有無にかかわらず、自分の癖や相手の特徴を明らかにして、なぜそう思ったのか・思われたのか、考えるほかないよい。発達障害じゃなくても生きにくい世の中だ。

AV監督山本わかめが消えていった理由

「すごく共感した」と、失恋直後の男友達が少し悲しそうに紹介してくれた映画が500日サマーだった。クリスマスを一緒にすごし、セックスまでしたのに、付き合えなかった。

「なんかさ、元彼の元にもどったみたいなんだよ」。

「そうか、そうか、でも、そんな奴きっと腹黒い女だよ、保険で元彼をつなぎなら、セックスしていたんだよ」

そのときのわたしたちの会話を再現したようなシーンは映画のなかにもあった。モテない主人公トムは、同じくモテなそうな友達やマセた妹に、ときに感情的に、ときには自分に言い聞かせるように、大好きな女の子、サマーの相談をする。気まぐれなサマーに焦るトムはこんなことも口にする。

「明日の君の心が変わらないっていう確信がほしい」

(500)日のサマー (字幕版)

(500)日のサマー (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

特別だと思わせながら、特別にさせない、そんなの女の子の常套手段だと思うけど、同性の私だって期待しては、期待がはずれがっかりする。そんなことたくさんあった。素敵だなと思っていた女の子と仲良くなったと思ったら「●●ちゃんの親友はだれ?わたしは■■だよ」とわたしの知らない同級生の名前を彼女は言った。「親友だよね」と私に言った16歳のときのクラスメイトとは、夕方、何時間も彼女の話を聞いたけれど、ある時期、何度誘っても断られるようになった。友達ってくくりだって理解できない。だけど、すてきな女の子って、特別になりたいとも思う。恋愛感情があるならだったら余計だとも思う。

 

◆AVに見える女性に対するルサンチマン

AV監督の多くは、この「女の子って分からない」というルサンチマンを肥大化させて、映像化させている。いその・えいたろうがAV監督たちに取材した書籍「AV監督」によると多くのAV監督の童貞卒業は遅いという。そして、遅いだけでなく、やっと関係をもてた女の人であっても、関係がスムーズに行っていないことが多い。「AV監督」では、カンパニー松尾がAV女優、林由美香に恋愛感情を抱きながらもうまくいかなかった過去をインタビュアーであるいそのに話す。そして、こうも続ける。

AV監督 (幻冬舎アウトロー文庫)

AV監督 (幻冬舎アウトロー文庫)

 

 

 

オレは個人的には簡単に人格をさらけ出すとか、無防備に人を好きになったり、セックスしてもいいわよ、と言うのは受け付けないんです。むしろ、俺を好まない、そっぽを向く女に非常に興味がわくわけです、どうすればこっちへ向けさせられるか、逆にやる気が出るんです。林はまったくオレに興味を示さない。それがいいな、とおもったんですけど。まぁいろいろあって結局ふられたんです。

 うまくいかない、手に入らないからこそ、気になってしまう、そちらに向かってしまう。500日サマーのトムも、もしすぐにサマーの彼女になれていたら、こんなに心を振り回されることはなかったかもしれない。相手のことが分からない、思い通りにいかない、だからこそ、気になり、引き込まれる。AV作品は、理解できない女の子に、気持ちいいことや、痛いことや、恥ずかしいことや、色々な刺激を与えて、本質な、感情的な姿を観ようとする。分からないから本質を暴きたい。だけど、サマーがフワフワと本音を隠したように、それはとっても難しいことのように思う。

 「女の子ってわからないな」というのは、作中のトムや、私の男友達や、カンパニー松尾さんだけでなく、多く男性によくあることだから、共感を受ける。だけど、この「女の子って分からないから惹きつけられる」は異性だから、分からないんじゃないと思う。女の子って、とくに魅力的な女の子って分からないものなんだろう。

AVの仕事をして、AV女優である魅力的な女の子とたくさん接するようになった。彼女たちの多くは男性にとって理想的な女の子として現れる。だけど、彼女たちの本音とか、本質とか、分かってないのに、自分のことを好きになってくれるような、特別になれるよう感覚をもってしまうことがある。わたしは、仕事だから、商売だから素敵に見えるんだと思って接するけれど、たぶんそうでないときに、この彼女たちに会っていたら、とても魅力的に思うだろう。

mochi-mochi.hateblo.jp

 昔、ブログでも書いたけど、すてきなAV女優が虚像だとわかっても好きになってしまうよね。

 

◆男性に対するルサンチマンは価値にならない

だけど、この、「相手をわかってないくせに特別になりたい」と思うことは、男女逆転にしては成り立たないように思う。AVで女性にやっているようなこと、痛いことや恥ずかしいことや色々な刺激を与えて、本質を観ようとすることを、男女逆転して行ったのが女流AV監督の山本わかめさんだと思う。だけど、彼女のAVは成功しなかった。

男をいたぶる女というAVをみたい人は一定程度いるだろう。だけどそれは、自分の行為によって人が傷つくときに、女の子はどうなるか。普段は可愛く優しい女の子に犯罪者のような本質があるのだとしたら、それが観たい。女の子が狂気を帯びていくところが観たいだと思う。

つかめないフワフワした面がある男の人は多くない。そして、男の人が普段と違う状況になる場面を観たい人は男女ともにいない。予想通りの状況にしかならないんだろう。山本わかめ監督がいつのまにか、この世界から消えて行ってしまった理由は、彼女の作るAVが、女性に与えていた刺激を男性に与えたAVが、男女をひっくり返して男を暴こうとしたAVが、ユーザーに受け入れなかったからだと思う。男の人に暴くほどの分からなさはなかったのかもしれない。AVを観たい人は、女の子の変わっていく姿がみたいんだ。分からなかった女の子を、少しでも分かりたい。

 

◆美人だからそれだけで魅力的ではない

魅力的な女の子の要素は「可愛い」とか「美人」とか見た目の要素だけではないような気がしている。13歳のとき、16歳のとき、わたしが距離を感じた彼女たちも、決して美人じゃない。美人じゃないけれど、周りにいる子も、好きなものも、いつもコロコロ色んな姿に変わっていて、つかめない子だった。だけど、なんか、彼女のまわりには人がいた。彼女がどんな人か分からなかった。

安陪公房の小説「赤い繭」にすごく好きな一節がある。自分の家を探す主人公が、見知らぬ女性の家を自分の家ではないかと尋ねる場面。

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)

  • 作者:安部 公房
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1969/05/20
  • メディア: 文庫
 

 

 

運よく半開きの窓からのぞいた親切そうな女の笑顔。希望の風が心臓の近くに吹き込み、それでおれの心臓は平たくひろがり旗になってひるがえる。おれも笑って紳士のように会釈した。

「ちょっとうかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」

女の顔が急にこわばる。「あら、どなたでしょう?」

 おれは説明しようとして、はたと行き詰まる。なんと説明すべきかわからなくなる。おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではないのだということを、彼女にどうやって納得させたらいいだろう?おれは少しやけ気味になって、

「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」

「まあ…..。」と女の顔がおびえる。それがおれの癪にさわる。

「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」

「でも、ここは私の家ですわ。」

「それがなんだっていうんです?あなたの家だからって、私に家でないとはかぎらない。そうでしょう。」

 返事の代わりに、女の顔が壁に変わって、窓をふさいだ。ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。誰かのものであるということが、おれのものではない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。

さっきまで笑顔だった女が、バタンと扉をしめる。一瞬の変貌。一瞬前とは違う彼女がいる。でも、そんなの納得できないよね。納得できないから気になるよね。そんな、分からない女の子になれないから、「そんな奴、きっと腹黒いよ」というしかないな、わたしは。

 

光文社から「オナホ売りOLの日常」というタイトルの本を出版しました。アダルトグッズ、AVの営業として、普段の仕事について書いています。よかったらこちらも読んでください。

オナホ売りOLの日常

オナホ売りOLの日常

  • 作者:堀江 もちこ,菅原 県
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/10/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)